それでも時間は戻ってくれない

杏藤京子

一年にも満たない回想

 幾多の視線を集めながら、教壇に立つ長身の男性が胸を張って口を開いた。

「世界史とはドラマです。 皆さんにはショーを鑑賞するつもりで、 楽しんで授業に臨んでいただきたいと思っています」


 その先生は口調も仕草も演技がかっていて、「あの人はクセが強い」とすぐさま話題になった。


 けれど一か月も経つ頃には、世界史の授業で寝るなんてありえないという雰囲気が流れていた。 先生が抑揚をつけながらドラマチックに歴史を語るから、 聞いていてまったく退屈しないのだ。授業中は頻繁にスマホを触る私ですら、先生の言葉に耳を傾けていた。


 木々が緑に色づきだし、 中間テストの時期に差し掛かった。 焦った私は先生に、どうしたら用語を暗記できるのかと尋ねた。


「17 世紀のフランスは衛生観念が低かったという話をご存じですか。当時、市民も王族もあまりお風呂に入りませんでした。というのも、 現代のように安心安全な水を確保するのが難しかったからです。それで体臭を誤魔化すために香水が発明されました」


 記憶の中の先生が、正確な発音でよどみなく話す。


「さて、ここで問題です。香水好きで有名な、世界一いい香りの皇帝は誰でしょう。ヒントは前回の授業に出てきた方です」

「……ルイ 14 世?」


 先生はパッと顔を明るくして、「大正解です!」と勢いよく拍手した。そして「これで一人覚えられたでしょう」とほほ笑んだ。


 それから私は歴史の豆知識を教えてもらうようになった。 ナポレオンが猫恐怖症であったこと。 ベルリンの壁が一人の男の勘違いによって崩壊したこと。どの話も印象的で、これまで何度も脳内再生している。


 うだるような炎天下が続いたある日、私は部活の仲間たちと花火大会に行った。

どおん、と最後の花火が打ちあがり、 その場にいた人々が満面の笑みで去っていく。 不意に、一緒に帰ろうと横山君に声をかけられた。


 横山君はファッションにすごく気を遣う男の子だった。 トレンドにも敏感で、 流行のカフェや映画にたくさん連れて行ってくれた。奢ってくれることも多かった。


 そんな彼の人間的魅力を私はあまり感じられなかった。 確か、 文化祭が終わるタイミングで別れを切り出したと思う。 最初は納得できない様子だったけど、 ファミレスでの話し合いの末、まあこっちも本気じゃなかったしと横山君は言った。


 横山君との付き合いを通して、 やっぱり先生と話しているときが一番楽しいと自覚しだした頃、学校から薄い封筒が届いた。封を開けて目に飛び込んできたのは、 「離任式のお知らせ」という見出しのプリント。


 気づけばすっかり、空気が凍てつく季節に変わっていた。


「色々お世話になったから。当然じゃん」

 離任式当日、 私は職員室前で先生に花束を手渡した。 先生は丁重にそれを受け取り、 何度も頭を下げた。


「最近ユーチューブで、 歴史モノの動画見てるんだよね。 ハプスブルク家の呪いとか、 アイアン・メイデンとか。マジ先生の影響」

「わ、私はそういう類のものは教えていないはずですが……?」


 パチパチと瞬きを繰り返す先生が面白くて、私はくっくと小刻みに笑う。


「いや、感動系も好きだよ。この前もね、すっごいロマンティックな話見たの」

「へぇ。何です?」

「あのね……」


 私はまっすぐに先生を見つめた。


「ヴィクトリア女王とアルバート公の話」


 1837 年、18 歳の若さでイギリス女王に即位したヴィクトリアは、ドイツ出身のアルバートとお互い一目惚れをした。けれども王族であるヴィクトリアは政略結婚をしなければならない。そこでアルバートはナイフで服に穴をあけてヴィクトリアから贈られてきた花束を飾り、 彼女への愛を示した。のちに、 ヴィクトリアのほうから結婚を申し込んで二人は晴れて結ばれた。


 先生は私の花束を飾ってくれないだろうな。


 電車に揺られながらそんなことを考えていると、じんわりと視界がぼやけてきた。


 春休みが終われば、先生のいない学校での新学期が始まる。

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