第一章 ⑤

「ごめん。ぼくが……」

 晴喜が泣き出すのではないかと思えて、榮晋は慰めるように晴喜の短い髪を勢いよくかき混ぜる。

「何するんだよっ! ぐしゃぐしゃになっちゃうだろ!」

 両手で頭を押さえる仕草が可愛らしくて、思わず口の端に笑みが浮かぶ。

「すまんすまん。びに菓子でもやろう。呂萩のところへ行くといい。きっと何かしらくれるぞ」

 呂萩が晴喜を孫のように可愛がっているのを知っている。

「お菓子なんかでごまかされないよっ!」

 言いつつも、晴喜の目がそわそわと左右に揺れる。同時に、くるんと巻かれた尻尾が、喜びを素直にあらわしてぱたぱたと揺れ、榮晋は思わず笑みを深めた。

「呂萩も大役を果たして、十日ぶりに帰ってきたのだ。お前の姿を見れば喜ぶだろう。行けぬわたしの代わりに、お前が行って、ねぎらってやってくれぬか?」

 晴喜の目を見つめて穏やかに頼むと、

「しょうがないなぁ」

 と、さも表面上は仕方がなさそうな口ぶりで、晴喜が吐息した。

「友達の頼みなら断れないもんね。わかった、呂萩のところに行ってくるよ。でも、その……」

「お前が気にすることはない。来ているに違いないと、最初から予想していた」

 気遣わしげに見上げる晴喜に、榮晋はできるだけ何気ない風を装って告げる。晴喜の人懐っこさや純真さは、重苦しい生活の中での清涼剤だ。話しているだけでいやされる。

「ほら。呂萩も待っているやもしれん。行ってやってくれ」

 促すと、晴喜がためらいがちにうなずいて欄干を乗り越える。

 夜の中に溶け込んでゆく揺れる尻尾を見送った榮晋は、自室に待ち受けるものに思いをせ、思わず苦く吐息した。

 戻りたくないが、戻らぬわけにはいかない。逃げるのが不可能なことは、榮晋自身が誰より承知している。

 暗い廊下を歩み自室へ戻った榮晋は、無意識に洩れそうになるためいきをこらえ、ためらいを振り切るように扉に手をかけた。勢いよく開けるなり、室内からあふれるように流れ出てきたのは、妙に甘く、重く湿った匂いだ。

 榮晋は空気を入れ替えるように、あえて一度大きく扉を開けてから室内に入る。が、扉を閉めた途端、ふたたび重苦しいほどの甘い匂いが押し寄せる。

 室内は、夜とは思えないほど明るい灯火で満たされていた。

「ふふ。やけに早いお戻りね」

 扉の正面。部屋の奥に置かれた長椅子に、しどけない仕草で身を横たえているのは、花嫁衣装をまとい、えんぜんと微笑むぼうの女──めいだった。

 磁器を思わせる白い肌。大輪の花の如き華やかな顔立ちは、しかし、一片のれんさもなく、妖艶さしか感じない。

 複雑に結い上げた白銀の長い髪と、鮮血で染め上げたかのような紅玉の瞳という組み合わせが、彼女がこの世ならぬモノであることを雄弁に示していた。

 濃く紅を引いた唇が、弧を描いてり上がる。

「よかったの? 婚礼の夜だというのに、花嫁を放ってきて」

 今宵、嫁いできた香淑のことを、媚茗が優越感にまみれた声で楽しげに口にする。

 鉛でできた男でもかしてしまいそうな甘い響きの声は、己の言葉が否定されるとは、夢にも思っていない自負がうかがえる。

 赤地に金のしゆうの花嫁衣装は、香淑が着ていたものと寸分たがわず同じものだ。

 だが、榮晋は媚茗に香淑の花嫁衣装を見せた記憶はない。先ほどの婚礼を盗み見していたに違いない。

 さすがの媚茗でも、榮晋が初めて正式に妻として迎え入れた香淑のことは気になるらしい。婚礼のその晩に、わざわざ香淑とそっくり同じ花嫁衣装を纏って現れたのが、いい証左だ。

