第二章 お前の本性を見せてみろ

第二章 ①

 窓から差し込む初夏の朝日の明るさに、香淑はゆっくりとまぶたを開けた。

 見慣れぬ寝台に薄物の夜着を纏って横たわる己に気づいた瞬間、思わず隣を振り返る。

 ひとりで寝るには大きい寝台に横たわっているのは、香淑だけだ。寝台の残り半分は、夜具が乱れた形跡すらない。

 やはり、榮晋は昨夜出て行ったまま、戻ってこなかったらしい。

 榮晋が荒々しく扉を閉めて出て行った後、香淑はぼうぜんとしたまま榮晋の戻りを待っていたのだが、眠気にたえられず、いつの間にか寝入ってしまったらしい。昨日はあれこれと緊張しすぎたせいで、気力体力ともに使い果たしていたためだろう。

 香淑は、昨夜、榮晋が出ていく寸前に吐き捨てた言葉を思い返す。

 榮晋は香淑が『夫君殺しの女狐』と呼ばれていると知った上でめとったのだと、明言していた。そして。

(わたくしに己を殺させるために娶った、なんて──)

 脳裏にこびりついたせいさんな光景がよみがえりそうになり、香淑はぎゅっ、と固く目をつむる。

 身体が震え出しそうになった瞬間、ふと、かぐわしい花の香りに気づく。

 あわてて寝台から下り立ち、ついたてを回り込んだ香淑が見つけたのは、卓の上にぽつんと一輪だけ置かれた、梔子くちなしの花だった。

 信じられない思いで卓に駆け寄る。足にぶつかった椅子が大きな音を立てたが、耳に入らない。

 卓の前で立ち止まり、香淑は胸の前で両手を握りしめて梔子の花を見つめる。

 小枝ごと折られ、卓の上に無造作に置かれた梔子の花は、何か特に際立っているわけではない。けれど。

 おずおずと、香淑は緊張に震える指先を花に伸ばす。

 ふれれば幻のように消えてしまう。そんな気がして。

 指先が絹のようになめらかな花びらにふれた途端、香淑は思わず唇をみしめた。でなければ、喜びのあまり声を上げてしまいそうで。

 離せば消えてしまう気がして、両手でぎゅっと枝を握る。厚い葉が肌をこすったが、かすかな痛みさえ、幻ではない証拠に感じられてうれしくなる。

 宝物のように両手で梔子の花を大切に押し包む。

 香淑の自室の卓に花が置かれるようになったのは、ひとり目の夫が亡くなり、実家に戻ってきた頃からだ。

 文も何もない。ただ手折られた花が、一輪だけ。

 けれども、花が置かれる朝は、決まって前の日につらい思いや苦い感情を味わった日ばかりで。

 二度目の結婚の間も、実家に戻ってからも、ことあるごとにそっと無言で贈られる花に、どれほど慰められたことだろう。弟以外にも、香淑のことを気にかけてくれている者がいるのだと、確かに感じられて。

 けれど。

「どう、して……?」

 花を抱きしめたまま、香淑は答える者のいない問いを紡ぐ。

 贈り主は、おそらく香淑付きの侍女のひとりなのだろうと、今までずっと思い込んできた。だが、今回の嫁入りに、香淑は実家からひとりの侍女も連れてきていない。

 必要なものはすべて丹家で用意するからと、嘉家からはひとりの侍女の同行も認められなかったのだ。だというのに。

(いったい、誰がこの花を……?)

 包むように両手で持った花を見つめ、思案する。

 昨夜到着したばかりの丹家で、香淑に花を贈ってくれる者など、いるはずがないというのに。

 真っ先に思い浮かんだのは呂萩のしかつめらしい顔だ。だが、仕事はそつなくこなすものの、必要最低限のこと以外、決して香淑と言葉を交わそうとしない呂萩が香淑に花を贈ってくれるとは、とても考えられない。

