第一章 ④

「泣けば男が意のままになるとでも? 涙を見せてしおらしいふりをすれば、わたしが同情するとでも思ったか?」

 きつく眉根を寄せたまま、榮晋が吐き捨てる。

「器用に涙を出せるものだな、女狐は」

「っ!?」

 最後のひと言に、息をむ。

 まさか、と心のどこかが叫ぶ。

 まさか、榮晋が知っているはずはあるまいと。

 目を瞠り、血の気のせた唇をわななかせる香淑を、榮晋が目を細めて見つめる。闇色の瞳に宿るのは、何かを期待するようなまなざしだ。薄い唇を挑むようにり上げ。

「わたしが知らぬとでも思っていたか? そんなはずがないだろう。知っていて、めとったのだ」

 艶のある声が、冷ややかに香淑を斬り伏せる。

「いい加減、本性を現したらどうだ?──『夫君殺しの女狐』め」

 告げられた瞬間、呼吸が、思考が、すべてが止まる。

 ただただ、涙だけが、降りやまぬ雨のようにまなじりからこぼれ落ちる。

 一瞬、痛ましげに眉をひそめた榮晋が、そんな自分を𠮟しつするように苛立たしげに鼻を鳴らした。

「涙を流しても無駄だと言っただろう?」

 闇色の瞳に、けんのんな光が宿る。

「もはや取り繕う必要はない。いい加減、本性を見せてみろ」

 挑むような声。だが、香淑には榮晋が何を言いたいのかわからない。

 ただ、榮晋が言葉を発するたび、心に刃を突き立てられたかのような痛みを感じる。

 哀しいのか、恐ろしいのか、おびえているのか……。自分ですら、己の心の形がわからない。

 ただただ、心に納まりきらぬ感情が、涙となってあふれ出す。

 無言ではらはらと涙をこぼす香淑に、榮晋が小さく舌打ちする。

「いい加減に──」

「なぜ、ですか……?」

 ぽつり、と香淑が洩らした声に、榮晋が口をつぐむ。

「なぜ、『夫君殺しの女狐』と知っていて、わたくしを娶られたのです……?」

 なぜだろう。

 いらいらと怒気を放つ榮晋は、身が震えそうな恐ろしさだというのに。

 闇の色を宿した瞳の奥深くに、まるで迷い子がすがるものを探しているかのような頼りなさが見えた気がして。

 香淑はうたかたのように浮かんだ疑問を、吟味せぬまま口にする。途端。

「このに及んで本性を隠す気か……っ!?」

 榮晋の面輪を彩ったれつな怒気に、香淑は思わず息を吞んだ。

 たけだけしい激情を宿したまなざしが、香淑の心を奥底まで刺し貫く。

 憎悪と苦悩と絶望と──。

 あらゆる負の感情が吹き出したかのような、せいぜつな表情。

 だというのに。

 榮晋の右手が、香淑の髪にふれる。いとしい宝物をでるかのような。そんな錯覚を起こしそうなほど、優しい指先がこめかみから頰へとすべり。

 不意に、はくせきの美貌が近づく。

 唇がふれるのではないかと思うほど、間近に。

「お前に惑わされて身を重ねる気などない。むろん、子をす気もな」

 艶やかな声が、激情をはらんで不可視の刃を紡ぐ。

「お前を娶ったのは──わたしを殺してもらうためだ」


    ◆ ◆ ◆


 身をひるがえして寝台から下りた榮晋は、振り返りもせず香淑の部屋を出ると音高く扉を閉めた。

 間違っても追い縋られぬよう、足早に薄暗い廊下を進み。

 棟と棟をつなぐ渡り廊下まで来たところで、ここまでは追ってこぬだろうと、榮晋はようやく歩をゆるめた。心の揺れが伝わったかのように、足取りが乱れている。

「くそっ」

 誰もいないのをいいことに舌打ちする。鋭い音が夜の闇の中に音高く響いた。

 告げる気など、まったくなかった。

 子を生さぬという決意も、香淑を娶った本当の理由も──。

 けれど、榮晋を前に緊張した様子の香淑は、『夫君殺しの女狐』という恐ろしい噂が噓ではないかと思うほど、せいで初々しい新妻そのもので。

 もしかして、香淑は本当に『夫君殺しの女狐』などではなく、初夜を前に恥じらう花嫁なのではないかと、榮晋は一瞬、本気で疑った。

 そんなことが、あっていいはずがないのに。

 だからこそ、何としても本性を見抜いてやろうと、香淑の思惑に乗ってやる気で押し倒したというのに。

 逆に、己のほうが手玉にとられて言うはずのなかった言葉をこぼしてしまうなんて、お笑い草だ。

 榮晋は己のなさに口元が苦くゆがむのを感じる。

 きっと、あの涙のせいだ。

