忘談~きおくをたどりて~

阿炎快空

前編

 雪のように白い髪の男であった。

 しかし、決して年寄りというわけではない。見た目はせいぜい三十代といったところか。

 顔立ちは端正だが、着流しの上にはまるで物乞いのような襤褸ぼろ布を纏っている。

 そしてその右腕には、怪我でもしているのか、首筋——そして掌から肘にかけて包帯がまかれていた。

 

 とある山奥の、鬱蒼とした木々が生い茂る獣道。

 は落ちはじめ、周囲は徐々に薄昏うすぐらくなっていた。右腕には掌から肘にかけて、包帯が巻かれている。


 ガサガサッ、と木々の揺れる音がした。

 男はビクリと体を震わせ、音のした前方に目を凝らした。

 少し迷った末、音のした方に、そろりそろりと歩き出す。

 ガサガサッ——今度は、背後の木々が揺れる。


「誰か——誰か、いるのか?」

 慌てて振り返り、男が問う。

 その途端——周囲の木々が、大きな音を立てて一斉に揺れ始めた。

「ヒャハッ!ヒャハハハハッ!」

 よく響く笑い声が、男の頭上を旋回する。

「おい、悪戯のつもりだったら――」


 しん——……

 男の言葉を最後まで待たずに、木々のざわめきが止んだ。

 静寂。

 時間にすれば、僅か十秒ほど。しかし、恐ろしく長い十秒間であった。


 ごくりと唾を飲み込み、男が動き出そうとしたその矢先。

 獣の咆哮と共に、木々の間から一つの影が躍り出た。

 驚き、尻餅をつく男——そんな彼を見下ろし、獣は楽しそうに笑った。


「ヒャハハッ!吃驚びっくりしたか?なあ、吃驚したか?ええ、おい?」


 それは、猿によく似ていた。全身を体毛に包まれた、二足歩行の生き物。体格は大人の男ほどもある。

「お、お前——」

「ああ、そうだ。今、お前が思っている通りさ」

 獣が、鋭い歯と歯茎を剥き出しにして笑う。

「俺はなあ——化け物だ」


 男は尻餅をついたまま、辺りを必死に見回した。

 そんな男に、獣が楽しげに声をかける。

「お前、今、〝石か木を投げよう〟と思っただろ?」

「い、いや、そんなことは——」

「お前、今、〝隙をついて、走って逃げよう〟と思っただろ?——お前、今、〝こいつ、心が読めるのか?〟と思っただろ?——お前、今、〝もしかして、お前——〟」

「——お前、サトリの妖怪か?」


 その言葉に、獣——サトリは興味深そうに男を見下ろした。

「おおん?お前、俺のことを知ってるか?どれ、言ってみな」

「……山深くに棲み、相手の心を読む妖怪……」

「ヒャハハッ!俺も有名になったもんだ。それで?」

「……次々と考えを言い当てて、相手を惑わすが……」 

「〝焚き木が偶然弾けてぶつかったりすると、思わぬことが起こったことに驚いて逃げ去っていく〟、か。——ヒャハハッ!」

 残念だがここに焚き木はねえあと笑うサトリに、男が尋ねる。


「私を、どうするつもりだ?」

「まあ、そう怖がるなって。別に、取って食いはしねえよ。俺はこうやって、この山に迷い込んできた人間を驚かすのが好きでな。悪かったって」

 謝りながら、サトリが男に手を差し伸べる。

「怪我はねえか?」 

「あ、ああ……」

 大丈夫だと答えながら、恐る恐るサトリの手をとり、立ち上がる。爪が伸び、ゴツゴツとした獣の手。仮装の類ではない、本物の化物——…

「そりゃあ良かった。にしても、だ」

 サトリは、男の周囲を周りながら、その姿をじろじろと観察した。


「へええ——てっきり年寄りかと思ったが、案外若えんだな。その髪はどうした?幾つだ、お前?」「年……私は……私の、年齢は……」

 男は答えようと口を開いた。しかし、開いただけだった。肝心の数字が、なかなか出てこない。

「なんだあ?お前、自分の年もわかんねえのか?丸腰だし、猟師ってわけでもなさそうだなあ。お前、いったいどこの誰なんだ?」

「……思い出せない」

「ああ?お前、俺の事は知ってるのに、自分が誰かは知らねえってのか?そんな訳が——」

「思い出せないんだ。自分が一体誰なのか……どうして、こんな場所にいるのか……」

 頭を抱え、苦しそうに声を絞り出す男を、サトリは暫くの間じいっと見つめた。


「……どうやら嘘じゃなさそうだな。頭を打ったか、気がふれたか——まあ大方、ふもとの病院からでも逃げてきた、ってところか?ええ?」

「……わからない」

 難儀なこったと、サトリが笑う。

「それじゃあ、死んじまったも同然じゃあねえか」

「え?」

「だってそうだろ?昨日の自分と、今日の自分が同じだとわかるのは何でだ?記憶があるからさ。お前という人間は、そこには居るけど、どこにも居ない——どうだ?幽霊みたいなもんだろ?」

「幽霊……」

 不安げに呟く男に、サトリが明るい口調で言った。 

「ま、そう心配すんなって!なんなら、俺が記憶を戻してやろうか?」

 予想外の提案に、男が驚いてサトリを見る。


「お前が、私を?」

「おうよ。俺がわかるのはな、別に相手の考えだけじゃねえのさ。ちょいと深く潜れば、そいつが心の奥底に押し込めてるもんだとか、これまでの記憶だとかも見つけることができるのよ」

