第2話 五風十雨

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 翌朝、漬物桶を可燃ゴミの収集場所に出して、それから出勤した。通常は牛乳を飲んで食パン1枚くらいは齧って出勤するのだが、夜中の騒動でその程度の食欲もなかった。

 会社に着き、仕事に取り掛かって暫くした頃、警備員室から瀬野宛に電話が掛かってきた。

「昨夜、ご連絡を頂いた件で電話したんですが、」昨夜の警備員とは違う声だった。「担当の者が直ぐに7階に上がって隈なく調べたんですが、誰もいませんでした。念のためご連絡しておきます」。

「うーん、そうでしたか」と言いながら、でも確かに足音はしていたと瀬野は思った。

「その足音ですが、以前にもお宅の他の方から同じように『足音がした』という連絡を受けたことがあるんですよ」と警備員は電話を続けた。「で、その時も調べたんですが、誰もいなくてですね…。で、おたくの総務チームの方にも昨夜のことは伝えておきましたから」と言って電話を切った。

 確かに足音がした。ヒールか革靴かは分からないが固い靴底の靴で走って来る乾いた音だった。あれもまた幻聴だった?いや、幻聴ということはないだろう。

 しかしいつまでも昨夜のことに拘っている時間の余裕はなかった。嬉野フェローの企画が駄目なら駄目としっかり伝えるための根拠を、はやく整理する必要があるからだ。

「夜中に足音が聞こえたって?」

 机から顔を上げると、主計の山本リーダーが脇に立っていた。足音の件を総務チームに伝えたとは聞いていたが、どうして主計のチームリーダーが知っているのだろう。

「ええ。でも、誰も居なかったそうです」

「同じことを、以前にここにいた成田も言っていたことがあるんだよな」

「えっ、そうなんですか」。瀬野は唐突に成田薫の話が出てきたので驚いた。

「あの事故の少し前かなあ。7階には妙な霊でも住み着いているのかも知れんな」

 山本は、様子を窺うように西崎リーダーの方を見た。西崎は黙ってパソコンの画面を見ていて、山本と目を合わせないようにしているように見えた。山本は、

「瀬野君は毎日遅くまで仕事してるようだが、気をつけろよ。霊に憑かれるぞ」と言い残して、自分の席に戻って行った。

 山本が立ち去ると、向いの席の吉岡が小声で、

「あまり気にしない方がいいよ」と言った。「誰にだって時々変なことはあるよ。おおかた何か別の音を勘違いしているだけだよ」

「まあ、そうでしょうね」と瀬野は答えて、後は何も言わないようにした。昨夜の足音のことはひとまず置いて仕事の続きをしたかったからだ。

 

 その日の夕刻、吉岡がいつものように机の抽斗から弁当箱を取り出し、下の抽斗から取り出した革のバッグに入れ、そのバッグを持って机から立ち上がろうとした時、瀬野は、

「あのう、ちょっと」と声を掛けた。「少し時間いいですか」

「少しなら構わないけど」と吉岡は言って、もう一度座り直した。

「先日、成田薫のことで、『もう一つ気になることがある』と言ってましたよね。それ、どんなことなんですか」と瀬野が聞くと、吉岡は、

「えっ、何の話だったっけ」と考えを巡らせるような顔付になった。

「僕の歓迎会のあった日、帰り道で成田の話を聞いた時のことですよ」

「ああ、あれね」。吉岡は思い出したようだった。

「うーん、あまり成田の事故とは直接関係ないとは思うんだが、事故の少し前に、誰かに付き纏われているようなことを言っていたんだよな。盗撮もされていた」

「盗撮?ストーカー…ですか。いつ頃のことですか」

「事故の少し前、1月余り前かな。その時、僕が『身に危険を感じるほどなら、警察に相談しないといけない。なんなら警察に僕も一緒に行って上げようか』と言ったんだが、彼女は『今のところ、そこまでのことはない。もう少し状況をみてみる』と言っていた。その後、あの話どうなったのかと彼女に聞くと、もう大丈夫だと言ったので、解決したのだと思っていた」

「もう大丈夫って、どういう意味だったんでしょう」

「これは飽くまで僕の推測だが、ストーカーのような行為を行っていたのは、彼女が知っている男性で、その本人にやめて欲しいと言ったんじゃないかな」

「会社の職員とか」

「多分そうじゃないかな。彼女は転勤してきて1年しか経っていないし、職員以外の知人はあまりいないだろう」

「その話、警察にはしたんですか」

「もちろんしたよ。でも、警察はそれを調べたのかどうかは分からないな」

「それが気にかかっていたんですね」

「うん。まあ、しかし事故とは関係ないのだろう。警察も事故とは関係ないと考えたから、成田の死に事件性はないと判断したのだと思う」

 ストーカーに直接会って、行為を止めるように言うのは、たとえストーカーが知人であったとしても、大変勇気のいることだ。成田薫は本当に気丈な女性だったのだろう。それにしても、ストーカーの件は成田の事件と本当に無関係なのだろうか。瀬野は引っかかるものを覚えた。


 その週の土曜日の夕方、瀬野はスカイプでまた家族とテレビ電話をした。電話が終わると夕飯の時刻だったが、近くのコンビニで唐揚げ弁当を買ってきて済ませることにした。ビールと酎ハイの缶は冷蔵庫に何本か入っていたので、酎ハイのロング缶を出してきて飲みながら弁当を食べた。酎ハイを飲み終わると、やはりビール缶も出してきて飲んだ。そうしているうちに少し酔いが回ってきた。昼間の掃除や洗濯の疲れも影響しているのか、酔いが回るのが早い。

 パソコンはテレビ電話が済んだ後も点いたままだった。ビールを飲みながらニュースサイトを見ていたのだが、ふと思い立って検索サイトに「五風十雨」と入れてみた。「スモール・スマート・ヴィレッジ」のサブタイトルが「五風十雨村」なのだが、この言葉が語彙の乏しい瀬野には馴染みがなかったからだ。字を見れば何となく意味は想像がついたが、正確な意味は分からなかった。それなのに、この言葉が変哲のない宅地造成計画を如何にもESG案件のように飾っているように思えて、瀬野は気に食わなかった。

「5日ごとに風が吹き、10日ごとに雨が降る意から、気候が穏やかで順調なこと。豊作の兆しとされる」。なるほど、そういう意味か。売り出し又は賃貸する住宅1戸毎に10坪ほどの菜園を付けるとしているので、豊作のイメージを取り込もうとしたのだろう。

 検索結果の表示されたパソコンの画面には、言葉の意味以外に「五風十雨」と言う名の付いた飲食店や商店、さらに商品も表示されていた。郷土料理の店からダイニングバー、和菓子、清酒、味噌などに至るまで「五風十雨」と名付けられている。「五風十雨」は人気のネーミングのようだ。

 瀬野は、残りのビールを飲みながら検索画面をスクロールして、リンク先の表示されたウェブサイトの見出しをずっと下の方まで眺めていた。すると幾つかブログのようなページも出てきた。その中のあるウェブサイトの見出しに瀬野の目が留まった。

「五風十雨氏、それはストーカーですよ」。ストーカー?ストーカーだって?

 ブログ名は「三十路サラリーウーマンの日記」、筆者は「スピンスター ナタリー」となっていた。「スピンスター」は、ネットで調べると、結婚適齢期を少し超えた女性のことを言う俗語らしい。日記風のブログのようだ。

 開いたブログは昨年の8月4日のもので、表題は「女が一人で暮らしていると」となっていた。

「… というように、女の一人で暮らしは気楽で楽しいのだけど、怖いこともある。きのう、とても怖いことがあった。仕事で遅くなり深夜に帰宅したら郵便受けに差出人のない私宛の封筒。それを見ただけで嫌な予感はしたのだが、開いてみたら私の写真。飲みに行った日の私が写っていた。しかも一緒にいたはずの彼は写っていない。どうして?あまりの恐怖で手が震え、気が動転した。すぐに警察に届けようと思った。

 でも少し落ち着いたら、誰の仕業なのか思い当った。恐らく五風十雨氏に違いない。自宅周辺で氏を見掛けることも一度か二度。前から不審に思っていた。

 五風十雨氏は仕事上の重要なパートナーだ。突然、警察沙汰になるのは会社的にも拙いだろう。警察に届ける前に、勇気を出して直接本人に確認することにしよう。警察への届け出はそれからでも間に合う。

 五風十雨氏、それはストーカーですよ。あなたの行為は犯罪ですよ」

 衝撃的な内容だった。女性の恐怖は想像に余る。盗撮が事実ならブログに書いて済むようなことではないだろう。筆者のナタリー氏は容疑者本人と接触して身の危険を感じなかったのだろうか。その後警察に届け出たのだろうか。

 「三十路サラリーウーマンのブログ」はこれが最後のもので、その後更新されていない。

 それから遡ると7月29日のブログがあった。

「…少し旧盆には早いのだが、旧盆の頃は忙しそうなので、お墓参りをするために1月振りに高岡の実家に帰省。母は冷やし中華を作ってくれた。遅い昼食を二人で食べた。少し麺が太びていたが、母の冷やし中華は子供の頃から馴染んだ味だ。

 両親は私が幼い頃に離婚していて、実家にいるのは母一人。実家といってもここはアパートで、ややこしいけれど、母の実家は市内の別のところにある。で、お参りするお墓は、母の実家のお墓で、私の祖父も眠っている。…」。この日のブログには、母が作ったという冷やし中華の写真が添えられている。

 昨年8月4日と7月29日のブログを読んで瀬野は気付いたことがあった。「ストーカー」、「高岡」という二つのワードに結び付く女性であれば、成田薫もその一人だということだ。吉岡によれば、成田薫はストーカーのことで悩んでいた。そして、彼女の死を「自殺」だと主張したのは高岡にいる彼女の母親である。

 筆者のナタリー。ひょっとして「成田」を捩ったハンドルネームではないだろうか。スピンスターというのも、成田が自分のプロフィールを自嘲気味に表現した言葉ではないだろうか。

 そう考えると、ブログには成田薫のリアルな生活や感情が述べられているように思えてきた。するとストーカーをしていた「五風十雨氏」とは誰だろうか。仕事上のパートナーだと言っている。思い付くのは、嬉野フェローだが、同氏から「スモール・スマート・ヴィレッジ(五風十雨村)」の企画が出てきたのは今年の8月だ。1年前の段階で嬉野フェローのあだ名を「五風十雨氏」にすることはあり得るのだろうか。

 瀬野は、そんなことを考えながら、ナタリーのブログを遡って行った。

 ブログの表題は「鴨居玲展をみてきました」、「やっぱり古井由吉はいい」、「これが『のどぐろ』?」などとなっており、短文とともに、美術館らしい平屋の白い建物の全景、古井由吉という人の書いた「槿(あさがお)」という小説の表紙、珠洲焼のような黒っぽい皿に盛られた炙った魚の姿造りの写真などが載せてあった。

 そうしてブログを遡っているうちに、瀬野はある日のブログの写真に目が留まった。その表題は「不眠と寝酒」というもので、日付は昨年の2月26日になっていた。

「…不眠に悩んでいたが、就寝前にお酒を飲むと入眠し易いことに気が付いた。たくさん飲む訳じゃない。コップに1杯の日本酒をなるべくゆっくり時間を掛けて飲む。すると、3、4時間は熟睡できるのだ。

 酒の銘柄だが、最初は全く気にせずに幾種類かを飲んでいたのだが、そのうちに一つの銘柄との相性がいいことに気が付いた。私にも、富山生まれの血が流れているからだろうか?…」

 その日のブログに載っているのは、テーブルに置かれた日本酒の4合瓶の写真。そのラベルには、「三笑楽(原酒)」と書かれている。しかし、瀬野の目に留まったものはその4合瓶ではなく、背景に写っているものだった。

 4合瓶の後ろに1対のカーテンが映っていた。それは、木か草のアラベスク風の蔓が縦に平行に何本か描かれており、その蔓と蔓との間にバラのような同じ花の絵が幾つも並んでいる黄緑色のカーテンだ。その模様を遠目で見ると、花の部分が斜めから見たうつむき加減の女性の頭部にも見える。

 見直すまでもなく、瀬野の今いるアパートのリビングのカーテンと同じだった。同じ生地のカーテンではない。丈といい、巾といい、どう見ても今バルコニーのガラス戸に掛けてあるカーテンと同一のものに違いなかった。

 同一のものはカーテンだけではなかった。カーテンの周囲に写っているもの、窓枠、壁の色、フローリングの模様は、どれも馴染みのものだった。写っているのは、瀬野が今いるアパートの部屋そのものだったのだ。

 瀬野は少し眩暈を覚えた。知らぬ女性のブログを見ていたら、自分が今いる部屋が映っている?そんな馬鹿な。しかしそれは事実なのだ。どのように見てみても、この部屋としか考えられない。

 ブログの筆者が成田薫ではないかという推測は確信に変わった。スピンスター ナタリーというのは成田薫に間違いない。このアパートはもともと会社が手配したアパートなので、成田の退去した後の部屋に僕が入居したというのは、十分に考えられることだ。

 だが仮にナタリーが成田薫だとして、更に彼女が僕の前に入居していたとして、どうしてカーテンまでが同じものになるのだろうか。余りにも不思議なことではないか。

 考えられるとすれば、成田の退去時に、正確には成田が死亡した後、遺族か会社の者がこの部屋を整理し、成田の持ち物だったカーテンをリサイクルショップに売ったが、その後カーテンは売れずに残っていて、それを1年後に僕が買って、また元の部屋に掛けたということになる。余りにも偶然過ぎるが、絶対に有り得ないとは言えない。

 仮にナタリーが成田薫だとすれば、否、ナタリーが成田薫であるのは、もはや間違いないのだが、それでは、ストーカーの「五風十雨氏」は誰なのかということだ。可能性のある人物を一人上げるとすれば、嬉野フェローということにはなるが、彼は今の私の仕事上のパートナーであり、その人物を早計にストーカーと疑って良いものかどうかだ。もしかすると、「五風十雨氏」はストーカー行為だけに留まらずに、成田薫の死にも関わっている可能性さえある。その可能性まで含めて、嬉野フェローを疑うのは少し躊躇するところがある。

