終 燦然世界

「終わりよけりゃ全て良し、ってなぁ」

 煌々と照る月を見上げて、玉兎は赤ら顔をにへらっと緩めた。手元の盃はもうとうに空だ。酒の瓢箪を手繰り寄せる覚束ない手を、寧々子がぱしりと払い落とす。

「暁宮の酒を飲み尽くすつもりですか?もうやめにしなさい」

「ケチ臭ぇこと言うなよ、お前だって呑んでるじゃねぇか」

「わたくしはそれ程飲んでませんから」

「なんでだよ、めでてぇ席なんだから吞めよ」

「のんべえ、めんどくさい」

 ユーリンは出された甘味を摘まみながら玉兎の背をつつく。

 昼間の攻防戦からたっぷり半日、玉兎たち特務隊の面々は君影殿に招かれていた。伊吹自ら宴を開き、彼らを労おうととびっきりの酒を振る舞ってくれたおかげで玉兎は有頂天だった。とは言え変人だらけの特務隊、第二皇子直々の計らいを無碍にする輩も数人いる。例えば、狐面の分隊長とか。

「しかし驚いたぜ。まさか、十三年前よりえげつない厄災を犠牲なしで退けちまうとはなあ」

「ヤエ、すごかった。レンもがんばった、けど」

「あの輩を褒めるんじゃありません。八重さんだけ讃えなさい」

「それも、そう」

「そういや嬢ちゃんの容体は?」

「さっき那岐が式を寄越しましたよ。ひとまず目を覚ましたとのことです。意識もはっきりしていますし、安静にしていれば問題ないでしょう」

 寧々子の言葉に、端の方で座り込んでいたヒナタの肩がピクリと跳ねる。隠し切れない歓喜と安堵に緩んだ藍色の目元を撫でてやりながら、伊吹は改めて彼らに向き合った。

「玉兎殿、寧々子殿、ユーリン殿。酒の席だ、戯れついでに一つお聞かせ願えるだろうか」

 三対の視線が一気に集まる。伊吹は僅かに赤くなった頬を引き締めた。

「ずっと不思議だった。あなた方は何故、暁花京を護り続けてくれるのだろうと」

 つかの間の沈黙が落ちる。三人は一斉に目を見合わせ、やがて頭を掻きながら玉兎が口を開いた。

「天華事変が起きてすぐの暁花京はなあ、地獄みてぇだったんだ。不気味だった。痛ましかった。気が狂いそうだった」

 伽藍洞の暁花京。壊れて砕けて、廃墟のようになった街は冷たく、寂しがりの半神は耐え切れず飛び出してしまったくらいだ。

「でも、このまちは、しななかった」

 何もなかった。全てを失った。何も残らなかった。

「それでも暁花京は在った。避難民もやがて集まってきて、下町の復興は少しずつ進んでいった」

「誰も諦めなかったのです。どれだけ壊されようと、この街は息絶えなかった」

 まだ死んでいなかった。まだ砕けていなかった。例え残骸だけだったとしても、東の都はまだ息絶えてはいなかったのだ。

 ユーリンもまた天を見上げ、そっと囁いた。

「むだじゃ、なかったんだよ」

 彼女の愛した街、彼女が護った世界、彼女が生きた証。

 その全てが、まだ其処に在ったのだ。

 誇りのために死ぬのだと笑って命を散らした彼女が救った世界は、彼女が愛した形を失ってはいなかった。

「だから愛するって決めたんだよ。この世界は、こんなにも美しいって気付いちまったからさ」

 玉兎はニッカリ笑ってみせた。

「皇子様、オレはアンタを信じてるぜ。アンタならきっといい帝になれる」

「……どうだろうか。できる限りの努力は惜しまないが、それでも私は力不足だ」

「そーゆーとこだよ、安心しろって。アンタが舵を取るなら、この国はきっと道を誤らねぇだろうからさ」

玉兎は寧々子の隙を突いて瓢箪を奪うと、盃に並々と酒を注ぐ。水面に映る月に気付くと、玉兎はまたカラカラと笑った。

今宵は星月夜だ。眩い月の光の奥、暗い闇を眩い月の光の奥、暗い闇に浮かんだ灯火のように無数の星屑が散っている。

美しい夜だと思った。まるでこの国のように。