 となると、香淑に思い当たる人物は、たったひとりだけだが……。

 そんなはずはない、と、香淑は舞い上がりそうになった己の心を𠮟しつする。

 もしかして、榮晋が昨夜のびに贈ってくれたのかもしれない、などと。

 手元の花が揺れた拍子に、芳しい香りがふわりと揺蕩たゆたう。

 確証もないのに舞い上がってはいけないと理性が戒める一方で、榮晋だったらいいのにと、願う気持ちが止められない。

 脳裏に思い浮かぶのは、ちようろうも露わにやいばのような言葉を吐き捨てていた榮晋ではなく、どこかすがるようなまなざしで問いかけていた姿だ。

 家路を探す迷い子のような、どこか泣き出しそうな表情が、胸の奥底にみついて離れない。

 なぜだろうかと、香淑が己の心に問うより早く。

「起きていらっしゃいますか?」

 廊下からかけられた呂萩の声に、はっと我に返る。

「え、ええ……」

 答えながら、手に持っていた花をとっさに寝台の枕の陰に隠す。

 自分でもわからないが、なぜだか呂萩に花をとがめられたくなかった。

「失礼いたします」

 呂萩が盆を片手に一礼して入ってくる。

「朝食をお持ちしました。先にお着替えをなさいますか?」

 盆を卓に置いた呂萩が淡々と問う。

「そうね、お願い……」

 うなずきながら、香淑は盆の上に視線を走らせる。盆の上に載っているのは、湯気を立てるたまごがゆといくつかの小鉢だった。

 慣例ならば、婚礼の翌朝の食事は、夫婦で祝いもちを食べるものだが……。

 婚儀は執り行ったものの、逆立ちしても『夫婦』と呼べない榮晋と香淑で祝い餅を食すなど、茶番この上ない。

 呂萩が祝い餅を持ってこなかったということは、呂萩も昨夜のてんまつを知っているということだろうか。

 部屋の片隅に置かれていた長持から丹家で用意された淡い緑の綿の衣を取り出し、無表情で着替えを手伝う呂萩からは、何を考えているのか、まったく読みとれない。

『妻』と呼べぬ香淑を内心であざけっているのか、同情しているのか。

 榮晋が香淑と床を共にする気がないと知っていて、夕べ、あえて床入りの準備をしたのか。榮晋の真意を知っているのか、それさえも。

 表情を変えることなく淡々と職務を遂行する呂萩は、まるで老女の姿をした人形のようだ。香淑が丹家の女主人として何の役に立たなくても、家政のことは呂萩がすべて取り仕切って、とどこおりなく行われるのだろう。

 だが、香淑も最初から何もせずにあきらめる気はない。

「……榮晋様は、どちらにいらっしゃるのかしら?」

 帯を結ぶ呂萩に問うと、すぐさま答えが返ってきた。

「榮晋様はお出かけになっておられます」

 いつからなのか、どこへなのかも、わからぬ答え。

 香淑の寝台を出た後、夕べからお気に入りのめかけのもとへ行っているということか。

 つきりとうずく胸の痛みを押し隠し、香淑は声音が揺れぬよう努めながら問いを重ねる。

「どちらに出かけられているか、知っているの?」

「もちろんでございます」

 香淑と視線を合わせぬまま、呂萩が即答する。

「お取引相手のところでございます」

 丹家は遠方との商取引に手広く出資していると聞いた記憶がある。取引相手ということは、商人だろうか。

 香淑はじっと呂萩の顔をうかがうが、深いしわが刻まれた顔からは何ひとつ読み取れない。その無表情を崩したい衝動に駆られて。

「──呂萩は、榮晋様がわたくしを娶った理由を知っていたの?」

 問うた瞬間、呂萩の顔が凍りつく。

 きようがくさいと怒りと哀しみと──。

 香淑には読み取れぬさまざまな感情が老女の顔を通り過ぎる。香淑が次の言葉を紡ぐより早く。

「食べられたら食器はそのままで結構です。後で取りにまいりますから」

 投げ捨てるように告げた呂萩が顔を背け、足早に部屋を出ていく。

 せた背中から立ち上るのは、強い拒絶だ。

「呂……」

 香淑の声を遮るように、ぱたりと扉が閉められる。

 反応から察するに、呂萩も香淑が『夫君殺しの女狐』と呼ばれていることを知っているのは明らかだ。

 いったい、この婚礼には何が隠されているのか。

 わからぬまま、香淑は卓につきさじを手にとる。何はともあれ、まずは食事をとらねば。

 うっすらと湯気が立つ卵粥をひと口食べた香淑は、心と身体、両方のこわりをほぐすかのような優しい温度に、ほう、と息を吐き出した。

 たっぷりの卵と刻んだねぎが入った粥は、じんわりと身体に染み入るようなおいしさだ。

 朝食をちゃんと味わえている自分に、香淑はあんする。

 ご飯をおいしいと感じられるうちはまだ、大丈夫だ。

 材料も調理方法もぜいたくなものなのに、砂を嚙むように何の味もしなかった食事を、身体が食べ物を受けつけなかったつらさを、香淑は知っている。それに比べたら。

(だんな様と呼ぶべき方や、侍女達に疎まれるくらい、なんのことはないわ……)

 もともと、ある程度の覚悟はしていたのだ。

 三人もの夫を次々と亡くした香淑をめとるなど、何か事情があるに違いないと。

 一人目は三年。

 二人目は一か月。

 三人目は、たった一晩──。

 嫁ぐたび夫が変死し、薄気味悪いとたたき出されるように実家に戻された香淑は、いつの間にかちまたで『夫君殺しの女狐』と呼ばれ、不気味な噂が流れる存在になっていた。

 侍女達は香淑に気を遣って決して噂を口にしなかったが、両親が娘を『夫君殺しの女狐』、『嘉家の厄介者め』とさげすむのだ。どうして無知でいられるだろう。

 まだ十代の若さで二人目の夫に死に別れ、香淑が実家に戻った頃から、あれほど栄えていた嘉家が急速に没落し始めたのも、娘を疎む両親の心に拍車をかけた。

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