40:結末と選択

 聖女祭の日。聖女の祈りが無事終わると同時に、守護樹の小さな花々が一斉に開花した。


 深夜になったいま、その花の香りが旧神殿にまで届いていた。

 ジルコニアは深く、ゆっくりと息を吸い込んだ。華やかさの中に、森の木々の深い香りと、薬草を思わせる独特の香りが混じり合っていた。


 ジルコニアは聖なる付添人シルク・メイデンの役割を終え、真っ白い衣装のまま、この旧神殿に来ていた。

 ひと息ついたあと、再び手元の作業に戻る。


 彼女の手には、まるで本物の花のような形をした薄いロウソク、灯花蝋とうかろうがあった。花の中央にある芯に火をともしてそっと手を離すと、花が空中をただよいはじめる。次々と放たれる灯花蝋が、周囲を柔らかな光で優しく包み込む。


 光の花園の中に、手提げランタンを持ったクロヴァが現れた。彼は藍色の軍服に黒いマントを羽織り、正装のため身につけた金の飾緒エギュレットと、左胸の略綬リボンが火の光に揺れて輝く。


 彼は灯花蝋に囲まれるジルコニアの姿を見て、感嘆の声を上げた。


「まるで幻想の森に住む妖精のようだ」

「ふふ、嬉しいですわ」

「……貧相な例えだったかもしれない」

「そんな、素敵ですよ」


 ジルコニアが優しく微笑みかけると、クロヴァは少し気まずそうに笑った。


 深夜12時の少し前。

 クロヴァは聖女の警護と会場警備の任に就いているが、この時間に休憩をとるよう調整していた。

 聖女祭の日の翌日を2人で迎えるためである。


 彼は懐中時計を取り出して、近くの灯花蝋の光に透かして見る。


「もうすぐ明日だ。……ここまで、長かった」


 彼は疲れた笑みを見せる。ジルコニアはクロヴァの手を取り、花園の中央へと導いた。


「お祝いをしようと思って、灯花蝋で飾り付けしました」

「この量はすごいな。あまり出回らない品だろう」

「お父様や他の方にも協力していただいて集めました。クロヴァ様の心が少しでも癒されるといいのですが。ほら、見てください、綺麗ですよね」

「ああ。……綺麗だ」


 クロヴァは、無邪気に明かりを見上げるジルコニアを見て言った。


 しばらく、2人は並び立っていた。

 灯花蝋がぼっと燃え尽きると、ジルコニアは足元の籠から新しい花を取り出して火をともす。

 穏やかな沈黙の中、静かに揺れる火をじっと見続けた。


 クロヴァが再び懐中時計を取り出し、盤面をジルコニアにも見せる。時計が規則正しく動いているのを、2人で覗き込んでじっと見続ける。


 秒針が本日最後の周回を始めた。一定のリズムで、止まることなく進んでいく。


 カチ、カチ、カチ、カチッ


 すべての針が重なった。そして、何事もなかったように離れていく。

 クロヴァは静かに懐中時計をしまった。

 ジルコニアが彼の手を取り、微笑む。


「新しい日が始まりましたね」

「ああ」


 クロヴァは彼女の指の間に自らの指を入れて包み込んだ。彼女の存在を確かめるように、指に力を入れて握る。

 ジルコニアも握り返し、クロヴァを見つめる。


「あなたを幸せにしてみせますわ」

「十分幸せだ」

「もっと、もっとです。思い出もたくさん作りましょうね。やりたいこと、教えてください」

「君がそばにいれば、他は何もいらない」


 相変わらず無欲なクロヴァに、ジルコニアは頬をふくらませる。


「私はわがままな女だと言ったでしょう。そうやって甘やかすと、何をするかわかりませんよ」

「楽しみにしている」

「信じていませんね? 本当にわがままなんですからね」


 クロヴァは苦笑した。


「君のわがままなら喜んで受け入れるよ。……この身を破滅させてもいい」


 クロヴァはジルコニアを優しく抱き寄せる。身をかがめ、彼女の耳元にそっと唇を寄せてささやいた。


「この身も、この心も、あなたの望むままに……我が姫」


 彼の甘い声が低く響き、耳のふちを唇でなぞられる。彼の吐息が頬にかかり、そこから熱が広がっていく。


 ジルコニアはくすぐったさに恥ずかしくなり、身体を引こうとした。しかし、その動きを察したクロヴァが強く抱きしめ直した。


「もう逃さない」

「すこし、近いですわ」

「誰も見ていない」

「そういうことじゃ……」


 クロヴァとの密着に羞恥心が耐えられず、彼の胸に手を当てて距離をとろうとする。

 その手のひらに、力強い鼓動が伝わってきた。

 ちょうどジルコニアの顔の位置に彼の胸がある。耳を当てると、分厚い軍服越しにも、心臓の脈拍が感じられた。


「クロヴァ様も、ドキドキしていますわ。緊張しているのですか?」


 彼は返答に詰まり、目をそらした。頬をわずかに赤く染め、ぼそりとつぶやく。


「……言わないでくれ。精一杯、格好をつけようと必死なんだ」

「それは、失礼しましたわ」


 ジルコニアはくすくすと楽しそうに笑い声を上げた。クロヴァは困ったように笑い、彼女を抱く手を緩めた。