「本当か!?」

「ただし」

 サトリが、爪の伸びた人差し指を突きつけ、男に言う。


「何が出てくるかはわかんねえぞ?髪がそんなになっちまうような、忘れちまいたい過去を思い出すかもしれない。それでも、やるか?」

 その言葉に、少しの間逡巡しゅんじゅんした男であったが——

「……ああ、頼む。やってくれ」

 ——サトリを見つめ返し、力強く言い切った。

「ヒャハハッ!よしきた!化け物が幽霊を蘇らせる——暇つぶしにはちょうどいいやあ」

 それじゃあ、ちょいとごめんよぉと言って、サトリは男の顔を、両手で挟むようにして固定した。


「俺の目を、よおく見な」

 言われるまま、男は獣の丸く、黒い瞳を覗き込んだ。

「——ううっ!?」

 途端——自分という器の中に、異物が無理矢理這入はいってくるような感覚が男を襲い。

 男は、記憶の海へと深く深く沈んでいった。




 最初の記憶は幼い頃——大きな屋敷から始まる。

 そうだ。そうだった。

 私はとある大地主の、めかけの子としてこの世に生を受けたのだ。

 母が亡くなった後、私は地主の屋敷へ引き取られた。しかし、ほどなくして地主も病で他界。それを機に、私に対する周りの対応も一変した。

『何だいこの汚れは!?夜までに終わらせておけって言っただろうが!罰として、あんたは今晩飯抜きだよ!』

 まるで只働きの使用人のような扱いに加え、毎日のように続く異母兄弟からの虐待。

 怒号と嘲笑と暴力が、私の生活の全てだった。


「成程、こりゃあひでえな。それで?」


 耐えかねた私は、十歳の時、とうとう屋敷から逃げ出した。

 三日三晩あてもなく彷徨さまよい歩き、とうとうとある橋の下で私は倒れた。もうこのまま眠ってしまおうと思った、その時だった。  

 泣き声が聞こえた。


 投棄された塵山ごみやまの上で泣いているのは、布に包まれた、まだ年端も行かない赤子だった。

 嗚呼、こいつも独りぼっちなんだな——そう思った。

 抱きしめた赤子のぬくもりを感じながら、私は「この子を助けなくては」と決意した。


 私は、落ちていた硝子片を握りしめた。

 皮膚は裂け、赤い血が滴ったが、構わなかった。この流れる血と痛みこそが、生きている証だと自分に言い聞かせた。

 私はその場を通りかかった女に、硝子片の切っ先を突き付け、言った。


『おい!死にたくなければ、金か、食いものをよこせ!』

 着物を着たその若い女は、俺を見て言った。

『おやおや。これはまた可愛らしい追剥ぎさんだこと』

 美しい女だった。

 右手には包帯を巻いており、左の首筋には鶴の刺青を入れている。

 こちらを怖がる様子もなく、口元にはあでやかな笑みを浮かべていた。

『畜生、馬鹿にしやがって!僕は本気だぞ!』

『わかった、わかった。そんな危ないものを向けるんじゃあないよ』


 女が言い終わるや否や、私の腕は、見えない何者かに捻られた。

 硝子片を地面に取り落とし、呻き声をあげる私を見下ろしながら女は続けた。

『こらこら。相手は子供だ。やり過ぎるんじゃないよ』

 謎の力に解放されて、私はその場に崩れ落ちた。


『い、今のは、一体……?』

『話は後だ。ついてきな』

『え?』 

 戸惑う私に、女は当然のように言った。

『腹が減ってるんだろう?それに、手当てもしなきゃあね。そんなに血ぃ流して、まったく無茶するよ』

『あ……ありが、とう……ございま……』

『礼なんか後でいいから、さっさとついてきな。その子も泣いてるじゃあないか』

『は、はいっ!』

