人間になったペンギンの話

つるよしの

何者なんだ――?

 目が覚めたら、俺は人間になっていた。


 人間。それはよく昔から見ていたから、すぐに自分の身体的特徴でそれとわかる。

 とはいえ混乱はする。


 なぜ、こんなに不格好で長い肌色の腕がある? 換羽期でもないのに? 羽はどこに行った? なんだこれは、掌とかいうやつか? あれあれ、足も羽がない上に長いぞ。胴体にもほとんど毛がなくて、ペロンとしていて気持ち悪い。その上、手足共に左右それぞれ、五本も指がある。


 俺は、記憶が確かなら、昨夜までペンギンだったはずなのだが? 


 それも、いくら極めて人間の近くに生息地があるケープペンギンの一匹だったとしても、自分が人間になっているというのはまったく理解の範疇を超えている。


 どうしてだ?


 しかし、身体が自然に動いてしまい、気がついたときには俺は「洋服」というやつを身に纏っていた。なんだこれは、息苦しい。そりゃそうだ。いわゆる「ネクタイ」というやつまで締めているんだから。

 そうこうしているうちに俺は「スーツ」に身を包んでいる。なんでよりによって、こんないちばん窮屈な格好を? 


 しかも見たことがないはずの駅とやらに二本の足を器用に運んで、俺が暮らしていた海岸ではこれまた見たことのない電車とやらに乗っている。 

 そうして、ぎゅうぎゅうの人間のなかに詰められて、着いた先はなにやら会社というらしい。

 どうして自分がその名を知っているのかは分からない。


 そしてなぜいま、会社のなかで机の前にこれまた器用にちょこんと座って、パソコンを五本指で操作しているのだろう。こんなこと、知らないはずなのに。できないはずなのに。俺は確かに昨日まで、ケープペンギンだったのに。



 おかしい、おかしい、と思いながら日々が過ぎていく。

 耐えかねて、まわりの人間に聞いてみる。


「俺、たしか、ペンギンでしたよね?」


 すると周りの人間はなにを言っているんだ、冗談がすぎる、と笑う。それでも俺がしつこく質問を繰り返すと、だんだん人間たちは不気味そうに俺を見始めるものだから、俺はあまりそれを口にするのはやめた。すると人間たちも安心したような顔をする。


 それでも、俺が社食や飲み会で、がんとして魚以外には口をつけず、それも刺身ばかり食う様子にはドン引きしている様子だ。なにをいつまでふざけてるつもりだ、と俺を叱責する奴もいた。

 だが仕方ない。俺は人間ではない。ペンギンなのだから。



 とはいえ、あまりにもそのような生活が続くと、ほんとうに自分がペンギンだったのかわからなくなるときもある。

 実は俺はもともと、人間だったのではないか? そんな疑念に駆られることもある。いや、でも俺は覚えているんだ。ペンギンだったときの暮らしを。


 忘れはしない、アフリカ大陸のケープ地方の海岸での生活。荒々しくも、南極の匂い濃い豊かで懐かしい海流。そこで魚を食い、タコやイカを食い、マングースに怯え、穴を掘って巣を作り暮らす。それが俺の生活だったはずだ。人間でいうなら「人生」っていうやつだ。


 忘れはしない。けっして忘れはしない。だって、俺はペンギンなのだから。



 そんなある日、俺が確かにペンギンである真実を確かめる出来事が起こった。


 その日俺は、同僚に連れられて夜の街を徘徊した挙句、ソープランドに連れ立っていく羽目に陥ったのだ。

 わけのわからないうちに、なんだかんだと個室に押し込められてしまい、俺は戸惑った。


 だって俺はペンギンなのだ。人間の女とセックスできるはずがない。俺ができるのは交尾だ。俺は身体を洗ってくれるソープ嬢に必死にそう説明し、難を逃れようとした。たぶん会社の人間みたいに、気味悪く思われるんだろうな、そう半分諦めつつだが。だがそれでセックスを断念されるなら本望だ。この状況はどう考えてもペンギンとしての倫理に反する。


 ところが、思わぬことが起きた。ソープ嬢は一瞬呆気に取られたような顔をした。

 だが、次の瞬間彼女は言ったのだ。


「それなら、お安い御用よ」


 そう、にこり笑い、ソープ嬢はいきなり裸の肢体を腹ばいにしてタイルに横たわったのだ。

 俺はびっくりした。

 しかしながら、次の瞬間俺は彼女の背にのしかかると、あの懐かしい行為を始めた。そう、その体勢は他でもない俺たちペンギンが交尾をするときのそれそのものだったから。


 これだ、と俺は思った。俺らペンギン特有の交尾をしながら、俺はこれだよこれだよ、俺が求めていたのは、とひたすらに興奮した。そして昂りながら、俺は自分がやはりペンギンであることを、これ以上なく確かな事実として心に刻むことができたのだ。


