第一章 ②
突然、
香淑は息をするのも忘れ、榮晋の優美な姿に見惚れる。ふわりと元の位置に戻った
香淑と同じ、赤地に金糸で
髪を結い上げ冠をかぶった姿は、立っているだけで一幅の絵のようだ。
夢を見ているのではないかと、香淑は本気で疑う。
これほど美しい青年は見たことがない。これは、現実から逃避したい願望が生み出した幻ではなかろうか。
切れ長の涼しい目元。すっと通った
「どうぞ」
雲の上を歩いているかのように、足元がふわふわする。動くたび、花嫁衣装がかすかな
両親から一方的に婚礼を命じられたため、香淑は今この時まで、榮晋の姿をまったく知らなかった。
今年で三十三歳になる香淑より十歳も年下だとは、聞いていた。
が、若い貴族の娘ではなく、家格だけは高いものの、困窮している家の出戻り女を金で買うも同然に
「よく戻ってきた、呂萩。遠いところ、苦労をかけたな」
耳に心地よい声が呂萩をねぎらう。
思わず
だが今は、意識を凝らして榮晋の様子をうかがう。
洗練された所作で階を下りてくる榮晋の様子からは、外見的な
ならば。
(何か問題があるとすれば中身……)
懸念が脳裏をよぎった瞬間、薄い紗を通して榮晋と視線が重なる。
まるで品定めをするかのような温度のない
首を絞められているわけでもないのに、息が詰まる。
己の身に刻まれた恐怖の記憶が
その間にも、榮晋はゆったりとした足取りで歩んでくる。
動け。初対面から不出来な花嫁と侮られるわけにはいかない。
香淑は意思を総動員し、
だが、身体が震えるのだけは、どうにも止められない。
榮晋が香淑の前で足を止める。うつむいた視界に榮晋の靴の先端が入った。
「
感情を感じさせぬ淡々とした声に、香淑はゆっくりと顔を上げた。
白皙の
月の光を
先ほどから
榮晋が、そっと香淑へ手を伸ばす。長い指先が顔の前の紗にふれた途端、抑えきれぬ恐怖が、香淑の身体をびくりと震わせた。
ひやり、と周囲の空気すら、重く、冷たく変じた気がする。
「……震えて、おるのか」
わかりきった事実を確認するかのような声。
香淑は榮晋の面輪から視線を引きはがすと、あわてて目を伏せた。
「は、初めてお目にかかった榮晋様のお姿があまりにご立派で……。喜びにうち震えているのでございます」
噓ではない。少なくとも、香淑はこれほど容姿の優れた青年を見た経験がない。
いっそのこと、そうだったらどれほどよいだろう。
うつむいたままの香淑の紗を、榮晋がゆっくりと持ち上げる。髪飾りの向こうへ紗をかけられて
上げられた紗に導かれるように見上げた香淑の視線がとらえたのは、驚いたように
だが、思いがけないものを見たかのように揺れたまなざしは瞬時に消え、すぐさま品物を検品するかのような冷徹な視線に取って代わる。
まるで、香淑が今しがた目にした戸惑いは、幻だったかのように。
「遠いところ、よく来てくれた。……歓迎しよう、花嫁殿」
出迎えも宴も、まして一片の情愛もないだろうに。
艶のある美声が空々しい歓迎の言葉を紡ぐのを、香淑はただただ震えながら聞いていた。
◇ ◇ ◇
「ご主人様のおなりをお待ちください」
呂萩の言葉に、香淑は無言で
ぱたりと戸を閉めて呂萩が出て行った途端、香淑は糸が切れた人形のように寝台に座り込む。
婚礼の時の誓いの盃で酔ったのだろうか。それとも、頭が現実を認めたくないのだろうか。思考が散って、まとまらない。
我知らずこぼれた吐息が、初夏の夜にしてはやけにひんやりとした空気を揺らす。
婚礼は、あっけないほどあっさりと終わった。
堂に祀られた丹家の祖先の
たった、それだけだった。
両親はすでに亡く、榮晋が丹家の当主だとは聞いていたが、他にひとりの身内の姿も見えず、堂にいたのは、香淑と榮晋、呂萩の三人だけだ。
あっという間の婚儀の後、香淑が呂萩に連れられて向かった先は、広い丹家の邸内でも、奥まった棟の一室だった。
これから、ここが香淑の部屋になるのだという。
必要最小限の調度品だけがそろえられた部屋で、香淑は呂萩によって花嫁衣装を脱がされ、代わりに絹でできた薄物の夜着を着せられた。
黙々とするべき仕事をこなした呂萩が去っていった扉に、香淑は視線を向けた。
嫁ぐのは四度目だ。
この後、『何』があるかなど、聞くまでもなくわかっている。
……香淑自身に経験はないが。
香淑は右手で衣の左の肩口を握りしめた。衣の上からではわからないが、そこには肩から胸にかけて走る刀傷がある。
着替えを手伝った呂萩は、年の功か、はたまた修練の
そもそも、三十三歳にもなる香淑が、いまだに男を知らぬとは、天地がひっくり返っても思うまい。
傷物よと、
香淑は先ほどの榮晋の冷ややかなまなざしを思い出し、身を震わせる。
大金を出して買った花嫁を検品するかのように観察していた榮晋。
花嫁衣装に浮かれ、他愛ない幻想を抱いていた己を
もしかしたら、今度こそ、平穏な結婚生活を営めるかもしれないと、そんな甘い期待を抱くなんて、なんと愚かだったのかと。
これから我が身がどうなるのだろうかと、恐怖に身を震わせる。
だが、部屋の隅に
◆ ◆ ◆
「花嫁様のお支度が整いました」
「そうか」
深々と腰を折り曲げて告げた呂萩の報告に、私室で卓に着き、見るともなしに報告の巻物を
冠だけは取り、ひとつに束ねた長い髪を下ろしているものの、榮晋はまだ婚礼衣装のままだ。
顔を上げた呂萩が、気遣わしげなまなざしで榮晋を見やる。
「……本当に、よろしいのでございますか?」
淡々とした声。だが、つきあいの長い榮晋は、呂萩の声の裏に隠された不安とためらいを感じとる。
「無論だ」
呂萩の迷いを断ち切るかのように、巻物を卓に置いた榮晋は決然と言い切る。
「いったい何のために大金を出してあの花嫁を買ったというのだ? いまさら、やめることなどできぬ」
呂萩は答えない。沈黙を埋めるかのように榮晋は無意識に
「噂の花嫁が、あのように一見清純そうな女だとは思わなかったが……」
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