 それが私と彼女——鶴泉つるみゑいとの出会いだった。


「その、ゑいとかいう女は一体何者だ?」


 怪談師さ。


「怪談師?」


 幽霊話や妖怪話といった、所謂いわゆる怪談というやつを話して聞かせる商売だ。それとは別に、あやかし共を使役する、不思議な術も身につけていたがな。

 噂では、当時既によわい四十しじゅうは越えていたらしいが——傍目には、二十代にしか見えなかった。


「はあん。昔で言う陰陽師みたいなもんか。いつの時代にもいるもんだなあ、そういう奴らは」


 私と赤子は、彼女に引き取られることとなった。彼女は、私達二人にいろいろな話を聞かせてくれた。

 相撲が好きな河童の話、行燈の油を舐める化け猫の話、人の心を読むサトリの話——


「成程ね。それで、俺のことは覚えてたって訳かい」


 私は彼女に師事して、怪談師としての修行を続けた。師匠は私には蘇芳という名をくれた。


「スオウ?」


 黒みを帯びた、あか色のことさ。


「はあん——そういや、赤子の方はどうなったんだ?」

 

 彼もやがては、私と同じく怪談師を志すことになる。

 だが、幼い頃は大層な怖がりでね。

 あれは、五歳か六歳くらいの時だったか――ある晩、急に彼が泣き出したことがあった。


兄様あにさま……兄様のお名前は、血のお色なの……?』

『何だい、怖いのかい?』

『うん……僕、怖いよぅ』

『ふふ。師匠が巫山戯ふざけて「お前は顔が小綺麗すぎる。怪談の恐ろしさが薄れてしまう。名前ぐらいはおどろおどろしいやつにしてやらんと」なんて言って名づけてしまってね』

『やじゃなかった?』

『そうだな――おそらく師匠は、私の真面目過ぎる気質を案じてくれたんじゃないかと思うんだ。そう思えば存外、この名も外連けれんがあって悪くない。それに——』

『それに?』


 私は右の掌に視線を落とした。

 かつて硝子で切った傷は、とっくに消えている。

 しかし、あの日流した血の紅は、未だ鮮明に思い出すことができた。


『私にとって血の色というのは、お前と私が出会った日の、思い出深い色でもあってね。私はそれが、堪らなく嬉しいんだ』

『そうなんだ!じゃあ、僕も兄様のお名前、好き!』

『おやおや、泣いたからすがもう笑った』


 そうこうする内に、玄関の方から扉が開く音が聴こえた。


『二人とも、今帰ったぞー』

『おかえりなさ——酒臭いですよ?また一杯引っ掛けてきましたね?』

『年寄り連中に勧められたら断れないだろ?酒の付き合いも、怪談師の仕事の内さ』

『もう師匠だって若くないんですから、無理しないでくださいよ』

『お前は本当に可愛くないねえ』

『ししょお!おかえりなさーい!』

『おー、ただいまー!アンタはこいつみないになるんじゃないよー?知ってるかい?こいつ、初めてあったときに、私に硝子の破片を突き付けてねえ——』

『酔うたびに昔の話を持ち出さないでください』  

『ああ、怖い怖い。その内本当に、寝首をかかれちゃうかもしれないねえ』

『全く——僕が師匠を殺すわけがないでしょう』

『だといいんだけどねえ』


 笑いあう声が屋敷に響く——何とも平和な光景だった。


「まったくだな。ここから一体、何が起こるんだ?」


 ……殺すんだ。


「あ?」


 私が、師匠を殺すんだ。


「……いやいや。だからよお、それは、あの女の冗談で——」


 違う。

 殺したんだ。

 私が、実際に師匠を、この手で。


 

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