夫君殺しの女狐は幸せを祈る

綾束乙/角川文庫 キャラクター文芸

第一章 この一行を見た者は、花嫁行列ではなく葬列だと思うでしょう

第一章 ①

 赤地に金糸のしゆうが施された華やかな花嫁衣装をまとい、四方を布のとばりで覆われた輿こしに座すこうしゆくは、向かう先のたんで待つまだ顔を合わせたこともない花婿・えいしんを想って、不安に満ちた吐息をこぼした。

 髪飾りから顔の前に垂らされた花嫁の顔を隠すための薄いしやが、吐息を受けてかすかに揺れる。

 香淑が纏うあざやかな赤地の衣装は、この国の伝統的な花嫁衣装だ。おしどりや桃、たんなど吉祥を表す文様を金糸で細やかに刺繡された衣装の見事さは、見る者の目を奪わずにはいられない。

 先ほど、初めて花嫁衣装を見せられた時は思わず心が浮き立ったのが、輿に乗って進む今は、遠い過去のようにさえ思える。

『こちらが、榮晋様が香淑様へとご用意された花嫁衣装でございます』

 と、榮晋に仕える老侍女のしゆうに宿で花嫁衣装を見せられた時は柄にもなく心が躍ったというのに。

 名家と呼ばれるで育った香淑ですら、れて感嘆の吐息をらしてしまうほどのきらびやかな衣装。これほど立派な花嫁衣装を贈ってくれたという花婿の真心に、自制せねばと思いつつも、香淑は思わず期待してしまったのだ。

 今度こそ。今度こそ幸せな結婚ができるのではないかと。

 富も地位も、特別なものは何もいらない。ただ、ごくふつうの夫婦として、互いを思いやりながら苦楽を分かち合ってとも白髪しらがになるまで添い遂げたい。

 それが、心の奥底に仕舞い込んだたったひとつの願いだ。

 榮晋からの花嫁衣装を見た時、ずっと心の奥底に閉じ込めてきた願いがようやくかなう日が来たのかと、思わず涙ぐみそうになるほどうれしかったというのに──。

 あの高揚ははかない幻に過ぎなかったのだと、香淑は唇をみしめる。

 帳の向こうでは、宵闇が潮が満ちるように細い路地を満たそうとしていた。

 日も暮れつつある今、寂れた路地を行く者は、香淑の輿以外に誰もいない。大通りから外れた裏路地は、まるで人払いでもされているかのように無人だ。先導する呂萩の軽い足音と、輿を担ぐ人足達の重なる足音以外に、物音ひとつさえない。

 ふたたび洩れそうになるためいきを押し殺そうと身じろぎすると、しゅす、とごうしやな絹の衣がかすかな音を奏でた。

 この衣装を榮晋の心づくしと思うなど、自分はなんと愚かだったのかと香淑はちようする。立派だったのは、花嫁衣装だけ。

(この一行を見た者はきっと、花嫁行列ではなく、葬列だと思うでしょうね……)

 まるで葬礼のように人目を避けて進む、花ひとつ飾られていない質素な輿。

 行く道に花をいて歩く乙女もいなければ、祝い歌を口ずさみ、はやし立てるおとこしゆうすら、ひとりもいない。

 むろん、輿を導く花婿の姿もなく。

 婚礼の日、花婿が花で飾られた輿で花嫁の家まで迎えにゆくのは、婚礼のしきたりのひとつだ。花嫁は花で飾られた輿に乗り、しんせきや侍女、集落の人々など、婚礼を祝う人々とともに、にぎやかに町中を練り歩いて花婿の家まで向かうのが、一定以上の身分を持つ者の慣例だ。

 五日前、他州にある香淑の実家に花嫁の迎えとして呂萩が遣わされてきた時、香淑は自分を慕ってくれる侍女達が『花嫁を出迎えるというのに、花婿様ご自身がいらっしゃらないなんて!』とふんがいするのを、押しとどめるだけの余裕があった。丹家は豪商として有名だ。その若き当主である榮晋が、いくら花嫁を迎えるためとはいえ、十日以上も家を空けることはできぬでしょう、と。

 香淑にはもったいないほどの豪奢な花嫁衣装を目にした時、花婿の迎えを期待していなかったと言えば、噓になる。丹家とさほど離れていない町中の宿までなら、ひょっとして迎えに来てくれるのではないかと。

 だが、実際は。

(まるで、嫁入り自体を隠すかのように……)

