軟骨の耳冷ゆる日よ
河原町健三
第1話 真夜中の虫たち
(1)
2018年7月、瀬野は異動で名古屋支社から金沢支社に配転になった。その年は全国的に梅雨明けが早く夏は猛暑となったが、金沢も6月末から30度を超える日が続いていた。
辞令を受けた翌々日、瀬野は特急「しらさぎ」で引っ越しの荷物よりひと足先に金沢に到着すると、メモに書いた住所を頼りにタクシーで会社の契約している材木町の不動産屋に向かった。そこで鍵を受け取ると、暫くは自分の棲家となるはずのアパートまで狭い路地を5分ほどかけて歩いた。
間口が狭くて、その分奥行きがありそうな古い民家の立ち並ぶ中に、民家と民家の間に挟まるようにしてアパートはあった。それは灰色をした鉄骨モルタル造り3階建ての古い建物で、瀬野の入る部屋は内階段を上り2階の右側だった。
錆びた蝶番を軋ませながら小豆色の鉄製のドアを開けると、部屋に籠っていた湿っぽい埃の匂いが瀬野を出迎えた。その匂いは乾ききった瀬野の鼻孔の粘膜に貼り付き、瀬野は思わずくしゃみをした。部屋はしばらく使われていなかったようだ。
間もなく引越しの荷物が来る時間だった。瀬野は再び階段を降りて、アパートの前で荷物の到着を待った。その日も朝から晴天で、何もせずに軒下に立っているだけで、こめかみの辺りから汗が噴き出してくる。
引越しの荷物を載せたトラックは、予定より少し遅れて11時過ぎに到着した。大して重くはない単身用コンテナ1箱分の荷物がトラックから降ろされると、運転をしてきた運送会社の職員と一緒にアパートの居間に運んだ。
荷物を運び入れて、運送会社の職員が居なくなると、瀬野はズボンのポケットからタオル地のハンカチを取り出して、汗を拭いながら部屋の中を見回した。
部屋はどことなく薄汚い感じがした。床は薄っすらと埃が覆っている。キッチンの方に行くと、ステンレス製の流し台のシンクや水道の蛇口が白っぽく汚れていた。前の住人が退去する際、掃除を専門業者に委託せずに自分で簡単に掃除しただけのように見えた。
流し台の横に小型の古い冷蔵庫があった。前の住人が置いていったものらしい。流し台横のステンレス製の台の上にも、2口のガステーブルがあった。その五徳には焦げた吹き零れのようなものが付着している。ガステーブルも前の住人が残していったものらしい。まだ電気とガスが来ていないので、どちらも使い物になるのかどうかは分からないが。
瀬野には何時までも部屋を観察している時間はなかった。今日から早速、金沢支社に出勤する必要があったからだ。一昨日、辞令を受け取ると直ぐに前任者から連絡があり、翌々日に引継がしたいと言ってきた。前任者は引継が終わったら、自分の赴任地へすぐ出発したいらしい。
居間に置かれたままの到着した荷物の中から、ワイシャツとスーツを引っ張り出した。本社通達では、夏季の上着着用は不要だったが、転勤の挨拶の時くらいは上着を持って行った方が無難だろう。
彼は、薄いビニルの袋を破ってクリーニング仕立ての白いワイシャツに着替えると、リュックを背負った。その中には金沢支社に転属を命じる辞令が入っている。そしてスーツの上着を小脇に抱えてアパートを出た。
外に出た瞬間から強烈な暑さが襲った。階段を降りて少し歩いただけで汗が噴き出した。脇に抱えた上着にまで汗が染みていくのが分かる。
建物の陰や木陰などの日陰を探しながら瀬野は渡り歩いた。初めて見るアパート付近の風景は、光の当たっている所と影になっている所がくっきりと分かれ、影絵のようになっている。
瀬野は間口の狭い古い民家が、所々に商店を挟んで立ち並ぶ狭い路地を辿って、バス停まで来た。ところが金沢駅行きのバスは2、3分前に通過したところだった。次のバスは炎天下で15分待たなければならない。
グーグルマップで金沢駅までの直線距離を測ると2キロもなかった。道のりに直しても3キロはないだろう。
瀬野はこれまで一度も金沢支社に行ったことがなかった。名古屋支社と金沢支社の間は職員が頻繁に出張等で行き来していたが、不思議と瀬野は金沢支社に出張で来たこともなかった。とは言え、支社は金沢駅東口の近くにあるはずなので、駅まで行けばすぐに分かるだろう。
前任者から引継を受ける時間までには、まだ余裕がある。歩いては行けない距離ではなさそうだ。またタクシーに乗るのはもったいない
瀬野は、グーグルの地図と朝タクシーで通った記憶を頼りに、金沢駅の方向を目指して歩き始めた。日差しは非常に強く、まともに日を浴びていたら直ぐに消耗してしまいそうだった。そこで彼は、日向を避けて家屋や木陰を選びながら狭い道を歩いた。少し迂回することになっても、陰のある路地を選んで歩いた。
大手町交差点を渡り大手掘りに沿って歩き、下堤町の交差点から武蔵町に入った。
歩いているうちに方向がよく分からなくなった。北北西に向かって概ね直線状に歩いているつもりなのに路地が少しずつカーブしていって、歩く方角が微妙に変わっていくのだった。また一つの路地を歩き切ると、明らかに少し方角が異なる別の路地が続いていた。細い路地をかなり進んでから、位置を確認するといつの間にか駅とは斜めに遠ざかる方向に歩いていることもあった。そこで、あわてて引き返してまた別 の路地を歩き始めるという具合だった。
何本かの細い路地を行き来しているうちに、「うどん、蕎麦」の看板が掛かった古い店が目に入った。少し行き過ぎてから気になって店の前まで引き返してみると、店先にある木枠の小さな陳列棚に、年季の入った食品サンプルが幾つか埃を被って並んでいる。天ぷらうどんのサンプルは、丼鉢から麺汁が剥がれて傾いている。店の中から微かに出汁の匂いが漂って来た。
瀬野は自分が空腹なのに気が付いた。また無性に喉が渇いていた。そう言えば、今朝、電車の中でサンドイッチを食べてから、何も口にしていなかった。
今夜の帰宅も何時になるか分からないので、昼飯はちゃんと食べておくべきかも知れない。時計をみると0時45分だった。入口のガラス戸から中の様子を窺ったが、店内には誰も客はいないようだった。路地にあるこのような店は、平日の昼はそんなものなのかも知れない。サラリーマン達は表通りの清潔な新しい店で食事する人が多いのだろう。
店に入ると瀬野は心地よい冷気を浴びた。天井に冷房装置の吹き出し口があり、入口に向かって冷気が噴き出していた。
瀬野は店の中ほどにある4人用テーブルの木製の椅子に腰を下ろした。年配の女性が、ステンレス製の丸い盆の上に水の入ったコップを載せてもってきた。瀬野はテーブルの上のアクリル板に挟んだメニュー表をみて、天ざるを注文した。女性は何も言わずに軽く頷くと、盆を抱えて奥にある厨房に戻っていった。
厨房の方をみると、手垢で汚れた青い麻暖簾の向こうに人の気配があった。暖簾の横の壁には、恵比寿と大黒の面の付いた煤けた額が掛かっている。その横にもメニュー表が掛けてあった。
コップには製氷機で作った四角い氷が浮いていた。それを一口飲むと、焼けた喉が一気に潤い、その冷たいものが食道を通って胃の中に落ちて行くのが分かった。瞬く間にコップの水を飲み干すと、店の隅にあった給水機のところまで行き、再びコップに水を満たした。
暫くすると、先程の女性が海老と野菜の天ぷらを盛った鉢と蕎麦を盛ったざるとを運んできた。
瀬野は徳利に入った蕎麦つゆを少しだけ猪口に移し、野菜の天ぷらをそのつゆに少し浸して口に運んだ。サクサクして旨い。同じように蕎麦をつゆに浸して口に運んだ。しかし麺の腰が弱くて、どこか粉っぽい感じがする。手打ちではなく製麺機で作った麺なのだろうか。少し失望したが腹は膨れた。
精算して外に出ると、再び頭や両肩、背中を焦がすような暑さが待ち構えていた。瀬野はスマホで位置関係をもう一度確認すると、駅の方向に向かって再び狭い路地を歩き出した。
ところが暫く行くと通行止めになっていた。看板には「古くなった水道管を取り換えています」と書かれている。目の前の道路は数メートルに亘って掘り返されている。狭い路地に向かい合わせになっている民家の軒先まで掘られていて、これでは民家の住人も出入りできそうにない。
小型のバックホーが1台止まっているが、作業している人の姿は見当たらない。動力の付いた転圧機も放置されている。作業員は昼食時間なのだろうか。
仕方ないので路地を引き返した。その路地に入る手前までくると、「通り抜けできません」と書かれた看板があった。さっきは見落としていたらしい。
結局、路地を進むのを諦めて大通りに出ることにした。
日焼けした板塀に沿って大通りに向かって歩いていると、板塀が終わったところに理髪店があった。サインポールは回っているが、中に客はいない。その隣は焼肉屋で「能登牛専門、高級焼肉」の看板があったが、昼間なので「準備中」の札が掛かっている。
大通りに出ると、駅の方向は直ぐに分かった。駅の方向に向かって道路が伸びていて、その両サイドには中高層のマンションらしい建物が幾つも並んでいる。後方にはデパートとホテルが入った灰白色の高層の建物がある。瀬野は歩道に出来た建物の狭い影を選びながら駅に向かって歩いた。
そしてようやく金沢駅東口に来た。そこでグーグルの地図で支社の位置を確認すると、駅に面した通りから1本奥の通りにあるようだった。
その通りまで行くと、築40年は経っていそうな古びたレンガ色の建物があった。見上げると、地上7、8階まであるようだ。支社はその古い建物内にあった。
瀬野のワイシャツの襟は、髪から滴る汗で水に漬けたように濡れ、脇の周りは染付の液に浸したように丸く縁取られている。支社の前まで来て、着替えのシャツを持って来なかったのが悔やまれた。
建物の前で瀬野はそのワイシャツの上から、脇に抱えていたスーツの上着を羽織った。そして左肩にリュックを掛けて、ビル正面のガラスの玄関から入った。
エントランスは冷房が効いていた。入口に向かって冷気が噴き出している。その冷気を浴びると濡れた襟元や脇が急に冷たくなり、背中を冷たいものが流れたのでゾクッとした。
ロビーは建物の外観とは違って新しくて綺麗だった。瀬野は1休みして息を整えたかったが、残念ながらどこにもソファがなく、暫く佇んでいられそうな場所もなかった。
仕方がないので、ロビー奥のエレベータホールまで行った。そこには2基のエレベータがあったが、いずれも上階で止まっている。ホールの壁に掛った案内板でみると、瀬野の会社は6階と7階に入居しているらしい。そして瀬野の配属されたセクションは建物の最上階7階となっている。ボタンを押して暫く待っていると、エレベータが降りてきた。
瀬野の新しい所属先である管理グループの部屋は、エレベータを降りて直ぐのところにあった。瀬野はIDカードをかざして部屋のドアを開けた。
見渡したところ職員は二十数名いた。机は幾つかの島に分かれていて、天井からチーム名を書いた白いプレートが釣り下がっている。2、3人の職員が瀬野の方をチラッと見たが、関心がなさそうにまた自分の仕事に戻った。
瀬野は案内を請わなくても審査チームの場所は直ぐに分かった。それは瀬野が入ったドアから最も近い島だった。
瀬野は手に提げていたリュックを下に降ろし、中からクリアファイルに挟んだ辞令を取り出した。そして、それを持って窓際の、審査チームのリーダーと思われる女性の席の前まで行った。
瀬野が着任の挨拶をしようとするとリーダーも立ち上がった。彼女は小柄な女性で、赤いツルの眼鏡を掛けていた。瀬野が挨拶すると、
「あなたが瀬野さんね。私がリーダーの西崎です。これからよろしく」と女性は挨拶を返した。そして「前任者の松井さんが待っていましたよ。彼の当支社への出勤は今日までだから、早く引継をして下さい」と言った。振り返ると、瀬野より少し年配に見える浅黒い顔の男がいた。それが松井だろう。
「ああ、でも、その前にGMにも挨拶しておいて」
西崎リーダーはそう言って、首を左の方角に振った。その方向をみると、ドアの上に貼り付けた白い表札に「グループマネージャー室」と書かれていた。それは部屋と言っても、間仕切りパネルでフロアの一部を仕切ってあるだけのようだった。
瀬野はグループマネージャー室をノックして開けた。開けると縦に細長い部屋で、OAフロアのタイルカーペットの上に更に毛の短いベージュのカーペットが敷かれていた。GMは奥の窓際にいた。机の上の名札は「高橋」となっている。見た目は50歳前後で、血の気のない薄い唇をした男だった。
瀬野が、リーダーにしたのと同じようにGMに着任の挨拶をすると、GMは椅子に座ったままで、
「ああ、そうか。君には期待している、頑張ってくれよ」と言った。「当支社はもっと仕事を効率化して、労働生産性を高める必要がある。君も知っているだろうが、金沢支社は赤字だ。しかも、このところ赤字幅が拡大傾向にある。わが社の首脳陣も赤字を気にしていて、このままの状況が続くようなら支社廃止もあり得ると言っている」
「えっ、廃止ですか」。GMがいきなり「金沢支社廃止」と言ったので、瀬野は思わず同じ言葉を繰り返した。
「そうだ。金沢支社が出張所に格下げされて、名古屋支社か大阪支社の下に入るかもしれない。いや、出張所で留まれるならまだ良い方で、このままだと組織がすっかり無くなるかも知れない。しかし、わが社には当地方出身の職員も多いし、君も知っていると思うが、当社の創業者は加賀市の北前船の船主の縁者だ。だから私はこの伝統ある金沢支社を是非存続させたいと考えているのだが」
「はあ」
「だが、テリトリー内のマーケットで、現状以上の収益は至難の業だ。主な市街地再開発は終わっているか、他社に仕事を取られているし、こんなんだから金沢支社のサスティナブル成長率はコンマ1か2といったところだろう。だから売上げを追うよりも、むしろコストカットを進めて純利益ベースで会社に貢献するのが現実的だと考えている。いや、純利益と言っても赤字なので、少しでも純損失を減らして、会社のお荷物にならないように努めることだがね」
「はあ」
「コストは、まあ光熱費や家賃も高いとは思うが、何と言っても一番高いのは人件費だ。当支社の職員の仕事ぶりを見ていると、日中ダラダラしていて、業務時間終了後もなかなか帰宅しない連中がいる。その仕事ぶりが一番無駄だな。仕事は極力業務時間内に終われるように、計画的かつ効率的に進めて、なるべく超過勤務をせずに帰宅する必要がある。ワーク・ライフ・バランスが重要だ。職員の健康管理上も早期帰宅が望ましい。そうなれば支社の保険収支の改善にも繋がる」
「はあ、おっしゃる通りだと思います」と取り敢えず言ってみた。
「管理グループの職員に関しては、人事考課表の目標シートに、半期毎に業務時間縮減目標を挙げてもらい、その達成状況を人事考課に反映させることにしている。私はこれをタイムバケット作戦と名付けているんだよ」
「はあ」
「だから君にもよろしく頼む。ああ、それと君の仕事の内容だが、企画グループの連中は、性懲りもなく儲かりもしないのに費用だけ掛かる金食い虫のようなプロジェクトを計画しては、何食わぬ顔で出してくる。しかしそういう計画が本社で採用されたりすると、当支社の赤字は更に拡大して命取りになりかねない。当支社が存続するためには、内容をぐっと縮めてもっと堅固な体質にならないとだめだよ。縮小再生産しか支社存続の道はないんだよ。それがサスティナビリティというものだよ。だから企画グループが出してくるプロジェクト案は君の所で厳しく吟味して、なるべく圧し潰して欲しい。それを君に期待しているのだからね。よろしく頼むよ」
「はあ、頑張ってみたいと思います」と答えるしかなかった。
GMの話がまだ続くかと思い、暫く立ったままで待っていると、「君、もう下がっていいよ」と言われた。
GMの部屋を出ると、前任者の松井が待っていた。瀬野がその席まで行くと、松井は「ああ、待っていたよ」と言った。そして隣の席に座っていた職員を紹介し始めた。
「こちらが野口君。瀬野さんと同じ担当だよ」
その職員は立ち上がって「初めまして、野口です」と挨拶をした。小太りの白い顔をした青年だ。この野口が僕の部下になるらしいと瀬野は思った。
「こちらが吉岡さん。取引先の与信審査を担当している」
向かいの席に座っていた黒い太いフレームの眼鏡を掛けた男性が、立ち上がり掛けた姿勢で中腰のまま、無言で少し頭を下げた。頭は中央部分が少し薄くなっている。瀬野より少し年上らしい。瀬野は、
「よろしくお願いします」と深く頭を下げた。
「その横が中野さん。吉岡さんと同じ仕事をしている」
若い女性が立ち上がり、「初めまして、中野です」と挨拶をした。吉岡の部下らしい。
松井は「ミーティングルームを抑えてあるので、そこで引継をしよう」と言った。
松井の後について、GM室と反対方向に部屋内の通路を歩いて行くと、審査チームの島の横に主計チームの島があり、さらにその横に総務チームの島があった。
通路を挟んで3つの島の反対側は、真ん中辺りに廊下に出るドアがあり、そのドアの両サイドには、書類の入ったキャビネットや書架、コピー機などが並んでいる。通路の突き当りにも廊下に出る別のドアがある。
ミーティングルームは総務チームの前を通り過ぎたところにあった。この部屋もグループマネージャー室と同様に、管理グループの部屋の一部を間仕切りパネルで囲んだだけの部屋だ。
ミーティングルームの中には、中央に折り畳みのできる長テーブルが2脚連ねてあり、その両サイドに4脚ずつパイプ椅子が並んでいた。松井はその一番奥の、窓に近い椅子に座ると、瀬野にも対面に座るように促した。窓はこのビルの横に建っている高層の建物に視界を遮られていたが、瀬野の座った席からは、僅かな隙間から金沢駅の建物の一部が見下ろせた。
松井はA4サイズの4、5枚のレジュメを瀬野の方向に向けてテーブルに置いた。それが引継書らしい。
瀬野がそれを手に取って、ぱらぱらと捲くってみると、「1.金沢支社の概要」から始まり、「2.テリトリーの特徴」、「3.所掌業務の概要」、「4.事業査定要領」となり、最後に金沢支社内と本社、他の支社の関係部署の名前と担当者の電話番号が列記されていた。それらが仕事のカウンターパートになるらしい。
「引継のため急いで来てもらったんだが、実を言うと、職務内容に関しては口頭で説明できるようなことはほとんどない」と松井は言った。「まず引継書を一通り読んで欲しい。それからデスクの引出し内に本社通達と参考文献があるから、それを読むといい。少し慣れれば誰にでも出来る仕事だよ。まあ俺は去年の9月に来たばかりで1年もいないので、あまり詳しくはないが」
「はあ。あのう、松井さんは管理グループに来て1年にもならないんですか」
「ああ、いろいろあって、そういう人事になったみたいだ」と松井は言ったが、何か不満げだったので、そのことについて更に聞くのは憚られた。