 瀬野は胸が騒いだ。明日の日曜日、嬉野フェローと現地調査に出掛けることになっている。どんな顔をして、迎えに来る彼の車に乗り込めばよいのだろう。

 瀬野にそれを思い悩んでいる余裕はなかった。今夜中に「五風十雨氏」が嬉野フェローかどうかはっきりさせなければと思った。彼は慌ただしくアパートを出ると、大急ぎで自転車を漕いで会社に向かった。飲酒運転なのだが、瀬野は興奮して、アルコールを飲んだことを忘れていた。

 20分ほどで会社のあるビルに着くと、裏側にある通用口に行きインターフォンを押した。


 <成田薫の地獄>


 私は本社でも企画関係の仕事をしていたことがあるので、審査チームの仕事なら何とかなるだろうと高を括っていたのだが、実際に支社での実務を始めてみると、知らないことばかりだと改めて気付かされた。責任のある仕事をするためには、日常の業務が多忙であろうとも、時間を見つけて必要な知識と技量を早く身に着けるように勉強するしかないだろう。

 それはカウンターパートに舐められないためでもある。本社では、担当者が女だと分かると、初めから舐めた態度で出てくる奴もいて、私はそれが我慢ならなかった。そして舐められないためには、相手の痛いところを突いたり対等に議論したりするだけの知識が必要だということを私は学んだのだ。

 支社での仕事は、本社で想像していたよりもきついが、自分が惨めにならないためには、やれるだけのことはやるしかないのだ。

 しかしそれにしても、企画の担当者が持ってきた来年度の企画案には、都市市街地再開発や、それに絡むような大きな案件は一つもなかった。中古のオフィスビルや年季の入ったマンションを買収して改修工事を行い、収益性を回復させて不動産ファンドに売るといったショボい案件ばかりだ。しかも、企画案のどれもこれも詰が甘くて、積算根拠が曖昧だったり、業者からの見積もりが揃っていなかったりするのだ。

 その中で、あの「五風十雨村」はとてもユニークだったから、立案者の独創性だけは評価しても良い。もちろんジョークだけど。人がいなくなって20年近くも経つ廃村を復活させるって、どういうファンタジーなのだろう。交通アクセスの悪い僻地に、森林アスレチックやグランピングの施設を作って、一体誰が来るというのだろうか。こういう企画案を堂々と出してくる神経が本当よく分からない。田舎の支社には、こういうとぼけた職員もいるってことなのかな。ここは注意点かも知れない。

 それにしても前任者達は、企画案をどうやって審査していたのだろうか。審査の記録が残っていないのではっきりしないが、徹底的に吟味していたようにも見えない。マニュアルの項目毎に「適」か「否」でマルとペケを付けて、その数を数えて「採用が適当」あるいは「不採用が適当」との意見を付して本社に稟議していたのだろうか。まさかそんなこともないとは思うが。

 審査の方法を考えているうちに昼の休憩時間になった。この支社には食堂がない。女性職員たちは、更衣室内の談話スペースで弁当を食べたり、誘い合って近くの喫茶店などに行ったりしているようだ。7月に転属になって暫くは、私を誘ってくれる女性の同僚もいたが、今は誰からも誘われなくなった。昼の休憩時間に仕事の区切りが付かないことが多くて、止むを得ずに誘いを断っていたら、そのうち誰も誘わなくなったのだ。支社には女性の総合職はほとんどいないし、彼女らからすれば、無理に総合職の私を仲間に引き込む必要もないのだろう。だから私はいつも少し遅れて一人で近くの喫茶店に行ったり、コンビニのイートインでサンドイッチを食べて昼食を済ませたりしている。

「たまには一緒に昼飯どう」

 上から声がしたように思ったので目を上げると、向かいの席にいる与信審査担当の吉岡氏が席から立ち上がって、私に声を掛けているのだった。

「ええ」と曖昧に返事をして周囲を見回すと、ほかの職員達は食事に行っているのか、部屋の中は閑散としている。それにしても、吉岡氏から昼食に行こうと誘われるのは初めてだったので少し驚いた。

「吉岡さん、お弁当は」。いつもなら、吉岡氏はピンクのハンカチに包んだ、見るからに妻に作ってもらった(私は彼の妻は専業主婦だと睨んでいる)と分かる弁当を持って来ていて、それを自分の机の上で広げて一人で食べている。

「きょうはちょっと、持ってきてないんだ」。吉岡氏は申し訳なさそうに言った。今朝は妻が不機嫌で弁当を作ってくれなかったのだろうか。まあ、私にはどうでもいいことだけど。

 私の方は仕事の区切りがちょうど良いところだったので、吉岡氏の誘いを断る理由もなかった。

 私は立ち上がると、吉岡氏の後に着いて部屋を出た。吉岡氏の少し髪が疎らになった後頭部が目に入った。彼を初老と言うのには少し早いのだろうか。顔の張りをみると、40歳までにまだ1、2年はありそうには見える。

 二人は建物を出て駅前の通りに出た。旧盆を過ぎたとは言え、炎天下は焼けるような暑さだ。少し歩いたところに、通りに面した上階がホテルになっている高層ビルがあった。吉岡はその中に入って行ったので私も続いた。

 その2階にレストランや喫茶店があるのは以前から知っていたが、まだどの店にも入ったことはなかった。

 エスカレータで2階に上がると、吉岡は少し迷っていたようだったが、「デ・フローリアン」という喫茶店の前で立ち止まり、私に中に入るように促した。

 広くて明るい店内はちょっと落ち着かない感じがした。通りに面した大きな窓からは街路樹の欅を挟んで、金沢駅のもてなしドームが見え、その向こうのガラス張りの駅舎の屋根が、目が眩むような強い反射光を放っていた。客はサラリーマンらしい男達もいたが、むしろ中高年の女性客が3、4人で囲んでいるテーブルが多いように見えた。

 注文を聞きに来たので、私はメニュー表を見てパスタランチを注文した。日替わりの「本日のパスタ」は、「グリルベーコンとアスパラのクリームパスタ」という長い名前のパスタで、サラダと飲み物が付いていた。飲み物はアイスコーヒーにした。

 吉岡氏は、私が注文している間中メニュー表を熱心に眺めていたが、私が注文し終わると、「こっちもそれでっ」と言った。吉岡氏は人を誘っておきながら、この店のことはあまり知らないのだろう。

「どう、金沢に少しは慣れた」。吉岡氏はメニューを聞きに来た店員が立ち去ると、私に聞いた。「金沢は、希望したんだって」

「ええ、高岡にいる母が大分年取ったので、出来れば暫くでも近くにいたいと思いまして」と、先日の歓迎会で着任の挨拶の際に話したことを繰り返した。でも本当の理由は違っていた。金沢に来たのは、否、図らずも金沢に来てしまったのはもっと別の訳があるのだが、それをいま吉岡氏に言う必要もない。

 当社では女性の転勤は比較的稀だし、本社から支社への転勤を希望する女性はさらに稀だろう。だが私はとにかく本社から出たかった。転勤の希望を叶えるのには、それらしい理由が必要だったので、上司との面談の際に、高岡市に住む老いた母親の話をしたのだ。本当は、転勤先は金沢支社でなくても良かった、というより本当は金沢支社でない方が良かった。しかし私の希望を聞いた結果の転勤先が高岡市に最寄りの金沢支社になるのは、当然といえば当然のことだった。

「そう。じゃあ時々実家に帰って、お母さんに孝行しないとね」と、吉岡氏は歓迎会でGMが言ったことと同じことを言う。私は返事の代わりにちょっと微笑んでやった。それで十分だろう。

 パスタランチが運ばれてきたので、二人は黙って食べ始めた。パスタは少し塩味が強過ぎたし、私には量が多過ぎた。でも残すのも嫌なので全部口に入れた。食べ終わると会社の休憩時間が残り10分余りになっていた。既に運ばれてきていたアイスコーヒーのコップの表面には無数の水滴が付着し、滴り落ちてテーブルを濡らしていた。私はコーヒーをストローで吸い取るように急いで飲んだ。精算は吉岡氏が自分に任せて欲しいと言ったので、遠慮せずに奢ってもらった。


 東京から地方の支社に転勤したかった理由は二つあった。一つは、三輪孝弘への思いを断ち切ることだった。

 三輪とはスローフード研究会という学内のサークルで知り合った。三輪は私の2学年上だが、1年留年していたから3歳年上だった。話すのがスローペースで(だから、サークルの他のメンバーからは、スローフードに向いているねと揶揄われていた)、何でもじっくり考えて正確に話そうと努めるような人だった。回りくどいのが嫌いな私は、最初、三輪が苦手だったが、サークルで一緒に活動(子ども食堂の支援などの活動をしていた)をしているうちに、飾り気がなく誠実な人柄に次第に魅かれるようになった。そのうちにサークル活動の時だけでなく、それ以外の時間も彼と一緒に過ごす時間が多くなり、私には特別な存在になっていった。

 私が大卒で当社に就職した年、三輪も修士卒で中堅ゼネコンに就職した。卒業後も二人は学生時代と変わらない関係が続いて、私の中では少しずつ三輪との将来を意識するようになっていた。

 しかし二人の良好な関係はそう長続きはしなかった。

 多分、三輪の社会適応力は私以上に乏しかったのだろう、彼は1年余りで会社を辞めてしまった。そのことは二人の将来に影を落とした。

 何故会社を辞めたのかと聞くと、彼は自分の思っていた仕事とは違っていたからだと言った。三輪の専門は自然地理学だが、その専門知識を会社で生かすことが無理だと分かったから辞めたのだと言うのだ。しかし会社を辞めたのは、それだけが理由だとは思えなかった。上司や同僚との人間関係が上手くいかなかったのではないだろうか。三輪の性格は会社の組織に溶け込むのが難しいだろうということは私にも想像がついた。

 三輪は中堅ゼネコンを辞めた後、暫くして中途採用で不動産会社に就職した。入社後短期間で宅地建物取引士の資格を取り、1からやり直すのだと張り切っていた。しかし、そこも2年足らずで辞めてしまった。三輪の口からは少しずつ世間を呪うような愚痴が零れるようになった。

 私は二度の就職に失敗した三輪を決して責めたりはしなかったし、悲観している彼を元気付けようと必死だった。彼の不運を恨んで、彼を受け入れない社会を一緒になって罵倒した。しかし一方では、(二人の将来のために)早く別の勤め先を探すように求めてもした。

 そういう私の態度が疎ましくなったのかも知れない。三輪は少しずつ私から遠ざかろうとしているようだった。電話もメールも次第に来なくなり、こちらから連絡しても、別の用事があると言って私と会うのを断ることが多くなった。

 私は学生時代のように、彼といつも一緒にいたいという思いを募らせていたのだが、皮肉にも、私もちょうどその頃から仕事が急に忙しくなりだして、私の方も会う時間が次第になくなっていった。そして、そのまま時間だけが過ぎて行った。

 その後、三輪が都内の健康食品販売会社に就職したことは人伝に聞いた。

 私は彼との将来を夢見ていた。彼が一生懸命働いてくれるなら、どんな仕事をしていても構わないと思っていた。でも彼は男だし、男の気持ちというのは、そうは行かないものなのかも知れない。

 私も、何時までも三輪のことを引き摺っていては生きていけないと思った。彼への思いを断ち切るのには、自分の居場所を変え生活様式も変えるのが一番良いのではないかと思うようになった。気持ちを一新して自分を感傷的な気分にさせているものを捨て去りたかった。これが転勤を希望した理由の一つである。

 転勤を希望したもう一つの理由は、精神的な不調が続いていたことである。ちょうど1年前、急に激しい動悸がして、その場で蹲ってしまうことがあった。その時は、動悸は暫くして治まったのだが、数日後にまた同じことが繰り返し起きた。

 都内の内科クリニックで検査したが、身体のどこにも異常が見当たらなかった。だが念のためにと心療内科への受診を勧められ、あるクリニックを受診した。すると医師からは初期のパニック障害だと診断されてSSRIを処方された。しかし会社を休むほど酷い状況ではなかったので、私はそれまでと同様に通勤していたし、職場で私の発作に気付いた者もいなかったので、(厚生部の保険組合担当を除いては)私の不調を知っている職員はほとんどいないと思う。

 発病に直接繋がるような何かが私の身に起きたという覚えはないのだが、当時、本社は業績立て直しのために組織改編を繰り返している時期で、社員同士の軋轢などによるストレスから鬱になり長期病休に入る社員も散見される頃だった。私もまた職場で様々のストレスを受けていたので、これが発症の誘因になったのかも知れない。

 2、3か月の投薬治療の結果、パニック障害の発作は徐々になくなり寛解した。ところがそれに代って、今度は不眠の症状が酷くなってきた。私は十代の頃から寝付きは良くなかったが、一晩中一睡もできないこともしばしばという状況になった。

 医師はゾピクロンを処方してくれたのだが、あまり効かなかった。薬の効き目が薄いと医師に訴えると、医師は、自分で日常のストレスを和らげる工夫をすることも必要だと言った。

 言われてみれば、仕事上のストレスは確かに大きい。何しろ拘束時間が長く、しかも退社時間間際になって突然途方もない作業を命じられることもある。私は自分の体調を整えるのには暫く地方で勤務する方が良いのではないかと考えるようになった。これが地方への転勤を希望したもう一つの理由である。

 つまり転勤で私が求めていたのは、気持ちの切り替え、心の休息、癒しのようなものだった。

 ただ転勤先が金沢市支社というのは、私にとっては皮肉なことでもあった。

 それは金沢が三輪と最初で最後の旅行した思い出の街だったからだ。

 ようやく二人の就職先が内定した私が4年生、三輪が修士課程2年目の10月下旬、二人で金沢を旅行した。

 あの時の行程は、細かなところまで覚えている。私たちはあまり乗り物を使わずに金沢市内を歩き回った。金沢駅を出て武蔵、尾張町を通り浅野大橋を渡って、まず東山に行った。そして東茶屋街を隈なく見て回り、金箔工芸の作田に行った。そこで私はお土産に漆に金箔を施した綺麗な手鏡を買った。