「夢みたいな夜だな、こりゃあ」

かつて玉兎は夢を見た。強く儚いお姫様が幸せになって、けだものみたいにカラッポな神様が生きる意味を見つける夢を。

一度は敗れた夢だ。でも、今ならまだ間に合うだろうか。

「こっちは大団円だぜ、煉。お前もそろそろ腹決めちまえや」

 そう呟いて盃を傾ける玉兎の瞳は、まるで翡翠のようにとろりと蕩けていた。


君影殿の宴が下火になって、月も随分と西に傾いてきたころ。

 なんとなく眠れずにいた八重は、突然ガタンと開いた扉に思わず飛び起きた。

「だ、誰ですか⁉」

「……こんな時間にすまない。目が覚めたと聞いて、居ても立ってもいられなかった」

 金の瞳が気まずげに伏せられる。月の光に浮かび上がる金の瞳が長身は、心なしかいつもより小さく見えた。

 八重は内心わたわたと慌てた。初恋の相手が部屋に、しかも夜に訪れてきたのだ。ドクドク波打つ心臓をそっと抑えながら、なんとか自然に頬を上げる。

「いいえ、眠れなかったものですから」

「具合はどうだ」

「おかげさまで元気ですよ」

 がしゃどくろと天詠鬼を祓った直後、八重は眠るように気を失った。医師によると一度に莫大な霊力を放出したせいだという。しかし今回は軽症で済んだそうで、今は若干体が重たい程度で特に気にかかる不調もない。

「しばらくしたら散歩してもいいそうです。遅くとも、藤の花が咲くころにはすっかり元通りになってるって」

 八重はにっこりと微笑んで煉を見上げる。しかし煉は何やら覚悟を決めたような瞳でジッと下を向いている。金の瞳に己が映っていないことに八重が気付くと同時に、煉はグッと拳を握り締め、酷く不器用に笑った。

「それなら都合がいいな。今年の夏は厳しくなるそうだ。なら、あんたが動けるようになってから避暑をでっちあげて連れ出せばいい」

「……何のお話ですか?」

「全てを捨てて逃げろ、八重」

 かひゅっと喉が嫌な音を立てる。ほんの一瞬、心臓が止まったような感覚が体を支配する。しかし煉はギリギリと拳を握ったまま、まるで呪いのように言葉を紡いだ。

「もう天詠鬼の脅威はない。神器も元の力を取り戻した。それでも政府はアンタを手放さない。手放せない。だから、今のうちに逃げろ」

 口のなかがカラカラに乾いて、体温がすうっと下がっていく、しかし反対に、腹の底はふつふつと静かに煮え滾っていた。

「何もかも、捨てるんですか」

「そうだ」

「陽典も、この街も、ユーリンさんも那岐さんも、玉兎さんも、寧々子さんも、大事なものも全て、捨てなくてはなりませんか」

「そうだ」

「あなたも、ですか」

「当たり前だろう」

 当たり前なわけがあるか。手のひらがぶるぶる震えて、どうしようもないくらい心が痛い。いっそ泣いてしまいたかった。それでも、八重は決して俯かなかった。

「そんなに全部捨てて、わたしは何処に行くんですか」

「西は辞めた方がいいな、何処まで行っても政府の目が届きすぎる。ここよりずっと北の……そうだ、燈乃洲あかしのすは知っているか?」

「以前弟が教えてくれました。トヨアシハラの北の端にある未開の地、ですよね」

「そうだ。凍て付くほど寒い上に獣は獰猛、生きるには厳しいがそう簡単に追われることはない。あんたが苦労しないように、俺もできうる限りのことはやる」

 砕けてしまいそうな声に、下手な笑顔。ああ、もう我慢できそうにない。

「……もう、縛られる必要はないだろう」

「いい加減にして!」

本当は、ふざけるなと叫んでしまいたかった。

 確かに命を削られた。それでも生きている。残りの時間は少ないのかもしれないけれど、今は確かに息をしている。それなのにあなたはそんなに苦しんで、藻掻いて、何処へ行くの。

