後編

 私の記憶は〝その日〟へと飛ぶ——。


『蘇……芳……』

 記憶の中の師匠は、畳に広がった血溜まりの中に倒れていた。

 そうだ——戦争が終わって少しした頃——昏い嵐の夜だった——私は、手に持った小刀で、師匠の体を刺し貫いて——


 ふと視線を移すと、部屋の隅に置いてあった姿見が目に入った。

 鏡面には、放心状態で立ち尽くす私と、その左首筋の鶴の刺青——師匠と揃いの刺青が映っていた。


 気がつけば、私は近くにあった火鉢から火箸を一本手に掴み、自らの首筋に当てていた。

 肉が焼け、苦悶の声が口から漏れる。しかし、それでも一向に構わなかった。一度首から離した火箸をもう一度押し付け、罰点ばってんをつける様に、十字に鶴を焼く。

 掌の傷とは異なり、消えることなどないよう、強く、強く押し当てる——。

 息も絶え絶えに火箸を畳に落とした、丁度その時だった。


『師匠!?しっかりしてください!』


 襖を開け、眼鏡をかけた若い男——弟弟子の鶴泉つるみ南雲なぐもが飛び込んできた。

 師匠に駆け寄り、体を揺する。

『師匠!師匠!——兄様、どうしてこんな!?』

『わ、私は……』

 私は答えることができず、ゆっくりと二人から後ずさった。


『な、南雲……南雲……』 

 苦しそうに、師匠が声を絞り出す。

『師匠!すぐに、医者を——』

『なぐ……も……』 

『師匠――――っ!』


 雷鳴と、南雲の慟哭が重なる。

 全てが、悪い夢のようだった。


「おいおい、本当にやっちまったのかよ。ま、見るからに堅気かたぎじゃねえとは思ってたがよお」 


 私は逃げた。

 雨の中をひたすらに走り、待ち合わせ場所だった廃墟へとたどり着いた。


「待ち合わせ?誰とのだ?」


 女だ。

 着物を着て、布を頭被ターバンのように巻いた、妙齢の女。

 名前は——抄子しょうこ

 御手洗みたらい抄子。

 私は、屋敷から〝ある物〟を探して取ってくるよう、抄子に頼まれていたのだ。


『随分と遅かったやないの』


 どことなく胡散臭い関西弁で、抄子が言う。

 抄子の視線は、私が手に持った、くしゃくしゃの羽織に注がれていた。

 師匠の羽織だ。

 とは言え、抄子に頼まれていた品はこれではない。これは単に、物色の際に箪笥の奥から引っ張りだしただけ。本当に大切なものが雨で濡れないよう、足元に落ちていたこの羽織で咄嗟にくるんだのだ。


 私は頼まれていた物——古びた和綴本わとじぼんを抄子に手渡した。

『これやこれや、先代・鶴泉南雲が書き記した秘伝の書——おおきになあ』

『……言われたものは渡した。約束は守ってもらうぞ』

『そう睨まんでもわかっとるって。これにはな、あんたの望みを叶えるための儀式のやり方が、ぜーんぶ書いてあるわ。ただ——』

『ただ、何だ?』

 あんた一人でやるんは難しいやろなあ——そう言って、抄子はわざとらしく溜息をついた。


『どういうことだ?』

『うちの組織なら、場所に、あやかしに、生贄に——とにかく儀式に必要なもん、一通り揃えられるで。だからあんたも協力してくれん?毒を食らわば皿まで言うやんか?な?な?』

