歓喜する話

「あれ、カオリ先生、何見てるんですか?」

 来客を応接室に案内して戻って来た後輩が、わたしの肩越しにモニターを覗き込んでそう訪ねた。

 わたしが答えるよりも早く画面に開かれた書式に気づいた後輩は、「業務日誌?」そう少し訝し気に呟き小首を傾げたけれど、この業務日誌の内容までは目に入らなかったようだ。


 そうかと思うと、後輩はかなり興奮した様子でわたしの顔の前に首をにゅうっと突き出し、限界ギリギリにまで声を潜めて、囁いた。

「それよっか今のふたり、何だと思います?」

 その問いにわたしは先程、園長を訪ねて来た地味なスーツ姿の男性ふたり組を思い浮かべる。上司と思しき中年男性と入社二年目くらいの若造という組み合わせ、一見するとサラリーマン風だが――保育園には不釣り合いの来客だった。


 すると後輩は、内緒話をするように口元を手で覆い隠し、わたしの耳に信じられない言葉を注ぎ込む。

「警察ですよ警察。リアル警察手帳、初めて見ましたよ」

 わたしは思わず眼を剝いて、後輩の顔をまじまじと眺めた。

 後輩の口元は変わらず手で覆われてはいるけれど、その口角が僅かに引きつり上がっているのが丸見えだった。

「なんなんでしょうね?一体……」

 何って。

 恐らくわたしは、その答えを知っている。

 わたしは答えのトリガーになるだろう業務日誌に視線を戻した。


 それは、ある新人保育士が書き記した約二年間の業務日誌だった。

 当園の業務日誌はその日の担当者が園児の状況、保護者からの問い合わせ、来園者、行事、各保育士の勤務状況などを記入し、共有フォルダに保存する。

 なのでもちろん、いつでも誰でも目を通すことができるし、更に翌日の朝礼で報連相ほうれんそうすることになっており、情報共有を徹底していた。


 今わたしが開いているのは通常の業務日誌ではなく、その新人保育士の個人フォルダに【仕掛り】の名前で保存されていたものだ。

 中身にザッと目を通すと、業務日誌をつけ始めた当初の新人らしい「気づき」や「とまどい」が垣間見える。


「この程度のことを報告してもよいのだろうか?」

「自分で解決しろと呆れられたりしないだろうか?」

 そんな、どちらかと言えば日記や覚書に近い、ゴミ箱に放り込むには繊細過ぎる想いの欠片たち。

 それらは毎日ではないけれど根気よく続けられていたようで、最後の記録は五日前になっている。


 ではなぜわたしが勝手に個人のフォルダを漁るような真似をしているのかと言えば、何らかの手掛かりがあるかもしれないと思ったからだった。

 くだんの保育士は今日を含めて四日間、無断欠勤をしている。

 電話にも出ずメッセージも既読にならない。


 一日目は園長の提案で様子を見ようということになった。

 二日目は午前中は様子を見たが、午後から緊急連絡先に指定されているご実家に問い合わせの電話を入れた。

 実際に通話した園長が言うには、母親が出たが実家にも戻っていないし何も事情は知らないと言う。ひとり暮らししているアパートに行ってみるとおっしゃっていたそうだ。何か分かったら園に連絡を貰うことになっていた。

 三日目以降、母親からの連絡はない。当然、本人からは梨の礫だった。


 この四日間の業務の皺寄せが我々に雪崩のように重くのしかかってきたが、悪態をつく者はひとりもいない。

 何故なら、その気持ちがよく分かるからだ。

 実際に無断欠勤をするかしないかは置いておいても、誰も彼も「明日は我が身」だと言わんばかりに口を噤み、粛々と業務を熟していた。

 

 保育士の仕事は多忙の上に薄給だ。

 全国的に保育士不足が叫ばれている現状がその証拠だろう。

 保育士になる者は大抵が子供好きで、子供の成長に係わりたいとか、やりがいがあるとか、そう言った明るく前向きな希望をもってこの職に就く。


 わたしがそうだった。

 肉体的にも精神的にも辛い職業だとは知ってはいたし、両親も複雑そうな表情をみせていたが、『自分が保育園に通っていた時の、あの憧れの先生みたいになりたい』その夢を諦めたくはなかった。

 ――が、そんな夢や憧れなんて、実際に現場に出た途端、早々に打ち砕かれてしまった。


 そもそもこの仕事は子供の世話だけやっていれば終わる訳ではない。

 その世話だって、保護者に代わって子供を保育し、基本的な生活習慣を身につけさせ社会性を養うために行っている。

 可愛いだけで熟せるものではないし、時にはきちんと叱らなければならない。

 大切な命を預かっているのだ。片時も目が離せない。保護者との信頼関係を構築しなければならないし、そこがネックになってしまう場合もある。

 

 それだけじゃない。

 園内の清掃や年齢別プログラムの作成。連絡帳、業務日誌つけなどの雑多な業務も保育士の務めだ。

 当園は早・中・遅番の三段階のシフト制で、朝は七時から始まる。延長保育もやっているから遅番は十九時までだが、なかなかお迎えに来ない親御さんもいて業務終了の目途が立たない日もあった。