 それから、また浅野川大橋を渡って今度は大樋美術館に行った。三輪の母親が茶道師範だそうで、三輪自身も茶道具に興味があったらしい。彼は時間を掛けてじっくり見ていた。

 私は初代大樋長左衛門の作品が現代作家のものかと見紛うほどにモダンだったので驚いた。天才はやはり時空を超越するのかも知れない。

 そこを出ると、兼六園内の三芳庵という料亭で遅い昼食をとった。

 午後は、まず石浦神社に行った。石浦神社は古くは三輪神社といい、ご祭神が三輪家の氏神らしい。だから彼が金沢に行ったら訪れてみたいと以前から言っていた所だった。

 丁寧にお参りを済ませると、そこからまた歩いて犀川大橋を渡り、閉館間際の犀星記念館と雨宝院に行った。私の卒論のテーマが「萩原朔太郎と室生犀星の比較研究」だったので、犀星の生い立ちには興味があった。それは「幼年時代」や「性に目覚める頃」などにも書かれているが、実際彼が過ごした場所を見てみたかったのだ。

 夜は香林坊の日銀裏の居酒屋で食事をして、金沢ニューグランドホテルで一泊した。

 あの日は秋晴れの穏やかな日で、広小路の街路樹が薄っすらと色づき始めていた。

 三輪への思いを断とうとしているのに、彼との思い出のある街に赴任してきたというのは、皮肉以外の何だろう。心の傷が癒えたら、もう一度金沢の街を訪れてみたいと思ってはいたが、それは赴任ではなくて旅行で良かったのだ。


 一方、仕事上のストレスからの解放も期待したほど旨くいかなかった。

 自分のペースで仕事が出来るのではと期待していだが、支社は思いの外多忙だった。特に旧盆明けからは、翌年度新規事業の企画案の審査の仕事が加わり更に忙しくなった。すると、金沢赴任後暫くは改善に向かっていた不眠症がまた元に戻り始めたのだ。

 転勤後に通院し始めたクリニックでは、東京のクリニックと同様、睡眠薬ゾピクロンを処方された。この薬は東京では効かなったが、金沢ではそれなりに効いているように思った。しかしまたすぐに効かなくなった。

 医師に「寝付くことが出来ずに一睡も出来ない」と訴えると、「では、試しに別の系統の薬に変えてみようか」と言ってゾルピデムとラメルテオンを処方してくれた。

 新しい薬は、始めは利いていたのだろう、暫くは寝つきが良かった。しかしそれも長くは続かなかった。眠りに落ちて行く私を引き戻そうとする何者かが脳内に現れるようになった。私の脳内では、眠ろうとする自分と、眠りから引き戻そうとする何者かが1進1退の抗争を繰り広げ、そして夜が明ける頃に、抗争に疲れ果てた私はようやく短い眠りに落ちることが出来るというような感じだった。

 寝起きは最悪の状況だった。前日の疲れが取れていないどころか、夜中の、いつ果てるとも知れぬ長い抗争による疲れも加わって、目蓋や肩に掛かる重力に圧し潰されそうだった。

 ただ、会社に来て仕事を始めると、どういう訳か疲れも眠気も感じなくなり、仕事に支障が出るということはない。しかし1日の仕事を終えると急に疲れを感じて、何もする気がなくなってしまうのだった。洗濯物が何日分も溜まっていても洗濯する気にならず、夕食も食べる気にならず、アパートに着くと這うようにベッドまで行くのだが、やはり眠りにつくことが出来ないという日が何日も続いた。

 そんなある日、もしかしたら酒の力を借りれば寝付きが良くなるのかも知れないと、ふと思った。眠れない時には寝酒が効くという話をどこかで聞いた覚えがあった。酒が好きな訳ではないが、全く飲めないということはない。私は試しに4合瓶の日本酒を買ってきて、寝酒として飲んでみることにした。

 ある晩、180㏄のコップに注いだ日本酒を就寝前にゆっくり時間を掛けて飲んだ。睡眠導入剤はコップに残った最後の酒で喉に流し込み、そのまま横になった。

 アルコールのせいで動悸がして、鼓動が頭蓋骨にまで響いた。手足の先は低電圧の電流が流れているように痺れている。

 しかし、いつもなら眠りから引き戻そうとする何者かが現れるのだが、その晩は現れなかった。暫くすると幻と現実が交錯し始め、やがて寝入ってしまった。朝までとはいかなかったが、3、4時間は熟睡できたのだ。

 確かに寝酒は効くと私は思った。それからは寝る前に酒を飲むようになり、それが習慣のようになっていった。

 酒の銘柄には全く無頓着だったのだが、そのうちに一つの銘柄と相性が合うことに気付いた。それは通販で買った「三笑楽(原酒)」だった。メーカーは富山県南砺市。

 両親は私が幼い頃離婚し、私は高岡に住む母の元で育った。母はアルコールが飲めなかったので、酒瓶は自宅にはなかった。しかし高岡の街ではこの銘柄のラベルをよく見掛けたような気がする。私の中には、やはり富山の血が流れてる?

 寝酒がきっかけになって、そのうちに私は寝る前だけではなく、アパートで食事をする時は晩酌をするようになった。たくさん飲む訳ではない。やはりコップ1杯程度が限度で、それ以上飲むと後片付けをしたり、風呂に入ったりするのが面倒になった。

 晩酌用の酒もやはり三笑楽(原酒)だった。肴は何でも良いのだが、スーパーでフクラギや赤カレイなどの魚を買ってきて、自分で砂糖と醤油で甘辛く煮たものが私の晩酌には一番酒に合った。母親がご飯のおかずに煮魚をよく作っていたが、結局それが私の口には一番合っているのかも知れない。

 9月末になると、ようやく翌年度新規事業の企画案の審査が一段落して、比較的早い時刻に帰宅できるようになった。私は相変わらずアパートで晩酌をしていたが、1合では足りなくなり、次第に2合かそれ以上飲むようになった。

 しかし、一人で飲むことに侘しさも感じていた。一人で飲んでいると、三輪とのことが思い出されて涙が出てきた。三輪の部屋でよく二人で飲んだ。三輪も日本酒のコップ酒だった。三輪との思い出は良い事ばかりでもない。取るに足らない小さな諍いもよくあった。良かったことも、そうでなかったことも、一つ一つ思い出していると、心が疼いてきて次第に荒んだ気分になり始める。

 このまま一人酒を続けていると、自分が駄目になっていくような漠とした不安がある。でも酒は止められそうにない。

 街に飲みに出掛けようかと思った。東京では同僚や女友達らと街で飲むこともしばしばあったが、金沢に来てからは、チームの懇親会を除けば街に飲みに出ることはなかったので、どこか物足りなさを感じてもいた。とは言え、知らない街に女一人で飲みに行くのはやはり少し憚られた。そこで私は後輩の増田を誘うことにした。

 営業グループの増田という職員を知ったのは金沢支社に来てからだった。朝のエレベータホールで一度だけ増田から話し掛けられたことがあった。「管理グループは夜遅いみたいですね。大変ですね」。そんなことを言っていた。社員名簿をみると彼は私の2年後輩で、私の来る1年前に異動で金沢に来ていた。

 思い切って、増田のパソコンに「一緒に飲みに行きませんか」と誘いの個人メールを入れてみた。すると暫く経って、「僕でよければ構いませんよ」と返事が来た。

「どこがいいですか。いい所をご存じないですか」とメールをすると、増田からは、

「成田さんのご要望に応じて、どこへでも案内しますよ」と自信満々の返事が来た。

 実際、増田の居酒屋の知識は豊富なようだった。のどぐろの刺身がある店とか、蟹面の美味しいおでん屋、黒龍や勝駒といった銘酒が置いてある店、メールには、そういう居酒屋の名前を幾つも列記してあった。短期間で何軒もの居酒屋を覚えたのは、クライアントとの付き合いで飲む機会が相当あるからなのだろう。

「では、お酒の旨いところで」と私はメールで答えた。

 2日後、増田が案内してくれた店は、犀川大橋北詰を川に沿って上流方向に100メートルほど行った所の、古い雑居ビルの2階にあった。そのビルの辺りは飲み屋街からは少し外れていたので、通りにぽつぽつと飲み屋の看板は出ているものの、人通りは少なかった。

 階段を上り店の中に入ると、居酒屋というより和風スナックといった方が似合いそうな店だった。客の席はカウンターに幾つかと、小上りに4、5人で囲むくらいの大きさの座卓が二つ並んでいた。

 座卓の向こうの壁には大きな窓があり、そこからは川面に揺れる大橋の橙色の照明が見える。時間が早かったのか、他の客はまだいなかった。

 二人はカウンター席に座った。カウンターの奥の棚には、「黒龍」という酒の1升瓶や、「花垣」という酒の4合瓶が並んでいる。更に少し間をおいて「石田屋」、「仁左衛門」という酒の瓶が数本ずつ並んでいたが、どちらのボトルも曲線がとても上品に見えた。

「あの仁左衛門って銘柄のお酒を飲んでみようかしら」と私が増田に小声で言うと、増田は

「あれは空瓶だよ」と言った。「店のディスプレイみたいなものだよ。あんな高価な酒がこの程度の居酒屋に何本も置いてある訳はないでしょ」

「えっ、そういうものなの」

 私は地酒の希少性や人気を考えたことがなかった。結局、私たちは花垣大吟醸を瓶ごと貰い、4合を二人で開けた。この酒はフルーティで甘く飲み易かった。

 その後、増田を時々誘うようになったが、そのうち逆に増田から誘われることも多くなった。お互い独身で誰に気兼ねする必要もないのだが、同僚らに見られて二人の仲を誤解されるのも困るので、どこかで待ち合わせをして、会社の職員が行きそうにない店を選んで飲みに行っていた。

 不眠症は改善した訳ではないが、増田と飲んで帰って来た晩は、何も考えないでベッドに倒れ込むようにして寝入ってしまうことが多かった。飲み過ぎて記憶が飛んでしまったことも1、2回あった。しかし翌朝目が覚めると自分のベッドにいるので、増田が送ってくれたのだろう。泥酔した翌朝の寝覚めは最悪だった。増田に醜態を晒してしまったと思うと酷い自己嫌悪に陥った。増田は私の身体に触れたりしていなかっただろうかとふと気になったが、そんなことは一度もなかった。

 欲を言えば、飲んでいる時の増田との会話が私には退屈だった。増田は飲むとギャンブルの話か仕事の愚痴かのいずれかになった。私は競馬も競艇も興味がないし、私でなくても仕事の愚痴を聞きたい人はいないだろう。女を楽しませる話をしろとは言わないが、せめて時事や世相など二人で話せる話題がないものかと思った。

 つい、三輪と飲んでいた頃のことを思い出してしまった。時々彼はどこか遠いところから話を始めた。例えば多元宇宙の話を始めた。そしてこの話は一体どこに向かうのだろうと私が考えていると、まるで巡航ミサイルのようにピンポイントで標的に着弾した。例えば、私が何気なく呟いた疑問への彼なりの答えとして。

 三輪の話し方に気の短い私は時々イラっとしたが、でも、あれは彼の視野の広さ、豊かなパースペクティブの成せる業なのかも知れない。増田と三輪とを比較しても仕方のないことだが、増田にどこか物足りなさを感じるのだ。ないものねだりなのだが。

 とは言っても、今は増田以外に一緒に飲みに行ってくれる人はいないので、増田は私の孤独を癒してくれる貴重な友達であることは間違いなかった。

 増田との街飲みは、既存事業の再評価業務で再び多忙になる12月頃まで続いた。

 多忙な時期が一段落し時間に少し余裕がある2月頃になり、再び増田を誘って1、2回飲みに行った後だった。私は職場で思い掛けない人物から話し掛けられた。

「成田さんは、誰と飲みに行っているの」

 私はギクッとした。朝の息が自分でも酒臭いと感じたことはあったので、気付かれていたのだろうか。或いは、会社の人に見られないように注意していた積りだが、狭い街なのでどこかで見られていたのだろうか。私と増田との関係は飲み友達以外の何でもないのだが、職場ではそれがどのように伝わるのか知れたものではない。そこは少し不安なところでもある。

「誰とって…、後輩の増田君ですよ。営業グループの」

 吉岡氏には転勤後間がない頃に一度昼食に誘われたことがあった。彼とは席が向かい合わせなので、その後、時々就業時間中に雑談をするようになって、そのうちに不眠で悩んでいることなども話していたように思う。吉岡氏は、いつも私の体調を気遣っていたので、深酒を注意されるのではないかと思った。ところが、吉岡氏が、

「そう。じゃあ…たまには僕と行かない。いい所知っているから」と言ったので、私は驚いた。

「あの、他に誰かお仲間がいらっしゃるんですか」

「いや、二人で行かないかなと思って…」

 愛妻弁当をほぼ毎日欠かさない吉岡氏が、夜に私を誘うというのは少し意外だった。それまで吉岡氏を特に意識したことはなかったが、感情の起伏が少ない穏やかな男性で、黙々と仕事をする人という印象はあった。誠実そうなその印象が安心感にも繋がっていた。私は素直に、

「はい、是非お願いします」と言ってしまった。


 その数日後、早速、私は吉岡氏に誘われて卯辰山の中腹にある割烹料理店行った。

 店に入ると広い店内の中央に大きな生け簀があった。仲居に案内されて生け簀の周りを回って奥の上がり框から上がり、廊下を伝って幾つか並んでいる襖で仕切った小部屋の一つに通された。

 その部屋には大きな窓があった。黒木目のローテーブルを挟んで両サイドに座ると、私の位置からは、日が落ちて黒々とした木々の枝越しに、浅野川の両岸の古い町並みがぼんやりと見下ろせた。橙色の街灯に照らされて黒い瓦の屋根が規則正しく並んでいるのが分かる。下流の方を見ると、武蔵が辻の白っぽい高層のホテルが浮き上がって小さく見え、さらにその向こうに金沢駅前の高層ホテルのシルエットが見える。