 隠すのも仕方があるまいと思う。

 ──香淑は四度目の嫁入りとなる、買われた花嫁なのだから。

 そう考えた途端、纏っている花嫁衣装が身を縛る鎖のように重みを増す。家格の高さしか取り柄のない花嫁なのだと、言外に告げられているようで。

 もし、榮晋が香淑の心を縛るためにこの豪奢な花嫁衣装を用意したというのなら、すでに目的は十二分に果たされている。没落しつつある香淑の実家では、こんな見事な花嫁衣装は、逆立ちしても用意できなかっただろう。

 ひたひたと押し寄せる宵闇の中で見る赤は、どこか毒々しい。血だまりを連想させる色が過去の記憶を呼び覚ましそうになり、香淑は思わず両腕で我が身をかき抱いた。

 まなうらに浮かびかけたさんな光景を、目を固く閉じて心の奥底へ封じ込める。

 揺れる輿から伝わったものではない震えが全身を満たし、香淑は奥歯を嚙みしめた。

 大丈夫、あれは過去のことだ。あんな惨劇は、もう二度と起こるはずがない。

 衣にしわが寄るのもいとわず胸元の生地を強く握りしめ、自分に言い聞かせながら浅い呼吸を繰り返す。

 固く目を閉じ、震える唇で紡ぐのは、すがるような祈り言葉だ。

 どうか、どうか、今度こそ幸せな結婚となりますように、と──。

 祈る香淑の耳に、不意に重く大きい音が届く。

 はっとして目を開けた香淑の視界に飛び込んできたのは、ゆっくりと左右に開かれる丹家の大きな門だ。

 重くきしむ音を立てながら開いていく門の向こうに見えるのは、花嫁の到来を待っているとは思えぬ、わずかにいしどうろうともるだけのこごる闇。

 まるで、怪物のあぎとさらされたかのように、身体の奥底から恐怖がい上がってくる。

 先ほどまでの恐怖が記憶と身体に刻みつけられた傷からだとすれば、これは本能の奥に宿る原初の恐怖だ。

 まるで、この闇の向こうに人にあらざるものがとぐろを巻いているかのような──。

 逃げ出してしまいたい、という欲望が、一瞬、香淑の意識を遠のかせる。

 と、薄いまくに覆われたように、ほんのわずかに恐怖がやわらぐ。同時に、逃げてどこへ行くのか、と理性が冷ややかにささやいた。

 そうだ。嫁入りの見返りとして援助を受ける実家はどうなる。両親はともかく、官職を得ようと奔走している年の離れた弟に、これ以上の苦労はさせたくない。富裕と有名な丹家に嫁げるなんてと、四度目の嫁入りをこといでくれた侍女達も、実家が傾けば困窮するに違いない。

 開いた門をくぐり、輿が奥に進んでいく。帳の向こうは深い闇で、敷地内の様子は欠片かけらもうかがえない。

 香淑は凝る闇を遮るかのように目を閉じ、深くふかく、息を吐く。

 ここまできて、帰ることなどできない。

 たとえ、花婿となる丹榮晋がどのような人物であろうとも。

 香淑が覚悟を決めたのと呼応するように、立派な堂の前で輿が止まる。さすがにここだけはいくつかの灯籠が配されていてほのかに明るい。だが、周りの庭木がうつそうと茂っているせいで、今にも消えてしまいそうな頼りなさを感じる。

 おそらく、ここが丹家の祖先がまつられている堂なのだろう。花婿の家の祖先の霊前で婚儀の報告をし、誓いのさかずきを交わすのが、婚礼の中で最も重要な儀式だ。

 その後、家族や親類縁者、招待客とともに、花嫁のお目見えも兼ねて祝宴を催すのが一般的な婚礼の流れだが、きっとうたげはないに違いないと香淑は直感的に悟る。

 しんと静まり返った丹家の邸内には、にぎやかな宴の気配は欠片たりとも感じられない。まるで、墓場のような静けさと重苦しさだ。

 輿が地面に下ろされ、担いでいた男達が無言で闇の向こうへと消えていく。

 が、香淑は気にしている余裕などなかった。

 帳の向こうに、堂の入口へと続くきざはしが見える。

 その上に立ち、輿を見下ろしている青年の姿も。

 帳を透かして香淑が様子をうかがうより早く、呂萩がするすると帳を上げる。

 同時に、上がった帳の間から吹き込んだ夜風が、髪飾りから顔の前に垂らされた紗をめくり上げた。

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