 遠ざけられて、守られて、それの何処が幸せだと言うの。

 笑ってしまう。十七年間生きてきて、喜びも悲しみも人一倍味わっているけれど。

生まれて初めて、怒りで身が焼け落ちてしまいそうだった。

「冗談でも逃げろだなんて言わないでください。あなたに守られて、安全な場所で笑っているなんて御免だわ」

 煉の長身がドサリと崩れ落ちる。凛々しい顔はぐにゃりと歪んでいた。ああきっと、今の自分もこんな顔をしているのだろう。

「自分の心で生きる以外に、幸せへの道を知らないものですから。あなたは生きてください。わたし、そのためなら喜んで死ねるわ」

「あんた、何言って……」

「あなたが傷付く姿なんて見たくない。あなたの涙なんて、もう二度と見たくないんです」

 八重はそっと立ち上がると、がくりと膝を着いてこちらを見上げる彼の肩をそっと掴む。びくりと跳ねたきり抵抗がないのをいいことに、自分よりずっと大きな身体をぎゅっと抱き締めた。

「わたし、ずっと昔からあなたに恋をしているんです。だから、たとえ死んだってあなたを生かしてみせます。あなたが望まなくたって関係ないわ」

 甘く優しい、春の夢のような言葉だ。しかし、煉にとっては劇薬そのものだった。だって彼はずっとカラッポだったのだ。心と愛を知ったばかりのけだものに、八重の篝火のような恋を受け止められるはずもない。しかしいつでも解けるはずの非力な拘束を、彼はいつまで経っても振り払わなかった。

 そのまま、どれだけ時間が経っただろう。

「……分からない。俺は、未だに何も分からない、分からないんだ……」

 月が西の地平に落ちて、東の空がほんのり白み始めたころ。八重の細い背中に、いっそ哀れなほど震える腕が回された。

「分からない、俺は、恋なんて分からない。あんたの気持ちも分からない。それでも俺は、ただあんたを守りたかった」

 途方に暮れたような声で、氷のように冷え切った指先で、それでも煉は逃げられないほど力を込めて八重を抱き締める。

「俺はあんたが大切で、愛おしくて堪らない。傷付く姿は見たくない。ただ、ただそれだけだったんだ……」

 臆病で、情けなくて、どっちつかずで。それでもこの心に嘘はない。

 六華がくれた心にするりと入ってきて、前に進む意味をくれた小さな娘。まるで冬の暗闇を照らす灯火のように、きらきらと眩しく煌めいていた。

 八重の頬を伝って、温かい雫が滴り落ちていく。それがどちらのものかなんて、もう誰にも分からないけれど。

 この心臓に弾けた感情の名前くらいは、ほんのちょっぴり分かるのだ。

「ねえ、煉さん。わたしたち、凄く似ていますね」

「……そうなのか……?」

「同じかどうかは分かりませんけど、似ていると思いますよ」

 だって結局、どちらも行き着く場所は同じだ。守りたい。生きてて欲しい。傷付いて欲しくない。笑っていて欲しい。どちらも同じように、ただひたすらに相手の幸いを希っている。

 八重はなんだかおかしくなって、クスクスと小さく笑った。だったらもう、答えは一つしかない。

「ずっとずっと、一緒に生きましょう。きっとわたしたち、離れていたらお互い死に急いでしまいます」

 濡羽色の髪をくしゃりと撫でながら、八重はそっと窓の方を見た。忙しなく頭を弄ぶ手をそっと掴むと、煉はくしゃりと笑って口付けた。

「……本当に、敵わないな」

 煉の瞳に八重が映っている。東から昇る太陽と同じ、黎明の金色。八重の紅がきらきらと煌めく。金と紅が交わって、ふたりは零れるように笑った。

 ああ、ようやく夜が明ける。

 


                                 了


 

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ただ君想ふ、燦然世界 綺月 遥 @Harukatukiyo24

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