「古井由吉って、知ってる?この下の対岸の街に住んでいたことがあるらしい」。私が料理の運ばれるまでの間窓から街を見下ろしていると、吉岡氏が言った。「『杳子』とか『櫛の火』とか…」

「古井由吉なら知ってます。『槿』とか…。古井は金沢にいたことがあるんですか」

「プロ作家になる前、ドイツ文学の先生として赴任してきていた。ここから見ると浅野川の対岸の少し下流の方、並木町というところで下宿していたらしい」

 何処かで見た写真の、笑顔なのに厳つい古井由吉の顔が目に浮かんだ。顔同様に文章も難解だが、昭和の女が濃密に描かれているのが気になって小説を何冊か読んだことがある。それにしても吉岡氏は、そんなニッチな話をよく知っているなと感心した。

 吉岡氏が幾らのコースを頼んでいたのかは知らないが、次々に料理が運ばれてきていた。彼の注文した天狗舞という酒は甘くて、今日の料理に合うと思った。

 こうして、吉岡氏と時々飲みにいくようになった。飲み代は、私も一部出すことはあったが、ほとんどは吉岡氏が出した。吉岡氏は、君と飲むのが楽しいから誘っているので、お金はいらないと言った。

 吉岡氏と会う場所は、人目に付きやすい飲み屋街を避けて、金沢市内でも少し郊外にある小料理屋やスナックのようなところが多かった。

 二人で行ったある飲み屋の壁に鴨居玲展告知のポスターが貼ってあることがあった。鴨居玲は背景が暗くて人物も何かグロテスクな感じがして、どちらかと言えば、私には苦手な画家だった。しかし吉岡氏の解説を聞いていると、不思議なことにだんだん興味が湧いてきて、作品展を見に行ってみようかと思えるようになってくるのだった。吉岡氏は話題が豊富で、しかも知的だった。

 午前0時を回った深夜になって、片町の繁華街に戻ってくることもあった。彼は交差点角の雑居ビルの6階にある行きつけのスナックに私を連れて行った。

 スナックに入ると、いつも「はるか」と名乗る同じ女性が出て来た。歳は私と同じくらいだろうか。彼女は他の客のいるボックス席にいても、私達の姿を見つけると別の女性と交代して二人のいるボックス席にやってきた。

 吉岡氏はこの女性を好いているように見えた。はるかもまた吉岡氏を好いていて、二人は気心が通じているようだった。吉岡氏とはるかの会話は、最近どこそこに行ったとか、何を食べたとかといった他愛のない内容で、何が可笑しいのか二人で大笑いをすることもあった。二人で話が弾むと私は取り残されて白けてしまった。

 ところで、会社では、吉岡氏は相変わらず薄いピンクのハンカチで包んだ弁当を持参して食べていた。彼には奥さんがいるはずだ。しかし妻のことを聞くと、

「妻?妻は居るけど、松本市内で義父のやっていた税理士事務所を継いでいるよ。稼ぎは僕より多いよ」と言った。「で、僕は単身で金沢にきているから、仕事以外はこうやって比較的自由に生活している」

「じぁあ、お弁当は」

「え?弁当…?それは同居している姉が毎朝作ってくれるんだよ。姉は離婚しちゃって、今は僕のいるマンションで一緒に住んでいる。というよりマンションは姉の所有で、金沢に赴任してきた僕が居候しているんだけどね」

 彼の話を信じて良いものかどうか分からなかったが、それ以上追及する積りもなかった。二人は飲み友達というだけで、それ以上の関係はない。だから吉岡氏の妻に知られるのを恐れる必要もないのではないか。とは言うものの、どこか後ろめたい気分がない訳でもないのだが。

 私が過去に心から結ばれたいと思ったことがあるのは、三輪だけだった。三輪との関係が中途半端に途絶えてからというもの、私の前に結婚を意識するような男性が現れたことは、これまで一度もなかった。それは、三輪以外の男性との結婚を考えなかったという意味でもない。そうではなくて、私は三輪以外の男については、思いっきり打算的になっていたからだ。知能が高くて仕事ができ、ある程度の所得があること、身長が175センチ以上あることなどが男に求める条件だった。

 自分のライフプランも考えていた。もし結婚をしたらいったん家庭に入り、子供が生まれ少し大きくなるまで家庭に留まり、それからもう一度社会に出て仕事を始めるという構想もあった。社会復帰する時に備えて、宅地建物取引者やFPなど、これまで仕事をしながら取得できる資格は幾つも取ってきた。資格さえあれば、それなりの就職先はあるだろうと思ったからだ。

 しかし私に言い寄って来る男達の中には、私の課した条件を満たす者はいなかった。どの男も頭があまり良くなくて、仕事もあまり出来そうにないように見えていた。

 既に三十台半ばまできてしまい、最近では、私はこのまま結婚しないで一生を過ごすのではないかと思う。吉岡氏は知的で私の好奇心を満足させてくれ、所得もありそうだ。私は図らずも彼に夢中になっているところはある。でも彼には妻がいることだし、結婚までは考えられないだろう。

 不眠症は続いていて、一睡もできない夜も時々あるにはあったが、その頻度はかなり少なくなっていた。また、吉岡氏が気遣うので、増田と飲んでいた時のように前後不覚になるまで飲んでしまうことはなくなっていた。私は少しずつ心の健康を取り戻しつつあるように感じていた。それは吉岡氏のお陰だと思う。


 そんなある日、郵便受けに1通の封筒を見つけた。

 その日は仕事で遅くなってアパートに帰り、いつものように1階の郵便受けを開けると白い封筒が入っていた。階段下の薄暗い蛍光灯に照らし出された封筒の表には小さな文字で「成田薫様」と書かれていたが、住所の記載がなく切手も貼られていなかった。郵便物ではなく、誰かが直接投げ入れたものらしい。封筒の裏を見たが差出人の名前はどこにもなかった。

 自分の部屋に上がって、封筒をよくみると、宛名の文字は丸くて封筒に不釣り合いなほど小さかった。青い細いボールペンで薄く書かれている。筆跡を隠すためにわざわざ幼い子供の文字に似せて書いたのだろうか。或いは、必死で笑うのを堪えながらふざけて書いのだろうか。どこかに禍々しさが漂っている。

 封筒を開けると、中からは何枚かの写真を重ねてティッシュのような薄い紙で包んだものが出てきた。包みを解くとL版写真4枚だった。封筒の中はそれ以外に何も入っていない。

 心臓の打つ鼓動が耳に届くほど大きくなった。どの写真にも私が写っていた。写真は私を背後から、あるいは真横や斜め横から撮影したものばかりだった。何となく質感が、スマートフォンで撮影して自宅でプリントアウトしたもののように感じられる。

 何時撮られたのだろうか。写真を撮られているのに気付いたことはない。知らない間に誰かが私の写真を撮っていたのだ。私は恐怖と言うより気持ち悪さに身震いした。顔が色を失い強張っているのが鏡を見なくても分かる。

 少し冷静になって記憶を辿った。自分の着けている衣服や背景に映っている建物などの様子から、何時撮られたものなのか心当たりがないか1枚、1枚記憶を辿った。そして直ぐに一つの事実に辿り着いた。写真の撮られた日時はばらばらだが、いずれも吉岡氏と飲んだ日であると。ただ妙なことに、私の横にいたはずの吉岡氏は写っていない。写真は、巧妙に吉岡氏が写らないアングルで私だけを撮影したのだろうか。それとも後で吉岡氏の姿を消すような加工をしたのだろうか。

 鼓動がまた高鳴った。誰が盗撮して郵便受けに入れたのだろう。そして何のために盗撮したのだろう。

 吉岡氏と私の双方に関係する人物なら、会社の者としか考えられない。少なくとも私には、社外の者で私達に関心を持つ人物は思いつかない。

 吉岡氏も私も、二人のいるところを会社の者に見られないように気を付けていたはずだ。だが狭い街なので見られていても不思議ではない。そして恐らく会社の誰かがずっと以前から二人を尾行していたのだ。そう考えるより他はない。

 それにしても何の目的で盗撮したのだろうか。その場には吉岡氏と二人いたはずなのに、なぜ吉岡氏を外して私だけが写っているのか。同じ疑問が何度も頭の中を巡っていた。

 写真は私を脅すために撮ったのだろうか。それとも私に対する何かの警告だろうか。例えば、吉岡氏と付き合うなというメッセージかも知れない。

 そんなことをするのは誰だろう。増田?最近、増田からの誘いを全部断っているので、彼は最近の私の態度に疑問を持ったのかも知れない。私は彼を飲み友達としか思っていなかったが、彼は私をそれ以上に思っていたのかも知れない。宛名の稚拙に見える文字は、確かに増田を彷彿とさせるところがある。しかし増田がこんな偏執的な行為をするだろうか。やはり彼の性格からは想像しにくい。

 時計をみると1時を回っていた。

 盗撮したのは誰だろうと考え続けていたが、やがて一人の人物に思い当たった。

 アパートの近くで、その人をよく目撃するように思う。アパート近くにあるファミレスのようなラーメン店で彼を見掛けたことがある。その人は私より少し遅れて店に入ってきて、私の席からは少し離れたところに座ったが、私の方を時々盗み見していたのだ。私は少し気味が悪かったので、食べ終わるとその人に気付かない振りをして店から出ていった。

 アパートの下の道を、その人が周囲を見回しながら自転車をゆっくり漕いで行くのを、部屋の窓から目撃したこともある。それも一度ではなく二度、三度。

 ひょっとすると私のアパートの近くにその人の自宅があるのかも知れない。しかし、あまりにも頻繁にその人の姿を見掛けるのは少し奇異だ。

 その人とは、企画グループの嬉野フェローのことだ。嬉野氏は背が高くて、一見、飄々とした感じがするのだが、少し話をしてみると、粘着質でとても拘りの強い人だと分かる。嬉野氏はちょうど1年前、富山県の南端にある廃村を復活させるという「五風十雨村」の企画案を出してきたが、支社の意見としては不採用となった。しかし嬉野氏は諦めがつかないのか、その後何度も採用意見を出すように求めてきたのだ。既にGMの決裁が済んでいると説明してもなかなか理解してもらえなかった。あまりにも「五風十雨村」に固執するので、私は密かに嬉野氏に「五風十雨氏」という綽名を付けた。

 嬉野氏がストーカーという証拠はどこにもないのだが、支社内でその可能性のある人を一人上げるとすれば、五風十雨氏ではないだろうか。



(2)

 

 瀬野は警備員に内側から鍵を開けてもらって会社のビルに入ると、そのままエレベータで7階まで上がり、警備装置を外して管理グループの部屋のドアを開けた。

 ドア近くにある照明のスイッチを手で探り当ててオンにすると、瀬野の周りにぼんやりとした青白い空間が浮かび上がった。いつも仕事している部屋だが、今日はよそよそしくて寒々とした感じがする。

 瀬野は自分の席まで行くと、椅子に座るのももどかしく思いながら、直ぐに机の上のパソコンの電源を入れた。最新のものより一つ二つ古いバージョンのリースのパソコンは、暫くして青い画面に「Windowsの準備をしています」と出たが、そのまま動かなくなった。社内LANに接続されているためか、立ち上がるまでの時間が極端に長いのだ。それにしても今はその時間が異様に長く感じられる。

 ようやくパソコンが立ち上がると、瀬野は、まず審査チームのフォルダーを開き、その中の「企画案審査」という名前のついたフォルダーを開いた。フォルダー内のファイルは雑然と並んでいた。一見したところ100を優に超える数の文書だ。瀬野は着任してから一度もファイルを整理したことはなかったが、前任者達が整理した形跡も見当たらない。

 瀬野はこれらの中に探しているものがあるような気がしてならなかった。具体的なファイル名は分からないが、文書の中に、ある言葉が書かれたものがきっとあるはずだ。

 瀬野は更新日が1年以上前の日付になっている文書で、気になる表題の付いているファイルを次々に開いて、その内容を確認し始めた。

 しかし、瀬野の探していた文書は簡単には出てこなかった。それらしい表題に気を取られて、その文書を読み進めるのだが、肝心の内容には行き当らないのだ。30分ほど掛けておおかたのファイルを開いてみたが、探している内容は見つからなかった。見つけたい文書は、「企画案審査」のフォルダー内には存在しないのかも知れない。

 そこで、瀬野は検索機能を使うことにした。彼はフォルダーを指定せずに、見つけたい言葉そのもの、それは「五風十雨」なのだが、その文字を入力して検索を始動した。ハードデスクが唸り声を上げて高速回転を始めると、少し熱を帯びてきた古いパソコンからは埃の焦げるような微かな匂いがし始める。

 パソコンがどこまで捜索に出掛けているのか分からなかったが、暫くしてヒットし始めた。20分ほど掛かって十数件のファイルがヒットした。

 瀬野はそれらファイルの文書の内容を1件ずつ確認していった。そして、ようやく求めていたものを探し当てた。

 それは2年前の9月に作成された文書で、表題は、「『廃村の復活』なる企画案について」となっていた。作成者の記載はないが、恐らく成田薫が覚書風に作成したものに違いない。

 この文書を読み進めると、翌年度の予算を要求する企画案に関するものだった。その企画案というのは、富山県内の廃村を復活させるという企画のようだった。20年前に消滅した集落の跡地にグランピングや森林アスレチック施設を造成し、それら施設の従事者を大都市圏で募集し、彼らの定住を促してその集落を復活させるという構想のようだった。その企画案の名称が「渓谷の秘境『沢ノ木集落』の復活」らしい。成田はその企画案の一部を引用していた。そこを読むと「定住者の一部には帰農する者達も出てくるだろう。正に五風十雨の村の復活である」というくだりがあった。もちろん、この企画案の提出者は嬉野フェローだった。