 これでも土日祝日が休めるからまだマシな方だ。短期大学時代の『せんせい仲間』に聞くともっと過酷な現場があって、下を見ては「まだやれる」と胸を撫で下ろす。


 そう、わたしの夢は現実に打ち砕かれて散り散りになってしまった。

 だからわたしは心を捨てた。

 捨てなければ、夢だけでなく心そのものが壊れてしまうと直感したから。

 それだけはごめんだった。

 だからこの仕事を続けるために、仕事中はになることにしたのだ。

 毎朝同じ時間に起き、出勤してプログラム通りの業務を熟す。必要な場面で笑顔を作り、トラブル回避のために周囲と適切な人間関係を形成する。


 子供たちと接している瞬間だけは感情が戻ってくる感じはあるが――それでも。

 毎日毎日、判で押したような生活。

 同じ日々をループする。


 当然、初めはそう上手くはいかなかった。

 昼間は笑って、帰れば部屋で独り涙を流す。

 泣きたくないのに涙が零れ落ちてくる。

 何日も何日もそうしていくうちに、麻痺してくるのだ、感覚が。

 それは機械になれた証拠。だから何年も保育士でいられるのだ。


 そうでなければ——この日誌を書いた保育士のようにある日突然連絡がつかなくなるか、数年前にいた若い保育士のように、保育中に軽い怪我を負ってしまい、その翌日から長期休暇を取った挙句、健康保険証が同封された退職届を送りつけてくる結果になっていただろう。


 ただ、やはり。

 機械になったらなったで――飽きるのだ。

 ループする毎日に。

 代り映えのしない退屈な日常に。

 変化することは一種の恐怖に近い感情を生むが、それでも。

 どこか心の片隅で、刺激的なが起きることを待ち望んでいる自分が確かに存在している。


 他人ヒトはそれを『贅沢な悩み』と言うのだろうか――


「そんなことより!」

 後輩の声に我に返ると、彼女は腕組をして「わかってない」とばかりに大仰にため息をついた。

「急に来なくなっちゃった先生のことより警察ですよ。なんかの事件にウチの園が関係しちゃってたりするんですかねぇ?!」

 声を潜めることも忘れて鼻息を荒くしている後輩の問いに、ディスプレイを指差し、よく観るように促した。


「だから何なんですか……って、え?……なにこれ、やば」

 後輩はディスプレイに顔を近づけ、そこに記された文字列を読み進めるうちに軽く息を飲み、忌まわしいモノから遠ざかるように僅かに身を引いた。

 忌まわしい。

 そう、その表現がぴったりだろう。

 この共有されなかった記録には、消えた新人保育士の子供たちに対する呪詛の言葉が、びっしりと書き連ねられているのだから。

 

 あの繊細な感情は、いつの頃からか少しずつ変化し、歪み、捻じくれて、まるで封印でもされているかのように

 わたしはこれを書いた本人の顔を思い出し、あの美しい笑顔の下に隠された別の貌を想像し、戦慄した。


 あの日は月曜日で、業務日誌担当はあの新人保育士だった。

 わたしが帰宅の準備を整えて、机に向かって作業をしているその後ろを通った時に見えてしまったのだ。この業務日誌が。

 内容まで詳しく理解できたわけじゃなかったが、改行も句読点もなくズラズラと並んだ文字列の異様さ。そこにいくつか『いたい』『ゆるして』『子供』『消えろ』などの不穏な単語を見つけてしまい、ぎょっとしたわたしは思わず声を掛けていた。


 わたしの声に振り返った弛緩しきったあの貌。そのクセ瞳孔の開いたあの眼。

 怖かった。怖くて矢継ぎ早に、書き直した方がいいとか何とか言って早々にその場を後にした。

 そう、わたしは逃げたのだ。

 逃げながらこの胸はドキドキと高鳴っていた。それは驚愕とか、怖れに対する動悸なんかじゃない。

 違う、これは――期待だ。


 翌日の朝礼時、共有フォルダ内の業務日誌はいつもどおりきちんとできており胸を撫で下ろしたが、当の本人は姿を見せなかった。

 それは恐らく、わたしの期待通りの結果をもたらす前兆。

 停滞してしまった私の世界を壊してくれる、契機きっかけ

 今日の来客は、残酷な現実を突きつけてすべてを塗り替えてくれる使者に違いない。


 未だ冷めやらぬ胸の高鳴りを悟られないよう必死に抑え込み、ごくりと空気の塊を飲み込んだ、その時。

 職員室のスライドドアが音もなく開き、園長が半身を覗かせた。

「ああ、あなたたち。休憩中にごめんなさいね」

 園長のよわい六十を過ぎてなお園の誰よりも溌溂とし、肝っ玉母さん然としたいつもの雰囲気は影を潜め、その顔は紙のように白く、声にもまた生気が乏しく聞く者に不安を与えるようだった。

「どちらからでもいいから順番に応接室に行って、その……協力を、してもらえないかしら。少し話をするだけでいいから」


 来た。

 遂に来てしまった、この時が。

 そう認識した途端、全身の産毛が逆立つのを感じた。


「私は他の先生方にも声を掛けてくるから。お願いね……」

 園長はそれだけ告げると顔を引っ込め、また音もなくドアが閉められた。

 わたしの傍らに立つ後輩が何か言いかけたが、その言葉は園長ではなくわたしに向けられた。

「ど、ドラマみたいになってきましたけど、カオリ先生。な、なにがあったんですかねぇ?!」

 園長のように顔を白くし声を震わせる後輩は、困ったような、泣きたいような表情をしているが、その口角は先程よりも綺麗に上がっていた。


 ああ、なんて不謹慎な子。

 でもわかるわ。同僚だもの。

 あなたも長年でいるのだから。

 今わたしは、あなたと同じ表情をしているのだろう。

 そしてあなた以上に、この現実を、世界の崩壊を楽しんでいる。

 そうだ、わたしは、何年か振りに感じるこの歓びに打ち震え、今にも泣きだしてしまいそうなほどに――幸福だった。





  了

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そして円環は閉じられた 皐月あやめ @ayame

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