『……いいだろう。せいぜい利用させてもらうさ』『ハハ、決まりやね』


 楽しげに笑う抄子を見ながら、私は思う。

 そうだ、もう引き返すことはできない。

 全て思い出した。

 私は——私は——


「おいおいおいおい!こっちは何にもわかんねえぞ!どうしてお前はあの女を殺した!?そこまでして叶えたい望みってのは何だ!?一人で納得してんじゃ——」


 いいだろう——っく見たまえ。




「いいだろう——善っく見たまえ」

「え?」

 驚くサトリの瞳を、男——蘇芳が見つめ返す。

 交差する二つの視線。

 風が吹き、木々が揺れる音だけが山中に木霊こだまする。

「あ……あああ……」

 サトリは、蘇芳の頭を固定していた両手を離すと、じりじりと後ずさった。

 その表情は、目の前の男に対する恐怖で歪んでいた。


 薄く微笑み、男が言う。

「どうした?何を読み取った?思考か?記憶か?それとも——心の奥底に広がっている、漆黒の闇でも垣間見えたか?」

 小首をかしげてそう語る男は、先程までとはまるで別人だった。

 柔らかな物腰ながら、思わず身震いするような迫力。

 それは喩えるなら、この山での生活においてサトリがこれまで感じたことのなかった、圧倒的な捕食者に対する恐怖であった。


「お、お前……お前……」

「ふふ——まあ、何でもいいか」

「く、来るなあああああ!」

 きびすを返し、サトリがその場から逃げようとする。

 しかし。

「——露草つゆくさ

 蘇芳の呼びかけに応え、木々の間から小さな影が躍り出た。




「な、何だお前は!?」

 サトリは動揺しつつも、己の行く手を阻む存在に問いかけた。

 それは、忍び装束のような服を着た少年だった。歳の頃は十四、五際といったところか。肌は褐色。その手には左右に一本ずつ、抜き放った二本の刀が握られていた。


「へへっ、油断しやがって——苦労したぜ?お前に勘づかれずに、この距離まで近づくのはよお」

 尖った八重歯を覗かせ、少年が笑う。

「この——餓鬼がきがっ!」

 サトリは少年に飛びかかった。

 いや——飛びかかろうとした。

 しかし。

「——逃がすかよ、けが」


 それは、目にも止まらぬ早業だった。

 凶刃が光り、次の瞬間、鋭い痛みが走る。

 腹を横一文字に裂かれ、サトリは悲鳴をあげてうつ伏せに倒れた。

 