 ということは、成田のブログに出てくる「五風十雨氏」は、嬉野フェローのことと考えて間違いないだろう。成田もまた僕と同様、唐突に出てきた「五風十雨」という言葉の印象が強かったので、嬉野フェローに「五風十雨氏」という綽名を付けたのではないだろうか。だとすれば、成田薫は嬉野氏をストーカーと考えていたとみて良いだろう。

 仮にそうだとして、成田はブログに書いていたように、盗撮された写真のことを嬉野氏本人に確認したのだろうか。あるいは警察には届け出たのだろうか。

 これは盗撮の話に留まらないかも知れない。成田はその後何らかのアクシデントで死亡したのだ。もし仮に嬉野氏が盗撮していたとすれば、彼が成田の死に関係している可能性だって否定できないのではないか。

 いやいや、嬉野氏が成田の死に関与なんて、軽々にそんな風に考えてはいけないのではないか。いやしくも当社のフェローだ。

 ふと誰かの高笑いが聞こえたような気がした。瀬野は視線を上げて部屋の中を見回した。

 照明は審査チームの天井の蛍光灯しか点いておらず、部屋の隅の薄暗がりには、机の上の電話機やプリンター、コピー機などの影が薄く伸びている。それらの物陰に人の気配がないかと目を凝らしたが、もちろん誰もいるはずはない。

 とにかく「五風十雨氏」が嬉野フォローのことだとはっきりしたので、この部屋での用は達した。瀬野はパソコンの電源を切った。

 席を立とうとするその時、瀬野に背後から何者かが猛スピードで近づいて来て、瀬野の頭上に息を吹きかけたような幻覚に襲われた。瀬野は振り返って背後を見たが、もちろん誰もいない。

 瀬野が廊下の照明を全て切って、さらにエレベータの照明を切り、暗闇の中をエレベータの方に歩き出すと、どこか別の階に止っていたエレベータが動き出して、それが決まり事のように瀬野の到着に合わせて扉が開いた。青白い眩い光が瀬野の足許を照らし出す。瀬野は迎えに来たエレベータに乗り込み、1階のボタンを押した。


 嬉野フェローにストーカーの真相を質すべきだろうか。それとも警察が既に事件性がないと結論を出しているのに、関係のない僕が今更首を突っ込んで拘るべきではないのだろうか。瀬野はアパートまで自転車を漕ぎながら、心の中で自問自答していた。

 成田薫という女性は仕事の前々任者で、アパートの前に住人ではあるが、一度も会ったことがない女性だ。その女性の死因を探ってどうしようというのか。こんなことに拘る自分は普通ではないのだろう。

 一方、嬉野フェローは僕の仕事上のパートナーだ。仕事上とは言え、彼への疑惑を抱いたままで今後も付き合い続けるというのは、それはそれで苦しくて堪えられなくなるのではないか。

 そのうちに先日の夢に出てきた義母の、念仏のように「真相究明、真相究明、…」と唱える声がいつしか頭の中で渦を巻き始めた。夢の中に出て来た義母の声には、頬被りしたままで成田の事件をやり過ごそうとするのを咎めるような響きがあった。

 もし嬉野フェローに質すのであれば、二人で現地調査に出掛ける明日しかないだろう。仕事を終わった後に、嬉野に成田との関係を訊くくらいの時間はあるだろう。この絶好の機会を逃してはならないのではないか。

 しかし嬉野フェローはどこか得体の知れない人物だ。もしも成田を盗撮してその写真を本人の居宅に投げ入れたのが嬉野氏なら、彼は狂った野郎だし、さらに、もしも成田薫の死に直接関わっているのなら、正に危険人物と言うべきだろう。彼が本当に危険人物であるのなら、疑惑を口にしただけで僕はただでは済まないかも知れない。嬉野に真相を質すつもりなら最悪の場合を覚悟しておく必要があるかも知れない。

 瀬野はアパートに戻っても、暫く何も手につかずにぼんやり考え事をしていたが、ふと自分が空腹なのに気が付いた。何も飲んでいなかったので喉もカラカラだ。時計は午後9時を回っている。今から外に出ても近くの食堂は閉まっている時間だし、コンビニで弁当を買ってくるのも面倒な気がした。

 何か食うものはないかと台所の方を見回すと、シンクの上のガラス棚の中にカップ麺が見えた。いつ買ったのか覚えがないので、妻が持って来たものかも知れない。賞味期限をみると、まだ食べられそうだ。

 瀬野は片手鍋で湯を沸かしてカップに注いだ。そして冷蔵庫から缶ビールを取り出して飲み始め、麺が解れるまでの間に半分程を空けた。カップ麺を食べながら、残りの半分も飲み干した。さらに缶ビールをもう1本取り出して、冷蔵庫に残っていた固くなったチーズをかじりながら飲んだ。

 今日は土曜日なので、ゆっくり風呂に入る積りでいたのだが、そういう気分ではなくなった。シャワーだけ浴びて着替えを済ませると布団に入った。しかし、目が冴えていて寝付けなかった。時計をみると11時を回っていた。彼は起き上がってスマホを手に取った。

 名古屋の家族はもう寝ただろうか。しかし今夜中に氷見子にだけは伝えておきたいことがある。瀬野は妻の携帯に電話を掛けた。コール音が8回鳴り、諦め掛けた時に応答があった。

「何、こんな時間に」

「済まない。ただ君だけには伝えておきたいことがあるんだ。僕は氷見子と結婚して良かった。海斗や大和が生まれ、家族が出来て本当に良かった」。瀬野は少し興奮して目頭が熱くなっていたが、気持ちに偽りはなかった。

「突然、何を言い出すのかと思ったら…」

「離れて暮らしていても、いつも家族のことを思っていられるというのは、本当に幸せなことだ」

「それは確かにそうよ。私も、離れて暮らしていても、あなたが見守ってくれていると思っているもの。そう思うだけで心が穏やかになる」

「そう言ってくれると嬉しい。僕は、家族に感謝していることを伝えたかっただけだ。遅くに済まなかった。お休み」

「お休みなさい」

 氷見子は、いつまでも寝ないで騒いでいる息子たちを叱って、眠りにつかせたところだった。母親は自分の寝室として占拠している和室で既に寝息を立てている。こんな遅くに夫から電話が掛かって来て、いったい何の用かと思ったが、夫は何かに少し興奮しているようだった。こういう時は、その理由をあれこれ聞くよりもなだめた方が良いのだ。一晩寝れば大概の興奮は覚めるだろうから。具体的な要件があるのなら翌朝電話を掛け直してくるだろう。

 氷見子は自分もベッドに入った。そしてふと思い出した。そう言えば結婚する前、震災後の復興支援で仙台に短期間赴任していた瀬野から夜中に電話があった。あの時の瀬野も興奮していて何を言っているのかよく分からなかったが、仙台から帰って数日後、私と結婚したいと言って来た。今夜は何が言いたかったのだろう。



(3)


 嬉野フェローの運転するクリーム色をした古い型のランドクルーザーが瀬野のアパートの前まで来たのは8時過ぎだった。アパートの前で待っていた瀬野がランクルの助手席に乗り込むと、社内は煙草のヤニの匂いがした。ダッシュボードやシートは煙草のヤニでねちねちした感じがする。そのダッシュボードの上には、何かが入った古い書類封筒や折り畳んだ地図、小型のコンベックスメジャーなどが無造作に置かれている。後部座席をみると、そこにも何が入っているのか分からない使い古した段ボール箱が乗っている。

 ランクルは市街地を抜け、国道159号線津幡バイパスから、のと里山海道に入り、穴水方面に向かって走った。

 天気は上々だった。瀬野は、左手に穏やかな日本海が広がりどこまでも砂浜が伸びているのを、ワイヤーロープのガード越しに見ていた。砂浜の所々に船小屋のような粗末な建物が建っている。道路の法面から延び出たヨシなどの雑草や海風で捻じ曲げられた木々の枝で時々視界が遮られるが、暫くするとまた海が見え出す。

 しかし、柳田インターを過ぎた辺りから道路は内陸へと入っていき、海も砂浜も見えなくなった。代わりに両サイドには雑木林の木々と、草に覆われた切土の法面が交互に続く。

 道路は片道2車線から1車線に変わり、対面通行区間が長い間続く。そして時々追い越し可能な2車線区間が現れる。すると嬉野フェローはアクセルを踏み込み120キロオーバーで追い越しを掛かる。しかし、2、3台追い越すと再び1車線の対面通行区間に戻り、嬉野のランクルの前には悠々と制限速度内で走る車が現れる。だから追い越しをしてもしなくても、到着時刻はそれ程変わらないだろう。

 瀬野の自宅前を出てから1時間20分余り経っていた。ランクルは「のと里山空港インター」まで自動車道を走り抜くと、そこから長いカーブのランプを降りて、自動車道の下を並走している主要地方道に出た。その道路を僅かに空港に向かって走ったところで、ランクルはスピードを落として路側帯に寄り、さらに草むらの中に入って止まった。現地はこの辺りらしい。

 嬉野に続いて瀬野も降りた。目の前500メートル程の所に、広葉樹に覆われた低い丘陵が道路に並行して横に伸びており、その丘陵の裾から道路までは雑草と灌木に覆われている。

「予定地は、この当たりの1千400坪ほど」

 嬉野はそう言うと、ダッシュボードに置いてあったA3の茶封筒の中から公図の写しを取り出して、該当する部分を指でなぞって瀬野に示した。

「恐らく、左向こうの、あの高い木の生えている辺りから、その田んぼの畦までが予定地。境界が一部残っているが、ほとんど分からなくなっている。公図が古過ぎるから、現況とは合わせても合わない。しかし1千400坪ほどの土地があるはずだ」

 工場の跡地と言っていたので少しは整地されているのかと思っていたが、一見したところでは原野と区別がつかない。

「少し歩いてみる?」と嬉野が言った。「地主の会社には立ち入りの了解を貰っている」

 嬉野が草むらに入った。そして胸の高さまである生い茂った草を掻き分けながら、一人で進んでいく。突然の闖入に驚いて、バッタやイナゴが草むらの上で飛び跳ねている。辺りは二人以外に誰の姿も見えず、背後の道を1台の車が通り過ぎたが、そのエンジン音も遠ざかっていく。

 荒地を先に行く嬉野の背中が僅かな間に小さくなっていた。まだランクルの近くにいる瀬野は、嬉野の背中を追うことにふと不安を覚えた。しかし今は仕事をする時だ。仕事は仕事としてきちんとしておこう。嬉野と対決するのは今日の仕事が終了してからだ、と思い直して草むらの中に入った。

 雑草の中に踏み出すと、バッタや名も知らない小さな羽虫が驚いて飛び跳ねた。少し進むと、昔盛土に使ったと思われる赤色の土が雑草の根元にところどころに見えた。やはり何らかの施設の敷地であったのは確かなのだろう。

 ススキやエノコログサの穂、カヤの葉が両手の甲に触れて痒くなった。その両手を庇いながら足で草を掻き分けて奥へと進み、ようやく嬉野に追いついた。

 二人が丘陵の裾が見えるところまで来ると、その裾を這うように細い里道が通っているのが遠くからも見通せた。その少し手前のところで、赤い紐状のものが草むらの中に見え隠れしていた。その方向に少し歩いて行くと、擦り切れた赤いビニル紐の先が地中から出ているのだった。

 その周辺には、朽ちた戸板や木の棒の切れ端のようなもの、瓶のかけらなどが散乱していた。堆積したゴミの湿っぽい嫌な匂いがした。この匂いは少し手前から感じていたのだが、ここが発生源のようだ。道路から見た時は雑草で覆い隠されて見えなかったが、どうやら、この辺りの地中にはゴミが埋もれているようだ。何時頃投棄されたのか分からないが、最近ではない。半分埋もれた瓶の一つは、昭和時代のファンタの空き瓶に見えた。

 瀬野がゴミを見て顔を顰めていると、嬉野は、

「ゴミの投棄はどこでもあるものだよ」と言った。「地主には土地取得の前に埋設物の調査をしてもらう」

 それから嬉野は丘陵の方に向かって歩き出した。その後を瀬野が追っていくと、嬉野は丘陵下の里道に出た。瀬野も道に出て嬉野と並んだ。

「この里道と県道、左の田んぼの畦とあの木。それを結んだ線が予定地ということになる」と嬉野は四方を一々指し示しながら言った。「自動車道のインターはそこで、空港はあそこ。近いでしょ。自動車道は輪島の市街地まで延伸される計画で、今工事中だよ。その近隣に臨空工業団地もいま建設中」

 瀬野は、ここに住宅が立ち並ぶ様子を想像してみた。企画案では、ここに30棟ほどの戸建て住宅を建設することになっている。集落から離れたほぼ何もない里山の麓に突如団地が現れるのは相当の違和感がある。しかし、交通アクセスは良さそうだ。山間にしては土地も広い。企画は現実性がないとも言えないように思えてきた。

 道の脇に停めたランクルに戻るために、二人は再び草むらに足を踏み入れた。相変わらずイナゴやバッタが飛び跳ねている。嬉野はあたかも勝手知った庭先のようにどんどん草むらの中に入っていき、瀬野は取り残されまいと必死に彼を追ったが、慣れない足取りなので距離を空けられた。

 草むらの中ほどまで来た時だった。突然太い綱のような物が瀬野の目の前の宙を飛んだ。一瞬だが、小さな頭と太い腹の白い模様が目に留まった。瀬野の右足が草むらを這っていたアオダイショウを蹴り上げてしまったのだ。

 瀬野はその場に立ち竦んだ。足の甲に蛇を蹴り上げた時の腹の感触と質感が蘇った。瀬野は「うっ」という声を立てた。身体中の毛が総立ちになり身震いした。震えはなかなか止まらない。その間も眼は大急ぎで草むらの中に大きな蛇の姿を探したが、既に姿は見当たらなかった。

 だが風も無いのに少し手前の草がかさかさと揺れている。彼も大慌てで身体をくねらせながら逃げて行くのかも知れない。草むらを歩いていれば出会っても不思議ではない物に出会っただけなのだが、不意打ちを食らって取り乱してしまった。

