第二章 ⑤

 晴喜が案内してくれたのは、庭木の間に隠れるように建てられた、こじんまりとした四阿あずまやだった。やはり、ここにもひとはない。

 四阿にしつらえられた長椅子に、晴喜がぴょんと飛び乗るように座り、手をつないだままの香淑も隣に腰を下ろす。

 座りながら、香淑はそっと晴喜の様子をうかがった。

 年の頃は六、七歳くらいだろうか。陽光をはねかえしてきらめく茶色の髪と、同じ色の目をしている。黒髪に黒い目の者が大半を占めるこの国では比較的珍しい色彩だ。もしかしたら、異国の血が流れているのかもしれない。

 明るくあたたかな色合いは、晴れやかな晴喜の笑顔によく似合う。

 が、この少年は何者だろうか。

 丹家の庭にくわしそうなので、別の屋敷の子ではあるまい。ということは……。

 香淑は、榮晋のはくせきぼうを思い返す。

 榮晋は二十三歳だ。あの美貌なら、周りの女達が放っておかぬだろうし、若気の至りで、子どもが生まれてしまったという事態は、十分に考えられる。

 それにしては、先ほど晴喜が榮晋を呼び捨てにしたのがせないが。

 それに、月の光をり合わせたような榮晋のれいな美貌と、太陽の光を集めたような晴喜の笑顔は、正直ほとんど似ていない。

 母親似なのだろうか。こんなに愛らしい笑みを振りまく晴喜の母親ならば、きっと当人も、榮晋の心を捕まえて離さぬ、笑顔の素敵な美女に違いない。

 まだ見ぬ榮晋のあいしようを思い描いた心が、ずきりと痛む。

『人形みたいにすました顔が気に食わん』

 不意にひとり目の夫の言葉が記憶の底からよみがえり、香淑は固く目を閉じてかぶりを振った。

「どうしたの?」

 つないだままの手に力が入ったからだろう。晴喜が心配そうな声を出す。

 香淑は目を開け、あわてて口元に笑みを浮かべた。

「なんでもないの。その……。この四阿は素敵な場所ね」

 こじんまりとしているが、それがかえって落ち着く。

 躑躅つつじ紫陽花あじさい杜若かきつばたなど、四阿の周りには色々な種類の庭木や花が植えられており、初夏の光を受けて咲く花々が目だけではなく香りでも楽しませてくれる。