「ぐうう……な、なんだ、その動き……お前、人間か……?」

「さあて、どうだろうなあ?」

 少年が、にやにやしながらサトリを見下ろす。

 信じられなかった。

 サトリは、己の持つ獣の身体能力に絶対の自信があった。

 そんな自分が、反応すらできずに正面から斬られるとは。しかも、あろうことかこんな子供にである。


「く、くそう……!」

 サトリは歯を食いしばり、何とか立ちあがろうとした。しかし、駄目だった。

 傷はそこまで深くはなかったが、不思議と体に力が入らなかった。

「やめとけって」

 手にした双剣の内、片方の切先を突きつけて少年が言う。

「コイツの刃はあやかしの力を削ぐ。終わりだよ、お前」

 妖刀の類か——。

 サトリは、自分が罠にかかったことをようやく悟った。


「また一段と腕をあげたね、露草」

 それまで一部始終を眺めていた蘇芳に声をかけられ、少年——露草の顔がぱあっと輝く。

「蘇芳様!ご無事でしたか!?」

 露草は刀を鞘に納めると、蘇芳の元へと忠犬の様に駆け寄った。

「申し訳ありません、もう少し早く助けに入りたかったのですが——」

「いいさ。大抵の民話において、サトリは臆病で用心深い。ぜた焚き木で逃げ去るほどに。これくらい慎重を期さなければね。ところで、抄子は?」 

「ああ、姉御あねごだったら——」

 そう言って、露草が背後を振り返ると、


「あー、しんど。もうちょい、動きやすい恰好してくるんやったわー」

 丁度そうぼやきながら、頭に布を巻き、着物を着た女が、草木を掻き分け現れた。

 蘇芳の記憶の中に登場した女——御手洗抄子だった。

 片手に、何かを巻いた風呂敷を持っている。


「遅かったっすね、姉御」

「あんたが異常なんやて。急に走り出したとおもたら木の枝ぴょんぴょん、ぴょんぴょん——猿やないんやから」

「やれやれ。その胡散臭い関西弁に安堵する時がくるとはね。たまには記憶も失ってみるものだな」

「なんや。あんた、自力で元に戻ったん?そんなら、急いでここまで来ることなかったやんか。ほんま、ええ加減に——」


「お、おい!」

 我慢ができず、サトリは三人の会話に割って入った。

「なんやねん。五月蠅うるさいなあ」

 面倒臭そうに抄子が眉根を寄せる。

「お、お前ら、この俺にこんな真似をして、ただで済むと——」


「〝黙れ〟」


 抄子のその言葉を聞いた瞬間——サトリは喋ることができなくなった。

 口を開けたり、閉じたりはできる。

 息も吸える。

 しかし、言葉を発することができない。


 慌てふためくサトリに、蘇芳が告げる。

「彼女の喉は少々特殊でね。普段は似非エセ関西弁で力を抑えてるんだ」

「ていうか姉御のそれ、人間だけじゃなくてあやかしにもちゃんと効くんすね」

「ん?ああ、会話のできる相手なら大体いけるで。まあ、細かい理屈とかよう知らんけど」


 へーえと相槌を打ち、露草が言う。

「でも、便利っすよねえ。蘇芳様のことも、完全に記憶喪失にできちゃったし」

「まあ、今回が本人が望んでたからなあ普通は、こんな上手くはいかんて。——あんた、調子は?」

 抄子に問われて蘇芳は、ううん、と大きく伸びをした。

「悪くない。いや、むしろ至って好調だ。新たに生まれなおした気分だよ。そいつが先程、私を幽霊同然と言ってたが——なるほど、死からの蘇生というのは、存外ぞんがいこういう感覚なのかもしれないね。流石はサトリ、人の内面に一家言いっかげん持っているだけある」

 さて——と言って、蘇芳がサトリに語りかける。


「聞いての通り、私の記憶喪失は、抄子の力——〝言霊ことだま〟による一時的なものだ。山の中腹で、『記憶を失え』と囁いてもらったのさ。騙して悪かったね。でも、仲間の存在を知られたら、君は逃げてしまうだろうしねえ。それから彼——露草は耳がとても良いんだ。僕が君と接触するまで、離れたところで待機してもらっていた。どうだい?全然気が付かなかっただろう?」


「う、ううう……!」

 口からは、言葉の代わりに、苦しげな呻き声しか出てこなかった。


「おっと、すまない。喋れないんだったね。それでは君の真似をして、私も心を読んでみよう。ふうん?——『何故こんなことをするんだ?』か。良い質問だ。君も知っての通り、私にはどうしても叶えたい望みがあってね。その為の儀式には、沢山のあやかしの力が要るんだ。しかも、只のあやかしじゃあない。君みたいな強力な力を持った、上級のあやかし達だ。それに、君の心を読む力は、きっと我々の役に立つ。協力してくれるかい?」


「ううううう……!」


「ありがとう。君なら、きっとそう言ってくれると思ってたんだ。——おや、どうしたんだい、震えてるじゃあないか?山に迷い込んだ者を怯えさせて楽しむのが、サトリの存在意義だろうに。そんな君が、逆に怯えてしまって——ほら、君というあやかしの〝ふちどり〟が揺らいでしまっているよ。いけないねえ。そうだ!私が君の怪談を語りなおしてあげよう。君の今の性格付けは、可愛げはあるが正直好みではなくてね。弾けた焚き木で逃げるというのも、今時の怪談としては少々レアリテが——」