 嬉野は後ろの瀬野が蛇に遭遇したのには気付いていないようだった。彼はずっと先を歩いていて、直ぐにランクルに辿り着きそうな所にいた。

 瀬野は急いで嬉野の後を追ったが、蛇のことが頭を離れなかった。草むらに待ち伏せしていたさっきの蛇が、突然足に絡み付いてはこないかと、ありそうにもないことを恐れながら、草を踏み分けて歩いた。

 嬉野は先にランクルの側まで戻ると、煙草に火を点けて煙をくゆらせながら、遅れて歩いてくる瀬野の方を見ていた。

 瀬野がようやくの思いでランクルの所まで辿り着くと、嬉野はランクルに乗り込み、灰皿で煙草をもみ消すとエンジンを掛けた。そして瀬野が息を切らせながら助手席に座ると、ランクルを勢いよく発進させた。

「どうだった、予定地は」と嬉野が聞いた。

「まあ、何とかなりそうな企画のようにも思えてきましたが、」と息を整えながら応えた。「まあ、でも…」

「でも?」

「仮に僕が採用するべきだと言っても、GMがどう言うか…」

 嬉野はチッと舌打ちした。運転している嬉野を横目でみると、不満が顔に浮き出ていた。

 予定地は見たが、これで現地調査が終わった訳ではなかった。交通アクセスや予定地周辺の状況を実際に見て確認しておく必要がある。ランクルは主要地方道を珠洲の方向に少し走り、途中で右に大きくカーブしてランプを上った。高台に上り切ると空港の白い建物が見えた。空港は里山を切り開いて造られていた。

 確かに予定地からは近い。車なら5分で来られる距離だ。駐車場も広いし問題はない。

 それから、空港を出て輪島の市街地に向かった。空港から輪島の市街地までは約18キロで所要時間は約25分だった。のと里山海道が市街地まで延伸されれば更に早くなるだろう。ただ小学校までの距離が約6キロある。子供の足だと通学にかなり時間が掛かりそうだ。

 予定地近くまで戻ると、今度は穴水町の方向にランクルを走らせた。穴水町の市街地までは約12キロで所要時間は約17分だった。穴水まで行けばスーパーマーケットも病院もあり、車さえあれば生活に困ることはないだろう。

 それから再び空港に戻り、嬉野と瀬野はターミナルビルの3階にある食堂で、少し遅い昼飯を食べた。3階の廊下から滑走路を見下ろしたが、ANAの定期便が11時前に飛び去った後なので飛行機はなかった。

 ところが滑走路の向こうを見渡していると、遠くの建物の影に、旅客機が横付けされているのが小さく見えた。瀬野が嬉野に聞くと、そこは日本航空高校のキャンパスとのことだった。

 そういうことなら、仮に生徒数が数百人なら、この辺りの人口密度が低いともいえないような気もしてきた。


 現地調査を終えた瀬野と嬉野は帰路に就いた。ランクルは穴水インターからのと里山海道に入ると、金沢方向に走り出した。

 瀬野は、まずナタリーの、否、成田薫のブログに書かれているストーカーが嬉野であるのかどうか、直接本人に問い質そうと決めていた。そこでランクルが越の原の山間を猛スピードで駆け抜け、別所岳を過ぎ、左に連なる丘陵の間から七尾湾が覗いた辺りで、瀬野は運転中の嬉野に話し掛けた。

「『五風十雨』って、いい言葉ですね。恥ずかしながら僕は企画書見るまで知りませんでした」。運転している嬉野に反応はない。「フェローは、2年前にも五風十雨村の企画案を出しているんですね。どうして採用されなかったんですか」

「どうしてって…」。嬉野は呆れたように顔を顰めた。そして、「その時の担当者が推奨しなかったんでしょ」と、あたかも他人事のように言った。

「成田って職員が、ですか」

「そう、瀬野さんの前々任の女性の担当者が」

 それから暫く沈黙が続いた。ランクルは、右へ左へとなだらかにカーブしながら下っていく道を、スピードを緩めることなく走り続けている。

「ナタリーのブログって、見たことあります?あれ成田職員が書いていたんじゃないかと思うんですが」

 瀬野はそう嬉野に質しながら彼を一瞥した。一瞬だが僅かに嬉野の顔に動揺が走ったように見えた。

「ああ、見たことはあるよ」

「ブログに『五風十雨氏』って出てきますが、ご存じですか」。

 また一瞥した。嬉野の顔にもう動揺は見えない。落ち着きを取り戻したようだ。

「知ってるよ」

「五風十雨氏というのは、嬉野さんのことですか」

 嬉野は僅かな時間応答しなかった。何かを考えているようだった。そして、

「何が言いたいの?僕が盗撮していたって?」と言った。明らかに腹を立ててるような口調だった。

「…」

「僕は全然関係ない。警察だって知っているはずだよ」

「えっ、警察も」

「そう、警察。警察からも事情を聴かれて、盗撮もストーカーも僕じゃないことを説明したし、警察も納得したはずだよ」

「…」

 警察もブログの存在を知っていたのか。警察がそこまで調べていたというのは意外だった。しかし警察がかなり時間を掛けて成田薫の死を調べていたと聞いていたので、考えてみればブログを発見していて当然かも知れない。

「瀬野さん、あなた、俺にそれを聞きたくて、今日の現地調査に付き合ったって訳じゃないんでしょ?」

 嬉野はそう言って、助手席の瀬野を一瞥した。瀬野は、思い掛けない反撃にあって少し慌てた。

「いや、そういう訳じゃないです。誤解しないで下さい。現地調査は仕事として同行した積りです」

 嘘ではない。現地調査はしっかりと行ったつもりだ。

「じぁあ、いいんです。今日、しっかり現地を見て頂いたのなら。いい結果を待ってますよ」

「…」

「まあ、瀬野さんが、いろいろ疑問を持たれるのは理解できますよ。あれは確かに、よく分からない事件でしたからね。あの女性も、気の毒なことだったとは思いますよ。人生、何時、何があるがあるか分かりませんからね」

 道路は少し込み始めていた。


 瀬野は、成田薫のことをどこまで知っているのだろう、と嬉野は考えた。暇潰しでネット上をスクロールしていたら、たまたま成田のものらしいブログが出てきたといったところか。瀬野はまだ何も分かってはいないのだろう。こいつに何が分かるものか。成田薫のことなど何も知らないだろうし、ましてや俺が彼女をどう思っていたのか、分かるはずはない。

 西山インターを過ぎた辺りから前方に遅い車が現れて道路が込みだしてきたので、嬉野は少しイラついた。

 道路が右に大きく湾曲する際に、5、6台前を走っている白い軽自動車が、この車列の先頭車らしいことが分かった。軽自動車はその後ろに、先を急いでいそうな何台もの車、いやランクルの後ろの連なりも加えれば十数台の車を従えて、悠々と法定速度で走っていた。

 嬉野は「自分の安全しか考えない利己的なヤツだな。車の流れを乱すこういうヤツが事故を引き起こすのだ」と心の中で彼独特の理屈を並べて白い軽自動車の運転手を罵った。

 それにしても、現地調査で俺が盗撮者かと瀬野に聞かれるとは思わなかった。確かに成田のブログに「五風十雨氏」と書かれているのを読めば、俺が盗撮者ではと疑いたくなるのは無理もない。成田がとんでもない勘違いをして、ブログに妙な事を書き込むからだ。

「込んできましたね」と瀬野が言った。

 気まずくなって話題を変えてきたのだろうと嬉野は思った。そこで嬉野は、

「能登観光からの帰りの車だろうね」と瀬野の話を受けてやった。そして、

「ナンバーをよく見て。前の車、レンタカーだね」と言った。

 彼らのランクルの前を走っているのは、ミニバンのレンタカーだった。

「さっきから何台もレンタカーを見掛ける。恐らく関東方面から新幹線で金沢に来て、駅前で借りた車で能登観光をしてきた帰りなのだろう。能登の交流人口は相当多いんだよ。だからという訳でもないが、『五風十雨村』は十分に実現可能な計画だと俺は思うがね」

「なるほどね」と瀬野は返答したが、彼の頭の中は、嬉野氏に次に何を聞けば良いのか考えるのに一杯で、今は「五風十雨村」のことを考える余裕はなかった。

 嬉野氏が「俺は盗撮していない」と否定した以上、次に何をどう質問すべきなのか瀬野には分からなかった。瀬野は今日、嬉野フェローに成田薫のことを色々聞き質そうと勢い込んで出てきたのだが、明らかに準備不足だった。

 柳田インターを過ぎると、右手に再び日本海が見え始めた。夕日が雲間に見え隠れしている。嬉野はサンバイザーを下ろして眩い光を遮った。秋の日の暮れるのは早い。もう少しで海は黄金に染まりそうだった。

 二人は無言のまま白尾インターから自動車道を降りて国道159号線、山側環状線を走り、瀬野のアパートまで戻った。

 嬉野のランクルから降ろされた瀬野は、嬉野との一本勝負に負けたような惨めな気分だった。


 <嬉野フェローの祈り>


 成田薫については、何から話を始めれば良いのか分からない。成田の姿を会社のロビーで見掛けた時、どうして彼女が金沢にいるのかと驚いた。彼女が大東亜開発の社員であることも、今年の異動で金沢支社に来ていたことも後で知った。LANの異動情報を見ていれば知り得たことなのだが、嘱託の俺は、会社の人事には全く関心がないので異動情報を何時もスルーしていた。

 その成田が管理グループの審査チームであることを知った時には、これは何かの巡り合わせかも知れないと思った。

 事務的な打ち合わせに成田のところに行ったのだが、彼女は俺のことを全く覚えていないようだった。彼女にとって俺はそれほど薄い存在だったのかと思うと、少し情けない気分にはなった。

 俺は成田のことをよく覚えていた。十数年前になるが、彼女は俺と同じ研究室だった三輪といつも一緒にいたからだ。成田薫という名前ももちろん知っていた。何の話だったか忘れたが、彼女と一言、二言話をしたこともある。彼女は地味な三輪とは対照的に人目を惹く女性だった。女性としては長身で、鼻筋の通った綺麗な顔をしていた。肩までのちょうちん袖のブラウスから伸びる、彼女の2本の白い細い腕をみると、恥ずかしながら俺はドキッとしたものだ。

 しかし一人で孤独に生きていることに捻じれた自負心のようなものを持っていた当時の俺は、男女が連れ立って楽しそうにしているのを見せつけられるのは不愉快だった。三輪と成田の二人が一緒にいるのを見掛けると、早く俺の前から立ち去れと、いつも心の中で呪っていた。

 その彼女が当時の成田姓のままで金沢にいるのは、三輪との関係がうまく行かなかったからではないだろうか。最近は、旧姓で通す女性も多いので、断定まではできないが。

 三輪が超氷河期に運よく入社できたゼネコンを1年ほどで辞めたという話は、同期の誰かから聞いて知っていた。成田は有望な就職先を失って将来が見えなくなった三輪を見捨てたのではないだろうか。もしそうでないとしても、他の何かの理由で喧嘩でもして別れたのではないか。

 そう思うと、俺は急に成田という一人の女性に興味が湧いてきた。これは自分でも不思議なことだった。それまで俺は特定の女性に興味を持ったことがなかった。いや、その言い方は正直でない。恥を忍んで言うと、仮に関心を抱いた女性がいたとしても近づく勇気がなかったので、関心がないのだと自分に言い聞かせてきた。俺は不細工で容姿に自信がないし、気の利いた話も出来ない。さらに対人関係が苦手で、ほんの些細なことでも俺の心はすぐに傷付いた。だから女性に拒絶されて、自分がひどく傷付くのを無意識のうちに避けていた。

 しかし成田は俺のことを何も知らないが、俺は彼女の過去を少し知っているということが、何か俺の心に余裕のようなものを生み出していた。

 ある日、俺は勇気を出して管理グループの部屋まで出掛け、自分から彼女に話し掛けてみた。もちろん、これも仕事の打ち合わせの日時などの事務的な話でしかなかったのだが。 

 彼女と少し話してみると、彼女がとても聡明な女性であることが分かった。何を聞いても無駄のない的確な答えが返ってくるからだ。俺は嬉しかった。

 誤解のないようにしておくが、俺は彼女とプライベートで、男と女として親しくなりたいと望んでいたのではない。彼女なら俺の仕事を理解してくれるのではと直感的に感じたので、嬉しかったのだ。

 俺は、ちょうど廃村を復活させるという企画案を策定中だったが、説明を尽くせば、彼女はその企画の素晴らしさを理解してくれ、それに捧げる自分の情熱も理解してくれるのではないかと、根拠もないのに期待が膨らんだのだ。


「沢ノ木集落の復活」というタイトルを付けた企画案は、人口の再配分と消滅集落の復活を意図している。

 過疎地域の自治体はコンパクトな街づくりと称して、中心市街地への定住化を推進しているが、これは限界集落の切り捨てに他ならない。集落が消滅すれば、農地も山林も荒地になり、国土は荒廃していく。超高齢化と人口減少が急速に進む中で、町の中心部に住民を集約せざるを得ないというのは、俺からみれば、敗北の理論だ。なぜなら中心地もまた高齢化と人口減少からは逃れられないからだ。彼らは、大都市圏から若者の地方への流入を促して集落を再生させる努力をどうしてしないのだろうか。それが真のサスティナビリティというものではないだろうか。

 俺の父は農水省の技官で転勤族だった。俺が中学生になる頃までは、家族で、つまり両親と俺と妹の4人で2年か3年毎に引っ越しを繰り返していた。

 父はどこに赴任しても、休日になると自家用車のパジェロで野山や辺鄙な田舎の集落を巡っては写真を撮って回っていた。そして、内向的で友達が出来ない俺を見かねて、父はよく俺をそのドライブに連れ出した。

 ドライブが父の単なる趣味なのか、それとも仕事の一環でもあるのか俺にはよく分からなかった。ドライブの先々では、耕作放棄地や農家の廃屋を熱心に写真に収めていたが、ドライブで行き着いたところが既に消滅した集落ということも多かった。父は今の言葉を借りれば、一種の「廃村マニア」だったと言えるかも知れない。