 周囲の灯花蝋が半分ほど燃え尽きていた。

 ジルコニアはそれを見て、再びかごの中から灯花蝋を取り出して、ひとつひとつ火を点けていく。

 クロヴァは、光の花が空中に増えていくのをずっと見ていた。火が灯されるたびに、その明かりは彼女の顔を優しく照らし出す。


 穏やかな時がゆっくりと流れていく。


「ようやく、終わったんだな」


 クロヴァは実感と共につぶやいた。

 顔には自然と笑みが浮かぶ。ジルコニアも優しく笑顔を返した。


 彼女からも肩の力が抜けて安らいでいるように見える。

 いつもの大人びた表情ではなく、年相応の幼さがあった。


 クロヴァは、ふと、彼女の表情に既視感を覚えた。

 眩しいほどの青空を背にしたを、遠くから見上げていたことがある。


「……女神に似ている」

「クロヴァ様、無理な例えはいいんですよ」

「君を見たんだ。城壁塔の上で」


 城壁塔? とジルコニアは首をかしげ、あっと声を上げる。

 いたずらを見つかった子供のように、恥ずかしそうに笑った。


「やっぱり、気付かれていたんですね」

「まさかあんな所に女性がいるとは思わず、女神かと思っていた。どうして城壁塔に?」


 ジルコニアは最後の灯花蝋に火を点け、ゆっくりと手を離す。

 その小さな光を目で追いながら、彼女は遠くを見つめていた。


「決められた婚約者と顔合わせをする前に、ひと目見ようと思って登りました」

「塔に……?」

「あの頃は少し窮屈さを感じていて」


 塔の上に立ち、広がる青空を見て、鳥になりたいと思った。どこまでも自由に飛んでいき、自分で見つけた木の枝にとまりたいと思っていた。


 その願いが叶っていたことに、いま気付いた。


「塔の上からクロヴァ様を見て……私は恋に落ちました。あなたが婚約者でよかった。あなたを好きになって、本当によかった」


 クロヴァはジルコニアの言葉に呆然とする。


 最初に時間を繰り返したときは、まだ彼女に対しては淡い感情があるだけで、見捨てておけないという正義心の方が勝っていた。何度も繰り返すうちに、彼女への思いを積み重ねていった。

 この感情が自分だけの一方的なものあることに、ずっと後ろめたさがあった。


「君の心は、最初から俺に……」


 言葉を続けようとするが、声を詰まらせた。

 彼の見開いた目から、静かに涙がこぼれ落ちる。


 ジルコニアはそれに気付いて、涙を拭おうと手を伸ばす。その手が届く前に、クロヴァは横を向いた。


「見ないでくれ。こんな、情けない……」


 声が震えて続かなかった。

 ジルコニアは微笑んで、優しく彼の頬をなでながら涙をぬぐい取る。


「我慢しなくていいですよ。私しかいませんから」

 

 クロヴァは彼女の手を取り、口元を強く押しあてた。手のひらに唇の震えが伝わってくる。嗚咽がわずかに漏れた。


 ジルコニアはクロヴァの胸に額を当てた。もう片方の手を彼の背に回す。


「もう泣かせないと誓いますわ。めいっぱい幸せにしてあげますからね」


 彼の大きな背中を撫でながら言う。


 クロヴァは目を閉じ、ゆっくり頷いた。



  ◇ ◇ ◇



 数十年して。


 クロヴァ・メイスは自室のベッドの横に椅子を置き、ゆったりと座って本を読んでいた。

 隣のベッドの中ではジルコニアが寝息をたてていた。


 春の温かい日だった。日の光が柔らかく室内を満たしている。


 ベッドの中で動く気配がした。クロヴァは本を閉じ、薄っすらと目をあけたジルコニアを見る。


 彼女はやせ細り、髪も皮膚もくすんでいたが、その表情は穏やかだった。


 ジルコニアはぼんやりとクロヴァを見上げる。ゆっくりと手を動かすと、クロヴァはその手を自然な動作で握った。


 彼女は微笑み、長い呼吸の合間に、優しい声でゆっくりと言う。


「長生きすると誓ったのに、病気には勝てませんでしたわ」


 クロヴァは大きな手でジルコニアの髪を優しくなでた。彼女は気持ちよさそうに目を細める。


「私は幸せでした。私は、あなたを、幸せにできたかしら」

「十分、幸せだ」

「ふふ……嬉しいわ」


 もう間もなくだ、とお互いに感じていた。命の灯火が、小さくなっていく。


 彼女はクロヴァの手を握り返した。


「あなたは、泣くのかしら。……あら、もう泣いてるわね。泣かせないと誓ったのに、これも、破ってしまったわね……」


 ジルコニアは楽しそうに笑った。そして、長く息を吐く。


 クロヴァの周囲が黒い空間に変わり、彼の目の前に半透明の板が現れた。

 

『やり直しますか?』


 クロヴァは手を伸ばし、『いいえ』に触れた。

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完璧令嬢のままでは彼を救えない 太田丙有 @heia

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