 深く息を吸えば、花々の優しい香りが心の痛みをまぎらわせてくれる気がした。

 香淑の言葉に、晴喜の顔がぱぁっ、と輝く。

「そうでしょ! いい場所でしょう!? ぼく、ここ好きなんだ~。ここでそよ風に吹かれながらお菓子を食べたら、いつもよりもっとおいしく感じられるんだよね!」

「晴喜はお菓子が好きなの?」

「うんっ、大好き!」

 無邪気な即答に、香淑も自然と笑みがこぼれ出る。

「じゃあ、次に会う時までにお菓子を用意しておくわね。焼き菓子は好き?」

「うん! どんなお菓子も大好きだよっ!」

 大きく頷いた晴喜が、甘えるように香淑に身を寄せてくる。

「よかったぁ~。香淑が優しそうな人で。ちょっと不思議な感じがするけど、すっごくいい匂いだし」

「……その」

「なぁに?」

 笑顔で見上げる晴喜に、ためらいを振り切るように問いかける。

「晴喜はその、榮晋様のお子様なの?」

「へ?」

 くりっとした目が、さらに丸くなる。かと思うと。

「ぷっ! そんなわけないじゃないか! ぼくは榮晋の友達だよ!」

 けらけらと晴喜が明るい笑い声を立てる。

「友達……」

「そうだよ! いくらぼくがちっちゃく見えるからって……」

 胸を張って何やら言いかけた晴喜が、途中で口ごもる。と、ごまかすように小首をかしげた。

「それにしても、なんで息子だと思ったの? 榮晋、まだあんなに若いし、顔だってぼくと似てないのに」

「それは……」

 まだ幼い少年に言っていいものかどうか、ためらう。が、知りたいという欲求が、唇を動かしていた。

「だって、榮晋様には、わたくしの他におそばにはべる方がいらっしゃるのでしょう?」

 さすがに『愛妾』とは言えず、ぼかした言い方をする。

 明確な答えを期待したわけではなかった。が。

「……っ!」

 晴喜の顔が、凍りつく。小さな身に激しい震えが走ったのが、寄りかかった身体から伝わってくる。

 強い衝撃と恐怖にこわった晴喜の顔を見た途端、香淑は己の失言を激しく悔やんだ。

「ごめんなさいっ! 晴──」

「香淑」

 謝るより早く、晴喜がぎゅっと強く、香淑の手を握る。

 香淑を見上げた茶色のひとみに宿るのは、祈るようなしんなまなざしだ。

「香淑は、榮晋を幸せにしてくれる?」

「え……?」

 とっさに脳裏をよぎったのは、昨夜、榮晋に告げられた言葉だ。

『お前をめとったのは──わたしを殺してもらうためだ』と。

 そんなことを望まれている香淑が、榮晋を幸せにするなど──。

 だが、香淑の内心など知らぬ晴喜が、ぐっと身を寄せてくる。

「香淑は、榮晋が選んだお嫁さんでしょう? 榮晋、今まではかたくなにお嫁さんを娶ろうなんてしなかったのに……。香淑のことは、必死に探して、今か今かって嫁いでくるのを待っていたんだよ? すっごく楽しそうな顔をして……」