 そのドライブに誘われるのはいつも俺だけだった。母や妹を連れ出すことはなかった。まあ、家族の雰囲気から考えれば、仮に父が母と妹をドライブに誘っても、二人が来ることはなかっただろう。ドライブは常に父と俺の二人。俺が父に話し掛けることはほとんどなかったので、ドライブの間、父は自分の世界に浸っていることが出来ただろう。ひょっとすると、それも父の目的だったのかも知れない。

 その父が、ニコンの一眼レフで写真を撮りながら、

「均、よく見ておけ。人が住まなくなったら、家も土地もすぐに荒れ放題だ」と悲壮な声で言うことがあった。「これは国土の荒廃と同じだ。いずれ地権者が誰なのかも分からなくなり、治山や治水も困難になって、自然災害が起きれば大きな被害が発生するだろう」

 廃墟と化した家屋の、瓦がずり落ちて穴の開いた屋根、土が崩れ落ちて竹の桟が剥き出しになった土壁、紐の切れたブラインドのように垂れ下がる鎧貼りの板壁、木枠から外れて地面に落ちて変形した木製サッシ、割れた窓ガラスや食器の破片。周囲をみれば、背丈ほどの雑草が生い茂る畑、地面がひび割れて水を湛えなくなった水田。俺はそれらの光景を見ながら、人類の終末を予言するような父の声を聞いて、底知れぬ恐怖を感じたものだ。


 小学校4年生の時、一家で金沢に来て2年間住んでいた。

 俺には3度目の転校だったが、人と交わるのが苦手だったので、なかなかクラスメイトの中に入っていけずに、授業中も放課後もいつも一人だった。孤立を平然と受け入れられる子供なら苦はなかっただろうが、そんなはずもなく、クラスメイトに声を掛けようとして躊躇い、その意気地のない自分を呪うという無限のループに陥って苦しんでいた。

 当時の公務員アパートは、4、5階建てのアパートが立ち並ぶ団地になっていた。俺は夕暮れになると、適当な用事を作って母親の了解を得ると外に出て、自転車で団地内の同級生のアパートの窓を見上げて回った。それで何が分かる訳でもないが、窓に明りが点いていて人の影が映ったりすると、何となく同級生の暮らし向きが見えるような気がしたものだ。そして、もしかしたらその同級生と友達になれるだろうかと淡い期待が生まれることもあった。結局、翌日もその同級生には声を掛けられずに終わるのだが。夜に町の中を出歩く俺の習性はその頃に身に着いたのだと思う。

 金沢でも父とのドライブは続いていた。父は相変わらず谷間の小さな集落や棚田などを見て回っては写真に収めていた。

 ある日曜日、父はパジェロの中で2万5千分の1の地図を取り出した。地図は8分の1に綺麗に織り込まれていた。父はそれを開くと、「今日の目的地はこの辺りだな」と言って地図上に指先で円を描いた。

 地図には細い線で等高線が書き込まれている。目的地が如何に辺鄙なところにあるのかは、等高線の込み具合で容易に想像がついた。それを見て、また谷間の険しい道を行くのかと思うと物憂い気分になったが、同時に国土の果てまで行った先にどういう光景が開けているのか見てみたいという好奇心も湧いた。

 父はその地図を再び織り込むとお前にやると言った。地図の使い方について父は何も言わなかったが、その日以降、俺は父とのドライブで様々の土地を巡る度に、地図上にあるその地名を鉛筆で丸く囲み、横に日付を書いていくことにした。

 ドライブの範囲は、福井、石川、富山、新潟、岐阜の5県に及んだが、父は目的地が地図から外れると、また新しい地図をくれるようになった。そのうちに地図は何枚にもなったので、俺は束ねて地図帳を作った。

 父の転勤が単身赴任に変わり、二人のドライブがなくなったのは、俺が中学生になってからだった。そして例の地図帳は母と妹と3人で住むことになった川口のマンションの、俺の机の抽斗に仕舞い込まれた。

 そのまま地図は長い間忘れられていたのだが、俺は再び金沢に来ることになった時に、気まぐれでそれを取り出して、わざわざ金沢まで持ってきた。何か特に計画があった訳ではない。北陸にまで来たのだから、たまに昔の地図を広げて眺めてみたいと思ったからだ。地図帳の地図は黄ばんでシミが出来て、しけ臭くなっていた。折り曲げたところが破れかけ、実際に何か所か破れていた。だが俺にとってこれらの地図は父の形見のようなものでもある。

 ところで、妹が大学に入って自宅を出て、時を同じくして父親が農水省を早期退職した年に両親は離婚した。母は愛のない夫婦生活に疲れ果てていたのだろう。しかし後から思えば、二人は財産分与などの面倒なことまでして離婚する必要はなかったのではないだろうか。父親は退職後民間企業に再就職していたが、離婚の数か月後、再就職先のオフィスでクモ膜下出血を起こし、救急搬送された病院でその日のうちに死亡したからだ。家族の誰にも最期を看取られることもなく父は亡くなった。母があと数か月結婚生活に耐えていれば、「円満に」死別できたものを、人生とは皮肉なものである。喪主はまだ学生だった俺が務めた。母は、当然、親族席にはいなかった。骨は浦和の寺にある嬉野家の墓地に入れた。本当は、日本中の野山に散骨できれば良かったのだが。そうすれば父も本望であったのだろうが。


 それは、成田薫と再会する1年以上も前のことである。ある日曜日、俺は古い地図帳を持ってランクルに乗り町を出た。そして、富山県南砺市内の国道471号からT川沿いに南下する県道に入った。

 T川を左手に見下ろしながら、下草の覆うナラやブナの木立の中を走っていたが、やがて県道は、T川の深い谷が右手に変わる辺りから、まるで山肌をトラバースのように這う狭い道へと変わった。見たところ幅員は3メートル足らずで、対向車との擦れ違いも難しそうになった。道路の両サイドからはススキ、シダ類などの雑草が路肩を越えて車道を侵食している。細かくカーブの続く道路は雑草と木立に視界を遮られて、数十メートル先も見通せない。広葉樹の枝や葉がまるで洗車機のブラシのようにランクルのフロントガラスをなぶった。

 次第に山は険しくなり始め、地滑り頻発地帯へと入って行った。山裾にはブロック積みや玉石積み、幾段も積んだ蛇篭などの擁壁が連なる。路面はところどころでダートになっていて、洗い越しとなっている所もあった。山から出た水が道路を横切ってT川に流れ落ちているのだ。ランクルは速度を落として水しぶきを上げながらそこを走り抜けた。

 この道は、20年余り前に父の運転するパジェロで通っているはずだが、あまり明確な記憶はなかった。というのも、父とのドライブはいつもこんな道の連続で、今走っている道路が決して特別という訳ではなかったからだ。

 やがて視界を遮っている草木の合間から、右前方にダムの構築物とその管理事務所らしい建物が見え隠れし始めた。暫く走りダムが大きく見え始めると道路の幅員が次第に広くなってきた。腕や肩を強張らせている緊張が少し解れる。

 管理事務所の前までくると、鼠色のプロボックスが1台止まっていた。ダムを管理している県の車のようだ。俺はそのプロボックスの駐車している少し手前で、ダム湖に向けてランクルを停めた。

 ダム湖の淵は、赤白で縞状に塗り分けられた幾つものアーム型の防護柵が囲んでいる。俺はランクルから降りると、防護柵越しにダム湖を見下ろしながらセブンスターを1本取り出して火を点けた。

 ダムに張った水面は不透明な草色を湛え、その水面には対岸の山が黒い影となって写り込んでいる。薄曇りの空の下で名も知らない野鳥が湖面の近くを短く鳴き渡っていく。

 対岸の山裾は険しい岩肌を見せている。この辺りは、地理学的に言えば中起伏山地だ。地質的には恐らく花崗岩、片麻岩帯だろう。対岸の山の樹をみるとブナやナラなどの広葉樹林の中にところどころパッチ状になったスギの植林が見える。

 セブンスターを吸い終わるとランクルに戻り、再びエンジンを掛けた。そして駐車しているプロボックスの横を通って再び県道に出た。

 市街地から南下してきた県道は、ダム湖に沿いながら今度は大きく左に旋回し、東向きに変わっている。ランクルが走り始めると、道路の幅員は再び狭くなり、山側にはブロックや蛇篭の擁壁が連なる。そして、洗い越しが現れ、それを乗り越えるとまた洗い越しが現れる。しかし目的地はダムから近いはずだ。

 ダムの管理事務所の前を出発して10分近く走っただろうか、視界の左右を覆っていた木々が見る見る遠ざかり視界が開けてきた。谷を流れる川の位置が視界から後退し、ちょうど谷底が開くように谷間に荒地が現れた。

 荒地は、カヤやエノコログサ、ススキなど背の高い草が覆っているところもあるが、古い砂利舗装の上に地を這うような雑草が疎らに生えているところもある。

 俺のランクルは左右に荒地の広がる県道を走っていたが、危うく木々に隠れていた赤い鳥居の前を通り過ぎようとしたところで慌てて止まった。

 この鳥居には確かに見覚えがあった。鳥居の横に建つ石標には「沢ノ木八幡宮」と書いてあった。ここに間違いない。二十数年前に父と来たのは、ここにあった集落に間違いない。

 俺はダッシュボードの中から、古い地図を取り出して確認した。古い地図には、「沢ノ木」という活字を鉛筆で丸く囲んで、その横に幼い俺の字で「平成4年9月13日、くもり」と書かれている。

 俺は鳥居の向かいの、エノコログサやオオバコが疎らに覆っている荒地の中にランクルを乗り入れて停めた。

 降りて周囲を見渡すと、いま走ってきた県道沿いに古い家屋か倉庫のような建物が2棟だけ確認できた。二十数年前この沢ノ木集落に来た時には、今は荒地となっている所に十数軒の民家が建っていたように思う。

 鳥居の奥を見ると、石の階段が上の方まで延びていた。樹木の枝葉に覆い隠されて先は見えないが、階段を上った先には今も社殿は存置されているのだろう。鳥居の周囲だけは明らかに草が刈られており、誰かが八幡宮の世話をしているのが分かる。


 地図に書かれた日付によれば平成4年9月13日、時刻は恐らく午後3時頃だったと思うが、谷間の集落はもう暮れかかっていた。父は今俺がしたのと同じように鳥居の向かいの空き地にパジェロを停めた。そして、俺には車の中にいるように言ってパジェロから外に出ると、鳥居の前に佇んでいたグレーの作業服を着た男性と立ち話を始めた。男性は父と同じくらいの年齢に見えたが、少し猫背で父に比べると背が低かった。暫くすると立ち話が終わり、男性は近くに停めてあった軽トラックに乗り込んだ。父もパジェロに戻ってきた。軽トラックはゆっくりと走り出し、父もその後を追って走り出した。

 軽トラックは集落の外れで停まり、男性は車を降りて森の中に入って行った。父と俺もまたパジェロから降りてその後を追った。

 広葉樹の生い茂る薄暗い森の中に入ると、ザーという音が聞こえて来た。少し行くと川が流れていた。いや川と言うより沢と言った方が良いかも知れない。剥き出しの岩や苔の生えた丸みのある大きな石に水が当たり、しぶきが上がっていた。水量はかなり多かった。沢は恐らく森を抜けてT川に注ぐのだろう。

 男性は沢の淵に立って二人を待っていた。そして父親が到着すると、男性は「あれがや」と言って沢の中を指さした。そこには沢には流れを堰き止めるようなコンクリートの構築物が打ち込まれていたが、沢の両淵に接した部分だけが残り、その中央部分が大きく破損していた。父は、それを見て、

「ああ、それね。先日の山の降水量が1日80ミリ以上なら、恐らく可能でしょう」といい、直接の窓口は村役場だから役場に連絡するように、というようなことを男性に言った。

 小学5年の俺には詳しいことは分からなかったが、男性は鳥居の前で父に、「数日前の大雨で壊れたのだが、何とか国の費用で修繕してもらえないだろうか」と相談していたようだった。沢の淵に残ったコンクリートの残骸は、灌漑用水をU字溝に引くための頭首工が壊れたものだったのだと思う。男性は村で水利の管理を任されていたのだろう。

 一方、父は予め何らかの連絡を受けていて、半ば仕事も兼ねて沢ノ木集落にやってきたのかも知れない。堰堤やため池、水路そして頭首工などの設計が父の専門分野だった。そして農村の災害復旧工事に携わることもあった。

 話が済むと、3人は森を出てそれぞれの車に乗り込んだ。そして2台の車は鳥居の所まで戻ったが、男性の軽トラックは鳥居の前を過ぎて走り、県道から谷川の方向へと続く脇道に入って行った。そしてパジェロもまたそれに続いた。

 軽トラックは、やがて1軒の、茅葺屋根をトタンで覆った古い家屋の前で停まった。

 俺はその後の光景を今でも鮮明に覚えている。

 男性が軽トラから降りるや否や、玄関の引き戸を開けて二人の子供が飛び出してきた。上の男の子は小学校1年生くらいで坊主頭だった。下の女の子は3、4歳くらいでおかっぱ頭だった。二人は大声で「お父さん」と呼んで近づき、男の子は男性の腕に絡みつき、女の子は右足に抱き着いた。男性は顔を崩して恥ずかしそうに父と俺の方を一瞥すると、女の子を持ち上げて右肩に担げた。女の子は父親の肩の上で手足をバタバタさせて大はしゃぎしている。

 そこに男性の妻らしい女性が出てきた。その女性は化粧っけがなく肌が荒れているように見えたが、とてもにこやかな顔だった。父と俺に是非家の中に入って1服するようにと誘った。父が、もう遅いので失礼すると言って固辞すると、女性は家の中に入って、何か新聞紙に包んだものを持ってきた。そして、土産に山芋を持って帰れと言って持たせてくれた。

 たったそれだけのことだった。しかし、それは我が家にはない光景だった。二人の子供は全く屈託のない笑顔で父親が帰宅した喜びを全身で表し、妻もまた裏表のない笑顔で夫と、父と俺の二人とを迎えた。

