39:図書館にて

 彼が最後の本棚を曲がった瞬間、そこに誰かがいると思っていなかったのか、びくっと身をすくませる。

 ジルコニアはその反応を見て思わず笑みを浮かべ、声をかけた。


「ごきげんよう、陛下」


 スペイドは立ち尽くす。

 去るか、留まるか、決めかねている様子だった。

 彼が何の目的でこの場に来たのかは不明だが、彼の驚いた様子を見ると、意図して追ってきたわけではないようだ。


 ジルコニアは三人掛けソファの端に寄った。

 スペイドは少し迷った末に反対側の端に腰を下ろした。


 彼は片方の肘掛けに体をあずけ、足を組みながら静かに前を向いていた。話し始める気配はなく、本当にここへ休みに来たようだ。


 ジルコニアは再び、天井を見上げた。

 彼女も休息を必要としていた。多くのことがあり、心身が疲れきっていた。


 しばらくの沈黙のあと、彼が独り言のようにぽつりと呟いた。


「俺もここに座り、天井を見上げていたことがある」


 それ以上の言葉はなく、彼は視線を前に向けたまま口を閉じた。


 ジルコニアは彼の横顔をじっと見つめた。かつて、図書館の隅でうずくまっていた少年の面影が見える。周囲の期待が重荷となり、ひとりきりになれる場所へと逃げてきた、小さな子供だった彼。


 スペイドは視線に気づき、彼女の方へと顔を向けた。


「邪魔だったか?」


 穏やかな微笑みだった。

 彼は執着を捨て、思い出も捨て、前を向こうとしている。


 かつて9歳の彼は、自分で決めた道に心細くなり、ここで迷っていた。

 本来なら彼自身が答えを見つけて乗り越えなければならなかったが、4歳の少女が優しい言葉をかけてしまった。


 何も見えない闇の中で、天から優しい言葉が降り注げば、その言葉にすがりたくなるだろう。

 いま、あのときの彼の気持ちが痛いほどわかった。


(私はどれほど残酷なことをしたのだろう)


 ジルコニアは自らの過ちにようやく気付いた。

 寂しそうな彼を慰めたかっただけなのに、彼を狂わせ、彼を壊すきっかけとなってしまった。


「陛下、私が……」


 そのとき、再び入口に人の気配がした。

 足音が館内に響く。


 スペイドはジルコニアを見て、ふっと笑った。


「『番犬』が来たぞ。仕事に熱心なことだ」


 彼は腰を上げ、立ち去ろうとする。ジルコニアは思わず声をかけた。


「陛下、私がいなければ」

「もしも」


 彼は顔を前に向けたまま言った。


「もしも……罪悪感を持っているのだとしたら、それは捨て去っていい。過去の君の言葉で俺が救われたのは事実だ。それだけで、もういいんだ」


 振り返ることなく、彼は歩き出した。その姿が本棚の向こう側に消えるのを、ジルコニアは黙って見送った。


 少しも経たず、スペイドとクロヴァの会話する声が届いた。具体的な言葉は聞き取れないが、声のトーンからクロヴァが何か注意をしているようで、スペイドがそれを軽く受け流しているようだ。彼らの関係は以前と変わらないように聞こえる。

 やりとりは短く終わり、2人の足音が図書館の外へと消えていった。


 幼い少年と少女が図書館の奥で出会い、少女の言葉によって歯車が狂い始めた。

 そして彼の言葉で、すべてが終わりを迎えた。


 ジルコニアは少し時間を置いてから、ゆっくりと立ち上がった。その目は前を見据えていた。


 静けさを背に、彼女は図書館を後にした。

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