真新しい靴がステップ ~竜馬、寺田屋にて遭難す~

四谷軒

01 その夜――慶応二年一月二十三日、寺田屋

 慶応二年一月二十三日(一八六六年三月九日)。

 深夜二時。

 京、寺田屋。

 その女は、脱衣所で衣服を脱いだ。

 風呂場へ入り、湯をかける。

 二十代半ばの彼女の裸体は、湯をかけると、より一層うつくしく見えた。

 今日は、好いた男が泊まっている。

 洗わねば。

 念入りに。

 そう思って体を洗っていた女が、 ふと窓越しに外を見た。

 何か動く影が見えた。

 のぞきか何かかと思ったが、どうも様子がちがう。

 影は、複数だ。

 それも、提灯を持っている。


「……かた?」


 提灯の定紋を見ると、どうやら伏見奉行の捕り方らしい。

 となると。

 狙いは。

 女は桶を床にほうった。

 置いている暇はない。

 素早く戸を開け、そのまま階段を、上へ。

 走った。

 裸のまま。


「竜馬さまッ! 竜馬さまッ!」


 女は走る。

 好いた男、坂本竜馬の部屋へ。

 女の名はおりょう。

 後世のわれわれの知る、坂本竜馬の妻その人である。



 おりょうが知らせたことにより、間一髪で竜馬と護衛の三吉慎蔵(長州藩の支藩の長府藩士、長州の志士)は身支度と、戦いの支度ができた。

 竜馬は、高杉晋作から譲り受けた拳銃S&W №2を取り出し、三吉は愛用の槍を手に取った(三吉は宝蔵院流槍術免許皆伝)。


あわせだけでも、着とおせ」


 おりょうは手早く袷を身に付け、そして竜馬に促されるままに裏階段から、階下に戻った。

 この間、三吉は気を利かして「窓外そうがいを見る」と、あらぬ方を向いていた。


「三吉君、お待たせ……」


 竜馬が、そう言い切るか言い切らないうちに。

 捕り方が、部屋に侵入した。

 押し入ってきた。


肥後守ひごのかみさまの上意である」


 肥後守といわれると、京都守護職・松平容保まつだいらかたもりのことが想起されるが、この場合、肥後守というのは、請西じょうざい藩主にして伏見奉行、林忠交はやしただかたのことである。

 つまり、捕り方は伏見奉行の命令でやって来た、と言いたいのだ。

 こんな夜更よふけに。


「いやいや、チクっとお待ちあれ、待ってつかぁさい」


 竜馬は片手を振って(もう片方はたもとの中で拳銃を握っていたため)、弁明した。

 いわく、自分たちは薩州の者だ、島津家中の者だと主張した。

 そうすることにより、伏見奉行の権限の及ばない、薩摩藩士だと通そうとした。

 この時点で、竜馬は薩長同盟の成立に立ち会っており、薩摩藩の庇護は大いに期待できた。

 だが。


「まことそのほうらが薩摩の出であるならば、なぜ薩摩言葉を話さん」


 この時代、この国においては各地方の言葉がそれぞれ独自色を帯びており、離れた地方の出身者同士が会話するのに、人形浄瑠璃や講談の言葉を使って話したほどである。

 そして捕り方は、捕縛対象が坂本竜馬であり、竜馬が土佐出身であることを知悉していた。

 ここで三吉慎蔵が薩摩言葉を話せれば良かったが、彼は長府藩士であり、少し前までは「薩賊会奸さつぞくかいかん(蛤御門の変で追われた相手の薩摩と会津を罵ってこう呼んでいた)こう呼んでいた)」と忌み嫌っていた、薩摩の言葉を話せるわけがない。


