第3話 軟骨の耳冷ゆる日よ

  肉うすき軟骨の耳冷ゆる日よいづこにわれの血縁あらむ (中条ふみ子) 

 

(1)


 瀬野が企画案の審査を終えてGMに決裁を回したのは9月末だった。彼の出した結論は、「拡大型医療モール」と「フットサル場の設営・管理」及び不動産ファンド関連の企画案については「採用が適当」。一方、「スモール・スマート・ヴィレッジ」つまり「五風十雨村」とその他については「不採用が適当」というものである。

 瀬野は「五風十雨村」予定地の現地調査まで行ったが、やはりどう考えても採算に乗る事業ではないと判断した。「五風十雨村」を不採用することに、西崎リーダーも異論はなかった。企画案を読んだ西崎リーダーは「飛躍し過ぎているわね」と言った。瀬野は嬉野フェローに代って企画案を弁護したのだが、それがリーダーの気分を害してしまったようだ。「あなたは厳正さが足りない」と言われた。

 ところで、瀬野は野口の統計学を用いた審査方法については考慮しなかった。野口は瀬野とともに「五風十雨村」の具体的な審査に加わる中で、自分の審査方法では駄目だということは理解していたようで、野口から特に異論は出なかった。


 ようやく企画案の審査の仕事を終えた瀬野は、暫くは早く帰宅して、汚れるままになっていた部屋の掃除をしたり、たまには夕飯を作ったりしたいと思っていた。ところが、瀬野が暇になる時期を見計らっていたように、同期の増田から飲みに行かないかという誘いのメールが届いた。

 そしてメールのあった2日後の金曜日、瀬野は6時30分頃に会社を出て、増田が予約したという店に出掛けた。10月に入ると朝夕は肌寒さを感じるようになった。朝は今まで通りワイシャツのまま出社したのだが、帰りは会社のロッカー内に暫く吊ったままになっていた上着を羽織って出た。

 金沢に来て3月経過したが、夜の街に出たのは3、4回ほどしかなかった。しかし大きな街ではないので、増田が予約したという店はすぐに見つかるだろうと思って歩いた。

 ところが、店はこの先にあると思って飲み屋街の細い路地を歩いて行ったものの、その店の看板は見当たらず、歩いているうちに車道まで出てしまった。少し戻って横の道から隣の路地に入って探したがそこでも見当たらず、仕方ないので再び戻って、もう一つ隣の路地を進んでようやく見つかったが、約束の7時を5分ほど過ぎてしまった。

 店に入ると増田は既に来ていて、隣の席と衝立で仕切られた4人ほどが座れる小上りで一人座りビールを飲んでいた。店はカウンターと小上りがある居酒屋だった。

 瀬野が遅刻を詫びると、増田は、

「別にいいよ。忙しいんだろ。俺とは違ってエリートだからな」と嫌味なことを言ったが、顔は笑っていた。

 二人は暫く、お互いの身の回りのことや他の同期の消息などについて、飲みながら話をしていた。異例の出世をした同期、結婚後直ぐに離婚した同期、上司のパワハラで鬱になり長期病休中という噂の同期のことなど、同期の話題には事欠かない。

 そのうち瀬野は、増田のところに着任の挨拶をしに行った時に、増田が「大変なところに来たな」と言ったのを思い出した。あの時、増田は瀬野のセクションのどういうところが大変だと言ったのだろうか。そのことはずっと気になっていた。

 ひょっとして、大変なことというのは成田薫の事件のことではなかったのだろうか。最近は成田のことばかりが気になっている瀬野には、そんなふうに思われてきた。もしかしたら、増田が成田薫の事件について何か知っているかも知れない。そう思った瀬野は、

「ところで、僕の前々任の成田って女性知っている」と聞いた。「僕は、最近になってその女性が会社で亡くなったのを知った。誰も話してくれないから、最近まで亡くなったとは知らなかった」

 増田は直ぐに応えず逡巡するような仕草をしたが、

「あまりいい話じゃないから、誰も話したくなかったんじゃないかな」と言った。「隠していた訳じゃないだろう」

 それから増田は、成田の方から誘われて何度か飲みに行ったことがあると言った。

「成田さんは美人で、それに頭も良かった。頭の良さは飲んで話をしているとよく分かったよ」

「でも成田薫は、自分から男を誘って飲みに行くような女だった、ってことか」

「俺は後輩だし、独身だし、誘い易かったんじゃないのかな。そこは、そんなに考えなくても」と増田は言い、付け加えるように「それに彼女は少し病んでいたしね」と言った。

「病んでいた?」

「うん、病んでいた、心が。酒の飲み方も普通じゃなかったな。一度ならず、ぐでんぐでんに酔ってしまって。何度かアパートまで送って行ったことがあるよ」と言った。

「ほう」

「でも、そのうちに俺は誘われなくなった。恐らく飲みに行く相手が別に出来たんだろうな」

「それって、誰かな」

「言っていいかどうか分からないが…、瀬野の前に座っている人」

「えっ、まさか」

 瀬野は増田が何を言い出すのかと思った。吉岡から成田薫の話を聞いた時に、そんなことは言っていなかっし、そんな素振りも見せなかった。

「でも吉岡さんには奥さんがいるだろう」

「奥さんがいたって、二人で飲みに行くことくらいはするだろう。単身で来ているのだし。それに彼は、ああ見えて女好きだから」

 吉岡が単身というのも、瀬野には飲み込めなかった。いつも薄いピンクのガーゼのハンカチで包んだ弁当を持ってきているが、じゃあ弁当は誰が作っているのだろう。

 増田が言うのには、成田薫が赴任して来る前、吉岡は、現在、営業事務のセクションにいる田中という女性と親しかった。一緒に飲んでいるところや、週末に二人で出かけているところを会社の者に目撃されていたらしい。その田中という女性は、今も時々吉岡のところに書類を持ってくるので瀬野も顔と名前くらいは知っていた。

「田中は中野の前任者だよ。つまり吉岡と田中は元上司と部下の関係」と増田は言った。「で、田中が中野と交代して横にいなくなり、同時に成田が今の瀬野の席に来たので、吉岡は、言い方は悪いが、成田に乗り換えた、否、取っ換えたんじゃないかな。俺はそう見ているんだけど」

「…」

「渉外で外出ばかりしている俺でさえ、そう見えたんだから、支社内の人は皆そう見ていたと思うよ」

 増田が自信あり気にそう言うのを聞いて、瀬野は吉岡のことがよく分からなくなった。人を観察する能力が自分には足りないと思うことはこれまでもあった。やはり吉岡は、僕がぼんやりと描いているイメージとは違うのだろうか。

 とは言え、吉岡のことは、彼の人間性がどうであろうと、まあどうでも良いことではある。僕が知りたいのは成田薫についてだ。成田薫がどうして会社で亡くなったのか、その答えを知りたいと言う気持ちがなかなか離れない。

 時計をみると9時を回っていた。注文した肴も酒も尽きていた。

 瀬野は増田にもう少し成田薫について知っていることを聞きたいと思った。そこで増田をスナック山法師に誘うことにした。瀬野が行ったことのあるスナックは山法師だけだったし、吉岡は自分のキープしているボトルを使っても良いと瀬野に言っていた。人の酒を飲むつもりはないのだが、知らない店よりは入り易い。

 居酒屋から外に出ると頬に当たる風が少し寒く感じた。外気は17、8度くらいだろう。二人は狭い路地を歩き片町の大通りに出ると、スクランブル交差点で信号待ちをした。今夜も交差点の四方の岸は大勢のサラリーマンや学生らで溢れている。

 信号が変わり交差点を対角方向に渡ると、渡った角にある細長いビルに入った。1階のコンビニ横の薄暗い通路を奥まで進んで、突き当りのエレベータのボタンを押した。

 4階で停まっていたエレベータが、かたんかたんと音を立てて1階まで降りて来てドアが開くと、瀬野は増田に先に乗るように促した。

 6階で降りるとこの前と同じように、どの店からなのか、しわがれ声で歌っている演歌が廊下まで響いている。廊下を右に歩いて、山法師のドアを開けると、

「いらっしゃい。まあ、瀬野さん来て下さったの」とママが迎えた。ママは瀬野の名前を憶えていた。はるかも既に出勤していた。はるかは瀬野と増田をボックス席に案内した。まだ早い時間なので他に客はいない。

「今日は吉岡さんと一緒じゃないの」とはるかが瀬野に聞いた。吉岡のボトルを出してきたので、瀬野は自分のボトルを入れることにした。また近いうちに来ることもあるだろう。

「今日は別。吉岡さんは、最近ここに来た」と瀬野が尋ねた。

「いや、来ていない。仕事が忙しいんじゃないの」

「そうかも知れないな」と瀬野。

 すると、どういうつもりなのか、今度は増田がはるかに、

「吉岡さんは、いつも一人で来るの」と聞いたのだ。

「以前は、…いや、お客様のことは言えないわ」

「成田って女性と来たことあるでしょ」と増田がまた聞いた。

「お客様のことは言えないのよ」とはるかは言った。確かに先ほどの増田の話が事実なら、吉岡と成田薫が一緒に山法師に来たこともあるのかも知れないと瀬野は思った。

 その後3人で水割りを飲みながら、暫く他愛のない話をしていた。はるかは、今日の昼間に友達の運転するロータスで紅葉をみようと安房峠まで行って来たと言った。「まだ少し早かったけど、でも大分色づいていて凄く綺麗だった。紅葉を見ながら峠を越えて白骨温泉まで行っちゃった。そこで温泉に入って、さっき帰って来たところよ」

「へえ、紅葉と温泉か。羨ましいなあ。で、友達って彼?」と瀬野が聞くと、

「女友達よ」とはるか。

「ロータスのスポーツカーを乗り回す女性っているの」

「いるわよ。真っ赤なロータスエリーゼに乗っているわ」

 水割りを何杯か飲んでいるうちに増田は酔いが回ってきたようだった。唐突に、独り言を言うように「成田さんは綺麗だったなあ」と言った。「ちょっと年は食っていたけど、気品があった」

「何で死んだんだろうね」と瀬野が思わず反応した。

「そりあ、あいつさ。あいつが原因に決まっている」。あいつとは、吉岡のことを言っているらしい。瀬野は慌てて、

「その話は分かった。ここまでにしておこう」と増田の言葉を遮った。はるかがいる前で吉岡の話が出てくるのは拙いだろう。

 ところが、増田の話を聞いていたはるかは、思い掛けないことを言い出した。

「その女性、去年亡くなられた会社の方でしょ。そのお亡くなりになる少し前に私、通勤の途中で偶然見掛けたのよ、犀川大橋の片町側の橋詰のところで。物思いに耽っているような感じだったので、ちょっと声が掛け辛くて素通りしちゃった。その後、お亡くなりになったと聞いたので、お気の毒に思えて」

「それって、いつのこと」と瀬野が聞いた。

「昨年8月のお盆過ぎ。土曜日の夜だったと思う。その日は遅出だったから、夜の9時頃かな」

「成田さんは、その日は店に来なかったの」

「来なかった。… それ以上聞かないで。ママに叱られるから」

「ああ、そうだね」


 スナック山法師を出ると、増田はかなり酔っているようだった。ところが今度は増田が、

「もう1軒行くから付き合え」と言ってきかなかった。「俺の好きなディープな店があるんだよ」

 時計をみると11時を回っていた。瀬野はそろそろ帰りたいと思ったが、増田を放って帰る訳にもいかず、仕方ないので増田に付いて行くことにした。

 瀬野と増田は再び片町のスクランブル交差点を渡り、また細い路地に入って行った。随分歩いたところに、横に伸びる更に狭い路地があった。その両サイドは間口の狭い古い店が隙間なく軒を連ねていた。

 増田が、そのうちの1軒の手垢で汚れた白っぽい暖簾を掻き上げ、相当年季が入っているように見える古い引き戸を開けた。

 店に充満していた肉の油の焼ける匂いが煙と一緒に吹き出してきた。増田に続いて瀬野も店の中に入ったが、カウンターに座った客の背中が戸口の近くまで迫っていて、身体の置きどころがない。店の中を見回したが、何を見ても煤けて黒っぽい。

 カウンターだけの店で、そのカウンターは満席だった。しかし、しばらく立って待っていると1組が席を立った。瀬野と増田は彼らの立った跡の狭い隙間に滑り込むようにして座った。

「ミスジ、ハツ、ミノ、ビール」と増田が若い店主に言うと、店主は「あいよ」と応えて、直ぐにビール瓶とコップが出てきた。

 増田は、ビールを二人のコップに注いで、自分の注いだビールを直ぐにコップの半分ほどを飲んだ。肉も出てきたので、火の点いたガスコンロの上に並べて焼き始めた。肉から落ちた油が燃えて火柱が上がる。見る見る肉は焼けて香ばしい匂いが立った。瀬野はさほど腹は減っていなかったが、その匂いに釣られて焼けた肉を一切れ、二切れと摘まんでは口に運んだ。増田はコップのビールが無くなると自分で注いで飲んだ。

「俺は本気で成田さんを支えたいと思っていた」と増田が話し出したが、声が聞き取りにくかった。他の客の話声や肉の焼ける音のせいだけでなく、少し増田の呂律が回らなくなっているようだった。「精神的にかなりやられていたな。何が原因なのか俺には分からないが、昼間の会社での彼女とは全然違っていた。薬に頼っていたな、それからアルコールにも。薬とアルコールがないと眠れないと言っていた。俺は、彼女がもっと健康な生活ができるように、何か力になれないかと思っていた」