 女人の涙はどうにも苦手だ。榮晋が誰よりも幸せになってほしいと願う姉を連想させて。

 ずきり、と胸の奥でうずく罪悪感を、かぶりを振って胸の奥底へ追いやる。

 涙くらいでほだされそうになるなど、自分の甘さにが出る。

 きっと、あれも女狐の手管のひとつに違いない。

 噂とは真逆の純情そうな仕草で、夫の心を揺らす──。

 今までの夫もそうやってろうらくしてきたのだろうと考えた瞬間、自分でも理解できぬ不快感と怒りが心を占め、榮晋は奥歯をみしめた。

 ぎり、と口内で不快な音が鳴る。と。

「榮晋! 榮晋っ!」

 自分を呼ぶ子ども特有の高い声に、榮晋は足を止めた。

 渡り廊下の両側は、少しの空間をあけて木立ちが並んでいる。昼間ならともかく、夜も更けてきた今は、滴るような木々の緑も闇の中に沈み、形さえろくにわからない。がさがさと鳴る葉の音が声をかけてきた者の存在を知らせるだけだ。

 沈むような闇の中から、ぱたぱたと軽い足音を立てて駆け寄ってきたのは。

「どうした? せい?」

 よく見知った童子の姿に、榮晋は首をかしげた。

 晴喜と呼ばれた七歳ほどの少年は、渡り廊下の欄干に手をかけると、

「よいしょっ」

 と、身軽に乗り越える。少年がまとう薄青の衣のすそが、闇の中に軽やかに舞った。

 同時に、少年の背中側からのぞくくるんと丸まった尻尾しつぽが、ぴょこんと揺れる。

 榮晋のすぐ隣まで来た晴喜は、くりくりとした大きな目を感嘆に見開いた。

「うわぁ~っ、今日の格好はいつも以上に立派だね~っ!」

 短い髪の間から、ぴんっと立った犬の耳が、ぴこっと揺れる。夜ではわかりにくいが、耳も髪も尻尾も、こんがりと焼いたもちのような明るい茶色だ。

 童子の姿をしているが、晴喜は人間ではない。丹家に身を寄せている犬のあやかしだ。

 年経た動植物や器物が何らかの拍子に変じるのが妖だが、むろん、誰にでも妖が見えるわけではない。

 妖のほうでも、人間を襲うために身を潜めているものもいれば、気に入った人間を守護する変わり者もいる。

 晴喜はかつて、丹家の隣に住んでいた一家で可愛がられて長生きした犬が、死後も大切にまつられて妖となったものだ。その来歴のせいか、妖と言えば、人を襲い、血肉や精気を奪うモノが多い中で、晴喜は驚くほど人懐っこい。

 晴喜の言葉に、榮晋は小さく苦笑をらす。

 もし、余人が榮晋の今宵こよいの衣装について口にしていれば、怒りが湧いただろう。婚礼は香淑を嘉家から連れ出し、榮晋の手元に置いておくための便宜的な手段にすぎない。

 だが、純粋に感じ入っているのだと聞いただけでわかる晴喜の言葉は、ささくれだった心をほぐすかのようだ。

「褒めても何も出んぞ」

 言いながら晴喜の頭をでると、くすぐったそうな笑顔が返ってきた。

「それより、どうした?」

 晴喜が夜に現れることは滅多にない。見た目は童子だが、本人の言によると百年は生きているという話だから、夜は早々に寝ているわけでもないだろうが。

 晴喜いわく、夜より朝や昼のほうが好きらしい。

「もしかして、婚礼のうたげの料理でも期待して来たのか? あいにく──」

「作ってないことくらいわかってるよ! ぼくを何の妖だと思ってるのさ!」

 晴喜が自慢げに鼻をつんと上に向ける。犬の妖だけあって、晴喜は匂いにはすこぶる敏感だ。

「それより、その」

 珍しく、晴喜が言いよどむ。榮晋を見上げた茶色のひとみは、怯えと憂いに揺れていた。

「来てるよ。部屋に」

「……そうか」

 洩れ出たのは、苦い声だ。

 婚儀の時から、気配は感じていたが──。

「教えてくれて、助かる」

 謝意をこめて晴喜の頭を撫でると、晴喜の目に気遣いが浮かんだ。

「その……。いいの? 今日は、婚礼の当日なのに……」

「かまわん」

 榮晋の鋭い声に、晴喜の小さな肩がびくりと揺れる。しまったとひとつ吐息すると、榮晋はきつく聞こえぬよう、声音を意識して口を開いた。

「……婚礼の夜だからといって遠慮するような奴ではないだろう?」

「そうだろうけど……」

 ぐっとあごを上げ、榮晋を見上げる晴喜の目には、榮晋を心配する気持ちと、己の無力さへの嘆きが入り混じっていた。

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