 そしてセックス……ではない、交尾のあと、彼女は俺にこう告げた。


「実は、私もペンギンだったの。あなたと同じよ」


 俺の歓喜は最高潮に高まる。

 同胞と出会えた嬉しさのあまり、俺はペンギンだった頃のように、彼女を抱きしめながら、ロバのような声でけたたましく、高らかに鳴いたのだった。


 その鳴き声は愛の叫びでもあり、ペンギンとしての俺の証明でもあった。



 程なく俺たちは、いっしょに暮らし始めた。


 彼女との暮らしは快適だった。

 どれだけ生の魚を食べても怪しまれることはないし、交尾は最高だし、けたたましく鳴いて求愛しても嫌われることもない。


 アパートの隣室から苦情が来ることは時々あったが。

 その度に「ここはペット禁止なんですがね」と不動産屋から嫌味ったらしい電話がかかってくるのだけは億劫だった。


 しかしながらそれも同胞との暮らしの喜びを遮るほどのことではなかったので、問題でも障害でもなかった。


 そう、そのことはその後起こったことに比べれば、なんともなかったのだ。



 破局は思いもかけないかたちで訪れた。


 ある日、彼女がこう言ったのだ。


「ねぇ、私。もっと仲間と会ってみたい。調べたらね、新江ノ島水族館にいるらしいの、ケープペンギン」


 それで俺は彼女と新江ノ島水族館にデートと洒落込むこととなった。


 果たして着いた水族館には、たくさんのケープペンギンがいた。彼女はうっとりと仲間を眺める。俺も当然のようにそうする。


 ……そうするつもりだった。


 しかしながら、目の前のペンギンたちに、どうしてか俺は違和感しか感じられなかったのだ。


 黒いくちばしに羽。同じく黒くて短くてちょこちょこ動く足。白い胸毛に一本入ったライン。ピンク色の頬。そんな生き物が、狭い空間に押し込められて、あちこち動きながら、ギャァギャァと騒がしいロバのように鳴いている。


 そのときなぜだか、俺はその「生き物」を美しくも、身近にも思えなかったのだ。

 いや……正確に言うなら、醜い。そうはっきりと思った。


 そうだ、間違いなく、醜いと思ってしまったのだ。


 やがて、俺の口から、ぽろり、と本音が漏れた。


「……俺じゃない」

「え?」

「あれは、俺じゃない。俺は、俺は……あんな醜悪な生き物じゃない……」

「やだ、なに言っているの? あれは私たちそのものじゃない。かつての私たちの。いいえ、いまだって、そうだわ」


 そこまでが俺の精神の限界だった。

 次の瞬間、俺の口から、激しく言葉が爆ぜる。


「……違う! 違う! 違う!」


 水族館から走り出しながら、俺はただひたすらに混乱していた。


 あれは俺じゃない。あれは俺じゃない。あれは俺の知ってる俺じゃない。俺はあんな生き物じゃない。


 だったら? 

 だったら俺はなんなんだ?


 俺は確かにペンギンだったはずなのに? そうさっきのさっきまで信じていたのに? でもそれはいつからだったんだ? そうだ、あの朝からだ。じゃあ、その根拠はなんだ? なにもない、なにもないのか? もしかして、俺がそう思っていた、それだけなのか? 


 じゃあ、なんで彼女とセックスではなく、交尾をしたんだ? それは俺がペンギンだからじゃないのか? いや違う、俺はあんな醜悪な生き物じゃない、俺はペンギンじゃない。


 なら、俺は何者なんだ? 俺は、もしかして、人間だったのか? ペンギンなどでは元からなかったのか? そんな、そんな、そんな、馬鹿な。だとしたら、俺はいったい、何をしていたんだ? 


 なんなんだ、なんなんだ、なんなんだ、なんなんだ、なんなんだ、どういうことなんだ? 俺は、何を? 

 そして俺が人間だとしたら、彼女はいったい――???


 そして、身体中を、激しい衝撃が貫いた。

 頭の中で絶叫しながら、ひたすらに困惑して海沿いの道路を走ってたものだから、俺の身体はいつのまにか車道に飛び出ており、前方から走ってきたトラックに真っ向から突っ込んでいたのだった――。


 俺の意識はそこまで途切れている。

 ぐわんぐわんと脳髄に鳴り渡る、数多の疑問符の残響とともに。



 それから数時間後。

 藤沢警察署の霊安室で、彼女は、俺の遺体を見ながらただひたすらに嗚咽していた。


「……大丈夫ですか、お嬢さん」


 気遣わしげに刑事が声を掛ける。彼女は俯いたままでなにも答えない。

 その様子を見て彼は、ここはひとりにしてやった方がいいか、とでも思ったのだろうか。刑事は身を翻すと、静かに霊安室を出て行く。


 ばたり、とドアが閉まったのを確かめて、彼女はすかさず床に蹲った。そして身じろぎもせずそのままの姿勢で数分が経ったときのことだ。


 ごとり。


 彼女の足元で何かが床に転がる音がした。


 そして彼女は自分の白いスカートの中から転がり出た「それ」をひっし、と抱きしめる。


 それから、彼女は薄く笑いながら、産み落としたばかりの真白い卵を、愛しげにそっ、と撫でたのだった。

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人間になったペンギンの話 つるよしの @tsuru_yoshino

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