 瀬野は増田が成田薫に好意を持っていたらしいということは、さっきからの話しぶりで薄々感じていたが、そこまで思っていたと聞いて少し驚いた。

「しかし俺は頭が悪いしブサメンだし、彼女からみたら俺なんて最初から相手じゃなかったんだろうな。で、彼女は吉岡に好意を持ったんだと思う」。

 そう言うと増田は、コップに残っていたビールを飲み干し、また自分で瓶からコップにビールを注いだが、コップに半分ほどにしかならなかった。増田は店主に追加でビールを注文して、コップ1杯まで注いで、それをまた半分ほど飲んだ。

「彼女を殺したのは、吉岡だよ」

「おい、そんな言い方はやめろよ」

「いや、殺したのは吉岡だ。吉岡が見殺しにしたんだ」と増田の声が大きくなった。

 不穏当な言葉に反応して、カウンターに並んで座っている隣の客が増田の顔を覗くような仕草をした。瀬野が「少し声を抑えろよ」と増田を諫めると、増田は黙って自分のコップにビールを注いでまた飲んだ

 時計をみると12時を過ぎていた。瀬野は、そろそろ店を出ようと増田を促したが、二人が実際に店を出るのにそれから30分ほど要した。

 店を出た後の増田は、気は正気のようだが足取りが少しおぼつかなかった。息も少し粗い。瀬野は近くに酔いを醒ませるような場所がないかと見渡したが、見えるのは居酒屋とスナックの灯だけで、喫茶店のようなところは見当たらない。仕方がないので少し歩いて、近くにあった植え込みの縁石に増田を座らせ、その横に瀬野も座った。

 瀬野はすっかり酔いが醒めて、頬に当たる夜風が冷たい。縁石に乗せた尻が冷えていく。真夜中だというのに、近くの大通りを走る車の音とともに人々の喧騒が聞こえている。犀川の方向から緩い風が吹いている。二人は20分ほどその風に当たっていた。そうしているうちに増田の息遣いも整ってきたように瀬野は思った。そこで、

「あれ、どういう意味。見殺しにしたって」と瀬野は増田に聞いた。

 増田は何か言おうとしてくしゃみをした。少し冷えすぎたのかも知れない。縁石に腰を掛けている二人の前を酔客達が一人、二人と通り過ぎて行く。

「俺の推理じゃ、吉岡は元の浮気相手から責められて、成田さんとの関係を切ったのではないかと思う。成田さんは吉岡に裏切られたと思って絶望したんだよ。成田さんの精神はそれくらいに危機的だった」と増田は言った。

「浮気相手って、営業事務の田中さんのことか」

「そう。田中さんの様子はかなりおかしかったからな。俺は毎日見ていたから分かる」

「それくらいで、成田薫は死ぬかな」

「でも、実際に死んだんだから」

 吉岡の裏切りが成田の死の原因?果たしてそんなことがあり得るだろうか。

 飲み屋街の方から何か話しながら歩いてきた学生らしい男女が、縁石の二人をみると急に声を潜めて怪しげなもの前を通るように足早に通り過ぎた。そして通り過ぎた先で何か言い合いながら笑っているのが聞こえる。あんな草臥れたサラリーマンにだけはなりたくないなと小声で言って二人で笑っているのだろう。瀬野は少し身震いした。身体がすっかり冷えてしまったようだ。

 増田が立ち上がり、大通りの方に歩き出した。「大丈夫か」と瀬野が声を掛けると、「大丈夫」と言って歩いて行った。ふらついてはいない。大通りに出てタクシーで帰るつもりだろう。放っておいても大丈夫そうに見えた。

 時間をみると午前1時を回っていた。瀬野はアパートまで歩いて帰るつもりで、増田とは反対方向に歩きだした。タクシー代を節約するつもりだった。

 瀬野は飲み屋街から狭い路地に入り、そこを歩いて行くと別のまた飲み屋街に出くわした。その横からまた狭い路地に入った。瀬野の心算では最短距離で香林坊まで行くはずだったが、また途中で道が分からなくなった。

 とぼとぼ歩いている瀬野の脳裏には、嬉野と吉岡、増田、田中、そして知っているはずのない成田の顔が順に、或いは組み合わされて何度も繰り返し現れては消えていった。しかし、成田の死の核心に結び付くような閃きは何もなかった。

 それにしても吉岡のイメージが、増田の話を聞いてすっかり変わったような気がする。僕は吉岡も自分と同様の堅物かと思っていたが、そうではないらしい。妻がいて、元の部下の田中といい仲で、成田薫にも手を出していた?俄かには信じられないが、増田がそう言うのであれば間違いないのだろう。僕には人を見る目がないらしい。

 酒はすっかり抜けており、眼は昼間より冴えてはいたが、角を回った先々で方向感覚が少しずつ狂い、路地の迷路から抜け出せずにいた。

 狭い路地の前方で、路地の片側を這うように続いている側溝を街灯がぼんやりと照らしていた。側溝は途中から開渠になっている。その側溝に何か黒っぽい小物が落ちている。黒い毛皮のポーチのようなものだ。

 瀬野が近づいていくと、何とも言いようのない嫌な匂いが漂ってきた。瀬野は正体を確かめようと立ち止まり、側溝の中を覗いた。

 すると突然、強烈な腐臭が瀬野の鼻を襲った。と同時に胃から熱い酸が込み上げてきて、思わず瀬野はむせ返った。有形物も食道を駆け上がってきたが、口内に至る手前のところで何とか止めて飲み戻した。

 大きな鼠だった。4、50センチ有りそうな細いしなやかな尾を身体に巻き付けている。死後かなり時間が経っているのだろう、腐敗してガスが腹に溜まって鼠は風船のように膨れ上がっている。どこかで毒を食らい、不覚にもこんなところで果てたのだろう。

 また吐き気がして、瀬野はその場にへたり込みそうになった。しかし、なんとか上体を起こし、逃げるように大急ぎで歩き始めた。あまりにおぞましい、不潔なものを見てしまった。触れたりはしていないのに、その腐り始めた柔らかな腹に触れてしまったような感触が手にはあった。どこかで手を洗いたいと思ったが、洗えるようなところはどこにもない。

 瀬野はとにかく早くこの路地を抜けようと急いだ。そして迷路のような路地を幾つか渡り歩いて、ようやくそこを抜けると香林坊109の裏手だった。


 <増田の後悔>

 俺は大通りまで来ると、路肩に駐車中のタクシーの1台に乗り込んだ。町名を告げるとタクシーは走り出す。

 瀬野は歩いて帰るつもりらしい。相変わらずケチケチしているが、男も結婚するとみんなあんな風になるものかな。なら俺は、暫く結婚は考えないでおこう。

 タクシーは数百メートル走ってスクランブル交差点で止まった。人々が車路に溢れ出てくる。その人々の中に瀬野がいないかと探すが、見当たらない。

 今日は少し言い過ぎたかも知れない。瀬野にあることないことを吹き込んでしまった。本当は吉岡のことをそこまで悪く言う必要はなかったのだが、酒のせいで抑えが利かなくなってしまった。吉岡に対する些細な恨みがそうさせた、というのは弁解にもならないだろうか。

 些細な恨みの一つは、俺の大事なクライアントの信用格付を下げて与信枠を減額したことだ。そのクライアントは、確かにリスクは小さくはないが、と言って当面問題になりそうな先でもない。俺は僅かでも成績は伸ばしたいから、何とか現状の与信枠を維持したかった。だから社内メールで嬉野に格付を下げないでと頼んだのだが、吉岡はそれを完全に無視した。

 彼には分かるまいが、これは俺のような、小規模なクライアントばかりを担当させられて、支社のメインとなるような先を持っていない営業マンにとっては、かなり痛いことなのだ。

 もう一つの恨みは成田のことである。いやこれは恨みというよりも妬みといった方が正確なのかも知れない。俺は、嬉野が俺から成田を奪ったように感じている。

 成田に誘われた時は正直驚いたが、彼女のような綺麗な女性に誘われるのは嬉しかった。彼女が俺を誘ったのは、自分の後輩だから誘い易かっただけだろうけど。

 総合職の女性が役付きでもないのに本社から異動で支社に赴任して来るというのは、当社ではまだ余り例がない。成田はどうして金沢に来ることになったのだろうか。そこが謎めいていて、以前から彼女に興味を持っていた。

 俺は、最初は女性が安心できそうなダイニングバーに成田を連れて行った。しかし彼女は思いのほか珍味や日本酒に興味がありそうだったので、次回からクライアントに教えてもらった小料理屋や居酒屋に場所を変えた。彼女は地元の珍しい肴や酒を喜んでくれた。

 彼女の飲む酒の量は初めの頃は少なかった。しかし何度か一緒に飲みに行くうちに、酒量は見る見る増えていった。彼女は自分でも言っていたように酒が強い方ではない。それなのに飲み過ぎて、しばしば前後不覚になってしまった。だから止むを得ずタクシーで彼女をアパートの玄関先まで送って行くことも何度かあった。そんな時、彼女の身体に情欲を感じなかったのかと問われれば、正直、感じた。しかし後々面倒なことになるのは嫌だったので、彼女の身体に手を触れたことはない。

 彼女が酔いつぶれた翌日、ちょっと心配になって管理グループの部屋を覗きに行ったが、彼女は遅刻しないで出社し、朝からしっかり仕事をしているように見えた。呼気にはアルコールが残っていても不思議ではないが、特に周囲に気付かれている様子でもなかった。しかし正面に座っている吉岡だけは、彼女の飲酒に気付いていたのではないだろうか。

 彼女は何か心の問題を抱えていた。夜眠れない、寝付けないとよく言っていた。クリニックで睡眠薬を貰っているが、だんだん効かなくなってきたとも言っていた。俺が彼女の健康状態を心配して、酒を飲まない方が良いのではないかと何度も言ったが、彼女は、飲まないと余計に眠れないのだと言って飲むのを止めなかった。

 彼女には大きなストレスがあったのだろう。男と同様に、或いはそれ以上に厳しい仕事をしていればストレスも溜まる。しかし彼女から仕事についての愚痴を聞いたことは一度もなかった。

 彼女が酒を飲んだ時に時々口走っていたのは、母親との確執みたいなものだった。詳しいことは聞いていないが、母親と上手くいっていないという話をしていた。彼女の幼い頃に両親は離婚し、彼女は母親に育てられたそうだが、母親に対してはいろいろ不満があったようだ。母親は父親と会うことを許さなかったとも言っていた。それでも成田は高校時代に母親に隠れて会いに行ったことがあるそうだ。その父親は既に亡くなっていると言っていた。

 昼間は全く問題なく正常に振舞っているので、誰も気付いていなかっただろうが、彼女の健康状態はかなり深刻だったのではないだろうか。

 時々妙なことを口走ることもあった。彼女が言うには、夜間に会社で仕事をしていると、パソコンの画面を小さな虫が飛び回って気が散るらしい。

「小さな虫?窓から入ってきた?コバエとかショウジョウバエとか?」

「いや、もっと小さな虫よ。種類は分からないけれど。それを追い払おうとしても画面にまとわりついて、なかなか離れないのよ」と彼女は言った。「でね、その虫が追い払った拍子に左耳の中に入ってしまったの。耳の中で羽音がぶぉーんと鳴り出して、仕事どころじゃなくなってしまった。で、アパートに帰って寝ようとしても、羽音が耳の中に響いて一睡もできなかったわ」

「虫、耳から出てきたの」

「分からない。耳をほじっても虫は出て来なかった。でも朝になったら、虫の羽音は聞こえなくなった。」

「耳鼻科で診てもらった方がいいのじゃ」

「医者に行くのは面倒くさいからね」 

 俺が話相手になることで、少しでもストレスが和らぐのなら、それでも良いのではないかと思った。だから彼女の話を熱心に聞いていたつもりだ。俺は女性が好むような話はできなかった。映画も見ないし、あまり本も読まない。旅行やグルメにもそれほど興味はない。競馬の話ならあるが、競馬をしない人には面白くないだろう。だから一緒に飲んで彼女の話を聞いていることくらいしか、俺に出来ることはなかったのだ。

 ところが、暫くすると彼女は俺を飲みに誘わなくなり、そして俺が誘っても誘いに乗って来なくなった。精神的な支えになろうとしていた俺は肩透かしを食わされたように感じたが、内心ほっとした面もあった。俺が彼女を支えきれる自信がなかったし、このまま二人で飲んでばかりいると、そのうちヤバいことになるかも知れないという漠然とした不安もあったからだ。

 しかし、彼女の態度が変わった原因が吉岡の存在だとすれば、それは、それで全く面白くない話だ。俺は吉岡が気に食わなかった。クライアントの与信枠を削られた恨みだけではない。何かインテリっぽくて、いつも俺ら現場の人間を見下しているようなところが気に食わなかった。

 それにしても、成田は何故死んだのだろうか。過労による自殺だとされたのは知っているが、暫くでも付き合った俺からみると、確かに過労はあったとは思うが、死に至った原因がそれだけとは思えない。というのも、7、8月は多忙で残業時間も嵩んでいたのだろうが、転勤2年目だったから、仕事のサイクルは分かっていたはずだし、仕事の要領も掴んでいただろうと思うだが。