 が、あまり香淑に興味を持たれたくはない。

 榮晋は肩をすくめると媚茗の機嫌をとる。

「あれは、子をすための形ばかりの花嫁だ。本物の花嫁は、いま目の前にいるだろう?」

 榮晋の返事に、媚茗が満足そうに笑みを深くする。

「来て」

 長椅子から立ち上がった媚茗が、たおやかな手つきで榮晋を奥へと招く。奥にあるのは榮晋の寝室だ。

 無造作に扉を開けた媚茗はれいに整えられた寝台へ歩み寄ると、榮晋を振り返った。

 寝室は明かりが少ない。先ほどの部屋との落差にさらに薄暗く感じる部屋の中で、媚茗の白磁の肌だけが、浮き上がるように白い。

 花嫁衣装に包まれた熟れた身体を誇示するように、媚茗が寝台に腰かける。くびれた腰から続くまろやかな肢体の重みに、布団が柔らかに沈んだ。

「花嫁というのなら、ねぇ?」

 理性を融かすような甘い声を紡いだ媚茗が、立ったままの榮晋にしなやかな腕を伸ばす。紅玉の瞳がわく的にきらめき、甘い匂いが榮晋を包み込んだ。

 何も知らぬ男なら、頷く間も惜しく柔らかな肢体を寝台に押し倒しているだろう。

「新参者をでただけで終わり、だなんて言わないでしょう?」

 言外に、そんなことは許さないという気配を込めて、媚茗が笑む。

「丹家の血を絶やさぬように子を作れ、と言ったのはあなただろう?」

 媚茗と一歩分の距離を保ったまま、榮晋はすげなく返す。

 香淑とのやりとりを媚茗に知られていなかったあんを、胸の奥に隠しつつ。

 媚茗がねたように紅の唇をとがらせた。

「家が絶えて困るのは、あなただって同じことでしょう? 私だって、永く見守ってきた血筋が途絶えるのは忍びないわ。それに」

 不意に、媚茗がたおやかな容姿からは信じられぬほど強い力で、榮晋の右手をつかんで引き寄せる。

 氷を押し当てられたような媚茗の手の冷たさに、榮晋は反射的に振り払いたくなるのをかろうじて自制した。先ほど、香淑のあたたかな肌にふれたせいだろうか。氷を削って作ったかのような媚茗の手に、いつも以上の嫌悪を感じる。

 前かがみになった榮晋の面輪に、媚茗が右手をいとおしげにわせ、白く細い指先が宝玉を愛でるかのようにゆっくりとでる。

「あなたの子どもなら、どんな綺麗な子が生まれるかしら。考えるだけで、ぞくぞくするわ」

 背中がぞくりとあわつのは、媚茗の肌の冷たさゆえか、それとも、他の理由からか。

 榮晋はもう、とうの昔に考えるのをやめている。

「長年、丹家に取りいてきたけれど、あなたほど綺麗な人間は初めて。ふふっ、これが、人間が言う恋というものなのかしら……?」

 楽しげにささやきながら、媚茗が榮晋の右手を、己の衣の合わせへと導く。

 しゅす、ときぬれの音とともにあらわになるのは、雪よりも白いたわわに実ったまろやかな果実だ。

 ひやりとなめらかな媚茗の肌に、榮晋はいつも、己の手が沈み込んでいくのではないかという感覚に襲われる。

 このまま、甘く重い闇の中にとらわれてしまうのではないかと。

 くすりと笑みをこぼした媚茗が、榮晋の襟元をぐいと引く。不意に、榮晋の頰を冷たく湿ったものがめ上げた。

 媚茗の紅の唇を割って出た、長い舌が。

「本当は、一夜たりとも、あなたを他の女なんかに貸し与えたくないわ……」

 情念のこもった声とともに、ちろりちろりと、長い舌が榮晋の頰を、を、首筋を、唇を舐めてゆく。

 先が二つに割れた──あかい紅い、蛇の舌が。

 紅を塗った媚茗の唇が、乱れた衣から露わになった榮晋の首元に吸いつく。精気が吸われる感覚に、榮晋は己の中の大切なものが奪い取られてゆくのを感じる。

 榮晋の肌に紅い己のあかしを刻みつけた媚茗が満足そうな笑みを浮かべ、次は胸元へくちづけを落とした。

 己の肌に紅い花が咲くたびに精気が吸い取られ、榮晋は身体がくずおれそうになるのを必死にこらえる。

「指も声も視線も──。あなたのすべては、私だけのものよ──」

 うっとりと甘い声が、榮晋をからめとる。

 衣擦れの音とともに、華やかな婚礼衣装がほどけてゆき──。

 深くこごる闇の中に、白くなまめかしく、ようが咲いた。

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