「後は、職務とは直接関係のないことだが、参考までに伝えておこう。以下は個人情報でもあるが、恐らく公知の事実だと思うので、問題ないだろう。西崎リーダーは独身で離婚歴がある。高校生のお子さんがいるそうだが、その子を親元に預けて単身で支社に来ている。リーダーと話す時には、念のためその辺りは注意して話した方が良いだろう。
それから西崎リーダーと、その隣に座っている主計担当の山本リーダーとは同期ということだが、どういう訳か仲が悪い。犬猿の仲ってやつだな。山本リーダーは審査チームの職員にもちょくちょく声を掛けてくるが、適当に聞き流すことだな。一緒に飲みに行ったりしない方が良いだろう。山本、西崎の板挟みにならないように気を付けた方がいい」
「はあ」
「それから野口、さっき挨拶した部下の野口のことだが、」と言いかけて、松井は少し間をおいた。「彼はW大学理工学部を卒業して昨年入社した。だから彼は優秀な社員のはずなのだが、コミュニケーションが取れないんだな。彼が何を考えているのか、俺にはよく分からなかった。上層部には、新人の人材育成がどうのと言う人もいるが、彼の育成はちょっと難しいな。俺は彼には報告物などの定型業務だけをやらせていた。恐らくその方が、問題が起きなくていいと思う」
「はあ」
この支社にも様々な職員がいるのだろう。どの職場にも様々の人がいて、様々なことがある。ここだけ特別という訳でもない。瀬野はそう思った。
引継は30分ほどで終わった。ミーティングルームを出てチームの島まで戻ると、松井は「本社通達や参考図書はここにある」と言って、自分の使っていた机の引出しを開けて見せた。数冊のフラットファイルや参考文献と思われる古い本には、そのどれにもたくさんの付箋紙やポストイットが張り付けてあった。「これは全部前任者から引き継いだものだ。実のところ、俺はあまり読まなかったけどね」と言って、にやっと笑った。
午後3時を回ったところだったが、松井の出発時刻のようだった。松井は西崎リーダーの所まで行って離任の挨拶をした。そして部屋の中の他の職員にも同じように挨拶をして回り、それが終わると部屋を出て行った。異動先は仙台支社ということだ。新幹線を使えば4時間ほどなので、今日中には仙台に着けるのだろう。
松井が発った後、瀬野は主計チームと総務チームの職員にも簡単に着任の挨拶をして回った。管理グループは審査、主計、総務の3チームから成っている。グループ内の職員とは、これから毎日顔を合わせることになるのだろう。
瀬野は審査チーム席に戻り、今まで松井の使っていた椅子に座った。すると、そこへ中野が来た。彼女の席は瀬野の席とはす向かいなので、座ったまま話しても聞こえるのだが、最初なので気を使ったのだろう。
「瀬野さん、着任早々で恐縮なんですが、親睦会の入会金を頂けないでしょうか」
「えっ、親睦会ですか」
「ええ、審査チームの親睦会で名前は『しんさかい』と言います。これ会則です」と言って中野は、ステープルで肩止めした2、3枚の古い印刷物を瀬野に渡した。「で、入会金が1万円なんですが…頂けませんか」
瀬野は言われるままに、財布から1万円札を取り出して中野に渡した。
「本当は直ぐに瀬野さんの歓迎会をしないといけないんですが、職員が交互に夏休みを取っているので、夏休み期間の明ける9月になっちゃいますけど…」
「ああ、いいですよ」。瀬野がそう言うと、中野は現金を持って席に戻っていった。
自分の歓迎会なら、今で無くもて良いし、何ならしなくても良いと思った。酒の席で自己紹介したりするのは面倒くさいし、大人数で飲むのも得意ではない。それより今の瀬野は、初めて担当する仕事のことで頭がいっぱいだった。
粗末な肘掛の付いた椅子に座わると、少し違和感があった。椅子の高さが少し低いようだ。彼は右下のレバーで椅子の高さを調整しようとしたが、どのように調整してもなかなかしっくりとは来なかった。まあいいや。そのうちに慣れるだろう。
松井から受け取った引継書を読み始めた。今日のうちに引継書に一通り目を通しておきたいと思った。
金沢支社は職員76名の小規模な支社らしい。実際には正社員以外に派遣職員やフリーランスのエンジニアなどもいるので、もう少し所帯が大きいのかも知れない。支社には他の支社と同様に、企画、営業、管理の3グループがある。そのうち企画グループと営業グループは6階にあり、管理グループはここ7階にある。
瀬野が担当することとなった仕事は、企画グループが策定した新規プロジェクト計画を、会社として採用するのかしないのか、その検討をするための資料を作成して本社の管理本部に報告すること、また進行中のプロジェクトについて、事業費を見積もって本社に予算要求をしたり、その予算の進捗状況を管理したりすること、さらに既存の事業で不採算等の理由でスクラップするものがないか調査することなどだった。いわば企画部のバックオフィスとミドルを兼ねたような仕事だ。
瀬野は入社以来ずっと営業グループの渉外担当として、株主やクライアントなどの事業先回りをしていたので、このような内部の仕事は全くの初めてだった。引継書に出てくる用語の意味もよく分からない。「建築物価」、「歩掛」、「企画競争」って何のことだろうか。
引継書をぼんやり見ているうちに、文字の連なりが何十匹もの微細なムカデのような虫になって紙の上を這い始めた。瀬野はそれが落ち零れないように紙を撓ませて、机の横にある円筒形の屑入れの上にそっと運び滑り落とした。それでも残っている虫は、息を吹きかけてデスクマットの上に落とし、シャープペンシルの先で1匹ずつ頭を潰して駆除した。
瀬野は、それからまた引継書に戻ったが、なかなか集中力が持続しない。ふと左横にいる野口の方を見ると、野口はパソコンで何かの作業をしているようだった。横から見ると、野口はのっぺりとした白い顔をしている。
「今、何してるの」と瀬野が声を掛けた。
「報告物ですよ。詰まらない報告物です」と野口はパソコンの画面を見たまま表情も変えずに言った。
「詰まらない」は余計だろう。昨年入社した若造が上司に対して使う言葉ではないだろう。そのうち教育を…と思いかけて留めた。若者への接し方を間違えると大変なことになる。腫物に触るように、というのは言い過ぎだが、若手職員には慎重な対応が必要なのは、引継を受けなくてもよく承知している。
瀬野はまた引継書に目を落とした。「4.事業査定要領」には、過去の不適切な審査の事例が、恐らく金沢支社だけではなく全国での事例が幾つか列記してあった。研修教材か何かそういうものからコピペしたのだろう。「イニシャルコストばかりに注目していたために、ランニングコストの検討が不十分で、企画に取り掛かろうとして頓挫した事例」とか、「土地を取得しようとしたら公図未存在地だった事例」、「市場調査が不十分なために需要量を読み誤っており、企画実行後すぐに赤字事業になった事例」などが挙がっていた。瀬野はこれらの事例を丹念に読もうとしたが、知らない単語が次々に出てきた。そして読んではみたものの、これらの事例では審査としてはどうすれば良かったのか、審査上どういう問題があったのかが、今一つ分からなかった。
「お先に失礼します」という声が聞こえたので、ふと我に返ると、野口が席を立って出て行くところだった。時計を見ると5時を回っていた。
「はい、お疲れさん」と出て行く野口の後ろ姿に声を掛けた。そして部屋の中を見渡すと、管理グループの他のチームでも幾人かの職員が既に退出していて、残っている職員は疎らになっていた。
瀬野は、また引継書に目を落として、続きを読み始めた。
「そうです。黒部スイカというのは、大きなラグビーのボールのような形をしています」
背後で急に大きな声がしたので、驚いて振り返ると、西崎リーダーが部屋から出て来たGMと立ったままで話をしていた。
「ええ、店に置いてあるものは草鞋が乗っていますね。あれは、私の生まれた地方で栽培されているのですよ」
「そう、君は黒部市出身か」
「いえ、入善町です」
「ああそうでしたね。リーダーは入善町だったね。思い出しました」とGMは言った。そして何かのタイミングを見計らっていたかのように、「それじゃ、今日はこれで」と言うと部屋を出て行った。
それを見送った西崎リーダーは、「皆さんも早く帰ってね」と審査チームでまだ部屋に残っている瀬野と向かいの席に座っている吉岡に声を掛け、自分の机に戻って帰り支度を始めた。
西崎リーダーが部屋を出ていって暫くすると、吉岡も席を立ち、「着任した日から、あまり頑張らなくてもいいんじゃないの」と瀬野に言い残して、机の抽斗から取り出した弁当箱のような包みを持って出て行った。
瀬野も引継書に一通り目を通したところで時計をみると6時を過ぎていたので、会社を出ることにした。
帰りもバスの時刻と上手く合わなかった。そこで、帰りも歩くことにした。大通りの分かり易い道を通っても道のりは2キロ余りのはずである。歩けない距離ではない。
大通りに沿って幾つものホテルやマンションが立ち並んでいた。それらの1階部分が割烹やレストラン、串カツ屋、喫茶店などの飲食店になっているところもある。それら高層の建物に挟まれて、三味線や神具の専門店、国旗・徽章を扱っている店など古い木造の店舗があった。
日が暮れるのにはまだ少し時間があり、街は暑い空気に覆われていた。来た時と同じようにリュックを背負い上着を脇に挟んだ瀬野は、歩き始めて直ぐに汗だくになった。どこかに立ち寄ってビールを飲んで帰りたいと思ったが、どの店に入れば良いのか分からなかった。一人で割烹料理店に入るというは何かちょっと違うような気がする。と言ってファミレスでは味気ない。できれば居酒屋のようなところがいいのだが、そういう地味で入り易い店は大通り沿いには意外に少ない。
そうこうしているうちにアパートに近いところまで来ていた。もう居酒屋のようなところは有りそうにないが、引き返して探す気にもなれない。結局、コンビニに入って、お握りと冷麺と野菜サラダ、そしてビールと酎ハイのロング缶を買った。今夜はこれで済ますことにしよう。
アパートのドアを開けると、午前中に襲われた湿っぽい埃の匂いがまた襲ってきて、瀬野の鼻孔に張り付いた。その中を真っ暗な三和土から板の間に上がり、照明を探した。リビングの入口近くにある壁スイッチを押すと、天井から吊り下げられた古いサークラインが点灯し、部屋の中を青白く照らし出した。フローリングには白っぽい埃が薄っすらと被っているように感じる。雑巾掛けした方がいいだろうが、今夜は無理だ。
部屋の中にはムッとするような空気が充満していた。瀬野はバルコニーに通じるリビングのガラス戸を開けた。しかし風はなく、部屋の空気はほとんど動かない。
アパートの鍵を取りにいった時に不動産屋に頼んでおいたので、電気、ガス、水道は使える状態になっていた。
改めてキッチンに行ってみると、前の住人が置いて行ったものらしい古い小さな冷蔵庫と汚れたままのガステーブルがある。冷蔵庫のコードをコンセントに差し込むと、コンプレッサーのモーターが回転し始めた。これは使えそうだ。瀬野はコンビニで買って来た物を袋のままシンク横の調理台の上に置いた。
照明はリビングの古いサークラインとキッチンの蛍光灯のみだった。
照明のない奥の部屋にも行ってみた。奥にはリビング側に6畳の、キッチン側に4畳の畳の部屋があった。
4畳の部屋には襖で仕切った押入れがあり、その襖が少し開いていた。リビングから鈍い光が襖の中に差し込み、何か黒っぽい金属片のようなものが覗いているのが見えた。手探りでそれを取り出してみると、折り畳み式の小さなローテーブルのようだった。
これは良いものがあった。これも前の住人が置いて行ったものらしい。瀬野はそれをリビングに持って行って、脚を立てた。すると、それは天板にキティちゃんの絵のある可愛いテーブルだった。前の住人は女性だったのかも知れない。瀬野は調理台に置いてあったコンビニ袋を持って来て、その中からビールや酎ハイ、冷麺などを取り出し天板の上に置いた。
晩飯の前にシャワーを浴びて着替えをしたかった。瀬野は、リビングに置いたままになっている引越しの荷物の中から着替えの下着類を引き抜き、それを持ってバスルームに行った。
バスルームには蛍光灯の照明があったが、電極の辺りがひどく黒ずんでいて、直ぐにも切れそうだった。
シャワーを浴びて身体を洗った。排水溝がごぼごぼと音を立てている。何か詰まっているようで水捌けが良くない。排水溝のスリット穴の開いた蓋を持ち上げてみると、お椀を伏せたような金具に長い髪の毛が絡まり着いていた。女性の髪だろうか。早いうちにバスルームも掃除しないといけない。
洗濯物は今日のコンビニの袋に丸めて入れ、バスルームを出たところにある洗面台の下に置いた。今夜は洗濯する余裕はない。
バスルームから出て来て晩飯に取り掛かったのは8時過ぎだった。
ローテープの前のリビングの床に胡坐をかいて直に座り、ビール缶を開けた。そしてロング缶の半分ほどの量を一気に飲んだ。ビールは時間が少し経っていたが、今シャワーを浴びた身には十分に冷たかった。
今日1日のことが思い出されてきた。名古屋駅で朝7時37分の新幹線に乗って、米原でしらさぎに乗り換え10時過ぎに金沢に着いた。このアパートまでタクシーを走らせ、アパートの鍵を開けて引っ越しの荷物が来るのを待った。荷物を受け取ると、炎天下の街を歩いて金沢支社まで行った。前任の松井の話を聞いていると、どの支社も似たり寄ったりだが、金沢支社の職員にも様々なのがいて、人間関係もいろいろありそうだ。当面の問題は、これから自分がする仕事の中身がさっぱり分からないことだろう。
瀬野は座ったままの姿勢で、アパート内を見回した。そして、とりあえず洗濯機がいると思った。中古の洗濯機をどこかで調達する必要がある。それから自転車もいる。これは中古のママチャリのようなもので良い。それからカーテンが必要だ。見渡すとどの部屋の窓にもカーテンが掛かっていない。この部屋は2階だが、部屋の内部は外から丸見えだろう。照明も各部屋に必要だ。それにエアコンも無くては過ごせないだろう。
次の土曜日には、これらを調達しないといけない。今のうちに何が必要なのかメモをしておこう。アパートに帰って来た時、三和土から上がったところにリュックを放り出した。そのリュックの中に筆記用具が入っている。それを取り出すのは面倒だ。止むを得ない、覚えておいて後で書き出すことにしよう。
ビールのロング缶を飲み干すと、今度は酎ハイのロング缶を開けて一口飲んだ。少し気分が良くなってきた。無事にアパートに入れたことを妻に連絡しておこうと思った。
午後10時近くになっていて、子供が寝かけているかも知れないので、妻のスマホにラインのメールを送った。「アパートの外装は古くて汚いが、部屋の中はまずまず。一部屋はフローリング、2部屋は畳、それにキッチンがあって、思っていたより広い感じ」
暫くして妻からは、「良かったね。夏休みになったら、子供達と行きます」と返事が返ってきた。
酎ハイで酔いがまわってきた。フローリングの床に仰向けに横たわると、眠くなって自然に目が閉じた。横たわったまま開け放したバルコニーの方をみると、ガラス戸の窓枠の中に白いものが浮かんでいた。月かなと思ったが、そんな大きな月はない。誰かの顔なのだろう。真ん中に寄った細い目があり、部屋の中をじっと見ているようだった。
「覗くな。あっちへ行け」。瀬野は大声で怒鳴ったつもりだが、口が縺れて言葉にならない。これはどうしたことだろう。それにしても、やはり早めにカーテンが必要だ。このガラス戸のカーテンは、丈は240センチ、巾は110センチのものを2枚だ。直ぐにメモをしておかないといけない、と瀬野は必死に思いながら、眠りに落ちた。
ふと目が覚めて時計をみると11時を回っていた。瀬野は引っ越しの荷物の中から敷布団を探し出して引っぱり出すと、その上に再び倒れ込んだ。
翌日の朝、グーグルの地図を眺めながら合理的な通勤ルートを探した。すると、小将町のバス停から金沢駅行きのバスに乗るのが最も合理的な通勤ルートのようだった。瀬野は早速そのルートで出社した。
出社すると、まず支社長に着任の挨拶に行き、その足で企画グループと営業グループにも挨拶に行った。営業グループには同期の増田が在籍していたが、渉外業務で既に会社を出ていて会えなかった。増田とはそれ程親しい間柄ではないが、同期は疎かに出来ないので、日を改めて挨拶に行くことにした。
部屋に戻ると、本社の管理本部から問い合わせがきていた。前日、西崎リーダーは、「旧盆明けからは忙しくなるけど、それまではどうせ大した仕事もないから、ゆっくり業務の勉強をしてもらえばいい」と言っていた。しかし、ゆっくり勉強どころではなくなった。
まず、管理本部が求めている資料がどういうものなのかが、瀬野にはイメージできなかった。相手方が急いでいる様子なので、それらしい資料を何件か見繕って添付ファイルにして社内メールで送信した。すると電話が掛かってきて「暗証番号は」と聞いてきた。
「メールの本文に書いたはずですが」と答えると、そうではなくて資料自体が暗号化されていて開けないのだと言う。
瀬野は文書の表題だけをみて、文書の内容を確認することもなく送付していたので、暗号化されていることは知らなかった。仕方がないので資料の作成部署の企画部に電話をすると、部署の担当者は、「なんで、部外のあんたに教えなければならんのだ」と言った。
「管理本部が求めているので」と瀬野が応えると、
「何で勝手に管理本部に送るんだ。部内の重要な機密事項かも知れないのに」と言う。そこで、
「重要な機密が書いてあったんですか」と問うと、
「いや、特にそういうこともない」と言って、ようやく8桁のパスワードを教えてくれた。それを管理本部に連絡した。
このようなやり取りが、その後も毎日のように繰り返されたのだ。
とは言え、リーダーの言う通り、旧盆まではそれほど仕事が詰まっている訳ではなかった。瀬野は他の職員と同じような時間に会社を出た。GMはよほど用事がない限り定時の5時になると会社を出た。管理グループのリーダー3人も、GMが会社を出た後に順次出て行った。瀬野は少し雑用を片付けていても7時頃には会社を出られた。その時には、まだ室内に3、4人の職員が残っていた。
ところで着任した日から3日程経って、ようやく同期の増田に挨拶することが出来た。増田と会うのは、数年前に本社であって以来だった。
「大変なところに来たなあ」と増田は言った。「でも、あそこは本来は出世コースのポストだからなあ。いいじゃないか」
「僕には合いそうにないよ。でも『本来』って」
「いやいや、いいポストだと言ったんだよ。まあ頑張れよ」
増田はずんぐりした身体をひねりながら、忙しなく外出の準備をしているところだった。
「そのうち、また一緒に飯でも食おう」と増田が言ったので、瀬野は「うん、また」と言って営業グループの部屋を出た。
(2)
転勤後最初の土曜日は、アパートで当面必要なものを調達することにした。アパートから浅野川沿いに上流に向かって1キロあまり歩いたところに、リサイクルショップがあった。