 瀬野には、吉岡が原因に違いないと言ってしまったが、本当はそれほど確信をもっている訳ではない。ただ、成田が頼っていた吉岡が急に態度を変えたことで、成田の精神バランスが崩れて、絶望が彼女を死に導いたということも、想像できないことではない。

 しかし自殺ではなくて、事故という可能性もあるのではないか。彼女は死亡する前に睡眠薬だったか、安定剤だったか、そういう薬を飲んでいたと聞いている。意識が朦朧として半ば無意識にバルコニーに出て行って、脚立に上り誤って落下したのかも知れない。

 それとも誰かが背後から彼女を抱きかかえ突き落としたとか?いや、まさかそんなことはあり得ないだろう。

 俺がもっとしっかり成田を見守っていれば、彼女は死なずに済んだのかも知れない。成田の事件を知った直後に俺はそう思った。俺にも彼女の死の責任の一端があるような気がしてならなかった。その思いは今も引き摺っていて思い出すと心が疼く。

 成田薫のことを考えているうちに、タクシーは自宅の前まで来ていた。



(2)


 翌日の土曜日、瀬野が目を覚ますと時計は11時を回っていた。昨夜、増田と別れてからアパートに着いたのが2時頃だったが、布団に入ってもなかなか寝付けなかった。結局、寝付いたのは、恐らく朝の4時を回っていた。

 起きたものの、あまり食欲はなかった。しかし何も食べない訳にもいかないので、飯はどうしようかと暫く考えていた。結局、近くのコンビニで蕎麦を買った。蕎麦は、本当はざる蕎麦が欲しかったのだが、昼時間を過ぎていたためなのか、それとも季節が変わってしまったためなのか、冷たい蕎麦が一つもなかった。仕方ないので、レンジで温めて食べる汁蕎麦を買い、それで朝食兼昼食を済ませた。

 午後は久しぶりに部屋の掃除をした。浴室も掃除をしたが、そこは1月近く掃除をしていなかった。

 FRPの湯舟は、湯だまりの境界線辺りにねっとりした垢が付着し、洗い場のタイルの目地も黒く変色していた。瀬野は湯舟と洗い場のタイルに洗剤を掛けて、柄の付いたブラシで擦って汚れを落とした。

 洗い場の中央にスリット穴の開いた排水口がある。その丸い蓋を取ると、穴に被せられた真鍮の碗の周りに髪の毛が束になって巻き付いていた。自分の髪の毛だ。その巻き付いた髪を割り箸を使って少しずつ解いてゴミ袋に入れた。

 その時、ふと引っ越ししてきて直ぐに浴室を掃除した時のことを思い出した。あの時も排水口の中の碗には髪の毛がぎっしり巻き付いていた。瀬野は前の入居者が退去時にバスルームの掃除をしていないことに憤りを感じた。髪は固く巻き付いていて容易に碗から離れそうになかった。仕方ないので、碗に巻き付いた長い髪の毛を指で少しずつ解きながら始末したのだが、2、3本の細い長い髪が指に纏わりついてなかなか離れなかった。その時の指の感触が瀬野に戻ってきた。

 あれは成田薫の髪の毛だったと、今更ではあるが気が付いた。彼女は、そのうちに掃除をするつもりでいたのだろうが、出来なかったのだ。彼女の人生は突然中断されて、やり掛けていたことも、明日やろうと思っていたことも、そのままこの世に残されたのだ。

 夜、珍しく妻の氷見子の方から電話がかかってきた。

「実は連絡なんだけど、11月17日の土曜日、名古屋別院で父の三回忌法要をすることになったの。帰って来れそう」

「分かった。お義父さんの法要なら帰るよ」

「そう、それは良かった。実はあなたが、あまりにも家に帰ってこないので、お母さんが、金沢の女に取り憑かれているんじゃないかって心配しているのよ。金沢には綺麗な女が多いからって。お母さんは昔、父の女性関係で苦労したことがあるから心配なのよ」

「えっ、女に取り憑かれる?浮気しているってか?」

 氷見子の話が思い掛けなかったので面喰ったが、次第に腹立たしくなった。

「浮気もお金がなけりゃ出来ないよ。僕の給料は君の持っている通帳に全額振り込まれているし、僕の使ったお金はカードでの引出し記録とクレジットカードの利用明細を見れば一目瞭然だろ。どこに余分なお金があるって言うの?」

「私は疑っていないわ。言っちゃなんだけど、堅物の唐変木に魅かれる女は余程の変わり者でなきゃ、いないだろうからね」

「唐変木?お前、夫に向かって何てことを…」と瀬野は言ったが、既に腹立たしさは消え、顔が緩んで笑えてきた。



(3)


 翌々日の月曜日は、新規プロジェクトの審査に長期間追われていた結果、なおざりになっていた報告物の処理に取り掛かった。もっとも新規プロジェクト審査期間中も、野口が精力的に報告物を処理していてくれたので、思いのほか早く済みそうだった。瀬野は残っていた報告物を野口と手分けして片付けていったが、月曜だけでは終わりそうになかった。

 5時を過ぎて職員が退室し始め、5時半頃には瀬野を残して野口も帰っていった。6時を過ぎる頃になると、審査チームに残っているのは吉岡と瀬野だけになった。吉岡はいつものように顧客の与信審査の仕事をしているようだった

 その吉岡も7時前になると書類を片付けて帰り支度を始めた。机の抽から例の淡いピンクのハンカチに包んだ弁当箱を取り出すと、下の抽斗から取り出した黒い革の手提げバッグの中に仕舞い込んだ。

 吉岡に成田薫との関係を聞き出すのなら今だと瀬野は思った。しかしどうやって切り出せば良いのか。

「奥様の愛妻弁当ですか。羨ましい」と吉岡に話しかけた。事務室内には管理チームの職員が二人ほど残っていたが、そこから二人の声は聞き取れないだろう。

「えっ、愛妻弁当?ああ、これか」と吉岡は机の上に置いたバッグの中の弁当箱を見た。「これは愛妻弁当なんかじゃないよ。同居している姉が作ってくれたものだよ」

 増田が言っていたとおり、吉岡は単身らしい。

「話したことなかったが、僕も単身だよ。金沢に赴任してきてから、姉のマンションに同居している」

 吉岡はそう言うと、手提げバッグを手にして椅子から立ち上がった。

「吉岡さん、実は少し話したいことがあるんですが。時間ないですか」と瀬野が思い切って言った。

「僕に話?長くならなきゃ、別に構わないけど」と吉岡は言って座り直した。「で、話って?」

 ところが瀬野は口籠ってしまった。一体何から話せば良いのだろう。何故、成田薫の死に自分が拘っているのか、そこから話さないと理解してもらえそうにないが、瀬野自身が拘る理由が分かっていない。

「実は、僕のアパートの前の住人が成田職員だったんです」と話し始めた。岡村はそんなことは知っているという顔をした。「で、近くのリサイクルショップでカーテンを買ったら、実はそれが成田職員も使っていたカーテンだったんです。ゴブラン織りの場違いなほど立派なカーテンだったので、間違いありません」

「へえ、カーテンがね。そんなこともあるのか」と吉岡は少し感慨深げに言った。

「それは偶然そうなっただけだと、頭では分かっているんですが、何か成田職員に憑かれているような気分になって…。で、彼女の死の真相が知りたいという気持ちが強くなってきたんですよ…。変ですか」

 吉岡は一瞬答えに窮したようだったが、

「いや、変じゃない。僕も真相が分かるものなら知りたいと思っている」と言った。「僕の知っていることと言えば、この前話したことだけだから」

 吉岡は自分と成田薫との関係に言及は一切しない。この前と同じだ。同僚女性との関係という機微に触れることを臆面もなく質して良いものなのかどうか、瀬野は暫く迷っていた。だがここまで来たら聞くしかないだろうと覚悟を決めた。

「実は、吉岡さんが成田職員とプライベートで付き合っていたという噂を耳にしまして」と瀬野は言い放った。

 吉岡は天井を見上げて暫く黙った。頭の中で何かを咀嚼しているようにも見える。だが暫くすると、いつもの冷静な吉岡が戻ってきた。そして、

「どんな噂話かは知らないが、あまり正確ではなさそうだな」と言った。「彼女と付き合っていたっていうのは少し違う。僕は彼女をケアしていたつもりだよ。彼女は、仕事は完璧にこなしていたが、精神的にはかなり不安定だったからね」

「ケア?ですか」。瀬野には意外な言葉だった。

「そう。彼女は…依存症とでも言うのかな。薬や酒、それに男への依存が強い女性だった。誰かがケアしないと壊れてしまいそうに思えた。ところが、当時のチームリーダーは部下のことに全く無関心で、彼女の変化に少しも気付いていなかった。だから、別に頼まれた訳じゃないが、僕が彼女をケアしていたってことだよ」

「ケアですか」とまた繰り返した。

「そう。それなのに、僕は、職場で変な目で見られていたのかも知れんな。まあ、それも薄々感じてはいたが。世間ってヤツは本当にいい加減だから」と憤ったように言った。そして、「これまで瀬野君にその話をしなかったのも、変に誤解されると困ると思ったからで、隠していた訳じゃない。僕と彼女の間に男女の関係はないよ」と言った。

「そうでしたか」

 吉岡の言うことを額面通り受け取って良いものかどうか瀬野には分からなかったが、取り敢えず吉岡の話をそのまま聞いておくしかなかった。今ここで営業事務の田中職員との関係について質すのは憚られたし、その他に、さらに先を聞き出すための何のネタも持っていなかったからだ。そこで、瀬野は話題を少し変えた。

「吉岡さんは以前、成田職員がストーカーに付き纏われて困っていたという話をしていましたよね」

「ああ、そんな話したかな」

「僕は偶然、成田職員のブログを見つけたんですよ。そのブログの中にもストーカーの話が出てくるんですよ」

 瀬野は、そのブログから彼女が「ストーカーでは」と疑っている人物を自分なりに推理したこと、その人物に直接会ってストーカーの事実を質したが、その人物は激しい口調で否定したことなどを話した。

 もちろん瀬野は嬉野の名前は伏せておいたが、吉岡は恐らく瀬野が誰のことを言っているのかが分かっただろう。

「でも本当のところはよく分かりませんでした。その人物がストーカーだったのかどうなのか。それに、仮にその人物がストーカーだったとして、成田職員の死に関係しているかどうかということも」

「成田のブログは、僕も彼女の死後に見つけて読んだよ」と吉岡は言った。そして、「彼女がブログの中でストーカーではないかと疑っていた人物だが、その人は少なくとも盗撮に関しては無関係ではないかと僕は思う」と意外なことを言った。

「それは、どうしてですか」

「ブログには、どんな写真か書いてあっただろ。僕も彼女に写真を見せられたが、彼女の近くに僕もいたはずなのに、どの写真も僕は映っていない。変じゃないか」

「言われれば、確かに奇妙ですね」

「何故だろうかと考えたんだが、…単純に僕を写したくなかったんだろうか。それとも、僕もその写真を見ることを想定して、僕に何かのメッセージを伝えたかったのだろうかと」

 この吉岡の踏み込んだ発言に、瀬野は思い切って

「つまり写真を撮ったのは女性ってことですか。吉岡さんを慕っているような」と聞いた。

「うん、まあ、その可能性はあるだろうな」

「その女性に心当たりはあるんですか」

「ないことはないが。ただ写真のことは聞いていないよ。そんなこと、簡単に聞けないじゃないか」

 瀬野は、吉岡の心当たりの女性というのは、恐らく田中職員なのだろうと思った。もし吉岡の推理どおり、写真を撮って投函したのが田中職員であるとすれば、田中職員もまた、成田薫の死に関りを持っている可能性があるということになりそうだ。

 瀬野は、今日、吉岡に聞くことが出来るのはこの辺りまでだと思った。明日も向かい合って座わらなければならない相手に、これ以上聞くのは無理だろう。

 暫くの沈黙の後、吉岡は「もう、いいかな」と言った。吉岡は冷静を装っていたが、聞かれたくないことを聞かれたことに内心憤慨しているようにも見えた。瀬野は吉岡を長時間引き留めたことを詫びた。

 吉岡はそれには答えず、手提げバッグを持って立ち上がると、瀬野を残して部屋を出て行った。管理チームの職員二人も既に部屋にはいなかった。吉岡と話していて気付かないうちに出て行ったようだ。

 瀬野は、まだ椅子に座ったままで考えを巡らしていた。

 もし、田中職員が盗撮者だとすれば、どう考えればいいだろう。田中職員は成田薫と親しくしている吉岡に向けて盗撮写真で警告した。ところが、それでも二人の仲が変わらないので、田中職員が何らかの方法で成田薫を死に至らしめた。そんな想像も出来そうだった。しかし同僚を死に至らしめて、その後も平然とした顔で吉岡のところまで書類を持ってきたり、雑談したりできるものだろうか。

 真相を知ろうとするのなら、田中職員にも質す必要があるが、それはなかなか困難だろう。彼女の顔を知っているだけで、今まで話しかけたことも、話しかけられたこともない。仕事上の接点もほとんどない。仮に彼女と話す機会を得たとしても、何をどのように聞き出せばよいというのか。彼女が「あなたは何の権利があって、私にそんなことを聞くのか」と問われれば、僕には返す言葉がない。

