第二章 ②

 実家にいた頃の香淑は、このまま自分は両親に蔑まれながら、屋敷の奥深くに軟禁同然に押し込められて年を経ていくのだろうと、諦めの境地に立っていた。

 ──四度目の縁談が降ってわくまでは。

 高額な結納金に、金策に困っていた両親は、一も二もなく結婚を了承した。

 嘉家の家格の高さは遠方からも求婚者を呼び寄せるのだと、浮かれに浮かれて。

 だが、香淑は両親のように楽観的に喜べなかった。嘉家よりも家格の高い家など、他にもある。ましてや、三十三歳にもなる香淑を金で求めるなど……。

 おもてにできぬ事情があると言っているも同然だ。

 結婚相手の榮晋が十歳も年下の青年だと知った時、香淑はきっと榮晋には好きな娘がいるのだろうと推測した。

 もしかしたら、幼子もいるのかもしれない。正妻に子どもが生まれなければ、あいしようの子を跡継ぎにするのもたやすいと考えたのかもしれないと。

 香淑の両親の性格を考えると、丹家の援助さえ受けられれば、香淑が嫁ぎ先でどんな目に遭ったとしても気にすまい。

 そうした推測を重ねた上で自分なりに覚悟を固めて、丹家へ嫁いできたのだ。

 榮晋の愛妾に好かれることは無理だろうが、せめて憎まれぬように控えめでいよう。理由はどうであれ、あの息苦しい実家から連れ出してくれた榮晋に、誠心誠意仕えよう。

 そして……今度こそ、添い遂げられますように、と。

 さすがに、榮晋に殺してほしいと願われるなんて、想像のらちがいすぎたが。

 だが、榮晋の目は、真剣この上なかった。本気で殺してほしいと願っていた。

 けれど……。

 粥を食べ終えた香淑は、匙を置いて吐息する。

 榮晋が何を望んでいるのか本当のところはわからないが、香淑に榮晋の願いをかなえることは不可能だ。ちまたで『夫君殺しの女狐』と噂されていても、本当の香淑は、何の力もないのだから。

 榮晋は噂が真実だと信じているのだろうか。昨夜見た榮晋は、妄想に浸るような夢想家には見えなかったのだが。

 すがりつく子どものような榮晋のまなざしを思い出すと、胸がつきんと痛み出す。

 榮晋は香淑の大切な弟とさほど年が変わらぬ若さだ。本来ならば、快活で生気にあふれている年頃であるはずなのに、榮晋がまとうのはどこか老成した諦めだ。

 榮晋には、丹家には、何が隠されているのだろう。

 窓からは初夏の明るい陽射しが降りそそいでいるというのに、まるで、深い森の中に迷い込んでしまったかのような心地がする。

 深く吐息した拍子に、きゆうかく揺蕩たゆたう香りをとらえる。枕の陰に隠した梔子くちなしの花だ。

(勝手に部屋を出たら、呂萩に𠮟られるかしら……?)

 ためらいは、だが、丹家の庭にも梔子の花が咲いているのか探したいという欲求の前に、あえなく崩れ去る。

 丹家の庭に梔子が咲いていたからといって、贈り主が榮晋とは限らない。

 けれど、このまま部屋の中にひとり閉じこもっている気にもなれなくて。

(もしとがめられたら、丹家の祖先の霊前に、朝のあいさつをしにきたのだと言おう……)

 意を決すると、香淑はそっと部屋の扉を押し開いた。


 不安に思いながら部屋から出た香淑だが、幸いにも使用人の誰とも出くわさなかった。

 丹家ほど規模の広い屋敷なら、数十人、場合によっては百人を超えるほどの使用人達を抱えているはずだが、屋敷の中は驚くほどひとがなかった。

 まるで、手入れだけは欠かされていないはいきよのようだ。

 うろ覚えの廊下を進み、なんとか昨夜の堂の前まで辿たどり着いたが、堂の扉はぴったりと閉められ、かぎまでかけられていた。

 仕方なく、香淑は堂の前のきざはしで丹家の先祖に丁寧に手を合わせる。

 婚家の祖霊を敬うのは、嫁の義務のひとつだ。己が丹家の嫁として扱われていない自覚はあるが、だからといって嫁としての義務をないがしろにしていいとは思わない。

 むしろ、いわれなき責めを受けぬためにも、非を指摘されぬようにふるまうべきだろう。

 いくら貞節を尽くしても、それが無駄になることがあると、知っていても。

 しばらくの間、手を合わせて頭を下げていた香淑は、祈り終えると顔を上げ、堂の周りを見回した。

 昨夜、闇の中で見た時は、恐ろしさを感じたほどだったが、朝の明るい陽射しの中で見る堂は、丹家の長い歴史を感じさせる古式ゆかしきたたずまいだ。昨夜、身体の奥底から震え出すほどの恐怖を感じた場所と同じだとは、とても思えない。