「……さあ。さあさあ」


 捕り方は迫る。

 このようなやり取りをせずに、速やかに捕縛するための、深夜の御用改めであるが、こうなった以上仕方ない。

 とにかくさっさとしょっ引いて奉行所へ、と思った時だった。


「そらよ」


 ごう、と音がして、撮り方が後方へ吹っ飛んだ。

 竜馬が、発砲したのだ。


「三吉君、逃げるぞ」


 話す間にも二発目発射。

 最初の捕り方のうしろから出現した、もうひとりの捕り方が、やはり後方へと吹っ飛んでいく。


「三吉君、振り返るな」


 竜馬が三発目を放とうとすると、新たな捕り方が現れ、竜馬の拳銃を持つ手を斬った。


「ぐっ」


 致命傷ではないが、これで竜馬は引き金を引けず、弾も込められず、拳銃を使えなくなる。


「こちらへ」


 おりょうがまた戻って来た。

 彼女は、裏木戸の漬物槽を退かしたという。


「お早く」


 捕り方がいるゆえ、おりょうは具体的な、裏木戸という言葉を使わず、指示語のみで話している。

 けれども、おりょうが竜馬たちをどこから脱出させるかは、すぐに察せられるだろう。


「よし来た」


 竜馬が行き、三吉は逆に捕り方に向かっていった。

 三吉は手槍を巧みにあつかい、捕り方を竜馬の方へ進ませず、頃合いを見て竜馬から手渡された拳銃を、適当にぶっ放した。


「よし!」


 三吉も走る。

 竜馬がゆく、裏木戸に向かって。


「早く」


 竜馬が裏木戸の先で待っていた。

 三吉も慌ててくぐると、うしろで裏木戸が閉じられた。

 ずるり、ずるり、という音も聞こえるから、漬物槽も動かされて、また裏木戸は開かずの状態に戻ったのであろう。


「おりょう、感謝するぜよ」


 竜馬が拝む真似をして、それから走り出す。

 三好も駆け出す。

 行くあてなどない。

 とりあえずは、隠れるための逃走だ。

 少し走ると、横に、材木場がちらりと見えた。

 


「すみません、坂本先生。僕の手落ちです」


 材木場。

 結局、ここに竜馬と三吉は隠れた。

 何より、竜馬の負傷が重く、移動することが辛くなってきたことが大きい。

 それは、護衛としての仕事を全うできなかったことを意味する。

 これでは、「三吉君、頼む」と言った桂小五郎の知遇を裏切ることになる。


「腹を切ります」


 三吉は武士だ。

 武士として、主命(この場合は桂小五郎の依頼だが、三吉はそう解釈した)を果たせないことは、死に値する。

 三吉はそう主張して、脇差を抜いた。


「待て待て、待ってくれ。待つがじゃ、三吉君」


 竜馬は傷ついた両手を振って、三吉の翻意をうながした。

 しかし三吉の決意は固く、竜馬は困り果てた。

 竜馬自身は自死などしたくないという考えの持ち主であるため、なおのこと困った。


「死ぬゥいわれてものう……」


 死ぬ気になれば、何でもできるとはいうが、これは。


「あ」


 そこで閃いた。


「三吉君」


「はい」


「君は今、死ぬ気なんじゃな」


「は、はあ」


「ほンなら、チクと、死ぬ気ィでやってほしいことがあるきに」


「はあ……」


 竜馬はウインクすると、三吉にぼそぼそとを呟いた。

 次の瞬間、三吉は驚愕の表情を浮かべる。


「……えっ」


「死ぬ気なんじゃろ? どうせ死ぬンなら、最後まで足掻あがこうじゃないか、三吉君」


 が駄目で死ぬんならあきらめがつく、逆にやらないんだったら今この場で坂本竜馬は腹を切るとまで言い出した。


「わ、わかりました」


 そうまで言われては仕方ない。

 護衛対象に自害されては、それこそ恥の上塗りだ。

 ええい、ままよ。

 そう呟きながら、三吉は槍を捨て、それこそ大小も捨てて、駆け出した。


「三吉君、旅人を装うんだ、旅人を」


 背中に竜馬の声が響く。

 わかってます、と答え、三吉は走る。

 伏見薩摩藩邸へ向けて。

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