 成田薫の死の真相を探るというのは、もともと無理な話なのではないだろうか。


 <吉岡の罪>


 管理グループの事務室を出たのは7時を回っていた。結局、瀬野とは1時間近く話をしていたことになる。僕は会社を出ると南町の自宅マンションに向かって歩いていたが、頬に当たる風が冷たい。思えば何時の間にか秋も半ばを過ぎていて、確かに朝夕は寒く感じる。そろそろコートを出す季節かも知れない。

 瀬野が成田薫の死について関心を持っていることは知っていたし、何れは彼女と僕との関係も尋ねられるだろうとは思っていた。彼の言い振りだと、僕が成田薫の死に関わっているようにも聞き取れる。否、明らかにそう疑って僕に関係を聞いてきたのだろう。「僕は全く関係ない」と言いたいところだが、なかなかそうも言い切れないところが苦しいところだ。

 成田薫の死は未だ自分の中でも消化し切れていない。

 彼女が支社に赴任してきて僕の前に座った時は、ただの勝ち気で生意気そうな女にしか見えなかったが、毎日の仕事ぶりを見ていて、彼女の生真面目さに少し心を打たれた。彼女は昼食時も僅かな時間で食事を済ませてきて、また机に向かっている日々だった。そこである日、断わられるのを覚悟の上で、一緒に昼飯を食べないかと彼女を誘った。すると彼女は意外にも応じたのだ。その時が彼女と話をする最初の機会になり、それからは会社で少しずつ話をするようになった。

 彼女が不眠で悩んでいることも、そのうちに聞いた。なぜ不眠症になったのか、彼女に聞いても言わなかったが、彼女自身もはっきりとした原因は分かっていなかったのだろう。とは言え彼女が何らかの大きなストレスを抱えていたのは間違いないだろう。

 一昨年の9月初旬頃、妙なことを言い出したこともあった。彼女が言うには、夜間に会社で仕事をしていると、パソコンの画面を小さな虫が飛び回り始める。ある日、その虫を追い払おうとしたら、そいつが左耳の中に入ってしまい、耳の中で羽音がずっと響いていたというのだ。

 僕は彼女の幻覚ではないかと最初は疑った。しかし今にして思うと、そうではなかったのかも知れない。虫というのは、梨の皮や芯から湧き出たショウジョウバエではなかっただろうか。GMが富山に出張した際に名産の呉羽梨を1箱買って、管理グループの職員全員に切り分けして配ったことがあった。その際、切り分けの作業をした職員が、梨の皮や芯を出がらしのお茶殻を捨てるバケツに捨てたのだ。それがそのまま何日も放置されていたのは僕も知っている。だからそのバケツから蛆が湧いて、ハエが事務室内まで飛んできたとしても不思議ではない。

 ところで一昨年の10月頃になると、仕事が一段落して少し時間の余裕が出てきたのだろう、成田は早い時間に会社を退出するようになった。暫く経ったある朝、成田の息が酒臭いということがあった。僕はちょうど彼女の向かいの席だから息の匂いがするのだ。それで前の晩に深酒をしたのは分かったが、その時は何も詮索しなかった。彼女にも、たまには酒が飲みたいこともあるだろうというくらいに思っていた。彼女は普段通りに仕事をしていたので、チーム内で彼女の前夜の飲酒に気付いた者は他にいなかっただろう。

 しかし、その後、同じように酒臭い息をしている朝があったので、僕は少し心配になった。もちろん彼女の健康のことが心配になったのである。

「大丈夫なの。薬も飲んでいるんだろ」と、他の者に聞かれないように小声で聞いた。

「ああ、済みません。気を付けてはいるんですが、夕べはつい調子に乗ってしまって」と小さな声で答えた。

 その日の夕刻、チームのおおかたの社員が部屋を出て行った後に成田はまだ残っていた。僕も少し仕事があったので暫く残っていた。

 二人以外にチームの者が誰も居なくなってから、彼女に、

「最近誰と飲んでいるの」と聞いた。すると彼女はあっさりと、

「営業グループの増田君と」と答えた。

「若い者同士で話をしたり飲んだり、面白いんだろうな」と皮肉ではなく、実際にそう思って言った。20代の頃は、僕も同世代の仲間と飲みにいくのは楽しかった。成田は30を超えているとは言え、見た目は若々しいし、気持ちも若いのだろう。

「でも健康には気を付けた方がいいよ。お母さんの関係が一段落したらまた東京に戻るんだろ。それなら金沢にいるうちに健康な体にして戻らないといけない」

「ええ、でも、飲まないと眠れないんです」と成田は言った。

 その時、彼女の顔をみると少し涙ぐんでいるように見えたので、僕は狼狽した。彼女を非難した積りはなかったのだが、僕の言い方がきつかったのだろうか。

 それにしても、睡眠薬とアルコールと両方飲まないと眠れないというのは、かなり深刻な状況に思える。いま通っているクリニックで症状が改善しないのなら、別の病院で診てもらうべきではないだろうか。だが、そんなことは、彼女について未だほとんど知らない僕が、簡単に言えることでもない。その代わりに、

「じぁあ、今度一度僕と飲みにいかない」と彼女を誘った。これは成田をケアしたいと思ったからだ。その時は、彼女の話を聞いた上で、支社の契約しているメンタルヘルスアドバイザーの精神科医に診察を受けるよう慫慂することも考えていた。本来、そういう仕事はチームリーダーの仕事なのだが、部下の身上把握に全く無関心な今のリーダーでは無理だろうとも思っていた。この段階での僕の思いは、飽くまで彼女の健康を心配した気遣いの積りだったのだが。

 歩きながら成田との出会いを思い出していたら、何時の間にかマンションに着いていた。


 そのマンションの僕の部屋には明りがついている。ドアを開けると、田中美也子が部屋にいた。

「お帰り。晩御飯のおかず作っておいたわよ」

「済まない。いつも有難う」

 リビングに行くと、テーブルに二人分の茶碗が置いてあった。今夜は彼女もここで僕と飯を食べて帰るつもりらしい。

 僕のマンションは瀬野に話したとおり姉の所有だが、ここは投資用物件であり、姉が住んでいる訳ではない。姉は夫の遺した浦和の家で子供とともに暮らしていて、姉がここに来たのは、物件を確認するために一度来ただけである。

 マンションには実際には僕一人で暮らしており、姉の代りではないが、田中が頻繁に出入りしている。彼女のアパートは、このマンションのすぐ近くにある。僕が4年前に金沢に赴任してきて、暫くして二人は今のような関係になってしまった。

 僕と美也子は元の上司と部下の関係だが、馬が合うとでも言うのか、不思議に出会った時から話が弾み、業務時間外でも二人でいることが苦痛にならなかった。彼女は元夫と離婚し、僕が赴任する2、3年前に中途採用で金沢支社に入っていた女性だ。

 テーブルには質素ながら幾種類ものおかずが乗っている。彼女は会社を出ると直ぐにここに来て、これだけの料理を作ったのだろう。僕は芋焼酎のお湯割りを作り、美也子も飲むというので、同じものを作った。

 そして二人で夕食を始めた。僕がお湯割りを1杯飲んでいるうちに、美也子がお替わりを求め、それを作ってやるとまた飲み干した。そして、最近彼女が酒を飲むと何時もそうなるのだが、僕をいびり始めた。

「浩二さん、全部あなたのせいよ。分かってる?私が未だに苦しまなければならないのもあなたのせい。全部あなたのせい」と高い声で言うとすすり泣き始めた。

「ああ、分かっているよ。僕がみんな悪いんだ」と僕は言う。

 僕は彼女の罵りを静かに受け止めるしかない。僕に負い目があるのは間違いない。僕は、美也子がいるにも拘わらず、成田薫とも事実上付き合っていた。これは美也子を傷付けたのに違いない。

 しかし今夜は、彼女の「未だに苦しんでいる」という言葉が妙に気になった。それは単に僕が成田薫との付き合っていたことを思い出すと「未だに苦しい」という意味なのだろうか。

 その意味かも知れないが、そればかりではないようにも感じている。成田を盗撮して、その写真を成田のアパートに投げ入れたのは、恐らく美也子だろう。成田が僕に見せることを想定して、僕に警告のメッセージを発したつもりでいたのではないか。

 僕は、あの時これは美也子の仕業かも知れないと思った。だから、成田との関係について何とかしなければならないと考えてはいたのだか、僕が優柔不断な態度をとり続けているうちに事態は急変して、成田の事件が起きてしまったのである。

 僕が煮え切らない態度を続けている間に、成田と美也子とに何らかの接触があったのではないだろうか。例えば、成田が盗撮写真を美也子の仕業だと気付いて、美也子にそれを問い質さなかったとは断言できない。

 そうした場合を考えると、美也子が成田の死に何かの関わりを持っているという疑念が拭いきれなくなる。以前から気になっていたのだが、事件当夜の美也子の消息が不明である。美也子は、ほぼ毎日このマンションに来て、たとえ僕がいなくても、翌日の弁当のおかずを作って冷蔵庫に入れてあるのだが、あの晩に限ってはマンションに来た形跡がない。

「未だ苦しんでいる」という美也子の言葉には、何か後悔の気持ちのようなものが含まれているような気がしてならない。

 それは考え過ぎだろうか。今日の帰りに瀬野と話をしたことで、センシティブになり過ぎているのだろうか。本当のことは美也子に質せばはっきりするのだろうが、未だに盗撮写真について聞く勇気は僕にはなかった。

 食事が済んだ後ソファに移って、しばらく二人でぼんやりとテレビを見ていた。テレビでは、お笑いタレントやジャニーズのタレントが回答者として出ているクイズ番組が流れていた。僕が美也子の肩に手を回すと、彼女は、

「今夜は止めとこうよ」と言って僕の手を解いた。「浩二さんも、今夜はそんな気分じゃないでしょ」

 美也子に見抜かれていた。確かに僕もその気分ではなかった。瀬野と話したことや美也子への疑いが頭の中を支配していた。

 美也子はソファから立ち上がると、「明日のお弁当のおかず作っておいたよ。冷蔵庫にあるからね」とだけ言い残して、マンションを出て行った。


 僕が成田を始めて誘ったのは、卯辰山の中腹にある割烹だった。落ち着いた小部屋があり、そこなら会社の者に見られる心配がなかった。案内された小部屋からは、街灯に照らされた浅野川の川岸が眼下に見えた。僕は、ふと並木町に古井由吉が住んでいたことを思い出して「雪の下の蟹」は、ここから見える並木町が舞台だという話をすると、彼女は古井由吉を知っていたようで興味深げに聞き入った。

 僕にはそれが嬉しい驚きだった。いままで日本文学に興味のある若い人に出会ったことがなかったからだ。彼女は小川国夫や庄野順3の話にも着いてきた。こんな女性に出会ったのは初めてだった。

 成田は知的な女性だった。彼女の顔には気品のようなものが感じられたが、それは彼女の知性に裏打ちされていたものだろう。成田と時々会っているうちに、僕は年甲斐もなく彼女に魅了され、虜になっていった。

 それからは、会社の者に見られる心配のないところを選んで、彼女を誘って食事をした。ある土曜日には、松本の実家に帰って来ると美也子に偽って、成田と越前海岸までドライブに出掛けたこともある。二人の飲み会は、成田が多忙を極めていた昨年の8月にも、時間を工面して続けていた。

 成田と食事する時には、彼女が飲み過ぎないように気を付けていたし、遅くならない時間に成田をアパートまで送っていった。成田は、僕と付き合い始めてから、不眠症の症状が少しずつ改善しているようだった。1時は薬なしで眠れるようになったとも言っていた。僕はもともと彼女を少しでもケアしたいという気持ちで付き合い始めたので、彼女の不眠症の改善傾向は僕にとっても嬉しいことだった。

 しかしそれも、あの写真が成田のアパートに投函されるまでのことだった。

「私、ストーカーされている」。成田がそう言って、バッグから白い封筒を取り出したのは、チームの他の職員が部屋を出た後だった。

 その封筒を受け取って中を覗くと、何枚かの写真が入っている。

「盗撮されていたの」と成田は小さく呟いた。

 封筒から写真を撮り出すと全部で4枚あった。写真を手に取って1枚ずつ見ると、どの写真にも成田の後姿又は斜め後姿が写っていた。よく見ると写真の彼女の服装や背景が全部異なっている。つまり1日1枚ずつ4日に亘って撮った写真ということになる。誰だろう、こんなことをするのは。

「昨夜は大丈夫だった?」と成田が写真を見た時のことを気遣って声を掛けると、

「ショックだった。でも今はもう大丈夫」と答えた。

 僕は写真を見ているうちに重大なことにようやく気が付いた。背景に見覚えがある。どの写真も成田と飲んでいた夜に撮られた写真だ。だがその時、成田の横にいたはずの僕の姿は1枚も写っていない。これはどういうことか。

 写真に写る成田の姿が不自然に大きかったり、片側に寄っていたりしているところをみると、パソコンを操作して成田の姿だけをプリントしたものだろう。何故そんな細工をするのか暫く考えていたが、見出した答えは、これらの写真は僕が見ることを想定して、僕に向けて何らかのメッセージを発しているということだった。

