第5話

 さっさと終わらせるに限ると、おれが反省文を黙々と書いていると、合唱部の朝練がはじまったようだ。

 爽やかな四月の風をいれるためか、立ちあがった九条が窓を開けたために、歌声が流れこんできた。

 無意識に千賀子の声を聞き分けたおれの口もとは、ゆるんでいたらしい。


「おれに感謝しろよな」


 ふいに、窓辺に寄りかかったまま、九条がにやにやとした表情を浮かべて口を開く。

 訝しげな目で顔をあげたおれへ、九条が言葉を続けた。


「どうせ昨日のあいだに学校へ呼びだしても、おまえは応じないだろう? だが、朝練のある千賀子と一緒に登校なら、おまえは確実に呼びだしに応じる。――目の届くところに千賀子を置いておきたいんだろう?」

「なにそれ。勘繰り過ぎ」


 九条の表情が気にいらないおれは、手を止めて上目づかいに睨みつける。

 怯むことなく軽快な笑い声を立てて、九条は破顔した。


「深読みしているのは、おまえのほうだ」


 そして、九条は笑みを消した。


「先日までの春休みのあいだに、おまえらの友人の話を小耳にはさんだものでね」


 その言葉を聞いたおれは、手もとへ視線を戻す。

 九条に、さらなる情報を与える気は毛頭なかった。

 そんなおれの態度を予測していたのか、嫌な表情を浮かべることもなく、九条は窓の外へと顔を向ける。


「おまえらが小学生のころに、隣近所でよく一緒にいた友人がひとり、例の事件に遭ったそうだな。だから、おまえはできるだけ、千賀子をひとりで行動させたくないんだろう? 千賀子の部活にあわせて帰宅部のおまえが行動しているのは、去年から気づいていたからな」

「――それは偶然。隣近所に住んでいるなら、登下校の時間帯がそろうことくらいある」

「例の事件は、ほとんど目撃者はいない。それは、つまり人目があれば襲われないってことだからな。集団行動は有効だ」


 続く九条の言葉に、おれは口にださずに同意した。


 過去、同じ時間と場所で、複数の人間が同時に襲われたというニュースが少ないためだ。まったくないわけではないが、事件を起こす者は、明らかに他者の目を気にしていると噂されている。単純に、事件を起こす連中は捕まりたくはないのだろう。


「なあ、昴よ。進路はどうする気だ。二年だからといって、気がつけば、あっという間に卒業だぞ」

「そんなに先のこと、まだわかんねぇよ」

「千賀子は、間違いなく音大の声楽科だろうな」


 そう告げた九条の言葉に、今度もおれは、心の中で大きくうなずいた。

 同感だ。

 千賀子は、歌うために生まれてきたような女なのだから。


「千賀子がいく音大に、いくらおまえでも、ついてはいけないわな。――おまえは調理学校かね……? 噂で聞いているよ。千賀子の父親の店で、美味いスイーツやサンドイッチをだしているそうだな」

「なに? 今度はバイト禁止で指導? おれは千賀子の親父さんからバイト代もらっていないぜ」


 先手を打ってぶっきらぼうに返すと、九条は、教師らしい笑みを浮かべてみせた。


「そんな野暮はいわないって。生徒の能力を認めて伸ばしてやりたいだけだ。今度おれも食いにいってもいいか」

「残念でした。おれはまだ調理資格を持っていないから、客にはだしていないんだ。あくまで身内だけの試食しかやってないね」

「試食しにいってやるよ。おれはかなり味にはうるさい」

「クレーマーお断り。営業妨害しないでくれる?」


 なんだかんだと文句をいいながらも、おれは予定枚数の反省文を書きあげる。

 ふはは。慣れたものだ。

 こんなものに慣れても困るといわれそうだが。


「お。書けたのか。早いな」


 気づいた九条へ見せるために、おれは席を立って窓辺へと寄った。

 とたんに、千賀子の歌声が、より鮮明に聴こえるようになる。

 音楽室は、ちょうど鉤型に建っている校舎の一番離れた最上階の教室なのだが、そのあいだの空間で、遮るものがなにもないせいだろう。


 ふと、九条が口を開いた。


「芸術に関してはよくわからんおれだが。そんなおれでも、千賀子の歌声は素晴らしいものだと感じるな。その証拠に、誰もが立ち止まって、千賀子の歌声に耳をかたむける」


 窓の外から、おれが手渡した反省文へと視線を移してつぶやいた九条の言葉につられ、おれも、音楽室から下へと目を向けた。

 背の高い金網をはさんだ校舎前の路上で、通勤途中のサラリーマンや、夜勤を終えて帰途につくかのようなくたびれた風体の労働者が、声の主を探すように歩をゆるめて見まわしている。

 登校途中の学生も然り。二年以上の連中は、かなり聴き慣れているが、今年入学してきた一年の中には、ぽかんと口を開いて校舎を見あげている者もいた。


 ただの合唱部の歌声では、こうはいかない。

 千賀子の声だから、だ。


 九条の「うむ、けっこう」との声を聞くまでのあいだ、おれは、千賀子の人間離れをした歌声のもとに集う人間たちを、ぼんやりと見つめていた。


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