(さあ、梔子の木を探そう)

 そう思うだけで心が浮き立ちそうになる己に、香淑は苦笑する。

 これでは、縋るものを探しているのは榮晋ではなく、自分だ。

 今日はよく晴れてよい天気だ。初夏の心地よい風が、衣のそでや庭木の葉を揺らして過ぎてゆく。生気のない建物とは裏腹に、よく繁った庭の木々は陽光を照り返し、まもなく来る夏を待ちわびるように輝いている。

 人目につかぬうちに自室のそばまで戻ろうと、香淑は来た道を辿る。

 ある程度の規模を持つ貴族の邸宅なら、妻や娘が暮らす棟は奥まったところにあるのがふつうだが、それにしても、香淑の部屋がある棟はかなり奥に位置しているようだ。

 榮晋のそば近くにはべっているであろう愛妾と、顔を合わせないようにという配慮だろうか。

 棟と棟をつなぐ渡り廊下まで来たところで。

 がさりと庭木の一か所が大きく揺れた音に、香淑は足を止めた。

「誰か、いるの?」

 音の出所を探して首を巡らせた先で見つけたのは。

 茂った葉の間からのぞく薄青色の衣と、こちらを見上げ、驚いた顔をしている七歳ほどの少年だった。


    ◆ ◆ ◆


「おいおい。昨日、待望の花嫁を娶った若者とは思えねぇ仏頂面だな」

 からかい交じりのどうげんの声に、榮晋は不機嫌さを隠さず、卓の向かいに座る道士服を着た三十過ぎの男をにらみつけた。

 けいせんの町でも一、二を争う高級酒楼の一室。

 すっぽんので煮たかゆ、鴨の汁物、胡桃くるみとりにくいため物、うなぎの卵とじ、青菜を添えた豚の焼肉……と、朝食とは思えぬほど、卓の上には精がつく料理が数多く並べられている。それらに遠慮なくはしを伸ばし、舌鼓を打つ道玄に、榮晋はまゆを寄せて口を開いた。

「道玄。頼むから、今さら『あの話は噓だった』などと言ってくれるなよ?」

 もしそんなことを言い出したら、ただではおかないと決意している榮晋の心中を読んだかのように、道玄は「はんっ!」と逆に挑むように鼻を鳴らした。せいかんな顔の下半分を覆う無精ひげが盛大な息に揺れる。

「もしだます気なら、昨日の時点でとんずらしてるさ。のこのこと、朝っぱらからここまで来るかよ」

「……それはその通りだな」

 もっともな言い分に、榮晋は吐息し、右手の箸を卓に置く。

 食べるべきだと頭ではわかっているのだが、どうにも食欲が湧かない。

「しっかし……」

 道玄が困り顔でがしがしと頭をく。無精ひげをれば意外と整っているだろう精悍な顔に浮かんでいるのは、苦り切った表情だ。

「ちょっとした気晴らし程度になればと話しただけなんだが、まさか、本当に探し出してめとっちまうとはなぁ……。さすがに、そこまでするとは予想してなかったぜ」

 道玄のひげ面には後悔が色濃くにじんでいる。

 もともと、香淑の存在を榮晋に伝えたのは道玄だ。

『知ってるか、だん。三人の夫を次々と変死させた『夫君殺しの女狐』って噂されている未亡人がいるんだってよ。あやかしに取りかれてるのか、はたまた妖が本人に成り代わって化けてるのかはわかんねぇが……。しかも、噂が流れると同時に、それまで栄えていた家が一気に没落してるときてる。こりゃあ、興味深いと思わねぇか?』

 と。渋い顔で手酌で酒をついでいる道玄に、榮晋はとりなすように言う。

「万が一、花嫁が期待外れであったとしても、お前を責める気などないから安心──」

ちげぇよ!」

 だんっ! と道玄が打ちつけるように酒杯を卓に置く。

「オレの心配をして言ってんじゃねぇ! 噂が本当だったらどうする気だよ! 取り殺され──」

「それこそ、わたしの願いだ」

 榮晋は、冷ややかに道玄の声を遮る。息をんだ道玄に、榮晋はあでやかに微笑んだ。

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