 美也子の顔が脳裏をよぎった。写真をアパートに投げ込んだのは美也子ではないか。そんなことをする女には思えないのだが、さりとて、わざわざこんな細工をする人物が彼女以外にいるだろうか。

 美也子に気付かれないように注意深く立ち回っていたつもりだったが、帰宅が遅くなる日が増えていたので、いつもマンションに出入りしている美也子が僕の女性関係を疑うことはあり得た。それにしても、幾晩にも亘って僕と成田を尾行していたのだろうか。尾行されているとは、全く思い及ばなかった。

 僕は成田に美也子との関係を知られたくはなかった。また、盗撮したのが美也子ではないかというのは、今のところ疑いでしかなかった。だから目の前の成田に、美也子のことを口にすることはしなかった。

 成田は、写真の送り主について、私には一人心当たりがあると言った。

「えっ、誰のこと」

「はっきり言えないけど、あの人じゃないかと」

 成田が「心当たり」と言っている人物が誰なのか、すぐには分からなかったが、それが美也子ではないことだけは分かった。

「私、その人に直接聞いてみるつもり。もし、その人が素直に認めないのなら警察に連絡しようかと思う」

「危ないよ。僕も一緒に会おうか」

「大丈夫よ。吉岡さんも知っている人だから」

 僕も知っている人物?僕も知っている人物だとすれば、社内ということになる。誰のことだろうかと暫く考えていたが、やがて一人の人物に思い当たった。最近よく会社で成田の所に来ているあの男。

 僕はあの時、成田を止めるべきだったと思う。彼ではないと言うべきだった。美也子との関係を告白して、盗撮したのは恐らく美也子だと告げるべきだった。

 しかし、僕は成田を止めなかった。それは告白する勇気がなかったからだ。まあ社内の人物なら、ストーカーに間違われたことに憤慨するだろうが、それで成田に危険が及ぶことはないだろうと心の中で言い訳をしていた。

 成田が嬉野フェローにどのように話をしたのかは知らない。翌日、彼女から結果を聞くと、ぽつんと、「嬉野フェローが盗撮者でないことが分かった」とだけ言った。

 ところで、この盗撮事件は、成田に大きな変化をもたらした。彼女は塞ぎ込んでしまい、僕が声を掛けても以前のような明快な声は返ってこなくなった。そのうち僕は成田から疎まれているようになった。彼女は盗撮の真犯人に気付いたのかも知れない。盗撮者が美也子だと気付いたのであれば、僕を疎ましくなるのは当然だろう。

 後は推測だが、成田の不眠症はまた酷くなったのではないだろうか。社内でも、時々ぼんやりしているように見えた。

 僕が知っているのは、そこまでだ。それから彼女の死までに、それほどの期間はなかった。僕が彼女の死を知ったのは翌朝のことだ。



(4)


 12月の始めに金沢では初雪があった。瀬野の出勤途上の路面が一瞬白くなったが、直ぐにみぞれに変わった。僕の育った旭川では11月には雪が積もるが、金沢で雪が降り積もるのは、もう少し先のようだ。

 12月になると、瀬野は既存事業の再評価関係の仕事で忙しくなった。不採算等の理由でスクラップする事業を年度末までに確定しなければならないからだ。もちろん支社では決められないので、これも調査結果を本社に上申して判断を仰ぐのだが。

 スクラップの候補に挙がった事業については、将来キャッシュフローを計算して、最低売却価格を見積もらねばならない。もちろんキャッシュフローがマイナスの事業も多いし、最低売却価格以上で売れるとも限らないのだが、スクラップの検討上それが必要なのである。

 この作業には野口の関数の知識が役に立っていた。瀬野が事業毎にその内容を事細かに説明すると、野口は次々にその事業固有のキャッシュインフロー、アウトフローを計算する関数を組み立てていく。瀬野と野口の間には、新規事業の企画案審査を通じて、盤石とはいかないまでも、ある程度の信頼関係が出来ている。野口は瀬野の指示には素直に従うようになっていた。12月後半から瀬野の残業時間がまた増え始めたが、今度は野口も残業する日が多くなった。

 二人が残業していると、吉岡が薄いピンクのハンカチに包んだ弁当箱を手提げバッグに仕舞い、「じゃあ、先に帰るよ」と言って出て行った。

 今では、あの弁当を誰が作っているのかが分かる。それは田中美也子に違いない。ところで、その田中は暫く前に突然会社を辞めた。同期の増田の話によれば、田中は宅建士の資格が使える仕事がしたいと言って辞めたそうだ。彼女は以前にも不動産屋に勤めていたらしいが、また別の先が見つかったのだろうか。彼女の仕事ぶりは営業担当者には好評だったらしく、彼女の退職を残念がる職員も多いらしい。

 ところで、退職した職員は田中だけではなかった。嬉野フェローも契約期間を1年残して会社を辞めたのだ。フェローはもともと嘱託なので、彼が辞めたことについての職員の反応は薄い。しかし瀬野は、嬉野の辞職理由がスモール・スマート・ヴィレッジの企画の不採用ではないかと思えて、少し気が重かった。

 瀬野は事業再評価の作業に没頭する毎日だったので、成田薫の死のことを更に調べる余裕はなかった。

 考えてみれば、成田薫は瀬野の前々任だったというだけで、会ったことすらないのである。なぜ彼女の死に関心を持ち続けているのか、瀬野自身よく分かっていなかった。成田薫との関係を質したために、嬉野の気分を害したし、吉岡との関係も少し気まずくした。成田薫の死を詮索しても、何もいいことはない。もう成田薫のことを考えるのをやめようかと瀬野は思う。

 ところが会社が年末の休暇に入る数日前に、とんでもないことが起きた。

 その日の朝、瀬野が会社に着くと、既に西崎リーダーが出勤していて、新聞を無言で見ていた。彼女の背後からは、犬猿の仲と言われている主計の山本リーダーが、覗き込むように同じ新聞記事を見ていた。何があったのだろうか。

 瀬野のアパートは新聞を取っていなかったし、朝はテレビも見ないで出てきた。新聞に何が書いてあるのだろうかと思いながら、自分の仕事に取り掛かろうとしていた。そこに吉岡が出勤してきた。彼は持っていた地方紙を自分の机に広げ、瀬野にも見るように促した。

 社会面には大きな見出しが躍っていた。

「女性をビルから突き落として殺害した容疑で男を逮捕」と書かれていた。

 記事には、

「事件は、昨年の8月30日に起きた。金沢市〇町の〇〇ビル7階のバルコニーから女性が転落し死亡したのだ。警察は周囲の状況から、当初、事件性はないものと判断していた。ところが最近になって、現場近くに男がいたのを目撃したとの情報が警察に寄せられたことから、警察は男を呼び事情を聴いていた。そしてこのほど殺人の容疑が固まったとして、その男を逮捕した。男は大東亜開発の元職員 嬉野均で…。警察は被疑者の認否を明らかにしていない」

 本当なのか。瀬野は大きな衝撃を受けた。嬉野氏が犯人だって?嬉野氏が成田薫の死に関わっているのではと一時疑ってはいたが、最近は、そうでもないのかなと思い直していた。関与を疑っていた時も、彼が直接手を掛けたとまでは思っていなかったのだ。

 それにしても、「目撃者」とはいったい誰のことなのだろう。そんな人物がいたというのも、また驚きだ。目撃したというのなら、その人物は当社の職員に違いない。それにしても今まで何故、黙っていたのだろう。今になって何故、嬉野フェローを告発したのだろう。

 混乱している瀬野に吉岡が小さな声で

「目撃したのは、田中美也子だよ」と言った。瀬野は再び衝撃が走った。えっ、田中美也子?彼女がどうして成田薫の事件の現場にいたのだろう。真夜中の会社の中に。

「僕も後で知ったんだ。今ここで詳しくは話せないが、この前、瀬野君と話をした日の翌日、例の写真について田中に問い質したんだ。恐らくそれが、彼女が警察に情報提供する引き金になったんだと思う」

 吉岡が何を言っているのか、瀬野にはよく飲み込めなかった。しかし彼の話を聞き返すのは無理だった。見回すと、既に中野と野口も着席して、二人でひそひそと何か言葉を交わしている。この記事の話に違いない。

 西崎リーダーが椅子から立ち上がって話し出した。

「皆さんにお願いします。故成田職員と嬉野元フェローについて、社外の人から何か聞かれても、決して自分勝手に話をしないようにして下さい。マスコミ関係者などから、もし事情を聴かれたら、総務チームの宮脇リーダーが窓口なので、彼を通して欲しいと伝えて下さい」


 <美也子の告発>


「で、あなたは事件の夜どこにいたんですか」と刑事が聞いた。石原とかいう名前の若い刑事だ。

「7階の女子更衣室にいました」

「夜中の11時過ぎに一人で更衣室にいたんですか」

「はい。成田薫さんが更衣室に来るのを待っていたんです」

「成田さんを待っていた?そんな所で待ち合わせでも?まあ、いいでしょ。で、何を見たのですか」


 私はあの日、午後7時過ぎに6階の営業グループの部屋を出ると、そのまま7階の女子更衣室に行った。この時間になると、会社に残っている女性社員の数は限られている。

 更衣室は誰かが使用中で鍵が開いていた。中に入ると、西津という企画グループの女性が着替えを終わったところだった。

「後で内側からロックして帰るから、鍵は総務に返しておいて」と私は西津に言った。

 西津が鍵を持って出て行くと、私は更衣室のドアをロックして、大急ぎで着替えを済ませた。そして、ドアの近くにあるスチール製の清掃用具入れの中に入り身を隠した。まだ社内に残っている女性職員が更衣室に入ってきた時に見つかってはならないからだ。

 清掃用具入れは、小柄な私が隠れるのには概ね十分な大きさだったが、モップの匂いが鼻を突いた。その嫌な匂いが髪や衣服に移りはしないかと気になる。それにやはり狭いので蒸し暑い。いつまでここに閉じ籠ってなければならないだろうかと思うと不安になった。

 そう思いながらも、私は2時間我慢してその中にいた。その間に3、4人女性が更衣室に入って出て行ったが、誰も私が清掃具入れにいることに気が付かなかったようだ。これだけ経てば、私と成田以外の女性職員はもう会社に残っていないだろう。それでももし更衣室に入って来る他の女性がいたら、その時は今日の計画を諦めるしかない。私はそう思って8時過ぎにようやく清掃用具入れから出た。

 それからが長い時間だった。更衣室奥の窓際に小さな談話スペースがあり、丸いテーブルが二つあった。そのテーブルをそれぞれ4脚の椅子が囲んでいる。私はその一つに腰を下ろして、ひたすら成田が仕事を終えて更衣室に入って来るのを待った。

 何故こんなバカなことをしているのかという自分への問いかけが幾度も首をもたげたが、その度にいやこれが最善の方法だと自分に言い聞かせようとした。いま成田の部屋に行けば、彼女の仕事を邪魔することになるので、そんなことはしたくない。彼女が今日の仕事を終えて更衣室に来るまで待った方が良い。

 彼女がドアを開けて、そこに私がいたら、さぞかし驚くだろう。驚かせた方が効果的だ。彼女にそれくらいのことはしてもいいだろう。私の苦悩に比べれば、驚くことくらい安いものだろう。

 そうは思うのだが、その後直ぐに逡巡する気持ちが巡って来る。成田に何か落ち度があったという訳ではない。本当に悪いヤツは彼女に手を出した吉岡の方だ。私が今しようとしている行為で、もし彼女が余りに大きなショックを受けたら、その結果とんでもない事態になったらどうしよう。彼女は私よりもずっとデリケートで傷付き易い女性かも知れない。やはり彼女がこの部屋に入ってきたら、私は何事もなかったかのように挨拶をして部屋から出ていこうかしら。

 いや、それは悪手だと思い直す。はっきりと成田に吉岡のことを諦めさせるのは、彼女のためでもあるのだ。この先、成田が吉岡と付き合っていても、どうせ碌なことにはならない。彼女なら、少しくらい年を食っていても、彼女のあの綺麗な顔なら、きっと他のもっといい男が見つかるはずだ。

 成田には、「吉岡から手を引きなさい」とはっきり言おう。「吉岡は、あなたのようなエリートが付き合うような男ではないの」と。彼は松本に妻がいるのに、金沢で私と半ば同棲している。見た目は誠実そうだが中身はクズなのだ。「クズの男には私のような女で十分。あなたには似合わない」と言ってやればいい。


 吉岡の変化に気付いたのは昨年の5月頃だった。

 吉岡はたまに仕事で帰りが遅くなることはあったが、そういう時は、彼のマンションで待っている私に小まめにメールで連絡が来ていた。ところが、連絡もないままに帰宅が遅くなる日が時々みられるようになった。そういう日は、私は吉岡の帰りを待ちかねて自分のアパートに帰っていたのだが、ある日、私がちょうどマンションから出ようとした時に吉岡が帰って来た。彼は酒の匂いがした。

「飲んでいたの」と聞くと、吉岡は、

「ああ、リーダーが異動で変わっただろう。新しいリーダーは酒が好きで、2日置きに付き合わされて困っているんだよ」と言った。

 しかし私は吉岡のその言い訳が何故か信用できなかった。彼は何かを隠している。それは「女」ではないだろうか。帰宅が遅くなる日が重なるのにつれて、その疑いが確信へと変わっていった。すると居ても立ってもいられなくなった。