その店を覗くと、狭い店内に家電製品や簡易家具、フィギュアなどの玩具、什器などが陳列されている。大学生がワンルームマンションで使うようなものなら、何でもありそうだった。
瀬野はそこで、どれも中古の洗濯機、電子レンジ、掃除器、自転車を物色したが、手頃なものが直ぐに見つかった。さらに窓枠の寸法に合いそうなカーテンもあった。バルコニーに出るガラス戸用のカーテンは、丈も巾もちょうどよいものがあった。それは少し色落ちしていて、顔を近づけると日焼けした匂いもしたが、遮光機能に問題はなさそうで、品質に比べれば随分安いように思えた。
瀬野は、それらを店の軽トラックを借りてアパートまで運び、一人で部屋まで運び入れた。
それから瀬野は買った中古の自転車に乗って近くの電気量販店に出掛け、あまり聞きなれないメーカーの安価なエアコンを購入した。「これは最新の省エネタイプじゃないです」と店員に言われたが、長時間使うことはないので、それで構わなかった。エアコンの取り付けは、翌週の日曜日に業者が来てくれることになった。
買い物が済むと正午を回っていた。
午後に瀬野はアパートの床の拭き掃除をした。床に雑巾を当てると雑巾は直ぐに黒くなった。それをバケツの中で洗うと、バケツの水は墨汁を入れたように真っ黒になった。
一通り拭き掃除が済むと、午後5時を回っていた。
瀬野は自転車に乗って、晩飯の食べられるところはないかと探しているうちに、また浅野川の上流の方まで来ていた。大通りを走っていると、ラーメン店の派手な看板が目に入った。
中に入ると店内の照明は明るくて、正面と大通り側には大きなガラス窓が嵌められている。店内を見回すと、一人で来ている客もいるが、テーブル席の多くは子供連れの家族らしい客達が陣取っていた。ラーメン店というよりファミレスのような店だった。
瀬野はカウンター席に座って、味噌ラーメンと餃子のセットを注文した。7、8分待つと注文したものが出てきた。出てきたラーメンと餃子は、癖がなくて誰にでも受け入れられそうな、正にファミレスのメニューのような味だった。
旧盆の週に夏休みを取った。その週に妻と息子二人が妻の運転するフリードでやってきた。
次男の
瀬野は長男の
氷見子は車内の荷物を部屋に運び入れていたが、あまりに多いので瀬野も手伝った。荷物を運び入れると、彼女はそのまま休息もしないでアパートの内部を隅々まで見て回った。そして1回りしてくるとリビングに戻ってきて、「まあ、まあじゃない」と言った。「これなら、私たちも時々来れるわね」
そう言いながらリビングに腰を下ろして、また部屋の中を見回していたが、バルコニーに面したリビングのガラス戸に彼女の視線が止まった。そして再び立ち上がるとガラス戸のところまで行き、両脇に畳み込まれていたカーテンの襞を手で広げて持ち上げた。
「でも、風変わりな模様のカーテンね」
「えっ。何が」
瀬野も氷見子の広げたカーテンの模様をみたが、何が風変わりだと言っているのか直ぐには分からなかった。リサイクルショップで自転車や洗濯機と一緒に買ったカーテンだった。買う時、カーテンの包装に「ゴブラン織り」とマジックで書いた紙が張り付けられていたのだが、瀬野はゴブラン織りが何物なのか知らなかった。しかし買ってきて吊るすと、生地は厚くて遮光性があり、カーテンとしての機能は申し分のないものだった。
カーテンの模様は、上下に伸びる木か草の蔓が何本か並行して描かれており、その蔓と蔓との間にバラのような同じ花の絵が規則正しく並んでいる。地は暗い黄緑色である。
「よく見るとバラか。遠くからみたら人の頭に見えたわ。女の人の」
氷見子に言われて遠目でカーテンの模様を見ると、確かに花の部分が斜め上から見た女性の頭部に見えなくもない。
「ちょっと気味が悪い」
「普通のカーテンだよ。リサイクルショップで買ったんで、絵柄までは吟味しなかったな」
カーテンの模様は、今見直しても、瀬野は特に気にならない。
氷見子もカーテンのことに何時までも拘らなかったので、カーテンの話はそれで終わった。
彼女がアパートの部屋の中を隈なく見て回ったのは、夫の生活場所であるからというのもあるが、自分と息子の数日滞在場所が清潔な場所かどうか見定めたいからでもあるようだった。妻は、アパートの部屋は概ね気に入ったようだった。
家族で過ごす1週間の夏休みは、瀬野にとってもは楽しいものだった。金沢支社に赴任してからの3週間余りというもの、会社では、仕事の要領が分からずに右往左往している間に、時間だけが過ぎていった。食事はファミレスのようなところで一人外食をするか、コンビニ弁当を買ってアパートで一人食べていた。僅かな期間とは言え、家族と暮らせるのは嬉しかった。
瀬野が単身生活になるのは、今度が初めてだった。2011年秋に結婚し翌年には長男海斗が生まれ、その2年後に大和が生まれたが、今まで転勤の時は家族で引っ越しをしていた。3年前に名古屋支社に転勤になり家族で名古屋に転居した。名古屋市は妻氷見子の出身地で、彼女の両親の家と弟の家も同市内にある。翌年、海斗は市内のとある私立大学の付属小学校に入学した。その小学校は氷見子の母校だった。
彼女は、瀬野の転勤の都度これからも子供たちを転校させるのは可愛そうだ。名古屋は自分の生まれ育った街なので、安心して子供を育てられる。だから名古屋に定住したいと言い出した。瀬野も、何時までも家族で引っ越しを繰り返すのは無理だと思っていたので、妻の意見に同意した。そしてその年、市内に新築のマンションを購入し、それまで住んでいた賃貸アパートから移り住んだ。
その翌年、2年近く癌を患っていた氷見子の父親が亡くなった。義父の死後、義母が頻繁にマンションに来るようになった。今年になって氷見子は近くの病院で週3日、パート勤務のレントゲン技師として働くようになった。彼女が家に不在の時は、息子たちの面倒は義母が見ていてくれる。
氷見子らが来た翌日、彼女の運転して来たフリードを瀬野が運転して、家族で能登半島を旅行した。のと里山海道を終点の一つ手前の穴水インターまで走り、そこから国道249号で宇出津、珠洲、輪島、富来と左回りをして能登半島を1周した。初日は珠洲の鉢が埼海岸で海水浴をした。それから曽々木海岸を伝って輪島まで行き、輪島市内の民宿で1泊した。
翌日は、門前、富来、志賀を通って羽咋に行き、「コスモアイル羽咋」を見学した。海斗はヴォストーク宇宙船やアポロ指令船の前で釘付けになった。
小学1年では読めない漢字があるので、瀬野がパネルに書かれた文章を読んで聞かせてやろうとすると、海斗は「ああ、いい。何となく分かる」と言って断った。
能登旅行も楽しかったが、旅行から帰って来てから、狭いアパートに家族4人で雑魚寝するというのも意外に楽しかった。
アパートの奥の6畳の部屋は、長男の作品に占拠されて使えなくなった。長男はアパートに来た日からプラレールを繋ぎ始め、能登旅行から帰った翌日には、6畳の部屋1面が鉄道敷になっていた。
瀬野は奥の部屋を覗いて、「おお、また始まったな」と言った。妻が名古屋から車で運んできた荷物の大半も、自宅にあったプラレールを分解して持ってきたものだった。長男は、それに金沢に到着した日に瀬野からプレゼントされたプラレールも足し合わせて、幾層にも重なって走る巨大なレールウェーを作り始めていた。
長男がプラレールの組み立てを始めたのは、2歳の誕生日に電車のおもちゃを貰ったのが始まりだった。それから長男はプラレールを繋いで線路を延伸することに夢中になった。お年玉やお小遣いのほとんどをプラレールの購入に充てていた。そして、線路はどんどん長くなり、購入したマンションの1室もプラレールに占拠されるようになった。線路は部屋の四隅を回り、螺旋を巻くようにして何回転もしながら支柱で作った山に登り、そこから降りて来て、また次の山に登るというように延々と続いた。プラレールはループになっていて、最後は最初のプラレールに繋がった。おもちゃの電車が出発して元の場所に帰って来るのに20分以上は掛った。この鉄道は何度も壊され、また別の形に組み立てられた。その設計図は長男の頭の中にしかなかった。
プラレールに奥の部屋を占拠された僕らは、フローリングのリビング一間だけで、食事をして睡眠もとることにした。
旅行から帰った翌日の深夜、睡眠中の瀬野には微かな音が聞こえていた。それは始め、夢の即興の筋書きの中に織り込まれた効果音程度のものでしかなかったが、音は次第に無意識界から意識界へと浮上してきて、次第に耳から聞こえる音へと変わってきた。瀬野は寝たままの姿勢で、聞くとはなしに聞いていたが、次第に音の輪郭がはっきりしてきた。それは薄い鉄板を叩いているような鈍く響く音だった。
瀬野は上体を起こして、薄暗がりの中で周囲の様子を窺った。すると、音はアパートの玄関付近から聞こえていた。垂れ下がって来る目蓋を必死に持ち堪えながら、その方向に目を凝らしていると、暗い橙色の光を受けて、白い、まだ幼くみえる人間の手が、内側からドアの鉄板の下の部分を叩いているのだった。白い腕は三和土から上に延びていた。
瀬野はまだ覚めやらぬ頭の中で、あれは何かなと暫く考えていたが、ようやく思い当たった。
起き上がって上り端のところまで行った。すると三和土のコンクリートの上に横たわった次男の大和が、右手の甲でドアを叩いていた。どうやら次男は、眠ったままで転がっていき、板の間から三和土に転げ落ちたようだった。
瀬野は次男を抱き起して、「大和起きろ、大丈夫か」と声を掛けたが、微かに鼾をかいて眠ったまま起きようとしない。瀬野は次男の身体中を隈なく見回したが、どこにも怪我はしているようにない。大和は静かな規則正しい寝息を立てていて、ピクリともしない。
瀬野は大和を抱えてリビングに戻り、眠ったままの彼を敷布団の上にそっと寝かせた。
彼を寝かせると、瀬野もまた横になった。
だが、瀬野がうとうとし始めると、大和はまた転がり始めた。瀬野が一瞬眠って目を開けると、大和は敷布団の上から出ていた。また一瞬意識がなくなり再び目を開けると、三和土の方に1メートルほど転がっていた。
氷見子の方をみると鼾をかいていた。小さく声を掛けて身体を揺すったが、よく眠っていてビクともしない。時計をみると午前2時前だ。
仕方がない。氷見子にも手伝ってもらおう。瀬野は立ち上がり、眠り込んでいる彼女の両足首を持ち上げた。肉付きの良い太腿の撓みが瀬野の腕に伝わってきた。瀬野は、妻の尻の重みを利用して、そこを支点に仰向けの彼女の身体を回転させながら移動させ、ちょうど大和の転がっていく手前に、その障害物になるように置いてみた。これで何とか大和の移動を止められれば成功だ。
そして瀬野も再び横になり、うとうとし始めた。時々目を覚まして二人の方をみると、大和は案の定氷見子の身体に打ち当たって、それ以上転がっていなかった。
朝、氷見子に深夜の出来事を話すと彼女は大声で笑った。「大和の寝相は凄いからね」
瀬野もそれに釣られて笑ったが、笑い事ではないと思い直して、
「お前は熟睡していたが、こちらは大変だったんだぞ」と言った。すると、氷見子は急に真顔になって、
「夜中に、私の身体に変なことしてないでしょうね」と言った。そして、また笑い出した。
とにかく、夏休みはいろいろあったが、家族で過ごすのは楽しかった。
(3)
夏季休暇が終わると、仕事は急に忙しくなった。企画グループから来年度の新規プロジェクトの概算要求書が次々に来ていた。それらの中身を精査して、管理グループの意見を付して本社管理本部に稟議するのが瀬野の仕事だった。
要求書が手元に届く都度、瀬野はそれにさっと目を通した。プロジェクトの概要はおぼろげながらイメージすることが出来たが、案件の詳しい中身は分からないし、どんな観点からの審査が必要なのかも分からない。
ところで、瀬野にはこの新規プロジェクトの審査に関してある考えがあった。それは野口にも審査を経験させることだった。瀬野自身も審査するのが初めてで、どうなるのか不安であるのに、野口まで審査の作業に引き込むのは無謀かも知れない。もちろんまだ入社2年目で、社会経験の少ない野口にまともに審査ができるとは考えていない。しかし何事も経験することで仕事が身に着き、社員として成長いくものだろうと瀬野は考えていた。オン・ザ・ジョブ・トレーニングが人材育成には一番良い。 瀬野自身も若い頃に上司が同じように自分の能力を超える仕事を経験させてくれ、それが自分の成長につながったという思いがある。一方では、今の時代、上司が勝手に若手を育成するなどという思い上がった考えは事故の元であり、間違いだろという思いもある。人材育成は、会社の教育プログラムに任せておくべきで、勝手なことはしない方が良いのかも知れない。
ただ、審査をさせるのは育成という面だけでなく、担当者の共同作業という面もある。担当者が共同して業務を遂行するというのは、本来在るべき姿でもある。野口も与えられたミッションには意欲をもって取り組むのではないか。僕の審査の作業と並行して、彼にも彼なりの目線で審査をさせて、もしその審査結果に汲むべきものがあれば、本社への報告書に反映させれば良い。例え結果が全く使いものにならなくても、それはそれで良いと瀬野は考えた。
「野口君、君にも新規プロジェクト案件の審査をしてもらおうかと思うんだけど、どうかな」
パソコンに向かって作業をしていた野口は、作業を中断して、
「えっと、それは、業務命令ですか」と聞いた。そんな言葉が出てくるとは思いもよらなかったので一瞬面喰った。しかしまあいいだろう。
「命令とか、そういうことじゃないけど、何でも経験してみるのはいいことだから、やってみないかと聞いているんだよ」
「僕は必要な業務であれば、もちろん何でもしますよ。今は報告物だけをしろと命じられているので、それしかしていないだけです」
「じゃあ、やってみる?」
「必要な業務ならしますが、それなら、審査をしろと命じて下さい」
「ああ分かった。じゃあ野口君、審査を頼む」
「はい、分かりました」
面倒くさいやつだなと思った。前任の松井が野口について言っていたことも頷けなくはない。しかし最近はそんな感じの若者が多いのかも知れない。こちらが若者に合わせていく姿勢が必要だろう。
企画グループから出てきた新規プロジェクトは何本もあったが、一見したところ、大型の新規プロジェクトは2件だった。
そのうちの1件は、「拡大型医療モール (仮称)金沢アンチエイジャーランド」だった。これには「高齢社会に対応したニュータイプのテーマパーク」というサブタイトルが着いていた。
内容は、内科、外科、整形外科、眼科、歯科などのクリニックを網羅し、人間ドックや短期入院にも対応できる医療施設を中心に、マッサージ院、整体院、薬局、健康食品専門店、さらにスポーツジム、スパ、食堂などを併設した大型健康増進施設を建設するというものだった。「高齢者の健康に関するあらゆるニーズに対応したもの」と説明されている。施設利用者は会員制で、「事前に交付したQRコードによって、健康保険証等の提示なしに施設内の全ての場所でQRコード決済が可能」である。
このプロジェクトについては、まず調査費として来年度2千万円を要求するものとなっていた。
大型の新規プロジェクトのもう一つは、「ESG関連事業 スモール・スマート・ヴィレッジ (仮称)能登五風十雨村」だった。
内容は、太陽光発電、風力発電及びバイオマス発電に大型蓄電池を組み合わせ、エネルギーの完全自給が可能な人工の村を能登半島に作るというものである。家屋は賃貸と分譲(建売)の両方を用意し、1戸当たり10坪程度の菜園を貸与して野菜の自給自足も促す。栽培の経験のない住人のためには、近隣の農業従事者にインストラクターを委嘱し、講座や個別指導も行う。蓄電池はリチウムイオン電池で始めるが、全個体電池が普及して来たら速やかに変換し安全性、安定性をより高めることも想定されている。肝心の住民は、近隣に能登空港があり首都圏とのアクセスが良好なことから、先ずはサラリーマンのリタイヤ組(田舎暮らしに憧れる高齢者)を想定している。さらに、首都圏の大学から農村留学生を募り、いくいくは若者の定住に繋げることも謳っている。
このプロジェクトについては、「拡大型医療モール」と同様、まず調査費として来年度2千万円を要求するものとなっていた。
以上二つの大型プロジェクト以外は、比較的小さなもので、「フットサル場の設営・管理」(これは、複数のオフィスビルの屋上を借り上げて、フットサル場を整備するというもの)、「水性植物観察園の整備」(これは、いま流行のビオトープ用の水生植物や、ミドリムシなど健康に良いとされる藻類を観察できる小規模な施設を建設するというもの)、「二水、沿岸遊覧船事業」(これは、犀川と浅野川の河口付近及び沿岸を巡る遊覧船事業を始めるというもの)、それに加えて、中古のオフィスビルを購入して修繕した上で、当社の組成した不動産ファンドに売却するという案件が数件あった。
これらのプロジェクトについては、来年度の予算として、それぞれ2千万円から8億円を要求しており、大型のプロジェクトを含めると総要求額は24億円余りとなっている。
瀬野は審査に取り掛かった。だが、それは大変な作業だった。まず企画案をさっと見ただけで、計算誤りや転記ミスではないかと思われる箇所が幾つも出てきた。彼はその個所に付箋を貼った。企画案の写しを野口にも渡しておいたが、彼も数字や漢字の誤りを幾つも見つけたようだった。少なくとも計算誤りや単純なミスがあれば、それは先に訂正して貰わないと困る。
そこで、企画案のミスと思われるところに付箋とマークを付けて、訂正を依頼するために、企画グループのフロアまで持って行った。
企画案を統括している統括チームの布村というチームリーダーの所に行って訂正を依頼した。しかし布村リーダーは、
「そんな細かい事は俺にはいちいち分かり兼ねるよ。すまんが、それぞれの担当に聞いてくれないかな」と言われた。
そこで、瀬野が企画グループ内を見回して、「拡大型医療モール」の担当者の吉田を探したが、彼は「開発企画チーム」の名札が吊り下がった島にいた。
瀬野は吉田の席まで行き、付箋を立てた企画案を見せて「訂正して欲しい」と言った。
吉田は机に座って下を向いたままで瀬野の指摘を暫く聞いていたが、
「えっと、瀬野さんだったっけ。お宅、このプロジェクトに関して、どの程度理解してます?悪いけど、今まで営業で走り回っていた人に、こういう企画って、すぐに理解できるとも思えないんだけど」と言った。
「はあ、確かに、まだ自分でも十分に理解できたとは思ってないです」と瀬野は素直に答えた。
「じゃあ、この企画に『同意する』と書いて、お宅らの管理本部に稟議したら如何でしょう」
「ええ、そうなるのかも知れません…。ただ、計算の誤りと誤字は訂正して貰わないと…」
「それって企画内容の本質と関係がないんでしょ。枝葉末節の部分なんでしょ」
「ええ、でも予算の積算根拠の誤りは、ちょっと…」と瀬野は食い下がった。
さらに2、3のやり取りの末、吉田は渋々修正に応じた。そして、
「分かりました。後で差し替えをメールで送ります」と約束をしてくれた。
営業で回っていれば、様々な相手方と出会う。中には何を言っても、まったく通じない人物もいる。吉田の態度は気に食わないが、それでも吉田はまだ可愛い方だろう。
一方、「スモール・スマート・ヴィレッジ」の担当は嬉野というフェローだった。当社では、ドクター又はマスターで、特定分野に関する知見、経験を有している人物をフェローとして嘱託採用している。嘱託と言っても年俸は一般職員の年間給与よりずっと高い。嬉野は地理学系のポスドクで、「地域振興」、「街づくり」分野のフェローである。その嬉野は、吉田のいる島とは離れた「総合企画チーム」というところにいた。どのような基準で企画グループの島が形成されているのか、瀬野には分からない。
瀬野は、嬉野のところにも行き、計算誤りの訂正を依頼した。嬉野は、
「計算誤りは拙いね。すぐ直しますよ」と言った。不愛想な言い方だったが、無茶な文句は言わなかった。素直に訂正に応じてくれるのなら、それ以上求めることはない。
瀬野は、ほかのプロジェクトの担当者にも、次々に訂正を依頼した。
しかし暫く待っても企画グループから差し替えの文書は届かなかった。吉田らに電話で督促すると、差し替えの文書は先ほどメールで送ったはずだという。だが自分のメールボックスにも、管理グループやチームの共有ボックスにも企画グループからは何も届いていない。もう一度督促すると、「いや、申し訳ない。送信したつもりでいた。いまから送信する」と言う。こんなやり取りが業務時間の終了する午後5時近くまで続いた。
5時間際になって、ようやく訂正したページを受け取り、企画案の誤っているページと差し替えた。ところが、瀬野は、差し替え後の企画案を眺めているうちに、訂正した数字が別のページに記載された数字と符合しないことに気が付いた。1か所訂正すれば、それが他の場所にも波及するのは在り得る話だが、瀬野はそこまで考えが行き届いていなかった。
また訂正を依頼する必要がでてきたが、それは翌日に繰り越さざるを得ない。業務時間後に他のグループの職員を拘束するのは憚られるし、今度は1回で訂正が済むように、企画案の隅々までチェックする必要がある。
瀬野の仕事は午後5時以降も続いた。翌日、企画グループの吉田らに確認したり、訂正を依頼したりできるよう、企画案に何枚ものポストイットを張りつけて、そこに細かにメモを書き込んだ。
同じフロアの管理グループの職員は次々に退社していった。
野口は「僕も残りましょうか」と言ったが、瀬野は、仕事の区切りの良いところで終えて早く帰るように言った。野口は瀬野の言葉に従って早々に帰って行った。
管理グループの部屋は冷房があまり効いてはいなかった。省エネのために高めの温度で管理しているというのではなく、空調のコンプレッサーが老朽化して7階まで冷気を運んでこられないためだろうと瀬野は想像していた。その冷房も5時を過ぎると切れてしまった。送風が消えると風がダクトを擦る音も消えて、部屋の中は急に静かになった。それと引き換えに、部屋の温度はじりじりと上昇し始め、30分も経たないうちに部屋は温室のようになった。脇の下や太ももには汗が滲んできて、小さな文字や数字を追っているとイライラしてきた。
瀬野は近くの窓のブラインドを巻き上げて窓を開けた。外気はまだむっとする暑さで、微風で部屋の気温が下がる訳でもなかったが、息苦しさは幾分ましになったような気がした。だが微風とともに騒音も入ってきた。自動車の騒音に混じって、電車の入線を告げるアナウンスや出発のブザー音が微かに聞こえる。
瀬野は6時過ぎに一度建物の外に出て、近くのコンビニで弁当とペットボトルのお茶を買い、また部屋に戻った。そして弁当の中の、油っぽい竹輪の天ぷらや海苔の乗ったご飯を少しずつ食べながら仕事を続けた。
同じ部屋の職員はまだ何人か残っていたが、7時頃に向かいの席の吉岡が部屋を出た。主計チームや総務チームで居残っていた職員も9時過ぎには部屋を出て行った。そして広い部屋は瀬野一人だけになった。部屋の照明も審査チームの所だけになり、部屋全体が薄暗くなった。
毎年こんな状況なのだろうか。企画案の提出段階では予算の要求額も概算でしかないだろう。それなのに細かな計算誤りのチェックまで本当に必要なのだろうか。自分はやり過ぎているのかも知れない。瀬野は自分の仕事のやり方に自信が持てなくなりかけた。
瀬野は机の抽斗を開けて、引継書の綴りを取り出した。松井からの引継の時は、そのような細かな手順の話は何もなかったが、過去の引継書には何か書いてあるかも知れない。
当社の場合は「引継書綴り」と言う文書があって、数年分、つまり過去数代の引継書を机の抽斗に保存することになっている。それが本社通達によるものなのか、ただの習わしなのかは知らないのだが。
しかし、「引継書綴り」を一通り見渡した限りでは、企画案の計数チェックに関する記載はどこにも見当たらなかった。
その綴りをみて、別のことが気になった。前任者の松井が引継を受けた時の引継書が綴られていないのである。引継書は、その冒頭に引継者と引受者の自署と捺印がある。綴られている最後の引継書は2年前の7月に作成されたもので、「引継者 小林栄一、引受者 成田薫」となっていた。本来は綴りの一番上に「引継者 成田薫、引受者 松井豊」の引継書がなければならないのだが。どうしてないのだろうか。松井の在任期間がいくら短かかったとは言え、引継書がないはずはない。松井が綴り忘れたのだろうか。抽斗の別の場所に紛れているのだろうか。
ところで、「引継書綴り」を眺めていて、一つ分かったことがあった。本社通達や参考文献に付箋を貼ったり書き込みをしたりしたのは、松井の前任の成田薫という職員に違いないということだ。書き込みの字は大きくて素直な読み易い字だ。そして筆圧が強い。その筆圧の強い字は成田の署名と同じである。
だが、その成田から松井への引継書が机の全部の抽斗を開けて探しても見当たらないのである。しかしまあ大騒ぎするようなことではないだろう。どこかには残っているはずだ。そのうちに出てくるだろう。
瀬野は必要な計数チェックの程度を引継書で確認するのは諦めて、仕事を再開した。数字の誤りは気に食わない。どこまでの正確性が求められているのか分からないが、誤りと分かった以上は訂正させるべきだろう。
パソコンの画面が一瞬揺らいだように感じた。今の眩暈のような感覚はなんだったのだろう。そう思いながら眺めていると、画面の上に虫刺され跡のような円錐形の小さな膨らみが一つ出来て、それが画面の上を出鱈目に動き始めた。
僕の目がおかしいのだろうか。瀬野は親指と人差し指の指先で、二つの眼球を神経の蝟集する眼窩に強く押し込んだ。眼球は圧し潰されてギュッという音を立て、鈍い痛みが顔面に拡がり、眼窩奥の神経の束が熱くなる。痛みを暫く堪えてから、ゆっくり指の力を抜いて、指先を眼球から離した。そしてゆっくり眼を開いた。眼の疲れで幻覚が見えていたのなら、それで解消するはずだ。
ところが画面はやはり揺らいでいる。円錐形の透明の膨らみは画面上をかなりの速度で出鱈目に動いている。
何故、パソコンの画面がそんな風に見えるのだろう。仕事を中断して画面上の膨らみの動きを目で追いながら、これは何だろうかと考えていた。そして暫くして、ようやく原因らしいものが見えてきた。1匹のとても小さな羽虫が、パソコンの画面を見ている瀬野の目の前を飛び回っているのだった。カトンボではない。ハンミョウでもない。コバエかショウジョウバエ、そんな風な極小さな虫だ。それも体が半透明で翅の大きな虫だ。これがパソコン画面に投影されて膨らみのように見えているに違いない。
瀬野は、右手の掌を拝む時のように立てて、それをワイパーのように激しく左右に振って羽虫を追い払おうとした。しかし羽虫はそれを旨く避けて、なかなか顔の前を離れない。何度も掌を振っているうちに、手の甲がとても微細な何かに触れたように感じた。すると羽虫の位置が今度は右耳の手前辺りに変わったのだった。心を落ち着けて耳を澄ますと、確かに微細な翅を超高速で羽ばたかせるプーンという微かな音が耳朶のすぐ近くから聞こえる。
瀬野は羽虫を潰そうと掌で自分の頬をパシンと叩いた。しかしまだ微かな羽音は無くなっていない。それから何度か頬を思いっきり叩いた。すると何度目か叩いた時に、ぶぉーんという低い音が耳の中で鳴り響いた。拙い。羽虫は掌に煽られて耳の穴から外耳道の奥の方に入ってしまったらしい。
ぶぉーんというとても大きな音が耳の奥で鳴り響いている。羽虫は鼓膜の直ぐ近くで、超高速で翅を動かしているのに違いない。
何度も頭を強く左右に振ったが音は消えない。瀬野は少し焦ってきた。人差し指を耳の穴に入れて掻き回したが、ねっとりした耳垢が指に付着するだけで羽虫には届かない。シャープペンシルの先を入れて回したが、これも無駄だった。耳の中が酷く痒くなった。羽虫が外耳の粘膜を毒針で刺し回っているのかも知れない。
これは医者に行くしかないだろうか。しかし今の時刻に空いているクリニックはないだろう。相変わらず耳の中ではぶぉーんという、トンネル内でバイクが爆音を立てているような音が響いている。仕事が続けられる気分ではない。とりあえず粗治療をするしかないだろう。
瀬野は首を傾けながらトイレに走った。照明のスイッチを入れると、明るい光が白い部屋を満たす。
前面に大きな鏡が貼られた手洗い場まで来ると、陶器製の洗面器の前で瀬野は跪いた。膝を曲げて上体を屈め、蛇口の下に左側を下にして頭部を滑り込ませる。そして右耳の穴を正確に蛇口に当て、ハンドルを思い切り捻った。
強烈な痛みが耳から喉に走った。水圧で眼球が顔面に押し上げられて飛び出しそうになった。それを暫く我慢していると鼻と口から水が噴き出してきた。
瀬野は耳を蛇口から外して洗面器の前に崩れ込むように蹲り、激しく咳き込んだ。咳き込んでいると大角膜の激しい振動に釣られて、胃から酸度の強い粘りのある液体が込み上げてきた。上体を起こして、それを陶器の洗面器の中に吐いた。黄色を帯びた粘った液体が盛り上がって器に付着した。それを水道の水で排水口に流し込む。鼻孔と喉は鋭い刃物が突き刺さっているように痛い。
暫く我慢をしていると痛みは少しずつ和らいできた。瀬野はゆっくりと立ち上がった。ワイシャツがびしょびしょに濡れ、ズボンも尿を漏らしたように濡れている。 右耳は身体が揺れる度にぐじゅ、ぐしゅ、たぷ、たぷ、と音を立てた。
頭を右に傾けて頭の左側を掌で叩いて、耳の中に溜まった水を流し出した。トイレの個室からトイレットペーパーを巻き取って鼻をかんだ。暫くして鼻の痛みが和らいでくると、水道水の塩素臭が鼻孔に拡がった。それから暫くは鏡の前にぼんやりと立って、間抜けな自分の顔と向き合っていた。
濡れたワイシャツのボタンを外して風を入れながら部屋に戻った。汗が引いて少し寒気を感じる。塩素臭は何時までも鼻について取れない。しかし羽虫の音は無くなっていた。どうやら耳の中にいた羽虫は水圧で体外に流し出されたようだ。
瀬野はまた机に座りパソコンに向かったが、もう作業を再開する気にはなれなかった。時計を見ると11時を回っていた。翌日の仕事の段取りがまだ完全ではないが、瀬野はこれ以上仕事をする気が無くなっていた。仕方ない、今晩は帰ることにしよう。
部屋には入口が3箇所あるので、まずエレベータに最寄りのドアを除いて2箇所のドアに内鍵を掛け、空いた窓は全部閉じた。GM室とミーティングルームも窓が閉じているか確認した。
部屋の全ての照明を消して、内鍵を掛けていないドアから廊下に出て、そのドアに外から鍵を掛けた。そして、出たドアの近くの壁に設置されたセキュリティ装置の電源をオンにする。
同じ7階のフロアには、このビルのオーナーである生保会社の営業所もあったが、部屋の照明は既に消えていた。
廊下の照明を消すと暗闇の中にエレベータホール天井の蛍光灯の明りだけになった。
エレベータは2基あるが、1基は夜間の運転を停止している。
エレベータホールの照明のスイッチはエレベータの近くにはなくて、少し離れた階段の昇降口の壁に、階段の照明のスイッチに並んであった。瀬野は昇降口まで行って階段の照明とエレベータホールの照明のスイッチを切った。そして暗闇の中をエレベータの前まで戻った。
すると瀬野とタイミングを合わせたかのようにエレベータが上がってきて止まり、扉が開いた。明るい光がホールを満たしたが、エレベータの中には誰も乗っていない。階下で降りた誰かがボタンを押し間違えたのだろう。これはグッドタイミングだ。
瀬野がアパートに帰り着いたのは0時を過ぎていたが、アパートのドアを開けると部屋に籠っていた生暖かな空気が瀬野を包み込んだ。三和土から上がると真っすぐリビングに行き、バルコニーのガラス戸を開けカーテンを引いた。エアコンを付ける前に空気の入れ替えをしたかった。
リビングの照明を点けると、妻の氷見子が気味悪がっていたカーテンの模様が浮かび上がった。だが瀬野は、今見ても特に気味が悪いとは思わない。薔薇の花の模様は遠目にみると人の顔に見えなくもないが、近くで見ればぼってりとした薔薇の大輪だ。このカーテンは、生地は打ち込みが多くて厚地で上物に見えるが、値段は3千5百円ほどだった。値段からすると、ゴブラン織りというよりも、ゴブラン織り風のカーテンなのかも知れない。それでも値打のある買い物であったのは間違いない。
次に寝室にしている奥の畳の部屋に行き、敷きっぱなしになっている布団を踏みつけて窓際に行くと窓を開けてカーテンを引いた。こちらのカーテンは無地の安物だ。
それから浴室に行って、瀬野はシャワーを浴びた。シンクに湯を張って浸かりたいとも思ったが、既に午前1時前になっていたので、排水音が階下の部屋まで響くのを恐れて諦めた。
浴室の横に洗濯機を置いていた。その中には、昨日脱いだ下着が入ったままになっていたので、蓋を開けると饐えた匂いが立ち上った。しかし洗濯機の音と振動が大きいので、深夜に洗濯する訳にもいかない。今日着ていた下着も洗濯機の中に投げ込むとそっと蓋を閉じた。
シャワーが終わるとキッチンに行って、冷蔵庫から酎ハイのアルミ缶を取り出し、半分ほどの量を一気に胃袋に流し込んだ。冷蔵庫の中にあった一口サイズのプロセスチーズの銀紙を捲り、それを齧りながら残りの半分も飲み干した。
酎ハイが程よく眠気を誘い、それに誘われるようにして、敷きっぱなしの敷布団の上に横になった。そして暫く眠ったように思った時に異変が襲った。
耳の奥で羽虫が羽ばたいたのだ。瀬野は立ちどころに目を覚ました。あまりに生々しい音だったので夢と紛うことはなかった。
姿勢を仰向けから右耳を上にして横向きに変え、聴覚に神経を集中した。暫くすると、また、ぶぉんという音がした。会社で襲われた時の音と同じだ。水道水の水圧で押し出されたと思っていたのに、羽虫はまだ耳の中のどこかに潜んでいたのだろうか。痛みはない。鼓膜の奥の内耳までは入り込んでいない。鼓膜の外のすぐ近くで翅を高速で動かしているのに違いない。
もう一度、水圧を掛けてみるか。そう思っただけで、塩素系の匂いが鼻孔の中に再現される。瀬野は布団から上体を起こして、バスルームに行こうと立ち上がり掛けた。しかし、思い直した。いや止めておこう。酷い負荷を二度も掛けたら鼓膜が破れるかも知れない。夜が明けてから、どこか近くの耳鼻咽喉科クリニックに行って羽虫を出してもらうのが賢明だろう。夜明けまで我慢して耐えるしかないだろう。
翌朝、少し早めに会社の方に向かった瀬野は、駅の一つ手前の六枚町バス停で降りると、通勤ルートから少し迂回したところにある「笠市耳鼻咽喉科クリニック」まで行った。通勤の行き帰りに「すぐそこ」と書いた、このクリニックの案内看板をよく見掛けたので、今朝来てみたのだ。
外壁が薄いピンク色に塗られたクリニックの建物はまだ新しいものだった。その入口のガラスのドアには曜日ごとの診察時間を書いた紙が内側から張ってある。今日の診察は9時からだ。
診察開始までまだ30分近くあった。瀬野が来た時は誰も並んでいなかったが、10分ほど前になると、女性3人が瀬野の後ろに並んだ。瀬野はドアの開くまでの間に、西崎リーダーが会社に到着する頃を見計らって電話を入れた。リーダーには、所用で出勤が1時間ほど遅くなる、遅刻理由は後で報告すると伝えた。
9時前に、淡いピンクのユニフォームを着た女性が内側からドアを開けたので、瀬野らは中に入った。待合室も淡いピンクを基調とした明るい部屋だった。
瀬野はソファに座るや否や検査室に行くように言われ、そこで聴力検査を受けた。検査を終えて待合室に戻ると今度は直ぐに診察室に呼ばれた。診察室にいくと、若い男性医師が椅子に掛けて待ち構えており、その医師を淡いピンクのユニフォームを着た看護師らしい若い女性4人ほどが取り巻いていた。何故そんなに何人も看護師が要るのだろうと不思議な感じがしたが、まあ、そんなことはどうでもいい。
「右耳の中に虫が入り込んじゃいまして」と瀬野が言うと、医師は「ほほう」と言って、看護師の一人からライトの付いた柄の長い棒を受け取り、その冷たくて固い棒を瀬野の右耳に差し込んできた。
「右の鼓膜は綺麗で…特に問題は、…ないですね」医師が耳を覗き込みながら言った。「虫?虫ですか。そんなものはいませんよ」
それから、左の耳を同じように覗き込んで、
「あっ、左の方は耳垢が少し溜まっている。これ取っておきましょう」と言った。そして「カサカサ音がしたのなら、耳垢かも知れないな。これを取ったらもう大丈夫でしょ」
「はあ、音がするのは右なんですが」
「それ、今も音してますぅ?」
「いえ、今は」
「さっき聴力検査したけど、右耳は全く問題なかったですよ。あまり気になるのなら内視鏡を入れてもいいが、そんな必要もないでしょ。気のせいでしょ」
「はあ」
瀬野はそれ以上医師に食い下がる気力が失せていた。急に自分の感覚に対する自信が無くなっていたのだ。医師が問題ないというのなら、そうなのかも知れない。羽虫は水圧で押し流されて最早耳の中にはいないのだ。夜中に耳の中でしていた羽音は、朝起きてからは一度もない。夜中の羽音は疲れから来た幻聴だったのかも知れない。多少の疑問は残ったが、そう考えることにした。
瀬野はクリニックを出て10時過ぎに会社に着いた。直ぐに西崎リーダーの席まで遅刻の理由を説明に行き、ちょっと耳の聞こえが良くなかったので、念のためにクリニックで診察を受けたが、特に問題はなかったと報告した。西崎リーダーは興味もなさそうに頷いただけだった。
瀬野は自分の席まで戻ると、直ぐに昨夜の仕事の続きに取り掛かった。
昨夜の作業で計算誤りやページ間の整合性などの問題はおおかたポストイットに書いて、該当するページに貼り付けておいた。その作業の続きで、まだ残っていたところに同じようにポストイットを張り付けた。
野口に他に漏れがなかったかと質すと、野口も幾つか不整合になっている点を発見していた。それについても同じようにポストイットに書いて、該当のページに貼り付けた。
これで漏れがないかどうかはまだ定かではないが、審査の期限もあるので、とにかくこれを企画グループの各担当者に渡して企画案に所要の訂正を行ってもらうしかない。
午後、瀬野はポストイットを貼りまくった企画案を企画グループの部屋に持って行った。そして、まず「拡大型医療モール」の企画案の訂正を開発企画チームの吉田に依頼したが、吉田は想像していた通りあからさまに不機嫌な顔になった。
「企画の本質にほとんど関係のない、こんな枝葉末節なところを、しかも一度ならず二度も訂正しろなんて、今まで管理グループから言われたことは一度もない」と吉田は言った。「今後、管理グループがそういうやり方をするのなら、俺にも考えがある。本社の管理本部には俺の知人や、かつての上司もいるんだ。場合によっては、金沢支社の管理グループを飛ばして、直接、管理本部に提出することだって出来るんだぜ」
組織上そんなことが出来ないのは明らかだったが、瀬野は敢えて反論しなかった。ただひたすら頭を下げて、吉田に訂正を頼んだ。もちろん吉田は最後に訂正を了解した。訂正に応じるしかないのは、初めから分かっていたことだった。
次に、「スモール・スマート・ヴィレッジ」の企画案の訂正をフェローの嬉野に依頼した。嬉野は、「ああ、分かったよ」と言って、幾枚もポストイットを張り付けた企画案を受け取った。顔は笑っていないが、文句や愚痴は言わなかった。手間を取らせずに素直に訂正に応じてくれるのはありがたい。
(4)
こうして、企画案の計算誤りや誤字などの訂正を正すのに瀬野は3日間を要した。
4日目に、ようやく企画案の内容の審査を始めた。
まず、「拡大型医療モール」から検討することにした。
「拡大型医療モール」は、建設候補地として金沢市内3個所を挙げていた。それらは、市中心から見ての方角がそれぞれ異なるが、いずれも郊外で用途地域は準工業となっていた。そのうちの1個所は工場跡地で、他の2個所は農地だった。どの候補地も主要地方道に面しているか、候補地のすぐ近くに国道が通っていたが、路線バスはいずれも1時間から2時間に1本程度しかないところだった。敷地面積は5万坪程度と考えているようだが、それで十分な来場者の駐車スペースを確保できるだろうか。そこがまず疑問だった。
候補地の地価は、2個所は相続税路線価があったが、1個所は固定資産税評価額しかなかった。「審査マニュアル」に基づいて倍率を掛けて地価を試算すると、3個所は坪1万5千円から2万円というところだろう。これに広大地の補正率を掛けて地価を見積もれば、だいたい企画案に書いてある土地買収予定額に収まりそうだった。土壌汚染や地下埋設物、軟弱地盤などの問題は出てくるかも知れないが、コンサルの調査結果に依るしかないだろう。
建物価格は、今のところは坪単価で見積もるしか方法はないが、企画案の予算額25億円は概ね妥当なところだろう。
一番の問題は、このような事業が果たして成立するかどうかということである。
「拡大型医療モール」は内科、外科、整形外科、眼科、歯科などのクリニックを網羅し、人間ドックや短期入院にも対応できる医療施設を中心に、マッサージ院、整体院、薬局、健康食品専門店、さらにスポーツジム、スパ、食堂などを併設した総合健康増進施設を建設するというものである。食堂も一般的な食事を提供する食堂ではない。目玉は薬膳料理で、薬膳懐石、薬膳カレーなどのメニューを揃えるとしている。
医師、薬剤師、マッサージ師などの確保は、出店条件次第では可能だろうが、高度な診断機器や医療機器などが必要になるだろう。総工費70億円という予算の中で、これらの機器が十分整備できるのだろうか。機器の明細が添付されてないが、担当の吉田が医療機器メーカーから見積もりを取っているかどうかを確認する必要があるだろう。
さらに、どれだけの来場者が見込めるかということだが、石川県の高齢者は33万人、近県の高齢者を加えると90万人いる。企画案によれば、1日平均600人が来場し、社会保険給付込みで平均1万5千円消費する計算になっている。だが果たして、それだけの需要が見込めるだろうか。高齢者のうちには、寝たきりの人や認知症の人、逆に仕事で多忙な人も相当程度含まれているだろう。自由に歩き回れる高齢者の数はかなり絞られるのではないかと考えられる。
医療費の支払いをQRコード決済で行うとしているが、高額の貸倒れが発生する恐れも否定できない。
そもそもこの種の複合施設は当地方ではあまり前例がないと思われるが、農地転用許可や開発許可が簡単に下りるだろうか。或いは、医師会や衛生同業組合などからのクレームや反発はないだろうか。
様々な疑問が出てきたが、それらを書き出して、まとめて吉田に質問することにした。こんな作業で、その日も残業になった。
午後6時前だった。
「そんなに頑張らなくていいんじゃないの」。主計チームの山本リーダーの良く通る声がした。
瀬野は、山本が誰に話しているのかと思い、頭を上げて周囲を見回したが、山本はこちらを見ており、どうみても瀬野に話し掛けていた。
「はあ」。瀬野は取り敢えず曖昧に返事をした。
高橋GMも西崎リーダーも既に会社を出ていて、管理職で残っているのは山本一人だった。
「頑張って審査してみても、あまり意味はないよ」と山本は続けた。
「えっ、どうしてですか」
「どうせ管理本部は、支社からの稟議書なんてほとんど見てないよ。俺は以前に管理本部にいたことがあるんだ。プロジェクトを採用するかどうかは、大きな案件は別だけど、小さな案件は、本社内の企画担当のカウンターパートと馬が合うかどうか、みたいなことで決めているだけだよ。時々、管理本部長が理由も言わずに、『採用しろ』とか『不採用だな』とか、トップダウンで命じることもあるしね」
「えっ、そうなんですか」
「特に金沢支社の事業規模は会社全体の3%にも満たないから、プロジェクトを全部採用しようが、逆に全部不採用しようが、会社全体としては、ほとんど影響がないんだ。だからいつも最後に全体の微調整に利用しているだけだよ」
山本が全くの出鱈目を言っているとも思えない。山本の話は事実か、そうではなくても、本社管理本部の雰囲気はきっとそれに近いのだろうと瀬野は思った。
だからといってどうすればいいと言うのだろう。自分の仕事を放りだす訳にもいかない。気持ちの張りがなくなって、やる気が崩れてしまったとしても、やらなければならないことは同じなのだから。
「まあ、こんな話を西崎リーダーの前でしたら、怒り狂うかも知れないが。無理し過ぎて身体を壊さないように、君には教えておいてあげるよ」
「はあ」
「西崎リーダーは、知っていても、そんなことは言わないからね。あの人はサルスベリのような女だから」
「えっ、サルスベリですか」
「『サルスベリのような女』ってどういう意味か分かるか…」
「いえ、全く」
「サルスベリは夏になるとピンク色の綺麗な花が咲くんだ。みんな美しいといって見とれる。しかも、『百日紅』という字の如く夏が終わっても長い間咲いているんだ。しかしサルスベリの木の幹はツルツルしていて、木登り名人の猿でさえズリ落ちて登れないんだよ。虫さえ滑ってしまって、虫も食わない木なんだな。つまり、つかみどころがないってことだな。何を考えているのか、本心がよく分からん女ってことだよ」
山本は得意げにそう話した。
「はあ」と瀬野は相槌を打ったが、いくら何でも言い過ぎだろうと思った。もし本人が聞いていたら、侮辱行為で訴えられるレベルじゃないだろうか。
山本は、瀬野に向かってそれだけ話すと、居残っている自分のチームの職員に「俺、先に帰るわ」と言って席から立った。そして、瀬野に「じゃ、またな」と言って部屋を出ていった。
瀬野の向かいに座っている吉岡は、山本リーダーが部屋を出るのを待ってから、
「山本さんの話は、話半分に聞いていた方がいいよ」と言った。「西崎さんは、そんな人じゃないよ。本心はよく分かるよ。それに部下の話はきちんと受け止めるし、重要なことは伝える人だよ。サルスベリなんかじゃないよ。これは、ただの想像だけど、昔、山本さんは西崎さんに言い寄って振られたことがあるんだよ、きっと。それを何時までも根に持っているんじゃないのかな」
「はあ。管理グループもいろいろ大変なところみたいですね」
瀬野にとっては、西崎、山本両リーダーの関係はどうでも良かった。山本に近づこうとは思わなかったし、山本の言うことを真に受けるつもりもなかった。上司だからと言って西崎を慕う気持ちもない。誰にも惑わされず、自分の仕事には忠実でありたいと思っているだけだ。
「本社での企画案の取り扱いの話も、本当はどうなのか知らないが、そんなに気にしなくていいと思うよ」と吉岡は言った。「この支社の与信審査なんて、もっと意味のない仕事だからね」
「えっ、そんなことはないでしょう」
「僕の端末には、財務データを入力したら、信用リスクに応じて取引先を12段階に債務者区分してくれる最新鋭のシステムが入っている。しかし金沢支社の取引先で有価証券報告書提出会社は30社余りしかない。きちんとした決算書を作っているところも数えるほどしかない。まだ税務申告書の写しがあればマシだが、それすら提出を拒む会社も多い」
「へえ、それでどうするんですか」
「財務データが不足しているときは、経営者の人となりや経営ぶり、同業者の評判などの定性評価も加味することになっている。とは言っても、与信審査担当者が取引先の経営者と面談したり、噂を聞き回ったりすることはあり得ないからね。だからほとんど情報はない」
「で、どうするんですか」
「審査結果は、余程不自然な点がない限り、『まず、懸念なからん』にして稟議を回すしかない。リーダーからは、厳しい質問されて困ってしまうけどね」
西崎リーダーが吉岡を自分のデスクのところに呼んで、何か言っているのを瀬野も目撃したことがある。リーダーが、「経営者貸付金は不良債権として自己資本から差し引くべきじゃないの」とか、「棚卸資産がかなり多いけど、不良在庫がないか確認したの」などと次々に質問しているのに、吉岡はそれをただ「はあ」、「はあ」と聞いているだけだった。
「しかし、会社全体で考えれば、上場会社やそれに準ずる会社との取引シェアが圧倒的に大きいので、小規模な会社の債務者区分がどうであれ、会社の貸倒引当金の計算上はほぼ影響がない。一方、税務申告書の写しすら入手できないような小規模な取引先は、万一破綻したところで、当社の売掛金や未収金がそれほど多い訳でもないから、これも大きな問題はない」
「じゃあ僕の仕事だけじゃなくて、吉岡さんの仕事もあまり意味がないってことですか」
「実質的な意味はね。ただ僕らの仕事も、企画グループや営業グループが暴走しないように、牽制する機能くらいはあるんじゃないか。僕はそう考えるようにしている。或いはそれが、会社がわれわれを配置している理由かも知れない」
「牽制ですか。なるほど」
「だから、フロント、つまり営業グループや企画部ループの連中には、自分の手の内を見せない方がいいよ。実は、その手の内は空っぽなんだけどな」
吉岡はそう言って笑った。そして帰り支度を始めた。机の抽斗から薄いピンク色のガーゼのハンカチで包んだ弁当箱を取り出して、同じく机の下の抽斗から取り出した黒い革の手提げバックの中に、それを大事そうに仕舞い込んだ。そして、「瀬野君も早く帰れよ」というとバッグを下げて部屋を出て行った。
瀬野には少しやり切れない気分が残った。要領を得ない仕事に、右往左往しながら取り組んでいるのに、その仕事にあまり意味がないと言われれば、誰でも挫けそうになるだろう。だが僕らのような、あまり意味のない仕事をさせられている人間は他の部署にも、さらにほかの会社にもたくさんいるのではないか。そして仮に自分の仕事に大して意味がないのが事実だと分かったとしても、誰もそれを投げ出さずに堪えているのではないか。それは堪えるしかないからだ。僕も取り敢えずは自分の仕事を黙々とこなしながら、次の異動に期待すること以外に何が出来るだろうか。転職すると言ったって、今の所得を維持できる保証はないし、自分のことは兎も角として、家族の生活を犠牲にする訳にはいかないのだから。
吉岡が出て行った後、瀬野は何時ものようにコンビニに弁当を買いに行ったが、弁当は売り切れていた。仕方なくお握りとざる蕎麦を買って7階の部屋に戻った。
ツナマヨのお握りは旨い。しかし、ざる蕎麦はコンビニに並んでから時間が経っているのか麺が団子のようにくっ付いていて、水を掛けても容易にほぐれない。仕方がないので箸の先で麺を少しずつちぎっては、麺つゆに浸して食べた。
7時近くになっても部屋の中は蒸し暑かった。窓を開けていたが風はほとんどなく、ただ街の騒音だけが入ってきた。瀬野のワイシャツの襟や脇は水に浸したように汗付き、太ももにも汗が滲んでいた。
8時を過ぎる頃になると他のチームの職員もいなくなり、部屋の中はまた瀬野一人になった。
パソコンの画面が一瞬揺らいだように感じた。ああ、やっぱりまた来たのかと瀬野は思った。暫く画面を凝視していると、虫刺され跡のようなドーム形の透明の膨らみが一つ出来た。そして昨夜と同じようにその膨らみが画面の上を出鱈目に移動し始める。
昨日はこの画面に出来た水膨れのようなものが、目の前を飛び回る羽虫による錯覚に違いないと思って、その羽虫を掌で追い払おうとした。しかしそいつは位置を変えて掌に煽られて右耳の中に入ってしまった。いや耳に入ったと思った。
就寝後にも外耳道に響き渡るぶぉーんという音で目が覚めて、その後眠れない一夜を過ごしたのは確かなのだが、今日は朝から全く羽音は聞こえて来ない。クリニックの医師が言ったように、耳の中で羽音が鳴り響いているように聞こえたのは耳垢のせいなのだろうか。耳垢を取り除いたのでもう耳の中が鳴り響かなくなったのだろうか。
今、冷静になって画面上を出鱈目に動き回っている膨らみを観察していると、どう見ても羽虫ではないようだ。ということは、昨晩見たのも羽虫ではなかったのかも知れない。
瀬野は視力が良い訳ではない。自動車を運転する時は、眼鏡が免許の条件にはなっている訳ではないが、自主的に眼鏡を掛けている。両目とも乱視の傾向があるのも知っている。しかし、こういう妙なものが見えるのは、むしろ網膜に異常があるからではないだろうか。網膜の一部が剥がれると影のようなものが見えると聞いたことがある。一度、眼科の検診を受けた方が良いのかも知れない。
瀬野は気を取り直して「スモール・スマート・ヴィレッジ(仮称 五風十雨村)」の企画案を読み始めたが、何故か気が散って内容が頭に入って来ない。
時計をみると10時だった。少し早いが、今日はここまでにしよう。瀬野は仕事の資料を片付けた。
部屋中の窓を閉めて鍵を掛け、GM室とミーティングルームの窓も閉まっていることを確認した。二つの出入り口の鍵を内側から掛けて部屋の全部の照明を消した。そして開いているエレベータに最寄りのドアから出て、そのドアに鍵を掛けセキュリティ装置のスイッチを入れた。
瀬野は廊下の照明を切って回り、最後に階段の昇降口にある照明のスイッチを切ると自分の足許も見えなくなった。その暗闇の中を、エレベータのある階を示すランプだけを頼りにエレベータホールまで戻りかけた。
すると、下から登ってきたエレベータが、瀬野と歩を合わせたように7階に到着し、そのドアが開いた。エレベータの天井の青い蛍光灯の光がホールを照らし出し、瀬野の影が長く伸びた。誰も乗っていない。
瀬野はエレベータに乗るのを何故か一瞬躊躇した。しかし何を躊躇しているのかと自分に問いかけたが何も答えは浮かばないので、そのまま乗り込んだ。1階のボタンを押すと、何事もなくエレベータは再び降下し始めた。1階についてエレベータが開くと瀬野はそこから出て、明かりの点いた警備室の窓口の前を通って通用口から建物の外に出た。
アパートに着くと11時近くになっていたが、数日振りにバスタブに湯を張って入った。湯に浸かっていると自然に気分が解れてきて、仕事での焦りや思い詰めた気持ちも自然にどこかに行ってしまった。さっきまで眼病を心配していたが、その心配も暫くはどこかへ行ってしまったかのようだった。
風呂から上がると、自宅に電話をして妻に息子たちの様子を聞きたいと思ったが、時計を見て諦めた。電話が出来ないと思うと無性に息子たちの顔が見たくなった。しばらく顔を見ていない。
先日の日曜日の夕刻に妻のスマホに電話を掛けたのだが繋がらなかった。仕方がないので自宅の固定電話に電話をしたら義母が受話器を取った。義母は瀬野からの電話だと分かると、いきなり、
「雄一さんは、ちゃんとした物を食べていますか。バランスの良い食事をしていますか」と問い掛けてきた。
「ええ、まあ」と曖昧に応えると、
「しっかり自分で健康を管理しないと、単身生活で身体を壊す人もいますからね」と言った。
瀬野が「あの、海斗は…」と言いかけると、
「海斗君も、大和君も本当にお利口さんですよ。やんちゃもしていますが、お母さんの言いつけはきちんと守るんですよ。今度、名古屋に帰ってきた時に、どうか褒めてやってくださいね」と言った。
瀬野はその息子たちと話がしたかったのだが、義母はなかなか代ってくれなかった。義母は既にわが家のマンションに入り込んでしまっているようだった。氷見子が仕事を始めたので、義母がいないと家事や育児が回していけないということもあるのだろう。氷見子によれば、義母が自分のシトロエンで長男の学校やピアノ教室への送迎をしてくれているらしい。
今夜は諦めて次の土曜日の早い時間にテレビ通話をすることにしよう。そして、息子たちの元気な様子を確認することにしよう。
瀬野は冷蔵庫から酎ハイのロング缶を取り出すと一口飲んだ。チーズを切らしてしまい、肴になるようなものは何もない。彼はキッチンに立ったままの姿勢でロング缶を飲み干した。最近はアルコールがないと寝付けなくなっていた。
翌朝、やはり出勤前に眼科に行くことにした。「仕事が忙しい」とばかり言ってもいられない。本当に目の病気なら早く治療しないと拙いことになるのではないかと思えた。
瀬野は前日と同じように少し早めにアパートを出てバスに乗った。そして駅の一つ手前の六枚町で降りると、停留所の前にあるよく目立つ眼科クリニックの看板が指している方向に歩いて行った。古いレンガの建物の1階にあるクリニックは直ぐに見つかった。
大久保眼科クリニックの前には既に診察待ちらしい女性が立っていた。瀬野はその女性の後ろについて立った。暫くすると別の女性が瀬野の後ろに来た。
受付開始時まで待っている間に、瀬野は西崎リーダーに電話をした。眼科クリニックに立ち寄るので出勤がまた1時間程度遅れることを伝えると、西崎リーダーは、
「えっ、耳が悪かったんじゃなかったの。今日は眼科なの」と呆れたように言ったが、了解してくれた。
暫くして、白のユニフォームを着た女性が、内側のクリーム色のカーテンを巻き上げドアを開けたので、並び順に従って瀬野は二人目にクリニックに入った。
待合室に入ると、そこは昨日の耳鼻科とは違い部屋も調度品もかなりの年代物だった。チョコレート色の人工皮革でクッションをくるんだ長椅子は所々で縫い目が綻んでいる。
瀬野がその長椅子の端に腰を掛けて待っていると、彼より後に入って来たはずの二人の女性が先に診察室に呼ばて入って行った。予約している患者が先という扱いなのだろう。
そして4人目に瀬野が呼ばれた。診察室に入ると、70歳は過ぎていそうな高齢の小太りの医師と、中年の女性の看護師がいた。
看護師の指示で、医師の前に置かれた丸い椅子に座ると、医師はいきなり顕微鏡の接眼レンズのような器具を持って瀬野の目を覗き込んだ。その太い指先は干乾びて白い粉を吹いたようになっている。
「うーん、とうとう気が付いたようだね」といった。「若い頃は気になることはないが、歳を取って来ると出てくるんだな」
「はあ、それは何なのでしょうか」と心配そうな声で瀬野が聞くと、
「飛蚊症だね」と言ったので、瀬野は落胆した。飛蚊症のことなら知っている。誰にでもあり得る症状だ。そうではなくて網膜に何か異常があるはずなのだが。しかし医師はあっさりと網膜の異常を否定した。
「網膜剥離はないね。飛蚊症も特に病的なものじゃないな。これはもう治らないから、あまり気にしないようにして慣れるしかないね」
医師はそれだけ言うと、紙のカルテにペンで何かを書き込んで看護師に渡した。診察はものの5分で終わってしまい、瀬野は所作なげに診察室を出た。
耳鼻咽喉科の医師に続いて、眼科医にも見放されてしまった気分だった。しかし医師が問題ないというのだから、やはり耳にも眼にも異常はないのだろう。瀬野は会社に向かって歩きながら思った。とすれば幻覚とか幻聴とか、そういったものだろうか。それじゃ精神科か心療内科で診てもらった方が良かったのだろうか。瀬野は、明日もう一度医者に診てもらう気にはなれなかった。これは疲労による一過性の現象かも知れない。そうあって欲しいものだと思った。
会社に着くと、西崎リーダーに眼科に行って来たことを告げ、遅刻したことを詫びた。しかし、パソコンの画面上に膨らみが現れて画面上を自由自在に動き回るというのは、気が変になったかと思われそうなので言わなかった。その代わりに、目がチカチカするから網膜剥離を疑って診察を受けたが、そうではなかったので安心したと伝えた。すると西崎リーダーは、
「そう。それは良かったけれど、あまり仕事をやり過ぎて成田さんのようになってもらっちゃ困るし、自分でしっかり健康管理して下さいね」と言った。
「えっ、成田さんですか」
「いえいえ、例え話よ。そういうこともあり得るので言っただけよ。気にしないで」
「はあ」
瀬野はそれ以上聞かずに置いたが、「成田さんのようなこと」とは一体何のことなのか気になった。成田の松井への引継書が綴られていないのは、何か関係しているのだろうか。
瀬野が自分の席に着くと、吉岡が「どうしたの。大丈夫か」と声を掛けた。そして、いつもは無口な野口までが「瀬野さん、どこか体調悪いんですか」と声を掛けた。
「心配させて申し訳ない。ちょっと目がチラチラしたんで、念のために診察してもらっただけです」と二人には西崎リーダーにした説明と同じことを言った。
瀬野は席につくと、早速、「スモール・スマート・ヴィレッジ」の審査に取り掛かった。
この企画には、最初に目を通した時から、何とも言えない胡散臭さを感じていた。「エネルギーの完全自給が可能な人工の村を能登半島に作る」としているが、具体的な中身は宅地造成と建売住宅の販売という事業でしかないように思える。
太陽光などの再生可能エネルギーで電力を完全自給するのは難しいだろう。仮に完全自給するとすれば、設備に膨大なコストが掛かってしまうのではないか。現実的には、屋根にソーラーパネルのある家を建てるという程度のことだろう。
問題は造成する場所だ。能登空港に比較的近い場所だが、地籍は穴水町になっている。ここに住宅需要などあるだろうか。都会人が望んでいる田舎暮らしというのは、地方都市の便利なマンションに住み、時々田舎にドライブに出掛けたり、キャンプをしに行ったりという生活であって、辺鄙で不便な田舎に住みたいということではないのではないか。また、もし若者に定住を促すのなら、会社や工場など雇用してくれる所が必要だが、近隣にはあまり適当な事業所がありそうにもない。
地域コミュニティだって人工的に容易に作れるものでもないのではないか。長い時間を掛けて、場合によっては幾世代も掛かって出来るものではないか。最近は何でも彼でもESGだとか、SDGsだとか言えばそれらしく聞こえるが、こういう風潮も嘆かわしいものだ。
建売住宅の価格を40坪で4千万としているが、細かな見積もりがない。ソーラーパネルを付け、高価な断熱工事も必要になるだろうが、4千万で見合うのかどうかが分からない。これでは上物だけの価格で土地代が入っていないようにも思えるのだが。逆に4千万も出して、ここで住宅を取得する需要がどれだけあるだろうか。
この企画はとても「採用するのが適当と思料する」とは稟議できそうにない。しかしこれも一応、担当者の説明を聞かざるをえないのだろう。あれこれと考えを巡らせているうちに昼時間になった。
昼食を外食で済ませて部屋に戻ると、吉岡の部下の中野から声を掛けられた。
「瀬野さん、明日の歓迎会の話覚えてますよね」
「えっ?」
「この前お伝えしましたよね。瀬野さんの歓迎会、明日、金曜日の6時からだって」
「ああ、そうだったね。覚えているよ」と言ったが、瀬野はすっかり忘れていた。
「で、会費なんですけど。朝、皆さんにお伝えしたんですが、明日は一次会は2時間飲み放題でちょうど1万円になっています。で、今月の給料日に徴収しますので、よろしくお願いします」
「ああ、分かったよ」と答えたが、歓迎される本人からも会費を取るのかと思った。入会金も払ったというのに。
明日の夜は残業ができないことが分かった。その分は今夜頑張るしかないだろう。
ところで、瀬野の残業時間は急に増えていて、このままでは割り当られた時間をオーバーしそうになっていた。
残業時間は職員毎に予算で割り当てられている。残業実績が予算内に収まっていれば、特に問題になることはないが、8月と9月は割当時間を超過するのは確実だ。他の月の残業時間を8月、9月に回す操作も出来たが、それでも割当を超過する可能性はあった。超過すると、何かと面倒なことになる。
仕方がない。瀬野は早めにタイムカードに打刻して、それからまたデスクに戻って仕事を続けることにした。
パソコンの画面にまた膨らみが現れるかも知れないと思っていた。現れてももう恐れずにおこう、何も考えないでおこうと思っていた。しかし夜になっても膨らみが現れることはなかった。
(5)
歓迎会の会場は木倉町の割烹とのことであった。5時半頃、審査チームの5人とグループマネージャーの高橋は、駅前からタクシーに分乗して会場に向かった。小雨が降っていた。タクシーは香林坊を過ぎて片町の大型商業ビルの手前で右折して、一方通行の狭い路地に入った。そしてのろのろと数百メートル走ったが、やがて古い木造の建物の前で止まった。店の中に入ると、店員の女性から2階に上がるように案内された。
2階には幾つか部屋があったが、通された部屋は小間の茶室を二つ合わせたくらいの大きさで、少人数でこじんまりと会食をするのには、ちょうどよい広さだった。部屋を見渡すと天井や柱は磨いたように黒光りしていたが、壁の色や建具に描かれた絵は経年のためか色落ちしていた。畳もかなり日焼けしている。
その畳の上には、高い足の付いた朱塗りの膳が既に6つ並べられていた。配席は吉岡が指示をして、瀬野は高橋GMの横に床の間を背にして座らせられた。その床の間には、「蓬莱」何とかと書かれた掛け軸があったが、「蓬莱」という文字以外は読めない。
「だいぶ遅くなってしまいましたが、今日は瀬野さんの歓迎会を開催します」と幹事の中野が言い、その後、高橋GMが歓迎の挨拶をして西崎リーダーが乾杯の音頭をとった。
瀬野がビールをコップに2杯ほど飲んだところで、中野が「着任のご挨拶を」と瀬野に振った。
瀬野は今まで転勤の都度やってきた、文字通りありきたりの挨拶をした。そして「今まで営業しか経験がなくて、内部管理関係は初めてです。皆様のご指導とご助言をよろしくお願いします」と付け加えた。
次々に運ばれてくる料理はどれも美味かった。料理を運んでくる都度、仲居が料理の説明をしたが、瀬野はあまり聞いていなかった。飲み放題の酒は、金沢に来てから良く見かける銘柄で徳利に入って出てきたが、燗酒にしては甘めの酒だった。場所と料理をみると、酒代込みで1万円なら随分安いように思うが、金沢の相場はそんなものなのだろうか。
少し酔いが回ってきた頃、高橋GMが話し始めた。月曜日の業務終了後に電車を乗り継いで一人で富山市八尾に行き、おわら風の盆を見てきたのだと言った。
「噂には聞いていたが、編み笠から覗く踊り手のうなじが美しくて、何とも言えない色気があるんだよなあ。中でも特にうなじが美しい娘(こ)がいて、この娘はいったいどんな顔をしているのか、見たいという衝動に駆られたんだ。だから大勢の見物人を掻き分け、掻き分け、踊り流しの最前列まで行き、そこにしゃがんで編み笠に隠れている顔を見上げたんだ」と言って一呼吸置いた。そして「まあ、普通だった」と言った。
全員が、タイミングを合わせたように一斉に笑った。もちろん瀬野も笑ったが、面白くもない話だった。この手の話は、女性が同席している時にするものではないだろう。気を付けないと、最近はこんな話でも問題になる恐れがあるのではないか。
しかし、高橋GMは自分の話が受けたことに気を良くしたのか、また次の与太話を始めた。瀬野は如何にも話に聞き入っているように時々頷いていたが、何も聞いてはいなかった。
こうして一次会は終わり、外に出ると雨はおおかた上がっていた。二次会は犀川沿いにあるスナックが予約してあった。野口は二次会に来ずに帰ったので、彼を除く5人で行った。
二次会も終わり、瀬野も帰ろうと思い香林坊方面に歩き始めたが、後ろから吉岡に呼び止められた。吉岡は、
「まだ早い。もう1軒行かないか」と瀬野を誘った。時計をみると10時前だった。もっと遅い時刻かと思っていたが、6時から飲んでいるからまだ早いのだ。
吉岡に従って歩いて行くと、片町交差点に来た。そこには信号待ちをしている大勢の人達がいた。吉岡と瀬野はスクランブルになっている交差点を対角方向に渡ると、渡った角にある細長いビルの中に入っていった。
1階にあるコンビニ横の薄暗い通路を奥まで進むと、エレベータが1基あった。ボタンを押して暫く待つとかごが降りてきて扉が開き、中から中年の男性と若い女性が賑やかに話しながら出てきた。入れ替わり吉岡と瀬野が乗った。瀬野は扉を閉じるボタンを押そうと思ったが、今エレベータから出た女性が通路の出口で男性と別れて引き返してきたので、彼女が乗り込むまで扉を開けて待っていた。女性は客の見送りに出てきた飲食店の従業員らしい。女性が「すいません」と言ってエレベータに入って来ると、狭い空間が更に狭くなった。女性は5階で降りた。
吉岡と瀬野は6階で降りた。廊下の両サイドには洒落た名前の店のドアが幾つか並んでいた。どの部屋からなのか、音程の外れたしわがれ声で歌う演歌が聞こえてくる。廊下を吉岡についていくと、吉岡は「スナック山法師」と書かれた店のドアを開けた。すると、
「あら、いらっしゃい」という女性の声がした。瀬野が吉岡について店内に入っていくと、カウンターの内側にいた和服を着た背の低い小太りの女性が「吉岡さん、お久しぶり」と言って出てきた。
「ママに紹介しておくよ。この人、会社の同僚の瀬野さん」
「まあ、始めまして。関根といいます」。そう言って、彼女は名刺を差し出した。瀬野はそれを受け取って、「瀬野と言います」と自分の名刺を出して挨拶した。
関根の後ろから別の若い女性が現れて、吉岡と瀬野を店の奥の窓際のボックス席に案内した。大きな窓からは、交差点で蠢いている人々の姿が見下ろせる。
二人を案内した「はるか」と名乗る若い女性は、吉岡とは馴染みのようだった。吉岡と瀬野がソファに座ると、彼女は二人にウイスキーの水割りを作り、そして自分の分も作った。はるかは少し歳がいっているようだが、上品で綺麗な顔立ちをしていた。
橙色の薄暗い照明に照らし出された店内を見回すと、ボックス席が3つあって、その一つにはサラリーマンらしい客3人と店の女性二人がいた。カウンターにも60歳くらいの男が一人で飲んでいた。まだ時間が早いのか、盛況と言うほどの客の入りではなかった。
ボックス席の5人がカラオケを始めたようだった。
入口のドアの方をみると、二人の男性客が入ってきた。瀬野らと同年代のサラリーマンのようだった。
新しい客が入って来たのをみて、はるかは、
「金沢の人はどういう訳か雨上がりの夜になると大勢街に出てくるのよ。雨後のタケノコみたに」と言った。
「なるほど、その感じは分からないでもない」と吉岡が応じた。「じゃ、市民はタケノコ族ってことだな」
「いや雨後に出て来て徘徊するのだから、言うならカタツムリ族でしょ」と瀬野が言った。それから3人で暫く他愛のない話をしていた。
瀬野は、先ほどから吉岡に聞いてみたいことがあるのだが、はるかがいる前では聞きづらかった。そのはるかがママに呼ばれて席を外したので、その隙に聞こうと思った。
「前々任の成田薫って職員に何かあったんですか」。吉岡は何を唐突にという顔をしたが、瀬野は続けた。「昨日の朝、遅刻したので、西崎リーダーのところに説明に行ったら、『成田さんのようなこともあり得るので気を付けて』と言われたんです。『成田さんのようなこと』って何のことですかね」
吉岡は一瞬返答に困ったような顔をして、
「瀬野君は何も聞いていないの」と言った。
「ええ、特に何も」
「ああ、そうか」と言って、また暫く考えているようだった。そして、
「彼女は、亡くなったんだ」と言った。
「えっ、彼女って、成田って女性なんですか」
そこに、はるかが戻ってきたので、話は途絶えてしまった。瀬野は、成田薫は男性だと思い込んでいた。成田の字は筆圧の強い迷いのない字だったので、男の字だと思っていたからだ。成田薫が女性だったと言うのは瀬野には驚きだった。
吉岡が言うのは、その成田薫が審査チームにいる間に亡くなったということらしい。もしかすると、成田から松井の引継書が見当たらなかったのは、そのためだろうか。
その後、はるかがカラオケをしようと言い出して、吉岡が瀬野の知らない演歌のような歌を歌い始めた。その歌が終わると瀬野の番だったので、ただ1曲だけ歌える歌、「硝子の少年時代」を歌った。
吉岡と瀬野がスナック山法師を出たのは11時を過ぎていた。エレベータの前まで、はるかが見送りに出てきた。
「また来てね、瀬野さん」とはるかは、耳の高さで大袈裟に両手を振った。
スナックの入居する雑居ビルから外に出ると、片町交差点の付近には、まだたくさんの人が蠢いていた。交差点の向いでは、7、8人の男女の学生がいて、何やら奇声を挙げて騒いでいた。
吉岡と瀬野は、彼らを尻目に香林坊方面に歩き出した。吉岡は南町に住んでおり、香林坊までは瀬野と帰る方向が同じだった。瀬野は成田の話の続きが気になっていた。すると、それを察していたかのように、吉岡が歩きながら話し出した。
「成田は7階のバルコニーから転落したんだ、夜中に」
「えっ、転落?会社で事故に遭ったんですか」
「いや、事故じゃなくて自殺。自殺ということになっている」
成田が亡くなったのは1年前の8月30日の深夜だった。午前1時頃、ビル内を巡回中の警備員が7階のバルコニーの窓が少し開いているのを発見した。通常はセンサーが働くので、終業後に窓が開けば警備室にランプが点いて知らせるのだが、その時期たまたま窓のセンサーが外されていた。というのは、受動喫煙防止が強く求められるようになったことから、ビル管理会社が廊下に設置していた喫煙ブースを撤去する工事を行っていて、工事業者が機材の搬出入にバルコニーを利用していたためだった。
警備員はバルコニーから侵入した者がいないか確認するため外に出たが、そこで女性用のパンプスが片方だけ転がっているのを発見した。そして手摺から下を覗き込んだところ、真下のコンクリートの地面に白っぽい人の形をしたものが見えた。
警備員が急いで下まで降りて確認すると、女性が倒れていた。直ぐに救急車が呼ばれたが、女性は既に亡くなっていた。転落後即死の状態だったと思われる。支社の管理チームのリーダーが病院に呼び出され、女性が成田薫であることを確認した。
「成田の身長は、見たところ165センチくらいありそうで、女性としては高い方だった。しかしバルコニーの柵の高さは俺の胸の下辺りまであるので、普通では転落するとは考えられない。だが、後で聞いた話によれば、当日、工事業者の脚立がバルコニーに置いたままになっていた。その脚立に足を掛ければ、転落することはあり得る、ということだった」と吉岡は言った。
道路は香林坊まで左に大きく湾曲していた。二人はアーケード屋根のある歩道を歩いていた。車道は深夜にも関わらずタクシーだけでなく一般車両も行き交っている。
「でも事故じゃなくて自殺だったんでしょ」
「自殺とはなってはいるが、事故なのか自殺なのか、本当のことは分からない。ただ彼女の身体からは、抗不安薬が検出された。彼女は不眠や不安をうったえて心療内科のクリニックに通い、投薬治療を受けていたようだ。そして事故直前にも薬を飲んでいたらしい。それも2回分。だから意識が朦朧としていたことは考えられるかも知れない」
警察は彼女の死について、時間を掛けて調べたようだが、結果的には事件性はないとされた。そうなると事故か自殺かということになるが、遺書のようなものはなく、職場での彼女の周辺を当たっても自殺に結び付くようなものは何も出てこないので、社内では、事故だろうということになった。
ところが、高岡市に住む母親の意見は違っていた。娘は自殺したのに違いないと言い張った。成田が7月下旬に実家に帰った際、仕事が多忙で辛いと漏らしており、仕事に悩んでいたというのである。
そして母親は労災保険の申請をすると言って、会社にも同意を求めた。それを受けて会社が改めて調査をすると、成田の7月、8月の残業時間は、タイムカード上は80時間以内だったが、パソコンの稼働時間やセキュリティシステムの設定時間を照合したところ、100時間を超えていたことが分かった。土日は7月の最終の土曜日を除いて出勤していた。
例年なら旧盆までは比較的早く帰れる時期なのだが、昨年6月は役員の交代があった。新社長は就任早々リエンジニアリング(業務再構築)の必要性を唱え、稼働中の全部の事業について、その採算性を洗い出すよう指示したので、支社の企画審査担当者は謀殺されることになったのだ。
会社は労務管理の問題を認め母親に謝罪した。GM、チームリーダーは直ぐに異動になった。人事処分はなかったが、管理責任を問われた形だった。支社の人事を刷新して職員に、会社として改善の意思を示す必要もあったのだろう。労基署も彼女の死を労災と認定した。
そこまで聞いて、瀬野にも思い当たることがあった。当時名古屋支社でも残業時間の管理が非常に厳しくなった。大きな問題となった某大手広告代理店での過労死事件を受けての動きと思っていたが、成田薫の事故を踏まえた措置だったのかも知れない。
「しかし、よく分からないんだな」と吉岡が行った。「確かに7月、8月は多忙を極めてはいたが、成田は元気そうだったし、少なくとも仕事上で悩んでいるようには見えなかった」
吉岡と瀬野は香林坊の交差点前で信号機の変わるのを待っていた。
「しかし本当は悩んでいたのかも知れない。近くにいた僕がもっと注意して彼女を見ていれば良かったのかも知れない」
交差点を渡って、大和百貨店のあるアトリオの角まで来ていた。二人はそこでまた立ち止まった。
「成田については、もう一つ気になることが、あるにはあるのだが」
「えっ、なんです」。吉岡は暫く言葉の整理をしているようだった。
「いや、彼女の死とは直接関係ないだろう。大したことではない。それはまた次回にしよう」と吉岡は言った。
二人は、そこで分かれた。吉岡は南町のマンションまでは近いので、歩いて帰えるようだ。
瀬野は吉岡と別れて香林坊バス停まで行ったが、11時半を過ぎていてバスはもうなかった。そこで瀬野も歩いて帰ることにした。タクシーに乗るのはもったいないし、アパートまでは、歩けない距離ではない。
彼は歩き始めたが、尿意を感じたので、少し引き返し香林坊交番の脇を通って四高記念公園のトイレに行った。薄暗い公園の中で、ひと際トイレの照明が明るい。
トイレの入口付近の床には、風に乗って運ばれて来たらしい丸まった落ち葉が何枚も転がっていた。用を足して、手洗いをしようと洗面台まで来た。そしてふと見上げると、鏡の上の長細い箱型をした蛍光灯のカバーの下に、とても細い糸を張った小さな蜘蛛の巣があった。その巣の中をよくみると、黒っぽい1ミリもないほど小さな虫の死骸が幾つも絡まっていた。
トイレの建物から外に出ると、虫が鳴いているのに気が付いた。疎らな木立の間から市役所前の通りに音を立てて行き交う車が見えたが、耳を澄ますと周囲の喧騒が消えて、夥しい数の虫たちの鳴き声が聞こえて来た。秋の公園には、幾種類もの数え切れないほどの数の虫たちが生息していた。
アパートに着くと12時を回っていた。酔いは完全に醒めていて、かえって感覚が冴えわたっているように思えた。瀬野はシャワーを浴びて布団の上に横になったが、なかなか寝付けなかった。しかし時間が経つと、そのうちに意識が朦朧としてきた。
成田薫と思しき女性が暗い事務室で一人パソコンに向かいながら、なにやらぶつぶつと言っている。「六親眷属あつまりて なげきかなしめども更にその甲斐…」。成田の顔を見ようと僕が回り込むと、成田の首も同じように回転して決して顔を見せようとしない。相変わらず何かぶつぶつと言っている。「56億7千万 弥勒菩薩はとしをへん…」
自分の足許でも別の声がするので下を向くと、義母が床に座り込んでいた。いつも見る義母より背中が丸まって一回り小さい。顔も手も干乾びているようだ。合掌した手には、白い房の付いた小さな珠の数珠が掛けられている。義母も何か同じ言葉を何度もつぶやいている。何を言っているのか聞こうと耳を近づけてみる。「真相究明、真相究明、真相究明…」と聞こえる。
ふと目が覚めた。抹香の燻る匂いがした。寝たまま暗闇の中でクンクンと鼻を働かせて匂ってくる方向を探ろうとしたが、匂いは次第に弱くなり、やがて何も匂わなくなった。
枕元の時計をみると4時前だった。瀬野は起き上がるとトイレに行った。それから台所に行って、コップで水道水を飲んだ。台所の窓から夜が明けて行くのが見える。
再び眠りについて、目が覚めたのは10時を回っていた。
起きると、最近よく行く近くの中華食堂で天津飯を食べて朝昼兼用の食事を済ませた。アパートに帰ると、溜まった洗濯物の洗濯と部屋の掃除で夕刻近くになった。
久しぶりにパソコンを立ち上げた。名古屋の自宅とスカイプでビデオ通話をしようと思ったからだ。あらかじめ妻のスマホにラインで連絡しておいたので、時間になってスカイプを起動させると、名古屋には家族全員が揃っていた。もちろん義母も一緒に映っていた。
「パパ、あのねあのね、僕メダカさんになったんだよ」と大和が言った。
「そうか、それは頑張ったな」
大和が通っているスイミング教室で、ヘルパーを着けてビート板を持って泳げるようになったらしい。
「海斗も元気で学校に行っているか」
「ああ、元気に行ってるよ」と海斗は面倒くさそうに答えた。「おばあちゃんの車で」
海斗の学校は自宅から少し距離があるので、妻が送迎をしていたのだが、最近は専ら義母が送迎をしているらしい。
「パパは少し痩せたんじゃない。それにポツポツ白髪が混じってるみたいね」と妻が言った。
「単身でご苦労されてんですよ」と義母が言った。「今度いつお帰りですか。栄養価の高いご馳走を作って待ってますよ」
「はあ、有難うございます。来月には一度帰るつもりです」
家族とは30分近く話をしていた。
離れてはいても、ともかく家族がいるというのは幸せなことだと瀬野はつくづく思った。
妻の氷見子と最初に出会ったのは、瀬野がさいたま新都心営業所に勤務していた2009年の夏だった。
本社に勤務する同期が、会社が産業医を委嘱している病院の女性スタッフとの合コンを企画して、瀬野にもその案内があった。その日、瀬野が仕事を終えて大急ぎで指示された恵比寿のイタリアンの店に行くと、会食が始まる直前だった。瀬野が残っていた一番端の席に座ったが、その前に氷見子が座っていたのだ。
着席順に自己紹介をすることになり、氷見子の番が回ってきた。
「西田氷見子と言います。ヒミコは女王卑弥呼の卑弥呼じゃなくて、氷、見る、子と書きます。祖父が富山県氷見市出身で、わが家のルーツは氷見だというので、初孫の私を氷見子と名付けたと聞いています」
氷見市の氷見か。瀬野は名前の字を聞いて興味を覚えた。
次は瀬野が自己紹介する番だったが、瀬野は氷見子に釣られて、
「実は僕のルーツも富山県らしいのです」と言った。「僕の出身地は北海道の旭川ですが、曾祖父は、富山県の西砺波郡という所から開拓時代の北海道に来たと聞いています」
瀬野は祖父から西砺波郡東蟹谷村(かんだむら)がお前のルーツだと聞かされていた。そこに行けば、先祖代々の墓もあると。瀬野は祖父からそれ聞く度に、富山県が日本地図のどの辺りにあるのか宙で思い浮かぶようになった。だが西砺波郡というのは県のどの辺りなのか分からなかったし、調べたこともなかったが。
その合コンで、瀬野と氷見子は二人で話をする時間があった。
「女の子の名前に何で『氷』なのか、普通は変だと思いますよね」と氷見子は言った。「でも、武田泰淳の『貴族の階段』という小説に同名の女性が出てくるんです」
「武田たいじゅん?ですか。済みません、僕、文学には弱くて」
「私は父から『氷見子が主人公の小説』だと聞いたので読んでみただけです。読んだけど、あまりよく理解できなくて。ただ、とても暗い話でした」と言って笑った。
彼女の祖父は戦後に氷見から裸一貫で名古屋にやってきて、時計修理工から身を起こし小さいながらも時計宝飾店を創業した。その祖父が初孫に「氷見」という文字を入れたいと強く希望したので、氷見子になったとのことだった。
氷見子は北関東の医療系の大学を卒業して、レントゲン技師の仕事をしていた。
二人はその後、時々連絡を取り合ったり、たまには食事をしたりする仲にはなった。瀬野には、他に親しい女友達はいなかったし、氷見子が嫌ではなかったが、まだ若かったので結婚までは考えていなかった。
二人が結婚したのは、やはり東日本大震災の影響が大きいと瀬野は思う。瀬野は震災後に、仙台支社に社内応援の要員として1か月ほど派遣された。仙台支社のクライアントを回って災害の凄まじさを目の当たりにした。また、支社の職員の中には家族を失った者もいて、瀬野は文字通り世の無常を感じた。それとともに無性に人が恋しくなった。無常の世の中で一人孤独に暮らしているよりも、家族が身を寄せ合うようにして暮らす方が遥かに幸せであるように思えてきた。
瀬野が氷見子に結婚を申し入れたのは、派遣から帰って数日後のことだった。
(6)
月曜日、瀬野は会社に行くと、まずGMの部屋に行った。金曜日の歓迎会の礼を言っておくのが無難だろうと思ったからだ。
GMは、「瀬野君、たまには、また行こうじゃないか」と言った。瀬野は、
「いつでもお誘いください」と応じたが、GMが本当に自分を誘うことはないだろうと思った。
瀬野は部屋に戻って仕事を始めたが、ふと野口のことが気になった。先日、企画案の審査を指示してから彼の仕事の進捗を聞いていなかったからだ。野口に期待してはいないが、部下の仕事の進捗を管理するのは上司の務めだ。
「どう、例の審査の仕事進んでる」
「ええ、一応アンチエイジャーランドと五風十雨村の審査は行ったつもりです」
「えっ、もう出来たの。早いな。じゃあ、審査の結果を教えてくれる?」
瀬野は少し時間を取って野口の仕事を見てやることにした。野口は企画案毎に審査調書のようなものを作っていて、それをプリントアウトした。そのペーパーには、企画案の案件毎に何かのデータらしい数字の列と数式、グラフ等が記載されたていた。
「僕の理解では、どちらの企画案をみても、それが当たるか当たらないか、つまり成功するかしないか予想がつかない博打のようなものです。だから、その損益はプットオプションの売りのペイオフに類似していると思うんです」
「えっ、オプションかい」。想定外の言葉が出て来ておどろいたが先を促した。「それで」
「企画案毎に全国の支社にその類似の先行事例がないか調べたんです。と言っても同じものはないので、アンチエイジャーランドについては、広大な土地と建物を取得して使用収益しているものを調べたんです。同様に五風十雨については、山間地の宅地造成の事例を調べたんです」
「それで」
「で、それぞれの類似事例の計画実行後の売上高と営業利益のデータを集めて、時系列に纏めたんです。そのデータが上段に記載している表です。」
「ほう」
「で、それぞれのデータから期待値と標準偏差を求めたんです。そして、それをBSモデル(ブラック・ショールズモデル)の確率微分方程式に代入して、プットオプションのリスクプレミアムを求めたんです」
「ほう」
「そのリスクプレミアムと企画案のイニシャルコスト、ランニングコストと比較したんです」
「で、」
「アンチエイジャーランド、五風十雨のどちらもコストの方が圧倒的に大きいですね。だから、どの企画案も採用しないのが正しいという結論になりました」
「うーん」と瀬野は唸った。その後の言葉は出ない。
瀬野が卒業した大学はCランクの名もない大学だったが、経済学部だったので統計学は必須だった。だから、野口の説明が全く分からないということはなかった。しかし、こんな切り口で企画案を審査するなどということは、瀬野は思いつきもしなかった。そんな方法で評価できるはずがないからだ。そもそも先行事例のサンプルが限られているので、実現しうる損益の分布が正規分布になるとは断言できないだろう。
企画案の審査結果の中に野口の見解を何らかの形で落とし込むことは至難に思えた。瀬野の審査方法と嚙み合いそうなところは一つもないし、仮に3考意見として野口の審査内容を付記したとして、管理本部にBSモデルの意味を理解できるような人物はいないだろう。瀬野自身も十分に理解している訳ではなく、誰かに式の意味を分かるように説明するような能力はなかった。
とは言え、部下に指示をして行わせた仕事の結果を無視するという訳にもいかないように思う。君の審査の方法は企画案の審査の方法として不適当だ。だから採用しないと言い切ればいいのかも知れないが、それもまた難しそうだ。野口を納得させる自信がない。野口に審査をやってみないかと言ったのが、そもそも誤りだったのかも知れない。或いは、審査の方法について、予め打ち合わせしなかったのが拙かったのかも知れない。
「僕の審査はどうですか」
「うん、ちょっと僕では思いつかない方法だね」
「僕の審査を使って貰えますか」
「うん、まあ一度検討してみるよ」
こうして瀬野は企画案の審査に関する新たな問題を抱えてしまった。
ところで、瀬野の考えでは、大型の企画案のうち「医療モール(仮称 アンチエイジャーランド)」は、「採用するのが適当と思料する」という趣旨の稟議をするつもりでいた。というのも、小規模な医療モールなら全国に幾つもあるだろうが、健康増進施設まで備えた大型の医療モールは未だ全国にないか、あったとしても極僅かだと思われるからだ。野口が類似の先行事例として挙げているところは、売上高の推移をみても「アンチエイジャーランド」の収益予想より1桁少ない。しかし高齢社会が進展していることや、高齢者世帯の貯蓄額の平均が子育世帯平均の倍近くあることなどを考えると、この企画はビジネスとして成立する可能性があるように思われる。
今の日本は、子育て世代が貧困化する一方で、一部の高齢者の貯えは増えている。2千兆円超の日本の個人金融資産の相当部分は60代、70代世帯に遍在している。だから、この層の金融資産をターゲットにしたビジネスはあり得るだろう。
生活に余裕のある高齢者がプリウスなどに乗って「アンチエイジャーランド」にやってくる。中に入ると、最初に内科クリニックに行く。医師が持病の経過観察を行い投薬の処方箋を書く。高齢者は次に歯科クリニックに行き、歯垢や歯石を取って口内を掃除してもらう。そして、ジムに向かい軽く筋肉を鍛える。汗はスーパー銭湯に入って洗い落とし、そしてレストランで薬膳懐石を食す。アルコールが飲みたければ、金沢駅から武蔵、香林坊、片町を回って周遊している送迎バスで来れば良い。
生活に余裕のある高齢者は、健康維持のためなら多少の出費は厭わないのではないだろうか。高齢者が嬉々として集まってくるのを想像すると不気味ではあるが、それが会社に利益をもたらし、地域で一定の雇用を創出するのであれば、良い取り組みと言えるだろう。
そして、この企画が最終的に採用されなくても、高齢化の進む北陸地方からこのアイデアを発信するのは、それだけで意義があると思われる。企画担当者から見積もりの基礎資料などを出してもらって更に検証した上で、採用が適当であると思料する旨を本社企画本部に稟議しよう。
一方、「スモール・スマート・ヴィレッジ(仮称 五風十雨村)」は、とても採用できる企画とは言えない。地図を見ただけだが、辺鄙な場所であることは分かる。そんな場所で宅地を造成しても売れるはずがない。
企画した本人から少しヒアリングをしてみて、やはり採用するのが適当でないと思うなら、そういうニュアンスだけでも本人に伝えておくべきだろう。瀬野はそう思った。
翌日、企画グループの嬉野フェローに電話をした。企画案の内容について少々尋ねたいことがあると言うと、嬉野は連絡を待っていたかのように、今直ぐに行くと言った。
嬉野が管理グループの部屋に来ると、瀬野は予め抑えておいた7階隅のミーティングルームに嬉野を案内した。
嬉野は瀬野と並んで立つと背は高いが、猫背でひょろっとしている。そして、あまり良い服装とは言えない。ワイシャツは袖や襟が垢染みているし、ズボンはよれよれだ。
ミーティングルームに入ると、窓際の席に座るように促し瀬野もその対面に座った。
嬉野は席に着くと、瀬野が質すのも待たず、予め嬉野が何を聞きたがっているのかを知っていたかのように話し出した。
「日本中の過疎地で定住者促進が課題になっているのは、お分かりですね」と言って、笑顔を作ったが、どこかにお前に何が分かると言いたげな響きがある。「街づくりがどうの、地域活性化がこうのと言ったって、人間がいることが前提だから定住促進はそれ以前の話。定住を推し進めるのに官か民かは関係ないですよね。われわれ企業だって、ここで儲けようとすれば定住促進は課題になるでしょ」。
「はあ、確かに」
「もちろん若者の定住に越したことはないですが、当面のマーケットとしては、首都圏のリタイヤ組も必要なんですよ。それに村づくり、或いは村のガバナンスー つまり、ESGのGの部分―これを考えると、若者だけでなくて、ある程度高齢者がいた方がより望ましいという考えもありますからね」
「…」
「人がいなくなれば、農地は荒れ国土が荒廃する。だから、このプロジェクトは国土保全という目的にも繋がる。僅かな面積だけど、農家から農地を借りて菜園を設け、入植者には野菜作りを経験してもらいます。そのうち農業に興味を持ち、もっとやってみたいという人が現れるのを期待している、という訳です」
「はあ。あのう…」。瀬野は、嬉野の話を止めた。質すべきことは、質さないといけない。
「市場調査はしているんですか」
嬉野フェローは虚を突かれたように一瞬黙った。そして、
「市場調査?それは必要ないでしょう」と言った。「だって、本社の開発事業本部、首都圏の各支社が連携して営業を掛ければ、予定の戸数は直ぐに埋まりますよ」
「そうでしょうか」
「そうでしょうか、って…瀬野さん。会社の営業力が信頼できないの」。嬉野の顔色が変わったように感じた。にやけていた顔が強張っている。
しかし、瀬野は続けて、
「それに、若者定住には就労が必要でしょ。いきなり農業も出来ないし、ここに住んでどこに勤めるんです」と質問を重ねた。
「就業先?通勤の問題ね。それは問題ない」と嬉野は形勢を立て直して自信あり気に応じた。「計画場所は交通アクセスが非常にいいんだな。輪島市街までなら車で25分、七尾市までなら里山海道で50分あれば行けるからね。輪島市内にも、七尾市にも事業所はたくさんある。どこも人手不足だ。飛行機を使えば東京にだって日帰りできるのだから、それを利用する方法もあるしね。考えてみて欲しい。例えば、川口や船橋から新宿に通勤している人は、電車だけで50分かかる。徒歩などの時間を入れたら1時間10分か20分掛かるよね。それに比較したら、全く問題ないと思うんだな」
「そりゃ、そうだけど…」
「そりゃ、そうだけど? 」と嬉野フェローは瀬野の言葉を繰り返した。「分かった。瀬野さんは、このプロジェクトに反対なんだね」
「いや、まだ結論を出した訳じゃありませんが」
「このプロジェクトが通らないようなら、もうこの会社は終わりだな」と嬉野フェローは言った。「日本の過疎地問題に背を向けるんじゃ、企業として失格だな。まだ契約期間は残っているが、俺は本年度限りで会社やめるよ」
そう言い終わると、嬉野フェローは席を立ち、瀬野を残してミーティングルームから出て行った。瀬野は止めなかった。まだプロジェクトの稟議書の提出期限まで2週間ある。嬉野フェローの機嫌が直った頃に、もう一度接触するしか適当な方法はないだろう。営業では一時的に相手と話が決裂することはよくあることだ。しかし、僕はそれが元で相手方と絶縁したことは一度もない。時間が経てば冷静に話し合えるだろう。
その日の5時以降は、「拡大型医療モール」と「スモール・スマート・ヴィレッジ」以外の小型の企画案についての検討を行っていた。「フットサル場」はイニシャルコストがあまり要らないし、駄目な場合撤退するのも比較的容易なので、採用しても差し支えないが、他の企画案を採用するのは無理だと思われた。
そのうちに、ふと成田薫のことが気になり始めた。
成田が亡くなったのは、ちょうど1年前のことだ。来年度新規事業の企画案を審査していた頃ということになる。
瀬野は成田が転落したというバルコニーを見てみようと思った。3個所ある部屋のドアのうち一番奥のミーティングルームに一番近いドアを開けると、廊下を挟んで、すぐ向かいに湯沸室があった。その右に女子更衣室の入口のドアがある。
つまりバルコニーは、管理グループの部屋を出て廊下を右に行った突き当りにある。湯沸かし室や女子更衣室からだと、部屋を出て左側の突き当りになる。
まだセンサーの作動している時間ではない。瀬野は留め金を外してバルコニーに出てみた。腰壁の手摺までの高さは1メートル余りあるように思えた。成田の身長が約165センチだとすると、普通に立っている姿勢では、誤って転落することはまず考えられない。事故の当日、ここに脚立があった。その踏み桟に足を掛けて身を乗り出せば、確かに転落する恐れはあるだろう。しかし、何のためにわざわざ脚立に上る必要があったのだろう。
当日、成田は処方された薬を2回分飲んでいたらしい。薬が作用して意識が朦朧となり、自分の意思に関係ない行動を取ってしまうことは、考えられるかも知れない。だが、そんな危ない薬を果たして医師が処方するだろうか。
不慮の事故でないとすれば、やはり自殺なのだろうか。成田の書き残したメモの字をみると、強い筆圧で大き目の迷いのない字に見える。自殺を考えている人の字のようには見えないが、そもそも自殺者の字というものを見たことがないので、これは何とも言えない。
ほとんど報道されていないが、霞が関では、不眠不休で忙殺されている若手官僚が、発作的に庁舎から飛び降り自殺するケースが毎年あるという話を聞いたことがある。いちいちニュースにはなっていないだけで、こういうケースは全国でも意外に多いのかも知れない。
もう一つ考えられるのは、誰かが成田の転落に関与している場合だが、当日その時間まで7階にいた職員は成田以外には誰も居なかったとされている。外部から侵入したことも考えられるが、1階にいる警備員は誰も見ていない。そもそも午後7時頃にはビルの玄関が閉まってしまう。その後で中に入ろうとすれば、インターフォンを押して、警備員に通用口のドアを開けてもらうしか方法はない。
他に考えられるのは、下の階に残っていた職員が7階に上がってきて、成田を突き落とし、その後また下の階に戻ったということだが、警察が当日残っていた職員からは事情を聴いているだろう。その結果、誰も疑わしい者がいなかったということだろう。
ただ事務室から出てトイレの個室か清掃具入れ、あるいは屋上に上がる階段の踊り場などに、直前まで身を隠していれば、誰にも見られずに犯行が行えた可能性はある。
パンプスが片方だけ残っていたというのも、自殺と考えると不自然だ。警察が事件性はないと判断するまでにある程度の時間を要したとのことだが、これは他殺の疑いも容易に拭えなかったためではないだろうか。
瀬野はそこまで考えたが、それから先は何も考えが及ぶことはなかった。瀬野は手摺にもたれて下を見下ろしたが、辺りは暗くなっていて、隣のビルとの隙間にコンクリートの地面がぼんやりと見えるだけだ。
嬉野フェローは翌日、「現地を一度見てもらいたい」と言って、管理グループの部屋にやってきた。瀬野の思ったとおり嬉野の機嫌が直るのは早かった。
彼は何やら嵩張った大判の封筒を脇に抱えていた。その時もミーティングルームがちょうどうまい具合に空いていたので、瀬野はそこを使うことにした。
序に一つ思い付いたことを実行した。野口をOJTの一環として同席させることにしたのだ。野口に君も来ないかと聞くと、「いいんですか」と遠慮勝ちに言ったが、二人に着いてきた。
瀬野は、昨日のように嬉野を窓際の席に誘導し、自分はその対面に、野口は自分の横に座らせた。
嬉野はマチのある角二の茶封筒の中から折り畳んだ書類のようなものを幾つか取り出して、ごわごわした音を立てながらテーブルの上に広げた。
まず位置図と案内図が出てきた。これは2枚とも昨日急ぎで作ったように新しく見えた。次に出てきたのは公図のコピー。さらに登記簿と閉鎖登記簿の謄本も出て来た。
市販の地図を利用した位置図を見ると、能登空港の南側に赤い丸印があった。その部分を縮尺の大きい案内図で見ると、計画地は概ね正形をしているようだ。地目は山林又は原野で、地籍は輪島市となっている。
「こんなところ、開発許可は大丈夫ですかね」と瀬野は聞いた。
「大丈夫。ここは昔、練炭火鉢を作っていた工場跡地だから。農地転用許可も要らない」と嬉野は自信ありげに応えた。
「え、工場跡地なんですか」
瀬野が予定地の沿革を聞くのは初めてだった。
嬉野フェローの話によれば、予定地は能登で伐出される珪藻土を用いて練炭火鉢や七輪を製造していた工場の跡地とのことだった。50年代頃までは、能登地方は七輪製造が盛んに行われていたが、生活様式の変化で需要が減少しこの工場を経営していた会社も85年頃に倒産したようだ。
「予定地付近が珪藻土の産地なんですか」
「いや予定地付近の地層は苦鉄質火山岩だから珪藻土はない。珪藻土の産地は主に珠洲市と七尾市だが、ここはちょうどその真ん中なので逆に大量の珪藻土が調達し易かったのだろう」
嬉野フェローは更に予定地の沿革について話し続けた。この会社にはK銀行が融資し、工場の土地、建物はその担保だった。債務者、連帯保証人には他に見るべき資産もなかったので、銀行は会社倒産後に債権回収のためにこの土地を競売にかけた。しかし何度競売にかけても応札者はおらず不調が続き、その後10年余りこの土地は店晒しになっていた。粗末な木造建物は崩れてきたので、銀行が負担して解体撤去したので更地になった。
バブル崩壊後、大蔵省が不良債権額の圧縮を強く指導したので、K銀行は98年頃、その貸付債権を他の不良債権と一緒にいわゆるバルクセールで、つまり比較的質のいい債権も悪い債権も一緒にして丸ごと債権回収会社に売却した。その後、債権回収会社は債務者から債権の代物返済としてこの土地を取得し、それをまた他の物件と抱き合わせで東京の不動産会社に売却したというのだ。
登記簿謄本を確認すると、現在の所有者は、東京都杉並区にある「有限会社板野商事」という会社になっていた。売り手の付かない、あまり価値のない土地なので、不動産会社はそのまま放置しているのだと言う。
「何やら曰くのありそうな土地ですね」
「そんなことはない。今の権利関係は明瞭だよ」
嬉野フェローは角二封筒の中から小さな茶封筒を取り出し、その中から数枚の写真を取り出して並べた。3人は5、6枚の写真に暫く見入った。どの写真もどの方角から撮ったものなのかよく分からない。どの写真にも生い茂る雑草が写っている。そして所々の草むらに朽ちた柵の一部のような白っぽい工作物がみえる。
「工場跡地って、土壌汚染は大丈夫なんですか」と、小さな声で野口が聞いた。
「工場と言っても、珪藻土の成型と焼成が主な内容だから大丈夫だろう。まあ、調査費が付いたら土壌汚染や地下埋設物の調査はするけどね」
瀬野には、スモール・スマート・ヴィレッジは、どう考えても実現性が乏しいと思われる。しかし、このままでは嬉野のペースに巻き込まれていきそうだと瀬野は思った。どう反論すれば良いのだろうかと考えるが、その糸口が分からない。
「で、瀬野さんに現地を見て欲しいんですよ」と嬉野は瀬野の方に向き直って言った。
「はあ」
まあ、いいだろう。現地をみても結論は変わらないだろうが、嬉野が見せたいというのなら見ても良い。
「といっても、平日は二人とも他に業務があって難しいから、今度の日曜日にでも如何です。瀬野さんのアパートまで僕の車で向かいに行きますよ」
「えっ、僕のアパート?」
「アパートの場所はだいたい分かる。僕は金沢は長いから」
金沢が長いとは言え、2月前に引っ越してきた僕のアパートをどうして知っているのだろうかと瀬野は一瞬思った。会社で2、3回会っただけなのに。でも、まあいい。嬉野がわざわざ迎えに来てくれるというのなら、そうしてもらえば良いではないか。
嬉野と瀬野は、その場で簡単に現地調査の打ち合わせをした。そして、それが終わると3人はミーティングルームを出た。
「あの企画は、どう計算してみても採算が取れないですよ。はっきり駄目だと言えば良かったんじゃないですか」。部屋に戻ると野口が言った。
「まあ、それはそうなんだが」
「あの人はエキセントリックですね。僕は、以前からどうもあの人の目つきが気になるんですよね。何を考えているのか分からないような気がして」
「フェローをそんな風に言うんじゃないよ」と瀬野は窘めた。
その日も残業した。瀬野は成田薫がしていたように、先週まではタイムカードだけ先に打刻して残業時間を誤魔化していた。しかし吉岡から聞くところでは、成田薫の事件以降、総務チームが月毎にタイムカードの打刻時間と職員の端末の稼働時間等とを照合しているらしい。だからタイムカードを操作しても、照合時にはバレてしまうだろう。法定上限や三六協定の上限を超えれば、もちろん問題になるが、自分に配分された残業時間を超えるだけでも、社内的には面倒なことになるのだろう。要は、速く仕事を終わらせる以外に方法はないのだ。
その日は、パソコンの画面に膨らみのようなものは現れなかったし、羽虫の音を聞くこともなかった。もっとも瀬野は、最近では、膨らみや羽虫は目や耳の疲れからくる錯覚だと悟っていた。気にするから、それが事実のように思えて妄想に捕らわれることになるのだ。気にしなければ、次第に消えていくのに違いない。だから再び現れたとしても気にしないでおこうと決めていた。
11時に仕事を終わった。部屋を施錠しセキュリティシステムのスイッチを入れ、廊下の照明のスイッチを切った。さらに階段の近くまで行ってエレベータホールの照明のスイッチを切った。真っ暗な中をエレベータの前まで戻り、そのボタンを押してエレベータが上がって来るのを待った。
瀬野がエレベータに乗り込んで、1階のボタンを押してエレベータの扉を閉じようとボタンを押そうとした時だった。真っ暗な廊下を奥の方からエレベータに向かって走って来るカツカツという足音が聞こえた。瀬野は慌て開扉ボタンを押して、その人が来るのを待った。同じフロアにある生保会社の営業所は、照明が消えており誰もいないはずだ。でも、例えば女子更衣室に誰かが残っていたのかも知れない。
エレベータのドアを開けたままにして暫く待った。しかし何時まで待っても人の姿は現れない。足音も消えていた。
瀬野は仕方なくエレベータから降りると、もう一度手探りで照明のスイッチを探り当てて廊下の照明を全部点灯した。誰か残っているのか、確認する必要があると思ったからだ。
廊下には障害になるようなものは何もなく、一目で一番奥まで見通せたが、誰もいなかった。彼は確認のために廊下の奥まで行った。廊下を右に回ったところに湯沸室と女子更衣室がある。念のため更衣室のドアを確認したが鍵が掛かっていた。更衣室の向こうは、あのバルコニーになっている。バルコニーのガラス戸はセンサーが稼働しているはずだ。
廊下を左に回ると非常用階段に通じている。非常階段は暗がりで階下の方は何も見えない。瀬野は「誰かいますか」と声を掛けたが、返事はない。
廊下を戻って、エレベータの前まで帰って来た。エレベータの横の方にトイレがある。瀬野は男子トイレの照明を点けて中を覗いたが誰もいなかった。女子トイレの方を見るのはさすがに憚れた。
これ以上探すのは無理だ。瀬野は再びエレベータに乗り1階まで降りた。そして警備員室に行った。
警備員は60代後半にみえる男性だった。
瀬野は、7階にまだ人が残っているかも知れないと警備員に伝えた。「探したが分からないので降りてきました」
「えっと、7階ね」警備員は各部屋の施錠状況をランプで確認しながら、「いや、誰も残っていませんね」と言った。そして、少し怪訝な顔になって、「以前にも人が残っていると言ってきた職員さんがいたので、すぐに探したけど、誰もいなかったですよ」と言った。「まあ、いいでしょう。ちょうどあと10分で見回りの時間になります。7階は特別によく見ておきます」
警備員の対応はのんびりしたものだった。重大事だと思って警備室に来たのだが、そうでもなかったらしい。セキュリティシステムが稼働しているので、仮に廊下に人が残っていたとしても、警備上特に問題がないのかも知れない。瀬野は少し落胆した。気掛かりは残ってはいたが、警備員に伝えてしまえば自分に後の責任はないと思い直した。
アパートに帰ると12時だった。瀬野は隣に音が聞こえないように、静かに風呂のシンクに湯を溜めて入浴した。風呂から出ると、いつものように冷蔵庫から缶酎ハイを取り出して、立ったままで一気に飲んだ。寝る前にアルコールを飲むのが習慣になり、アルコールなしでは寝付けないのだ。
瀬野が寝床に入ったのは1時過ぎだった。直ぐに寝入ったのだが、暫くして夢の中でカサカサという音を聞き始めた。五風十雨村の建設予定地らしい所に来ていた。どこを見ても青草が生い茂っていて、どこに敷地の境界があるのかも判然としない。先程からカサカサという、枯草の茎を束ねて切れない鎌で切っているような耳障りな音がしている。瀬野は音の正体を探ろうと、音の聞こえて来る方向に、目の高さほどに生い茂ったカヤやススキ、エノコログサなどの雑草を掻き分け、掻き分け歩いていった。カヤの穂が鼻をくすぐり、くしゃみがしたくなる。どこまでも、どこまでも雑草が続いていて際限がない。カサカサという音も大きくなり、小さくなりしながらずっと続いている。
突然、長く垂れた穂と茎の隙間から音の正体が現れた。豚のような巨大なイモムシが粘液を滴らしながら腹足を蠕動させて瀬野の前をゆっくり横切ろうとしていた。瀬野はあまりにもの気持ち悪さに逆毛だった。胃が縮んで吐き気が込み上げてきて涙ぐんだ。
その気分の悪さで目が覚めた。吐き気は直ぐに収まらずに胸の辺りで行き来している。枕元の時計をみると2時を回ったところだった。吐き気が治まるのを暫く待ってから、ゆっくり起き上がった。
酷い寝汗をかいたようで、パジャマの襟が水に浸したように濡れて、首が冷たかった。これは着替えないと拙いだろう。そう思いながら、まだ起き上がれずにいると、カサカサという音が聞こえて来た。夢の中の音より幽かなのだが、何かが蠢いているような、渇いた紙を掻いているような音だ。
瀬野は照明を点けた。そして敷布団の周りを見回したが、変わったことは何もなかった。瀬野は立ち上ってリビングに行った。そしてリビングの照明も点けた。カサカサという音は少し大きくなったような気がする。
瀬野は音のする方向を探った。すると流し台の方から聞こえてくるように思えた。薄暗いキッチンを暫く凝視していた。すると、いつもと変わらないと思い込んでいたキッチンの床に、白い米粒のようなものが浮かび上がった。米粒のようなものは、1粒ではなくて幾粒も散らばっている。しかも位置を少しずつ変えている。ようやく全貌が見えてきた。その米粒のようなものは点々と連なり、シンク下の収納庫の扉の隙間に続いている。
瀬野はキッチンの照明を点けて、その場にしゃがんでその白いものを観察した。正体は直ぐに分かった。蛆だった。
思わず吐き気が襲った。瀬野は急いで立ち上って洗面所まで走り、白い洗面器の中に吐いた。黄色い粘りのある少量の液体が洗面器の底に付着する。喉と口が焼けるように熱い。瀬野は水道の蛇口を捻って付着した吐瀉物を押し流し、両手で水を掬って口をすすいだ。
態勢を立て直してキッチンに戻ると、思い切ってシンク下の収納庫の扉を開けてみた。扉の向こうが光で照らし出される。シンクの排水パイプの横に大きな透明のビニル袋にくるんだものがあり、ビニル袋の内側には無数の小さな蛆が波を打つように蠢いていた。それがビニル袋を掻き鳴らしているのだ。これがカサカサという音の正体だった。
ビニル袋の中のものは塩ビ製の漬物桶だった。その桶から夥しい数の蛆が湧いている。ビニル袋は口を紐で閉じてあったが、その僅かな隙間から何匹もの蛆が這い出して、さらに収納庫の扉の隙間から出て来てキッチンの床を這っているのだった。
それを見ると、瀬野はまた吐き気が込み上げてきて萎縮した胃が痛んだ。瀬野は忘れていたのだ。盆前に氷見子と息子達が来た時、義母からのプレゼントだと言って、糠漬けの入った漬物桶を持ってきたのだ。氷見子は早めに食べるように言って、それをシンク下の収納庫に入れたのだが、瀬野はその後扉を開けることもなく、漬物桶があるのをすっかり忘れていた。全く自炊をしていなかったので漬物の存在に思い至ることさえなかった。
瀬野は床に腰を落としたまま暫く呆然としていたが、ようやく気を取り直して、漬物桶をビニル袋に入ったまま市指定のゴミ袋に入れ、防虫スプレーをスチール缶が冷たくなるまで噴霧した。そして、それにもう1枚指定ゴミ袋を被せて袋の口を堅く縛った。幸いにも今日が可燃ゴミの収集日だ。この大きさの塩ビ製の桶なら可燃ゴミとして出しても良いだろう。朝になったら直ぐに持って行こう。
まだ床を這っている蛆は掃除機で吸った。深夜に掃除機を掛けるのは憚られたが、そんなことを考えている余裕はなかった。床中を隈なく掃除機を掛け、更にノズルの先を収納庫に差し込み、蛆が1匹も残らないように掃除した。その掃除機のゴミもゴミ袋に入れて、袋の口を堅く縛った。
掃除が一段落すると4時を回っていた。
瀬野は再び横になって仮眠を取ろうとしたが、なかなか眠りにつくことは出来なかった。暫くしてうとうとし始めたが、直ぐに目が覚めた。カーテン越しに白々と夜が明けるのを感じた。
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