 と、そこまで言って。

 蘇芳は突然、自嘲気味な笑い声をあげた。

 露草が、訝しげな表情で蘇芳を見る。

「……蘇芳様?」

「いやなに、誰かさんみたなことを言ってしまったな、と思ってね」


 その言葉に、露草の顔に浮かんだ険しい表情が浮かぶ。

 彼の胸中に渦巻く複雑な感情は、サトリを持ってしても言語化が難しいものであったが——強いていうなら〝嫉妬〟であろうか。

 とは言え、それが誰に対する感情なのかまでは、サトリにもわからなかった。


 そんな露草の様子を気づいているのか、いないのか。

「そうだな、例えば私が語るなら——こんな話はどうだろう?」

 蘇芳は軽く咳払いをした後——朗々と、謳い上げるかのように語り始めた。


「ある山奥に、悪戯いたずら好きだが大変気のいい、サトリの妖怪が棲んでいました」


 聴きたくない。

 聴きたくないが、耳を塞ぐこともできない。

 話から——逃げられない。


「サトリは、山に足を踏み入れた者の前に姿を現しては、相手の心を読み、考えを言い当てては怖がらせていました」


 蘇芳が、襤褸布を地面に脱ぎ捨てる。

 抄子がその場に屈み、手にした風呂敷を解く。

 中に入っていたのは、女物の白い羽織——嵐の晩、秘伝の書を包んでいた、鶴泉ゑいの羽織だった。


「そんなある日のことです。山に、一人の気のふれた男が迷い込みました」


 蘇芳が首の包帯を解く。

 包帯が風に待ってどこかへ飛んでいき、ケロイド状の痕が十字につけられた鶴の刺青が露わとなる。 


「サトリはいつものように、男の頭の中を覗き込み——すっかり、男の狂気に呑み込まれてしまいました」


 露草は抄子から羽織を受け取ると、うやうやしく蘇芳へ手渡した。

 それをばさりと音を立てて羽織りつつ、蘇芳が続ける。

 

「己と男との境い目がわからなくなってしまったサトリは、連れ戻しにやってきた麓の村の住人たちを、一人残らず惨殺してしまったのです」


「うううう!うううううううう!」

 呻くサトリに対し、蘇芳は人差し指を口にあて、しぃーっ、と囁いた。

 びくりと体を震わせ、サトリが押し黙る。

 サトリは、完全に場の空気に呑まれていた。

 

「……男はその様子を、只々ただただ笑って眺めていました」


 話を再開しつつ、蘇芳は右腕の包帯を解き始めた。


「それから一人と一匹は、並んで山を下りていきました」


 するする、するすると。


「二人がその後どこへ行ったのか、そしてどうなったのか」


 包帯が地面に落ちていく。


「知る者は、誰もいません」


 ——そう言って、蘇芳は話を結んだ。


「素晴らしいです、蘇芳様!」

 ぱちぱちと、露草の拍手が響き、

「ええんやないの、あんたらしくて」

 抄子も、目を細めて笑った。

「ふふ、有難ありがとう。——では、そろそろ仕上げといこうか」


 蘇芳の腕には、経文さながらに、びっしりと文字が刻まれていた。

 手の甲には紅で「怪」の一文字。

 そして掌には——中心に目のついた蓮の花の紋様が描かれていた。

 花びらの色は黒く、瞳だけが紅い。

 それは、何とも禍々しい刺青だった。


 ——これが、この男の正体か。

 サトリは、興味本位で男の記憶を戻そうとした己の軽率さを呪った。

 まだ若いのに白い髪に、同じく白い女物の羽織。

 鶴の刺青に、それに重なる火傷痕。

 そして、幾重もの呪法が施されたかいな

 怪談師——蘇芳。


 嗚呼、嫌だ。

 怖い。

 この男が、怖い。

 サトリは見た。

 この男の、これまでしてきたことを。

 サトリは知った。

 この男の、これからするであろうことを。

 サトリは理解した。

 今から、己が辿る運命を。

 自分は今から、この男によって〝書き換えられる〟のだ。


「う——うう——」

 それが理解わかってなお——自分はどうすることもできない。

 蘇芳がその身に宿す、数多あまたの怪談。その一つとなるしか道はない。

 そう——数多だ。

 十や二十では全然足りない。

 そんな体で——この男は、

 おかしい。

 道理に合わない。

 こんなの——こんなの、まるで——

 

「大丈夫」

 子供をあやす様に、蘇芳が微笑んだ。

 サトリの側へとゆっくり歩み寄り、片膝をつく。

「記憶こそが命だというのなら、私がいくらでも与えてやろう——」

 その掌が、徐々にサトリの顔へと近づいてくる。

「ううう——ううううううう——」

「——私好みの、新たな命をね」


 サトリの黒い瞳と、掌の紅い瞳。

 二つの視線が交差する。

 己という情報が破壊され、新たな物語に書き換えられるその寸前——最後の力を振り絞り、サトリは大声で叫んだ。




「——ば——化け物ぉぉぉぉぉぉぉぉッ!」

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忘談~きおくをたどりて~ 阿炎快空 @aja915

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