 私は、ある日、思い切った行動に出ることにした。会社から出てくる吉岡を待ち伏せして彼を尾行したのだ。

 吉岡が駅前からタクシーに乗ったので、私もまるで浮気調査の探偵のようにタクシーに乗って後を追った。吉岡の乗ったタクシーは市街地の渋滞を抜けて、白山市との市境に近いところまで走って行き、1軒だけぽつんと明りの点いた割烹らしい小さな店の前で停まった。そしてタクシーから降りた吉岡は警戒する様子もなく、店の中に入って行った。

 そこは私が一度も来たことのない通りだった。今自分のいる場所がいったいどの辺りなのか分からなかった。私は後で確認しようと思い、スマホにグーグルの地図を表示してスクショを撮った。

 そうしているうちに、別のタクシーが店の前に到着した。そのタクシーから出てきた女を見た時の驚きとショックは生涯忘れないだろう。吉岡と向かいの机に座っている成田薫だったからだ。成田を疑ったことはあった。でも吉岡が、同じチームの女に、私に続けて二人目にも手を出すというのは、常識的には考えられないと思っていた。しかし私の常識は見事に裏切られた。吉岡は職場で対面にいる女にも手を出したのだ。2年前、横に座っていた私に手を出した時と同じように。

 怒りとも虚しさとも言えない思いが込み上げてきた。それから約2時間後に二人が店から出てくるまでの間、私がどのように時間を過ごしていたのか記憶がない。

 二人が出てきた時、私はスマホのフラッシュをオフにして、震える手で彼らが連れ立って歩く姿を撮影した。

 アパートに帰ると涙が溢れてきて泣き崩れた。吉岡には妻がいるのはもちろん知っているが、それでも私は彼と出会うことによって、前夫との不幸な日々を忘れ、つかのま心の充実を味わっているように思っていた。その生活がこれほど早く崩れようとは。

 しばらく呆然としていたが、落ち着いてくると再び怒りが込み上げてきた。そのうちにスマホで撮った写真のことを思い出した。

 私は画像をパソコンに取り込んでプリントアウトしてみた。

 二人が並んでいる写真を見るのは切な過ぎた。自分があまりにも惨めに思えてくる。私はふと思いついて、吉岡の姿を外し成田の姿だけを拡大した写真をもう一度プリントアウトした。

 この加工した写真を手に取って眺めてみると妙に不気味な感じがした。もし成田にこの写真を見せれば、残酷な判じ物を見せられているような、底知れぬ悪意が込められているような、そんな気分になるのではないだろうか。

 成田に突きつけてやろうと思った。彼女は大いに怯えるのではないか。

 その後、私は何度か同じように吉岡の後をつけて、二人の密会の現場を撮影した。そして同じように、吉岡の姿を外して成田だけを拡大した写真を何枚か作った。

 これらの写真を封筒に入れて、成田のアパートの郵便受けに投げ入れたのは、3週間ほど前のことだった。

 この写真の効果はてき面だった。それ以降、二人の密会がほぼなくなったのだから。私は吉岡を監視し続けていたが、写真を投げ入れた日を境に、二人が落ち合っている気配はなくなった。

 とは言え、ある種の気持ちの悪さは感じていた。成田は吉岡にその写真を見せたはずだ。でなければ密会がなくなる筈がないからだ。そして、吉岡が成田の側にいた筈の自分の姿が写真にないのは何故かと考えれば、私の仕業だと気付くはずだ。しかし彼から写真の話を尋ねられたことはない。吉岡は私が写真を投げ入れた犯人だと分かっているのに、私には何も言わないのではないだろうか。このことが解せなかった。もし吉岡が写真のことで私を責めたら、私は今まで堪えてきた不満を洗いざらい彼にぶちまけて、彼の不貞を責める積りになっていたのだが。

 しかし、そのうちに、こんないたずらをしても、吉岡と成田の仲を裂くことは出来ないのではないかと思うようになった。正直なところ私は吉岡に未練があるし、できれば彼との関係を継続したい。そのためには、自分の意思を成田にやはり直接伝える他はないと思うようになった。

 更衣室で成田を待ち構えるのは今夜が初めてではない。10日前にも、同じように私は彼女を待ち構えていたことがある。しかしその日は彼女の退社時間が予想外に早くて、私がまだ清掃用具入れにいる内に更衣室に入って来たのだ。彼女は着替えを済ますと更衣室から出て行った。私は慌てて掃除用具入れを出て、更衣室を出て行った彼女を追おうとした。廊下に出ると外は照明が消されて真っ暗だった。

 彼女を追って更衣室の前の廊下を左に回ると、長い廊下の向こうの端でエレベータが開いて暗闇の廊下に明るい光が漏れるのが見えた。成田はエレベータに乗るところだった。私は走った。パンプスを穿いた私の足音が暗闇の廊下に響き渡った。彼女は廊下を走って来る足音を聞いてエレベータの扉を開いたままにしていた。しかし、私はあまりに慌て過ぎたために足が縺れてしまい、廊下の途中で倒れ込んでしまった。エレベータはそれでも暫く扉が開いていたが、やがて閉じて降りて行った。そして暗闇の廊下に私一人取り残されたのだ。

 今日は同じ失敗を繰り返さない。そして、しっかり彼女に言うべきことを言おう。

 そうこうしているうちに、微かに廊下を歩く足音が聞こえてきた。私は更衣室の照明を消してドアから少し離れて立った。成田がドアを開けて照明を点けた瞬間、そこに私が立っている姿を見たら驚くだろう。効果は抜群なのに違いない。彼女が更衣室に入って来たら、私は直ぐに本題に入り、「吉岡さんから手を引きなさい」と言うつもりだった。

 私は成田の足音が近づいて来るのを待っていた。ところが足音は一度は更衣室の方に近づいてきたのだが、それから向きを変えて遠ざかって行ったのだ。耳をそばだてていると、バルコニーの重いガラスの引き戸を開けるような音が床に響いてきた。その後、ガタガタと言う音が聞こえて、「あっ」という女の鋭い声が聞こえた。

 私は居ても立ってもいられなくなり、そっとドアを開けてバルコニーの方を窺った。するとガラス戸の開いたバルコニーに、背を向けた男が立っていた。


「その男と言うのは、嬉野均に間違いないですか」と刑事が聞いた。「後ろ姿しかみなかったんでしょ」

「はい、後姿しかみていません。ですから絶対に間違いないとまでは言えないのですが、あの佇まいは嬉野フェローに違いないと思いました」

「佇まい、というと」

「頭が大きくて、背が高くて、猫背で、ズボンがよれよれで…。つまり後姿全体です」



(5)


 そのうちに嬉野フェローの噂話が社内のあちこちで囁かれるようになった。瀬野は職場の噂話には疎かったが、同期の増田を介して、職場にどのような話が広まっているのか、おおよそのところを知ることができた。

 それによれば、嬉野は成田薫に出会った時から一方的に好意を抱いて、ストーカー紛いのことをしていたのだが、成田からは全く相手にされないのを逆恨みして、彼女をバルコニーから突き落としたのだろうということだった。さらに嬉野については、確かに仕事熱心ではあったが、些細なことに拘る偏執的な男だったとか、彼は最近の言葉でいうとインセルで女友達もおらず、未だ童貞だったという噂もあった。

 一方で成田については、上昇志向の強い女で自分よりキャリアの劣る男は相手にしなかったのだとか、金沢に転勤してきたのは、本社でも男女のトラブルがあったからではないかという噂が急に広まっているようで、増田は成田を貶めるような噂に憤慨していた。増田によれば、男性職員には彼女に同情する者が多いが、女性職員からはあまり同情の声は聞かれないのだそうだ。

 成田薫の死は当初、過労死とされていた。このため、彼女を管理する立場にあった職員達が、処分という形式は採られなかったものの、一定のペナルティが与えられたように見えた。彼女の死因が過労死ではなく殺人だったとなると、彼らの扱いはどうなるのだろうという話題も社内にはあるようだ。

 瀬野はこれらの噂話を増田を通じて知ったが、どれも無責任ないい加減な話に違いないと思った。しかし瀬野自身この事件についても、成田、嬉野の二人の関係についても知っていることは殆どないのだ。成田薫の死の真相を知りたいという思いは消えないのだが、もはやどうしていいのか分からない状態だった。

 瀬野の向かいの席の吉岡は、心なしか元気がないように見えた。そのうちに警察に証言したのが田中美也子だと知れ渡れば、彼もまた噂の渦中に引き込まれるのではないだろうか。吉岡に災難が降りかかるのは自業自得の面はあるだろうが、吉岡に悪意があった訳ではなく、彼の優柔不断さが彼自身にとって良くない結果を招いたということだろう。そう思うと吉岡が少し気の毒に思えてくる。

 そんな中、野口は外部のざわめきには1切影響されず、自分に与えられた仕事を黙々とこなしている。瀬野は野口が優秀な職員なのだと認めざるを得ない。

 それは2018年の仕事納めの日のことだ。瀬野の机にある電話機が鳴った。瀬野が受話器を取ると、総務チームの職員だった。

「瀬野さん、外線で『成田さんの後任の方に繋いで欲しい』って掛かって来ているんですが、繋いでもいいですか」

 瀬野が総務チームの方を見遣ると、若い職員が受話器を持って瀬野の方を見ていた。チームリーダーが席にいない。外線を受けたこの職員は、成田薫の話は宮脇リーダーに繋ぐというルールを知らないのか、或いは成田の話ではないと判断したのか、そのどちらかだろう。どんな用事かわからないが、電話の主は成田に関する何かの情報を持っている人物かも知れないと瀬野は思った。

「ああ、分かった。僕に繋いで」と瀬野が言うと、暫くして受話器の向こうから別の男の声がした。

「あなたが成田薫さんの後任の方ですか」

「はい、瀬野と申します。貴方はどちら様ですか」

「私は成田さんの学生時代の友人で三輪と申します。突然、お電話をして申し訳ありません。実は、昨年お亡くなりになった成田さんのことで少々お伺いしたいことがあるのですが」

 どう応えていいものか、瀬野は一瞬迷った。

「ご希望には沿いたいのですが、私は正確には後任の後任でして、その方とは面識もないんです。ですから、知っていることはあまりないと思うのですが」

「ええ、それでも結構です。これまで御社の人事や総務の方にお電話をしたのですが、どなたもガードが固くて応対して頂けません。ひょっとして、後任の方なら応対して頂けないだろうかと思ってお電話した次第です」

 瀬野は、成田のことをもう考えないでおこうと心に決めていたはずなのだが、三輪と名乗る男と電話で話すうちに、その男に会ってみたいと思えて来た。学生時代の友人だと言っているが、わざわざ何度も成田のことで会社に電話をしているのであれば、彼女と浅からぬ関係があったのに違いない。電話からも、何か切実な思いが伝わってくるように感じる。ひょっとしたら、成田薫に関する思わぬ情報を得ることが出来るかも知れない。

 瀬野は、今日の夕刻に金沢駅近くの喫茶店にまで来るようにと三輪に伝えた。そこは会社に近くて社員に自分の姿を見られる恐れはあったが、三輪にも直ぐに分かる場所が良いだろうと思ったからだ。

 瀬野は周囲に聞かれないように声を落として、こう付け加えた。

「実は私の方こそ、成田さんについてご存じのことをお聞きしたいのです。私には、成田さんのことでずっともやもやしたものがありまして。出来ればあなたのお話をお聞きして少しでもスッキリしたいと考えております」


 瀬野は仕事を早めに切り上げて5時半に会社を出た。社屋の外に出ると急に冷たい風が吹き降りて来て頬をかすめる。耳が冷たくて千切れそうだ。瀬野は今にも霙が降ってきそうな鉛色の空の下を歩いて待ち合わせ場所に向かった。

 師走に入って晴れた日があっただろうか、覚えがない。空は何時も厚い雲に覆われ、稲妻がしつこく鳴り響き、時折冷たい雨や霙が降っているように思う。数日前の朝は薄っすらと雪が積もっていた。これが北陸の冬の到来なのだろうか。

 瀬野は金沢駅のコンコースを抜けて駅の西口に出ると、約束の時間より少し早かったが、待ち合わせ場所に指定したビルの1階にある喫茶店に入った。カウンターでショートサイズのコーヒーを注文すると、店内中央の目立つ席を選んで一人で座った。

 喫茶店は、壁の2面がガラス張りになっていて、駅前を忙しなく行き交う人々の姿が見通せる。コーヒーを半分程飲んだ頃、ちょうど約束の時間だったが、コートを着た長身の男性が一人入ってきた。あれが三輪という男に違いないと思ってみていると、男性は一通り店内を見回し、迷うこともなく瀬野の席まで来た。

「瀬野さん、ですか」

 瀬野は三輪が見つけ易いようにと中央の席にいたが、そこでは落ち着いて話ができそうになかった。店内を見回すとやや奥まった所に空いている席があった。瀬野は男性を誘導して奥の席へと移動した。

 男性が差し出した名刺をみると、「株式会社 三孝商店 代表取締役 三輪孝弘」とあった。少し白髪の混じった三輪は、コートを脱ぐと紺色の地味なスーツを着ていて、如何にも営業の帰りという出で立ちだった。瀬野も名刺を差し出して挨拶をした。