 晴喜が必死に言い募る。

 が、香淑には晴喜が話す内容と、自分が昨夜見た榮晋が、どうしても結びつかない。

 同じ名前の別人ではないかとさえ思う。けれど。

「お願い……。ぼくじゃ、力不足だから……っ」

 今にも泣き出しそうな晴喜の声と表情に、香淑は反射的に小さな手を握り返す。

「わたくしに、どこまでできるかわからないけれど……。できる限りのことをやってみるわ」

 晴喜の憂い顔を何とかしたい一心で、力強く言葉を紡ぐ。

 ついさっき会ったばかりだが、時間など関係ない。晴喜は、誰ひとり親しい者のいない丹家で、初めてできた友達なのだから。

 素直で愛らしい晴喜が、香淑に噓をついているとは思えない。

 夕べ、一瞬だけ見えた榮晋のすがるような表情。

 あれが、本当の榮晋の姿なのだとしたら──。

「ありがとう」

 そ、と晴喜の柔らかな短い髪をでると、驚いた様子で晴喜が顔を上げる。大きな目を見開き、きょとんと見上げる晴喜に、香淑は優しく微笑んだ。

「あなたのおかげで、大切な気持ちを思い出せたから。だから、ありがとう」

「……?」

 なぜ急にお礼を言われたのかわからず、不思議そうに小首をかしげる晴喜に、香淑はふわりと笑う。

「昨日は、きようがくすることが多すぎたせいで、すっかり頭から抜け落ちていたけれど……」

 榮晋との結婚が決まった時の気持ちを、思い起こす。

『夫君殺しの女狐』と疎まれていた香淑に突然舞い込んだ縁談に、大きな不安と同時に、かすかな希望を抱いたことを。

 今度こそ──。今度こそ、結婚相手と添い遂げられるのではないか、と。

「榮晋様のことを教えてくれて、最初の気持ちを思い出させてくれて、ありがとう」

 香淑はそっと晴喜の顔をのぞき込む。

「あの……。ひとつ、お願いがあるのだけれど……。あなたのことを、抱きしめてもいいかしら?」

「もちろんだよっ!」

 言うなり、晴喜のほうから香淑に抱きついてくる。

 勢いよく飛びついてきた小さな身体を、香淑はぎゅっと抱きしめた。

 少年らしいきやしやたい。明るい茶色の髪からは、胸をあたたかくするような陽だまりの匂いがする。

 榮晋の心を解きほぐせば……。もしかしたら、いつか、我が子をこうして抱きしめるという夢が、かなうかもしれない。

「やっぱり、香淑はあたたかくて優しい匂いがする。不思議な匂いも混じっているけれど……。でも、いい匂いだ」

 晴喜が甘えるように、香淑の胸元に顔をすり寄せてくる。

 子どもは好きだが、接する機会自体少ないので、こんな風に甘えられた経験などない。昔、年の離れた妹や弟とじゃれあった時くらいだろうか。

 体温の高い小さな身体は、抱きしめているだけで自分の胸にもあたたかなものがあふれてくる気がする。

 同時に、丹家での生活に対する希望も。

 香淑の努力次第で晴喜の笑顔を守れるのなら、励まぬ理由がどこにあるだろう。

 名誉もきようも、清らかさも。両親からの愛情も。もう、全部、とうの昔に失っている。

 香淑に残っているのは、もう、この身ひとつだけだ。

 ならば──。

 わずかなりとも望みがあるのなら、それにけぬ理由が、どこにあるだろう?

 そう思い、香淑はふと、己の心が軽くなったのを感じる。

 身ひとつで丹家に連れてこられ、夫である榮晋には、子をす気はないと明言された。

 それどころか、殺してほしいなどと、とんでもないことを願われ。

 ふつうの神経の花嫁ならば、泣き伏し、我が身の境遇を嘆いていることだろう。

 だが、逆に香淑は不思議なほどのすがすがしさを感じていた。

 きっと、これが香淑の人生で最後の機会だ。

 この婚姻がついえたら、今度こそ、香淑はただ日々を消費していくだけの生けるしかばねになるだろう。

 恐怖はまだ、胸の奥底で渦巻いている。

 けれど、目の前にあるかもしれない希望を見て見ぬふりをすることのほうが、ずっと怖い。

 求めても、見つからないかもしれない。手を伸ばしても、振り払われるかもしれない。

 けれど──。

 今朝、胸に抱いた梔子くちなしの花のように、香淑は心を込めて晴喜の小さな体を抱きしめる。

「晴喜。あなたは力不足などではないわ」

 香淑は、声に力を込めて、先ほど晴喜がこぼした嘆きを訂正する。

「あなたのおかげで、挑んでみる気になったのだもの。あなたは、すごい力を持っているわ」

「……ほんとに?」

 不思議そうに問いかける晴喜に視線を合わせ、香淑は大きくうなずく。ようやく少年の面輪から憂いが晴れていった。

「そうだといいなあ……っ! 榮晋は、大事な友達なんだ。もう、今は榮晋しか残ってない……。あっ、違った! 今、香淑も友達になったもんね!」

 てへへ、と舌を覗かせて笑う晴喜につられ、香淑も笑みをこぼす。

「ねえ、晴喜。教えてほしいのだけれど、あなたと榮晋様がお友達だというのは──」

 問いかけた瞬間、ぴくり、と香淑の腕の中で晴喜が身じろぎし、首を巡らせる。

「聞こえる……」

「……これは、子どもの泣き声……? でも、どこからかしら……?」

 晴喜に続いて耳をそばだてた香淑は、庭の向こうから、かすかに響いてくる子どもの泣き声を耳にして首をかしげる。

「ぼくが案内してあげる! こっちだよ!」

 するりと長椅子から下りた晴喜が、止める間もなく駆け出す。長いすそを両手で持ち、香淑はあわてて数歩先を行く晴喜の後を追いかけた。


~~~~~


増量試し読みは以上となります。


この続きは2024年4月25日発売の『夫君殺しの女狐は幸せを祈る』(角川文庫刊)にてお楽しみください。


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夫君殺しの女狐は幸せを祈る 綾束乙/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun

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