 俺は何か熱い思いが込み上げてきた。こんな家族が本当の家族ではないだろうか。決して豊かな暮らし向きではなく、山の中で不自由な生活を強いられているのに違いないが、それにも拘わらずとても幸せそうに見えた。日本の家族は、本来こんな家族でなければならないはずだ。

 両親が喧嘩をしているのを見たことはないが、家族で歓談することもほとんどなかった。

 父の帰宅はいつも夜10時を回っていたし、土日は役所に行くか、パジェロで俺だけを連れて野や山を巡っていたので、父が家にいる時間はとても少なかった。母と妹がパジェロに乗って一緒に来るということは一度もなかった。

 母は父の言うことに黙って従ってはいたが、慕っているようには見えなかった。母はいつも公務員アパートにいて家族の世話をしていたが、父がいる時には顔が笑っていなかった。そして父も家の中で笑顔をみたことはほとんどなかった。

 俺の家族がそうなった元の原因を俺は何となく知っている。両親に質したことはないが、それは母の男性問題だった。母は家族に許しがたい裏切りを行った。しかし、その話はもう思い出したくない。

 俺の家族がそういう状況だったので、それゆえ沢ノ木集落で見た、あの家族の光景は僕の心に沁みたのだと思う。

 今、目の前にあの家はなく、あの家族もいない。集落から全ての人がいなくなり、2十数年前には十数軒かあった家屋は、今は廃屋が1棟だけ残り、他に倉庫が1棟残るだけである。

 荒地のところどころには、草に隠れて、元は建物の基礎だったらしい玉石やコンクリートブロックが残っていて、民家のあった痕跡だということを伝えている。

 今は八幡宮だけがそのまま残り、それ以外は廃屋もほとんど残っていない荒地だ。俺は二十数年前に父と訪れた時とは全く別種のショックを受けていた。


 廃村の復活という壮大な夢に取り憑かれるようになったのは、人のいなくなった沢ノ木集落の光景を見た後だった。

 森林アスレチックとグランピングは、現地やその周囲の地形、近隣とのアクセス道路などをみながら、なるべく自然を壊さないで、どんなことが出来るだろうかと考えを巡らせた結果である。

 土地の形状を変えないで山裾を利用して、子供から大人までが遊べる森林アスレチック場を作る。パッチ状に植林され、その後放置されている人口林の部分だけを利用し、自然林には手を着けない。そして、山裾からなだらかに降りてきて谷川に続く平らな場所にグランピング場を作り、宿泊できるようにする。人里離れた自然の中で家族や友人たちと1日中遊べる施設にするのである。

 沢ノ木までの県道は若干難があるが、近隣の市街地、例えば南砺市の市街地からであれば車で50分から1時間で来られるだろう。少なくともダム管理事務所までは毎日職員が通勤しているのだから、非常に危険ということはない。送電線がダムまで来ているので、電気を引くのも問題はない。

 調べてみると、近隣には水バショウの群生する大きな沼地といった他の観光資源もある。もちろん渓流釣りも楽しめる。

 富山県内や近隣の県からの集客は、市場調査をしてみないと分からないが、少なくとも年間2万人から3万人程度は見込めるのではないだろうか。こういった施設は今人気があり、今後も更に需要が増えていく可能性が高い。

 そして、この計画の肝なのだが、家族で転入して森林アスレチック場とグランピング場で働いてくれるスタッフを大都市圏で求人募集する。そのためには、まずスタッフとその家族が暮らせる住居を確保し、十分な賃金が支払える体制を作らなければならない。

 俺は集落の公図と登記簿を元に地権者14名を特定し、その地権者の現住所の捜索を試みた。その結果、地権者の一人が砺波市に在住していることを突き止めた。その人物を実際に訪ねて僕のプランを話すと、俺の話に興味を示してくれた。彼は有難いことに他の元住人つまり地権者のうち10名の連絡先を知っていた。

 プランでは、まずコンサルを入れて地質調査や森林アスレチック場、グランピング場の設計を始める。同時に開発行為に必要な許可・認可関係を整理し、県や市、国交省、林野庁との折衝を開始する。少なくとも森林法、砂防法、急傾斜地災害防止法、地すべり等防止法の網が掛かっていないかどうかは確認する必要があるだろう。

 森林アスレチック場に山林及び原野1万5千坪程度、グランピング場に原野及び宅地5千坪程度が必要だろう。これらの中には公有地も一部含まれている。設計が出来上がったら、地権者との用地交渉を始める。設計通りの用地が確保できない場合は再設計も必要になるだろう。これらの作業に少なくとも2年程度は掛かるのではないか。

 造成工事は1年程度あれば可能と考えられる。森林アスレチックは樹木を伐採せずに、森林の立木がそのままアトラクションの基幹部分になるようなものにする。スリルを高めることで子供だけでなく大人まで楽しめるものにするのだ。グランピングは冬も楽しめるように冷暖房完備のテントを設置する。郷土料理を提供するレストランや入浴場、キャンプファイヤー場の設置も必要だろう。

 沢ノ木八幡宮の祭日に盛大な祭りを企画するのもよいかも知れない。元の村人や近隣の集落からも人が集まるような祭りにするのだ。

 一方、スタッフが家族とともに住むための住宅を建設する必要がある。また、それとは別に単身用のアパートを1棟建てる必要がある。これは、首都圏の学生の山村留学を受け入れるための施設である。首都圏から若者をスタッフとして雇い家族と共に移住させ、また学生達を山村留学に誘うことで定住人口、関係人口を増やしていくのが狙いである。

 そのうちに、あの家族のような、父と母と子供たちの暮らす家がこの集落に再現されることを、もちろん俺は期待している。


 俺は勢い込んで企画案を文書にまとめた。企画案は、富山県南砺市の廃村を復活させるというものだ。何度も現地調査を行い、あらゆることを想定し考え抜いて策定した企画案のつもりだった。ひょっとして、読む人によっては一読してだけでは奇異に感じるかもしれない。しかし十分に説明を尽くせば、この企画案の素晴らしさは分かってもらえるはずだ。俺は企画案に絶対的な自信を持っていた。

 そして満を持して、企画案「渓谷の秘境『沢ノ木集落』の復活」を審査チームに提出したのである。

 その審査チームで実際に審査をするのは成田薫である。彼女の冷たいほどの知性があれば、ちょうど古代遺跡から出土した遺物に刻まれた文字を読み解くようにして、俺の企画案の真の意味を読み解いてくれるであろう。地方の再生には何が必要なのか、その第1のヒントが俺の企画案に隠されているはずなのだ。

 俺は審査チームに企画案を提出した後も、成田からどのような照会があるやも知れないと考え、何時でも追加説明ができるようにと、登記簿や公図、造成費の見積もりなどあらゆる資料を準備して待機していた。

 しかし、いつまで待っても成田からの照会はなく、補足の資料を見せる機会が訪れることはなかった。そして突然のように、成田から社内メールで「本社管理本部には採用出来ない旨を上申する」という趣旨の連絡が来たのだった。

 俺は企画案が採用されるとしか考えていなかったので、「採用できない旨を上申」という言葉の意味を、そのまま素直に受け入れることができなかった。成田なら俺の企画案の真の意味を読み解いてくれるとまだ信じていた。「私はこの企画案の重要性は十分理解できます。しかし上司や本社に説明するために、何かもう少し補強できる資料がないでしょうか」。成田のメールは、そのようなことを伝えてきているように俺には思えた。

 成田が窮している、急がなければ。俺は段ボールに入れた関係資料の中から重要なものだけを抜き出して、それを両脇に抱えて7階の管理グループのフロアまで階段を駆け上った。

 成田は自分の席にいた。背後から見ても彼女は端正なフォルムは目に付く。

「いやあ、添付資料だけでは不十分だったかも知れませんね」と声を掛けた。成田は椅子に座ったまま、驚いたように振り向いて背後の俺を見た。

「今、別の資料を持ってきたので、もう一度説明しますね」。俺はそう言って、彼女の机の脇に両脇に抱えた資料を積み上げようとした。しかし成田が怪訝そうな目を向けたので、俺は躊躇して不自然な格好のまま立っていた。

 成田は俺が自分のところまで息を切らして駆け寄ってきたことの意味が直ぐに理解できないようだった。きょとんとした目をして、俺の顔を見上げていた。そして、それがようやく俺の企画案のことだと彼女の中で連絡がついたようだった。

「企画案のこと…ですか」

「ええ、今急いで説明を…」

「もう、GMの決裁終わってますけど」

「はあ?」

「あのう、廃村の再生っていう、あれですよね」

「ええ」

「私はちょっと、その、採用は難しいかと…。チームリーダーも同意見でした。GMにも決裁を回しましたが、特に意見はありませんでした」

 そこまで言われても、俺はまだ「『沢ノ木集落』の復活」の企画案が支社段階で不採用という判断になったということが直ぐに理解できた訳ではない。

 そのことが本当に理解できたのは、一度も下ろすことのなかった資料のファイルを両脇に抱えたまま、6階までの階段を降りている最中だった。階段1段毎に怒りとも絶望とも後悔とも区別のつかない感情がじわじわと込み上げて、自分の顔色がみるみる赤黒く変わっていくのが分かった。

 企画グループの部屋まで帰ると、ようやく両脇のファイルを段ボール箱に戻して椅子に座ったが、もはや何もやる気がしなかった。

 しばらく何もしないで座っていると、開発企画チームの吉田が席までやってきて、にやけた顔で「どうしました」と聞いた。だが俺が彼を無視していると、つまらなさそうな顔になって自分の席に帰って行った。

 成田ほどの聡明な女なら、この企画案の重要性を理解してくれるものと信じていた。勝手に信じていたと言われれば、その通りなのだが、彼女との再会が劇的だっただけに、その分期待が大きくなり過ぎて、いつしか確信に変わっていた。

 しかし彼女は俺のことを何も理解していない。このことが俺には、どうにも納得できないことだった。成田はお互いに理解し合える唯一人の女性だとさえ思っていたのに。

 企画グループの部屋に帰って暫くしても、怒りとも悲しみとも言えない思いが沸々と湧いてきて薄れることはなかった。


 自転車に乗って街の中を当てもなく走り回るのは、小学生の頃から身に着いた生活習慣のようなものだ。時々、狭い路地に自転車を停めて近くの家の様子を見る。覗き見をする訳ではない。郵便受け、窓のカーテンの色や模様、庭やバルコニーに置かれているもの、夜には室内に灯る照明の色、それを観察するのだ。すると、その家の住人の生活振りが分かるような気がする。俺自身の生活が空疎なので、逆に人々の生活振りに興味が尽きないのかも知れない。

 特別どの家を見るという訳ではないが、たまには会社の同僚の家をみることもある。住所は知らなくても、日頃の話しぶりから見当を付けていくと、案外簡単にその職員の自宅を発見できるものである。

 成田薫のアパートは、会社がよく使っている不動産屋の物件に当たっていったら、容易に見つけることが出来た。彼女のアパートを見つけたことに特別な意味がある訳ではないが、他の同僚らと同様に、彼女の生活振りにも興味がある。

「沢ノ木集落復活」の企画案が通らなかったのは、俺にとっては非常にショックだったが、さりとて成田を恨んだりはしていない。彼女を買い被り過ぎていた俺が馬鹿だったということだ。だから来年度の企画案は、彼女にも分かり易いものにして、今提出の準備を進めている。

 これは「空き店舗の一括借り上げとオフィス賃貸」という企画案だ。福井市内のS商店街がシャッター通りになっているので、空き店舗を1括借り上げしてレンタルオフィスにするというものだ。福井県は小規模な事業者が多く、人口当たりの民間事業所数が全国1位となっている。また、若者や女性の起業が多い事でも知られており、小規模で安価なオフィスに対する需要はかなりあるはずだ。

 新味のない企画で、俺としては面白くはないが、今回は採用され易い企画を考えた。

 ところで、成田のアパートの周囲を何周も回って、彼女の生活ぶりを観察しているうちに、妙なものを見てしまった。

 深夜にタクシーで増田という営業グループの職員に送られて、成田が帰ってきたのだ。どうも成田はかなり酔っているようだった。その後も同じように増田とタクシーで帰って来ることがあり、一度は増田が酔いつぶれた成田を支えてアパートの中に入っていった。

 その夜、二人の帰宅をたまたま見掛けた俺は、二人の様子を見るとはなしに見ていた。

 二人が中階段を上がっていくと、2階の成田の部屋に明りがついた。しかし増田は成田のアパートに入って数分すると出て来て、待たせてあったタクシーで立ち去って行った。

 俺のみるところでは、二人の関係は未だ深いところまでは行ってはいない。まあ仮に二人が出来てしまったとしても、特に問題にする必要はないだろう。もし成田が三輪と完全に別れたのならばだが。増田も独身のようだし、二人の仲が良くなるのは、非難するには当たらないと思う。俺も二人を非難するような偏狭な人間ではない。

 ところが暫くして、また自転車で成田のアパート付近を回っていた俺は、増田ではない、別の男が増田と同じように成田をタクシーで送って来たのを目撃したのだ。

 その夜の成田は、潰れるほどに酔っているように見えなかった。二人は2階に上がって行き、男は成田の部屋に入ったまま暫く降りて来なかった。

 俺は訳もなく悲しくなった。そして怒りがふつふつと湧いてきた。その男というのは、成田と同じ審査グループの吉岡だったのだ。

 吉岡は妻帯者だ。その上、俺は吉岡のアパートも観察しているから知っているが、吉岡のマンションには、吉岡の元部下の田中美也子が入り浸っている。あの男は女に関して節操のない男だ。成田薫は吉岡が女にだらしない男だということを知らないのだろか。

 女が複数の男と付き合ったり、男を乗り換えたりするのは、決して許される事ではない。倫理的に許されるとは決して思わない。

 もし成田が次々に男を乗り換えると言う地獄に陥っているのなら、彼女をその境涯から、何とか救い出さねばならない。成田を救う方法はないだろうか。


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