 三輪は「突然、お電話をいたしまして」と昼間の電話について非礼を詫びた。「しかし、是非とも成田さんのことでお聞きしたいことがありまして」

「ええ、実は私も成田さんのことで、あなたにお聞きしたいと思っていました」と瀬野が言うと、

「先程、お電話でそんなことをおっしゃっていましたね。しかし、どうして?」と三輪は言った。自分以外に成田薫にことに関心を持っていることが不思議なようだった。

「ええ、私は成田さんの後任の後任というだけで、お会いしたこともありません。ところが私のアパートの前の住人も成田さんだと分かって、成田さんの残して逝ったものに取り囲まれて生活していることが分かりました。すると、どういう訳か成田さんのことが気になり始めまして、それから一人で事件の経緯を調べていました。今のところ、分かったことは、ほとんどありませんが」

「そうでしたか。それじゃあ私から先に、これまでの経緯をお話ししましょうか」と言って三輪は話し始めた。

「お電話でも申し上げたとおり、成田は私の学生時代からの友人でした。二人は都内の同じ大学でスローフード研究会と言う同じサークルに所属していました。既にお察しのことと思いますが、私は成田と交際していました。その一方、嬉野とは理学部の同じ研究室、自然地理学の研究室ですが、そこの同級生でした」

「えっ、嬉野さんともお知り合いなんですか」と瀬野が思わず口を挟んだ。ということは、成田と嬉野が同時期に同じ大学にいたということになる。「じゃあ、成田さんと嬉野さんは、以前から面識があったということですか」

「いや、それはどうか分かりません。嬉野は成田に関心を持っていたように思いますが、恐らく成田は、私と同じ研究室の人という程度の認識ではなかったかと思います。ですから、十数年後に嬉野に出会った時にすぐに彼だと気が付いたかどうかは分かりません。とは言え、後ほどお話ししますが、少なくとも死亡する少し前には、嬉野が私の同級生だということは認識していたはずです」

 三輪はそれだけ言うと、黙って瀬野の顔を見た。このまま話を続けても良いのか確認を求めているようだった。

「いいです。どうぞ続けて下さい」と瀬野が促すと、三輪はまた話し出した。

 三輪の話によれば、三輪は修士課程を修了して、一方、成田は大学を卒業して、二人は同じ年に就職した。超氷河期と言われる時期だったが、二人とも運良く就職ができた。そして二人は就職後も付き合いを続けていた。しかし三輪は入社したゼネコンにどうしても馴染めずに、1年ほどして会社を辞めた。その後、別の不動産会社に転職できたのだが、その会社にもやはり馴染めずに、暫くして辞めてしまった。そのころから二人の会う頻度は徐々に減少し、関係も疎遠になっていった。三輪自身が、挫折を繰り返している自分は成田には不釣り合いな男だと感じて、彼女と距離をとるようになったのが主な原因だという。

 その後、三輪は健康食品の製造販売をしている会社に就職し、彼の言葉によれば、30歳を超えてようやく営業というものを覚えた。そして、3年前にその健康食品会社の販売代理店として独立したということだった。

「成田のことは忘れたことはありませんでしたが、時間というのは残酷なもので、時間が経過するうちに自分の生活スタイルが変わり、考え方も変わっていきました。そのうちに彼女との仲を戻そうとか、結婚しようとか、そういう気持ちはなくなってしまいました」

 一方、三輪によれば、嬉野は就職先がないと言って大学に残った。「暫くして、彼が北関東の大学の助教になったのは知っていましたが、その後の消息は知りませんでした」

 ところが昨年の8月初旬に、嬉野から、三輪の連絡先をどのように調べたのかは不明だが、突然電話が掛かってきた。「今、自分は大東亜開発金沢支社でフェローをしているが、ここに成田薫がいる。自分が間を取り持つから、もう一度会わないか」と言ってきたというのである。 

「私は最初会う積りはありませんでした。彼女に未練がなかった訳ではないですが、貧しい生活をしている今の自分には彼女に会う資格がないと思いましたし、彼女にとっても、私との再会が決して喜ばしいことではないと思えたからです」

 瀬野は、三輪の話を聞いていて彼の考えが卑屈なように思えた。しかし、あの当時は思うような職に就けずに、女性と交際を続けるのを諦めた男もたくさんいただろうということは想像できた。瀬野も卒業年次が1、2年早かったら、同じような境遇だっただろう。

「しかし、嬉野が、何度も電話をしてきて、あまりにも熱心に再会を薦めるので、そのうちに私の考えが変わってきました。成田とは、何かの事情があって別れたのではなく、次第に疎遠になってしまったのです。だから、別れの挨拶も出来ていませんでした。最後にもう一度会って、きちんと話をして別れるというのは、確かに間違ってはいないように思えてきたのです。それで嬉野に、彼女と再会したいと伝えました」

 嬉野は待ち合わせ場所に、どういう訳か犀川大橋を指定してきた。三輪と成田は昨年8月のお盆過ぎの、遅い時刻にそこで再会した。

 瀬野は、山法師のはるかが、犀川大橋の橋詰で成田が一人でいるのを見たと言っていたのを思い出した。それは、この夜のことだったのかも知れない。

 三輪の話は続いた。

「二人は犀川大橋の橋詰で落ち合ってから、小さな個室のある割烹に行きました。そこは嬉野が予約しておいてくれたところです。

 私はまず長い間連絡を取らなかったことを素直に彼女に詫びました。そして、食事をしながらお互いの近況などについて語り合いました。成田の美しさは昔のままで、正直に言えば私の心は揺れました。もちろん彼女に未練がありました」。三輪はそう言って目を落とした。

「しかし、彼女との関係を戻そうとまでは思っていませんでした。私に必要なのは、貧乏に堪えて共に苦労してくれる女(ひと)です。成田は上場企業のキャリア組ですから、もはや私の妻になるような女性ではありません。ですから、別れの言葉を彼女に告げました。彼女も当然分かってくれると思ったからです。ところが彼女が突然泣き出して、その場に泣き崩れてしまったのです…」

 三輪がそこまで話した時だった。突然閃光が走り、僅かな時間をおいて大きな雷鳴が響いた。と同時にまるで小惑星に激突したかのように夥しい数の小さな氷の粒がガラスの壁に当たって飛び散った。何人かの客が、わーっという感嘆の声を上げた。三輪も思わず振り返ってガラス張りの壁を見た。そして激しい光景を暫く見つめたが、また向き直して話を続けた。

「私は動揺しました。まだ私のことを思っていてくれたのかと思うと、私の決意も揺れました。懐かしい日々が思いだされて、私も涙ぐんでしまいました。しかしここで、もし関係を戻したら、かえって彼女が不幸になってしまうと思いました。ですから、別れ話を撤回することはしませんでした。そして最後には彼女も分かってくれました。私には、彼女が分かってくれたと、そう思えたんです」

 ところが、それから10日ほど経ったある日、嬉野から電話が掛かって来て、成田が会社の7階から転落して亡くなったことを告げられたのだという。

 ここまでの三輪の話は、瀬野には驚きの連続だった。成田と言う女性が、一体どういう人物だったのか、増田や吉岡の話を聞いても十分に想像できないでいたが、三輪の話を聞いて、彼女の輪郭がおぼろげながら見えてきたように思えた。一方、嬉野の振る舞いは想像を超えていた。嬉野はどことなく奇矯な雰囲気のある男だとは思っていたが、嬉野という男のことがいよいよ分からなくなった。

「私が青春を共にしたただ一人の女性ですから、彼女の死は簡単に受け入れられるものではありません。10日前の彼女とのやり取りを一つずつ思い出しながら、もしかして私が彼女を死に追いやったのではないだろうかと自問しました」

 三輪は、成田から聞いていた話を頼りに高岡の実家を探し当てて、葬儀には間に合わなかったものの後日弔問した。仏前に焼香した後、母親に死亡の経緯を尋ねた。

「すると、『会社は未だ認めていないが、過労死に違いない。』そう言って会社に怒っている様子でした」

 三輪は、成田の死が過労死だという母親の話を信じて良いものかどうか判断が出来なかった。そこで当社の人事に手紙で死亡の経緯を問い合わせたが、全く取り合ってもらえなかったという。

「それからずっと今まで、成田の死について思い煩う日が続いています」

 三輪はマグカップから温くなったコーヒーをまた一口飲んだ。彼が話し始めてから20分ほど経過していた。

 また大きな雷鳴がした。瀬野がガラス張りの壁に目をやると、霰が雪に変わっていた。雪がイナゴの大群のようにガラスの壁に押し寄せたり、引き返したりしながら舞っている。舞う雪の向こうには、師走の駅前を忙しく行き交う人々の黒い群れが見える。

 瀬野は、今までの三輪の話を反芻しながら、成田薫の気持ちを考えようとした。彼女は増田や吉岡と遊んではいたが、本当に慕っていたのは三輪だったのだろう。著しい不眠などの心の病を患っていたとも聞いたが、ひょっとして、それも三輪との関係の拗れから来ていたものなのだろうか。そんなことを考えていると、

「ところが1年余り経って、つい先日」と三輪が話しを続けた。「石川県警の刑事が突然、私の会社に来たんです。成田の事件に関して聞きたいことがあると言うのです。何故刑事がと思って驚きました。そして刑事の言葉を聞いて更に驚きました。『殺人の容疑で嬉野を逮捕した。嬉野は、私がビルの下に来ていると偽って、成田をバルコニーに誘き出したと供述している』というのです」

「えっ、嬉野さんがそんなことを」と瀬野はまた思わず声に出した。「誘き出すって、どんな方法で。警察はどう言っているのですか」

「嬉野はバルコニーに潜んで、携帯で呼び出したのだろうと警察は言っています。嬉野の携帯には、事件以前から深夜近くに成田にしばしば電話している履歴が残っていたそうですが、亡くなる直前にも電話した履歴が残っていたそうです」

 バルコニーから覗くと下は薄暗かった。下に誰か立っていたとして、恐らく顔までは見分けがつかないだろう。それでも成田は嬉野の手口に乗ったのだろうか。

「でも、嬉野さんは、どうしてそんなことを」

「警察は、しつこく付き纏っていたのに相手にされないことへの恨みではないかと見ているようです。しかし…」

「しかし?」

「私は別の見方をしています。それが正しいかどうかは分かりませんが…」と言って、三輪は話を続けるべきかどうか迷っているように見えた。

「それは、どういうことですか」と瀬野が聞くと、

「彼は貞節に異常に拘るところがあるんです。私にはよく理解できないことですが」と言った。

「テイセツ?」。瀬野はまた思わず聞き返した。馴染みのない言葉が突然飛び出てきたからだ。

「ええ、貞節です。嬉野は、成田が他の男子学生と話をしているのを目撃しただけで、私に『気をつけろ。あの女は軽いのかも知れん』とわざわざ忠告にきたことが二度、3度あります…。彼の幼い頃、母親に関して何か問題があって、それでトラウマになっているのではないかと、私は疑っていました。自分の母親を口汚く罵っていたことがありましたので」

「はあ」と瀬野はいうだけで、言葉が続かない。

「嬉野が私に、成田と再会するように言ってきた時にも、『成田が他の複数の男達と遊んでいる。成田は苦しんでいるのだ。これもみんなお前の責任だ』というようなことを言っていました」

「はあ」

「ですから、その辺りに動機があるのではないかと」

 瀬野は考えを巡らせたが、三輪の言っていることの意味が理解できなかった。貞節のために殺害するとは一体どういうことなのか。それにしても、嬉野は、なぜわざわざ三輪を金沢に呼び寄せたのだろうか。再びその疑問が頭をもたげた。

「嬉野さんは、成田さんを殺害する目的で三輪さんを利用したのですか」

「いや、嬉野という男を知っている私からみると、必ずしも、そうとは言い切れないです。恐らく彼の考えでは、女性が複数の男性に交わるのは地獄なんです。彼は地獄の境涯から成田を救済しようとしたのでは、と思います。しかし自分では救い出すことができない、それは彼の性格的な問題からですが、そこで私に連絡してきたのではないかと、私はそのように想像しています」

「じゃ、何で殺害したんですか」

「もし嬉野が殺害したのが事実だとすれば、それはやはり貞節ではないかと…。成田と私との関係が元通りに戻らなかったので、死を与えることが最後の救済と考えたのではないかと」

「馬鹿な。それが事実だとすれば、嬉野は完全に狂っていますよ」

 そんな馬鹿なことがあるだろうかと瀬野は思った。今の世にそんなことに拘る男がいるとは到底思えない。百歩譲って、自分の妻や恋人が異性にだらしないのなら、ひょっとして血迷って殺すことがないとは言い切れないかも知れない。しかし赤の他人に対して、そんなことを考えることなどあり得ないだろう。

 そこまで考えて、瀬野はふと思い留まった。いや、待てよ。嬉野にとって、もしも成田が恋人のように愛しい存在だったら、どうなのだろう。非常に屈折していて誰からも理解されそうにないが、嬉野が成田を心から愛していたのだとすれば。成田を愛していたのは増田と吉岡だけではなかった。嬉野も心から成田を愛していたのかも知れない。

