夫君殺しの女狐は幸せを祈る
綾束乙/角川文庫 キャラクター文芸
第一章 この一行を見た者は、花嫁行列ではなく葬列だと思うでしょう
第一章 ①
赤地に金糸の
髪飾りから顔の前に垂らされた花嫁の顔を隠すための薄い
香淑が纏うあざやかな赤地の衣装は、この国の伝統的な花嫁衣装だ。
先ほど、初めて花嫁衣装を見せられた時は思わず心が浮き立ったのが、輿に乗って進む今は、遠い過去のようにさえ思える。
『こちらが、榮晋様が香淑様へとご用意された花嫁衣装でございます』
と、榮晋に仕える老侍女の
名家と呼ばれる
今度こそ。今度こそ幸せな結婚ができるのではないかと。
富も地位も、特別なものは何もいらない。ただ、ごくふつうの夫婦として、互いを思いやりながら苦楽を分かち合って
それが、心の奥底に仕舞い込んだたったひとつの願いだ。
榮晋からの花嫁衣装を見た時、ずっと心の奥底に閉じ込めてきた願いがようやく
あの高揚は
帳の向こうでは、宵闇が潮が満ちるように細い路地を満たそうとしていた。
日も暮れつつある今、寂れた路地を行く者は、香淑の輿以外に誰もいない。大通りから外れた裏路地は、まるで人払いでもされているかのように無人だ。先導する呂萩の軽い足音と、輿を担ぐ人足達の重なる足音以外に、物音ひとつさえない。
ふたたび洩れそうになる
この衣装を榮晋の心づくしと思うなど、自分はなんと愚かだったのかと香淑は
(この一行を見た者はきっと、花嫁行列ではなく、葬列だと思うでしょうね……)
まるで葬礼のように人目を避けて進む、花ひとつ飾られていない質素な輿。
行く道に花を
むろん、輿を導く花婿の姿もなく。
婚礼の日、花婿が花で飾られた輿で花嫁の家まで迎えにゆくのは、婚礼のしきたりのひとつだ。花嫁は花で飾られた輿に乗り、
五日前、他州にある香淑の実家に花嫁の迎えとして呂萩が遣わされてきた時、香淑は自分を慕ってくれる侍女達が『花嫁を出迎えるというのに、花婿様ご自身がいらっしゃらないなんて!』と
香淑にはもったいないほどの豪奢な花嫁衣装を目にした時、花婿の迎えを期待していなかったと言えば、噓になる。丹家とさほど離れていない町中の宿までなら、ひょっとして迎えに来てくれるのではないかと。
だが、実際は。
(まるで、嫁入り自体を隠すかのように……)
隠すのも仕方があるまいと思う。
──香淑は四度目の嫁入りとなる、買われた花嫁なのだから。
そう考えた途端、纏っている花嫁衣装が身を縛る鎖のように重みを増す。家格の高さしか取り柄のない花嫁なのだと、言外に告げられているようで。
もし、榮晋が香淑の心を縛るためにこの豪奢な花嫁衣装を用意したというのなら、すでに目的は十二分に果たされている。没落しつつある香淑の実家では、こんな見事な花嫁衣装は、逆立ちしても用意できなかっただろう。
ひたひたと押し寄せる宵闇の中で見る赤は、どこか毒々しい。血だまりを連想させる色が過去の記憶を呼び覚ましそうになり、香淑は思わず両腕で我が身をかき抱いた。
まなうらに浮かびかけた
揺れる輿から伝わったものではない震えが全身を満たし、香淑は奥歯を嚙みしめた。
大丈夫、あれは過去のことだ。あんな惨劇は、もう二度と起こるはずがない。
衣にしわが寄るのも
固く目を閉じ、震える唇で紡ぐのは、
どうか、どうか、今度こそ幸せな結婚となりますように、と──。
祈る香淑の耳に、不意に重く大きい音が届く。
はっとして目を開けた香淑の視界に飛び込んできたのは、ゆっくりと左右に開かれる丹家の大きな門だ。
重く
まるで、怪物の
先ほどまでの恐怖が記憶と身体に刻みつけられた傷からだとすれば、これは本能の奥に宿る原初の恐怖だ。
まるで、この闇の向こうに人に
逃げ出してしまいたい、という欲望が、一瞬、香淑の意識を遠のかせる。
と、薄い
そうだ。嫁入りの見返りとして援助を受ける実家はどうなる。両親はともかく、官職を得ようと奔走している年の離れた弟に、これ以上の苦労はさせたくない。富裕と有名な丹家に嫁げるなんてと、四度目の嫁入りを
開いた門をくぐり、輿が奥に進んでいく。帳の向こうは深い闇で、敷地内の様子は
香淑は凝る闇を遮るかのように目を閉じ、深くふかく、息を吐く。
ここまできて、帰ることなどできない。
たとえ、花婿となる丹榮晋がどのような人物であろうとも。
香淑が覚悟を決めたのと呼応するように、立派な堂の前で輿が止まる。さすがにここだけはいくつかの灯籠が配されていてほのかに明るい。だが、周りの庭木が
おそらく、ここが丹家の祖先が
その後、家族や親類縁者、招待客とともに、花嫁のお目見えも兼ねて祝宴を催すのが一般的な婚礼の流れだが、きっと
しんと静まり返った丹家の邸内には、にぎやかな宴の気配は欠片たりとも感じられない。まるで、墓場のような静けさと重苦しさだ。
輿が地面に下ろされ、担いでいた男達が無言で闇の向こうへと消えていく。
が、香淑は気にしている余裕などなかった。
帳の向こうに、堂の入口へと続く
その上に立ち、輿を見下ろしている青年の姿も。
帳を透かして香淑が様子をうかがうより早く、呂萩がするすると帳を上げる。
同時に、上がった帳の間から吹き込んだ夜風が、髪飾りから顔の前に垂らされた紗をめくり上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます