02 真新しい靴がステップ


 慶応二年一月二十三日。

 京、伏見。

 深夜。


 半分より少し大きい月の下、三吉慎蔵は走る。

 薩摩藩邸へ向かって。

 この時点で、薩長同盟は成立したばかり(慶応二年一月二十一日成立。竜馬が襲撃されたこの夜は、慶応二年一月二十三日)。

 三吉が薩摩に、しかも薩長同盟の立役者である坂本竜馬のために助けを求めるのは、筋が通っている。

 しかし――長府藩士、つまり長州の自分が行って、


「ちょっと前までは敵。今は敵。だからこそ、そうおいそれと動けないのではないか」


 薩摩と長州。

 かいつまんで言うと、共に雄藩として幕末の京都に影響力を及ぼしていたが、やがて薩摩が長州を京都から追放(八月十八日の政変)、それに反発した長州が京都へ出兵したところで、薩摩が主体となって撃退する(蛤御門はまぐりごもんの変)。

 そして長州は幕府からの征伐により(第一次長州征伐)、大打撃を受ける。

 この恨みは生半可なものではなく、それを薩摩も承知している。

 坂本竜馬、そして中岡慎太郎は、逆にそれを乗り越えるべきと主張して、二日前に薩長同盟が成立するのだが。


「果たして薩摩は――本当に長州を助けてくれるのか?」


 その疑念が三吉の頭から離れない。

 だが他にすべがない。

 三吉は先ほどの戦闘で傷ついた体を励ましながら、薩摩藩邸へ向かう。

 そうこうするうちに、後方から何人かの足音が聞こえる。

 あれだ、あいつだという声がする。

 こんな深夜に大勢が。


「つまりは追っ手。伏見奉行の捕り方。は、早く。早く助けを」


 薩摩藩邸は、もう目と鼻の先だ。

 こうなると、旅人を装うよりも、早さが大事。

 三吉は足を速めた。

 そうすると、捕り方たちも足を早めた。


「止まれッ! そこの者、止まれッ!」


 捕り方のかしらとおぼしき者が叫ぶ。

 三吉の足がもつれる。

 伊藤俊輔(伊藤博文のこと)あたりに「何たるステップだ」と言われそうだ、と三吉は苦笑した。

 しかし、そんなステップでも、三吉は進む。

 前へ。



つらまえたぞッ」


 薩摩藩邸まで、あと少し。

 そういうところまで来て、ついに三吉は捕まってしまった。

 だが三吉はあきらめない。


「もうし! もうし薩摩どの! 手前は長州の三吉! 土佐の坂本さまを救っていただくべく」


 そこまで言ったところで、捕り方に殴られた。

 つづいて蹴られる。

 捕り方の棒で殴打される。

 ここまでか。

 瞑目する三吉の前で、ぎいっと音がして、薩摩藩邸の門のくぐり戸が開いた。



 その男は、西洋靴を履いていた。

 それも、真新しい。

 夜目にも、それが見える。


「月夜の散歩と思うて出てきたら」


 男は、瀟洒しょうしゃなことを身上としているらしく、三吉の鼻に、香水の匂いが届いた。


仏蘭西フランス製じゃ、いい香りじゃろ?」


 男は笑った。

 捕り方らは、ふざけるな、何者か知らんが、藩邸に引っ込んでろと怒鳴った。

 三吉はすでに捕らえている。

 いかに伏見奉行からの治外であるとはいえ、薩摩藩にはそこまで介入されるいわれはない、と。


「そげんこついわれてものう」


 男は笑いながら歩く。

 コツ、コツと真新しい靴がステップを踏んで、音を立てる。


「心地いい音じゃろ? だから散歩にと思うたんじゃ」


 そのステップに。

 誰もが気を取られ。

 気がついたら、男は三吉の前にあと二、三歩のところまで来ていた。


曲者くせものッ」


 こうなったら、男が薩摩藩士であるかどうかはかかわりない。

 奉行所の捕まえた相手を奪おうとする、曲者だ。

 そういう理屈で、捕り方のかしらは、斬りかかった。

 そこを。


「…………」


 男は歩いたまま。

 胡乱うろんな目をして。

 捕り方のかしらを見た。


「……うッ、がッ、あああああ!」


 捕り方のかしらが絶叫して倒れる。

 うつ伏せ、そして仰向けになったその体を見ると、袈裟斬りに斬られていた。


「……浅く斬った。そげん、痛がらんでも」


 男が苦笑する。

 捕り方らは動揺しているが、三吉は男の刀に感歎した。

 一瞬。

 男が捕り方のかしらを見た一瞬。

 刀を抜き、斬り、そして納刀。

 それら一連を一瞬で行う。

 なおその際、男は歩いたままだ。

 その軽快なステップで。


「そ、そなたは」


 三吉は痛みよりも男の絶技に対する恐ろしさであえぎながら、聞いた。

 この頃には、捕り方らはあとじさり、三吉と男を遠巻きにし、機会をうかがっていた。

 逃げる機会を。


「薩州、島津家中――」


 男は名乗った。

 この幕末に燦然と輝く、その名を。


「――中村半次郎」


 名乗るや否や、半次郎は駆け出す。


「こん男、三吉さんサアは薩摩があずかる! 手出し無用じゃ!」


 駆け出してくる半次郎に、捕り方らはわっと逃げ出した。

 手負いのかしらもまた、「ひっ、ひっ」とうめきながら、小走りで逃げ出す。

 それを見て、半次郎は、はははと笑い出す。


「そげん逃げんでも。る気は、か」


 どうやら散歩というのは本当らしく、半次郎は一人だけ藩邸から出て来たようだった。


「多勢に無勢は戦術タクティクスに反する。赤松先生に叱られる」


 よいせと三吉に肩を貸し、半次郎は立ち上がった。


「よう頑張ったのう。もう、大丈夫じゃ」


 半次郎に大丈夫と言われると、材木場に残して来た竜馬も、もう大丈夫のような気がした。

 そんな「大丈夫」だった。

 三吉はほっと一息、息を吐き出し、そしてふと気になって聞いた。


「貴殿、何でそのような靴を?」


「ああ、これこいか」


 薩長同盟の会談の最中、竜馬が下足場に置いた靴が気になって、昨夕、とうとう手に入れた舶来物だという。


「格好良いじゃろ」


「ああ、格好良いな」


 半次郎は笑った。

 三吉も笑った。

 そして今この時こそ、真に薩長同盟は成立したのだと三吉は実感した。

 それは半次郎も同様らしく、彼は藩邸に向かって叫んだ。


「起きてたもんせッ! 坂本さんサアの危機じゃ! よう出てたもんせッ!」


 藩邸の中から音がして、門が開き始めた。




 この夜――のちに坂本竜馬襲撃事件として知られるこの夜、こうして竜馬は九死に一生を得る。

 そしてそれは同時に、薩摩と長州が手を取り合い、維新回天へと向かう、大きな一歩だった。

 まるで――真新しい靴が、ステップを踏むような。





【了】

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真新しい靴がステップ ~竜馬、寺田屋にて遭難す~ 四谷軒 @gyro

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