 と言って、仮にそうだとしても、嬉野の考えていたことは普通の男には到底理解できないのだが。

 沈黙が続いた。外はすっかり暗くなっている。遠くで稲妻が鳴っているのが聞こえ、ガラスの向こうに舞う雪が店内の光に照らされて見える。

 三輪は冷めきった残りのコーヒーを飲み干して、苦そうな顔をした。そして、

「今度は私がお聞きしたいのですが…、成田は、嬉野の言うように、複数の男性と付き合っていたのでしょうか。私には関係のないことですが、彼女が金沢で最後の時をどのように過ごしていたのか知りたいと思いまして」

 瀬野は言葉に窮した。増田と吉岡の顔が浮かんだ。三輪に僕が知っていることを全部話しても良いものだろうか。

「ご存じかどうか分かりませんが、成田さんは不眠症に苦しんでいて、医師から処方された睡眠薬を服用していたようです」

「えっ、不眠症で薬を服用?知りませんでした」

 やはり三輪は、会わなくなって以降の成田のことについては何も知らないようだ。

「しかしなかなか不眠症が改善しないので、アルコールを飲めば少しはマシになるかと考えて、金沢に来てから飲酒を始めたそうです。その酒が言わば縁になって、二人の職員と付き合っていました」。瀬野は増田と吉岡の名前は伏せたまま、二人のことを掻いつまんで説明した。「二人の職員は、不眠症で苦しんでいる成田さんを何とか支えたいという思いから付き合い始めたのです」

「そうですか。ともかく成田は二人の男性から愛されていたのですね。晩年の彼女が幸せであったのなら、私も少し肩の荷が下りたような気がします」と三輪は言った。 

「確かに成田さんは二人に愛されていたと思います。しかし、私は、成田さんが愛していたのは三輪さんだけだったと、何故かそう思えてなりません」

 ふと成田薫の悲しみが何の前触れもなく瀬野に伝わった。深夜のバルコニーから宙に飛び出した時の成田の目が自分の目と重なった。暗い夜空が見えて1回転すると、抱きとめてくれるはずの三輪の姿はそこにはなく、暗い橙色の街灯に照らされたコンクリートの地面だけが猛スピードで近づいてくる。瀬野には、三輪に成田の死の責任がないとは思えなかった。

「成田さんとは一度も会ったことはありませんが、何故か今日は、成田さんの心が分かるような気がします。成田さんが愛していたのは三輪さんだけでした」

 三輪は瀬野を見つめたまま聞いていた。

「もし、三輪さんが、最後にお会いになった時、もう少し成田さんのことを理解していたら、成田さんは亡くならなくて済んだのではないかと、そう思えてなりません」

 三輪は暫く沈黙していたが、

「そうですね。やはり、そうなんですね」と言った。

「慰めにならなくて、申し訳ありません。しかし成田さんの思いを伝えないと、成田さんが浮かばれないような気がしまして」

「そうですね。そのとおりですね」

 三輪はそれ以上瀬野に聞くことはないようだった。暫く沈黙が続いた。コーヒーカップは二つとも空になっていた。

 二人は喫茶店から出た。既に雪は止んでいた。路面には薄く水っぽい雪が被っていて、革靴では歩きにくかった。だが会社を出た時よりも、風が柔らかく感じられた。今夜、雪が降り積もる気配はなさそうだった。

 駅の方向に二人で歩いていると、

「実は、金沢は思い出の街でしてね」と三輪が思い出したように話し出した。「私と成田が二人で金沢に旅行で来たことがあるんですよ。10月だったかな、二人とも就職が決まった頃。後にも先にも二人で旅行をしたのは、その1回だけです。私にとっては、恐らく成田にとっても、生涯忘れられない旅行でした…。それがこんなに辛い記憶の残る街になるとは。悔やんでも悔やみきれませんね」

 瀬野は慰めようにも、その言葉が見つからなかった。

 駅の構内に入ると、これから東京に戻ると言う三輪と別れ、瀬野はコンコースを通って、駅に付設した市内バスの乗り場に向かった。



(6)


 ここ数年と比較するとこの1月は例年より暖かいと、金沢4年目の増田が言っていた。確かに、今のところ目立った積雪はない。

 既存事業の再評価結果を1月下旬に取りまとめる必要があり、瀬野と野口はその関係業務の真っ最中だった。

 二人は業務に関すること以外で話をすることはほとんどなく、瀬野の歓迎会以降一緒に飲んだこともない。しかし仕事上の意思疎通は問題なく行われている。瀬野は若手職員との仕事の仕方が少し分かってきたような気がしていた。

 そんなある朝、その野口が自宅から持ってきた朝刊を瀬野の机に差し出し、目立たない小さな記事を黙って指差した。その見出しには、「ビル突き落とし殺害事件の容疑者 不起訴処分に」となっていた。

 嬉野が不起訴になった。瀬野には大きな驚きだった。どうして不起訴になったのだろうか。記事には特に理由は書かれていない。

 二人で顔を見合わせて怪訝な顔をしていると、中野が別の地方紙を持って来て、「ここに出てますよ」と言った。その記事には、「地検は嫌疑不十分として不起訴処分とした」と書かれていた。

 嫌疑不十分?そういうこともあるのか。三輪の話では、嬉野は容疑を認めていると警察が言っていたようだが。嬉野は途中で容疑を否認して、成田薫が自分で転落したとでも言い出したのだろうか。それとも物的証拠がないことなどから、公判が維持できないと地検が判断したのだろうか。

 また、成田薫の死因が宙に浮いてしまった。結局、どうして成田が転落したのか確実なことが分からない状況に戻ってしまった。

 部屋を見回すと、他にも黙って朝刊を見ている職員はいたが、嬉野が不起訴になったことを知っても、それを声に出して言う者はおらず、黙って朝刊を畳んで今日の自分の仕事に取り掛かっていた。成田も嬉野もどちらも過去の人であり、あの事件にこれ以上煩わせられたくないと思っているかのようだ。

 瀬野は、今日を限りに成田薫のことはもう考えないでおこうと思った。これ以上考えても、正確なことは分かりそうにないし、成田薫がこれ以上救われることもない。しかし三輪にだけは、成田の気持ちが伝わったのではないか。これをもって、僕も成田から解放されよう。

 ところで、三輪と会った仕事納めの日から今日までの間に、瀬野にとっては二つの重要な出来事ことがあった。

 ひとつは、ゴブラン織りのカーテンがなくなったことだ。

 正月休みが終わり、瀬野が名古屋のマンションから金沢に戻る時、妻の氷見子が、レントゲン技師の仕事が非番だと言って、フリードで彼を送ってくれた。そしてアパートに一晩泊まって翌日帰宅した。義母がいるので息子たちを置いてきても一晩なら問題ないということだった。

 翌日、瀬野が仕事から帰ると氷見子の姿はもうなかった。そして、バルコニーのガラス戸に掛かっていたゴブラン織りのカーテンが、見たことのないモスグリーンの無地のカーテンに変わっていたのだ。

 瀬野が妻に電話をすると、「やっぱり気味が悪いので、替えたわ」と言った。

 新しいカーテンは近くのニトリで買って来たものらしい。丈が少し短くて朝は隙間から光が差し込みそうだった。ゴブラン織りのカーテンに比べると生地も薄くて遮光性が少し劣っている。しかし氷見子が替えて行ったのなら仕方あるまい。ところでゴブラン織りのカーテンはどこに行ったのだろうか。瀬野が聞くと、氷見子は、

「近くのリサイクルショップに持ち込んだのよ。3千円で買い取ってくれた」と言った。

 近くのリサイクルショップというのなら、半年前に買ったところに違いないと瀬野は思った。もしそうだとすれば、ゴブラン織りのカーテンは元あった場所に戻っていったことになる。

 重要に出来事のもう一つは、吉岡が1月末で会社を退職することである。

 瀬野は吉岡の退職の話を仕事始めの日に本人から聞いた。

 吉岡は年次有給休暇が残っていたため1月15日、火曜日が彼の最後の出勤日となった。瀬野はこの日、吉岡を昼食に誘った。

 駅前の大通りに面した上階がホテルになっている高層ビルの2階に洒落たレストランや喫茶店があった。瀬野は実際にこれらの店に入ったことはなかったが、行けば何とかなるだろうと考えた。

 二人がビルの2階に上がると、「デ・フローリアン」という喫茶店がランチを提供していた。瀬野はそこがちょうど手頃な店に思えたので、吉岡を誘って入った。

 久しぶりの快晴で、通りに面した大きな窓から差し込む日が広い店内を照らしていた。その窓からは、葉の落ちた街路樹を挟んで、駅のもてなしドームが見えている。客はサラリーマンらしい男達もいたが、むしろ中高年の女性客が2、3人で囲んでいるテーブルが多いように見えた。

 店員が注文を聞きに来たが、瀬野は、メニュー表を見ても何を注文したらよいのか分からなかった。すると吉岡がパスタランチを注文したので、瀬野は「僕もそれを」と言った。日替わりの「本日のパスタ」は、「カキとほうれんそうの和風パスタ」というものらしい。

 パスタが来るまでの間に、瀬野は吉岡に、どうして会社を辞める決心をしたのかと聞いた。

「この前も言ったが、僕が優柔不断で中途半端な対応をしていたから成田さんを死なせてしまい、田中さんにも迷惑を掛けてしまった。もちろん妻にも済まないことをしている。僕だけ、今までどおりの生活を続けるって訳にもいかないと思ってね」

 吉岡は女性にだらしないのかも知れないが、根は誠実な人間なのだろうと瀬野は思った。

「退職後はどうするんですか」

「沼津に鉄工所をやっている友達がいて、経理を見てくれないかと言っているので、彼を頼って沼津に行こうと思っている。まあ、一人で暮らしていくくらいは何とかなるだろう」。吉岡の声はのんびりした響きがあった。

「でも、家族はどうするんですか」

「妻とは既に離婚協議を始めている。もう暫く掛かると思うが、離婚はできるだろう。そして離婚したら…」と一呼吸置いて、「田中さんに、一緒に暮らさないかと誘うつもりだ」と言った。

 そこにパスタが運ばれてきたので、二人は話を中断して食事に集中した。カキは濃厚で美味しかった。能登産のカキを使用していますと店員が説明したが、能登でもカキの養殖をしているらしい。

 食事の後にコーヒーが来たので、それを飲んでいると吉岡が話し出した。

「瀬野君が、僕と成田さんの関係を質してくれたお陰で、僕も少し勇気を出して田中さんと話をすることが出来た。君には感謝しているよ」


 瀬野が既存事業の内容を事業毎に事細かに説明すると、野口が次々にその事業固有のキャッシュインフロー、アウトフローを、エクセルやアクセスの関数を使って組み立てて計算していく。その結果を眺めては、売却又は廃止をする事業の候補を選ぶ。この作業があと暫く続きそうだ。

 瀬野は、吉岡と別れた後、僕もこの会社をいつまで続ければ良いのだろうかと思った。単身生活になってまだ半年だが、これから何年も単身で生活しなければならないと思うと辛い。この世に、家族が一つ屋根の下で暮らし、子供の成長を間近で見守ることができること以上に、贅沢な幸せがあるだろうかと思う。

 名古屋の通勤圏内の会社に転職できないだろうかとも考える。義父の時計宝飾店を引き継いだ氷見子の弟が、信用できる親族が経営に加わってくれると有難いのだが、義兄さん来てくれないかと誘ったことがある。義弟が示した報酬では今の所得をかなり下回る。しかしお金の問題ではないので、瀬野は義弟の会社に行っても良いように思う。

 だが、もし氷見子に転職の話をしたら、彼女は猛反対するだろう。多額の住宅ローン残高を抱え、これから息子たちの教育費に膨大な金がいるのに、ある程度の給与を出してくれる今の会社を辞めてどうするのかと言われたら、確かに返す言葉がない。

 結局、増田が言うように、僕らには、辞令1枚でどこにでも行き、会社の都合のいいように使われて、そのうちに果ててくたばる未来しかないのかも知れない。しかし家族が守れるのなら、それで良しとしなければならないだろう。会社が傾いたら、それさえ望めなくなるのだから。それ以上の贅沢を言うのは罰当たりかも知れない。

 会社の暖房は午後5時半頃になると切れ、部屋の気温は直ぐに下がり始める。最近、瀬野と一緒に残業することが多くなった野口は、今日は何か別の用事があるのか6時前に会社を出て行った。そしてまた瀬野一人が管理グループの部屋に残ったが、8時を過ぎると部屋の中は寒くていられなくなった。

 仕方がない。今日はここまでにしよう。瀬野は席を立って帰り支度を始めた。

 2箇所のドアに内鍵を掛け、部屋の全ての照明を消して、内鍵を掛けていないドアから廊下に出て、そのドアに外から鍵を掛けた。そして出たドアの近くの壁に設置されたセキュリティ装置の電源をオンにする。

 生保会社の営業所の部屋の照明が消えているのを確認して、廊下の照明を消すと、エレベータホール天井の蛍光灯の明りだけが残った。

 少し離れた階段の昇降口まで行って、そこにあるエレベータホールの照明のスイッチを切ると真っ暗になった。そして暗闇の中をエレベータの前まで戻った。すると、決まり事のようにエレベータが勝手に上がってきて、瀬野の目の前でドアが開いた。明るい青白い照明が廊下の暗闇を照らす。瀬野はエレベータに乗り込み、1階のボタンを押して扉を閉じた。

                                    (完)

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軟骨の耳冷ゆる日よ 河原町健三 @0682

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