朋遠方より来る

lager

朋遠方より来る

 音が聞こえる。

 雄大なるガンジスの拍動。その命の奔流が。

 遠方、遥か聳え立つ雪山ヒマラヤより流れ出で、遍く大地を潤していく。


 菩提樹の葉をさやさやと鳴らす乾いた風。その木漏れ日のちらつきに目を細め、ハルシャ王は大きく伸びをした。

 傍らで共に寝そべる女が、その動きに反応し、首をもたげる。しなだれかかったまま胸元に頭を擦りつけるのを漫然と撫でてあやしているうち、無粋な足音が背後から近づいてきた。


「王。こちらにおいででしたか」

「何の用か」


 ハルシャ王の声色には、なんの抑揚もなかった。


「金耳国の姫の処遇をどうなさるおつもりですか」

「殺せ」


 平坦な声で、告げた。

 ハルシャ王には兄がいた。いたが、殺された。

 その仇を、ようやく取り終えたところであった。

 捕虜として捉えた敵国の支配者一族は、みな首を刎ねた。

 ただ、見目麗しい末子の姫だけが、王への貢物として勝手に生かされ、拘留されていたのであった。


「しかし……」

「人の命に、男も女も老いも若いも美も醜も関係あるまい。少なくとも俺にとってはな。一時生かされたその姫には気の毒だが、ベンガルの地はもう俺のものだ。古い血は絶やせ」

「仰せのままに」


 その言葉を、なんの感情の色も乗せない平坦な声で告げたハルシャ王は、女を抱いているのと逆の腕で杯を掲げ、ぐびりと飲み干した。

 その口元に酒の雫が残ったのを、腕の中の女がするりと首を伸ばし、舐めとった。

 その赤い唇を吸い、再び胸の内に女の頭を抱き込んだ王の顔には、やはりなんの感情の揺らぎも現れてはいなかった。


 その、木石のような顔のまま、立ち尽くしている後ろの男に声をかける。


「なんだ、まだ何か用か」

「次は、どうなさりますか」

「次?」

「次の土地でございます」


 戦乱の世。

 ガンジスの恵みに群がる国々が、自国の領土を拡大せんと、日々鎬を削り合っていた。


「くだらん」

「は?」

「くだらんと言った」

「もう、戦を起こすつもりはない、と?」

「いいや。起こすさ。俺は王だからな。国と民を富ませるためなら、必要なことは全てする。それが俺の役割だ」

「では――」

「だが、くだらんことに変わりはない。土地の支配者など時代時代でいかようにも変わる。人も変わる。国も変わる。たかが一時領土を平定したとて、いずれは俺もそれを奪われよう。あるいは、この身が朽ちるのが早いか……」

「王。そのような――」

「もう、去ね」


 踵を返し、無粋な足音が去って行った。


 それを、やはりなんの表情も浮かべず、虚空を眺めながら聞くともなしに聞いていたハルシャ王の胸元で、女がもぞりと身じろぎをし、王の服の裾を握った。


「なんだ」

「王は戦がお嫌いですか?」

「昔は好きだった。その後で嫌いになった。今は……」

「今は?」

「特になんとも思わん。手段であり、結果だ」

「では、女は?」

「女?」

「先ほど、男も女も、美も醜も、王にとっては関係がないと」

「ああ……」


 そう言って、その豊かな体をくねらせる女の顔には、わざとらしく拗ねた目があった。


「安心しろ。お前は美しい」

「けれど……」

「だが、それも『空』だ」

?」

「ゼロということだな」

「美しいと言ったり、ゼロと言ったり、なにがなにやら分かりませんわ」


 ハルシャ王の目は、遥か虚空に向けられたまま、動かない。


「……そうだな。お前、父母は息災か」

「母はまだ。父は亡くなりましたわ」

「そうか。両親にとって、お前は娘だな」

「ええ」

「では、俺の子を授かれば、お前はなんだ」

「母となりましょう」

「だが、お前の母からすれば、お前はやはり娘だ」

「そのとおりですわ」

「だが、俺が今日、殺せと命じた姫からすれば、お前は一族の仇の妻であろう」

「ええ……」


 僅かに顔を曇らせた女の身を、王が力強く引き寄せる。


「誰にどう呼ばれようとお前自身の在り様に変わりはない。お前は娘であり母であり仇の妻であるが、同時にそのどれもお前の本質ではない。では、お前の本質とはなんであろうか」

「はあ……。なんなのでしょうか」

「『空』だ」

「私が、ゼロだと」

「そうだ。お前だけではない。見よ」


 そう言って腕を持ち上げたハルシャ王は、自身の指先に一匹の蟻が這っているのを女に見せた。


「この蟻にとって、俺はなんだ? 王か?」

「い、いいえ」

「先ほどまで這っていたこの菩提樹の根と、俺の指と、この蟻にとってはなんの違いもない。だが……」


 王は、自身の頭の横に置かれていた、酒の入った壺を持ち上げると、己の指に這う蟻へと向けて傾けた。

 琥珀色の液体がとろりと流れ、蟻を流した。


「俺にとってこいつは甘露たる美酒だが、この蟻にとっては命を脅かす凶器」

「まあ」

「俺はこの国の王だが、この菩提樹からすれば勝手に葉の陰を借りている無宿ものと変わりはない。俺は今朝羊の肉を食ったが、羊からすれば自分の肉を食う人間に王だの士族だの奴隷だのと違いなどあるまい?」

「それは、まあ、そうでございましょうね」

「俺が王であるのは、国と民があるからこそだ。逆に先ほどの男は臣下であるが、仕えるべき王がいなければ臣下などという人間は存在せん」

「はあ……」


 女はぱちくりと目を瞬かせ、ただ相槌を打つばかり。


「この天地の中に形あるもの、あるいは形のないもの――『ルーパ』は、これ即ち『シューニャ』であると、まあ、そういうことだな」

「形のないものも、でございますか」

「ああ。そうだな、例えば、唯薀という考え方があって、美とはどういう心のどういう働きなのかというとだな――」


 ハルシャ王の口から滔々と流れ出でる、宇宙を語る言葉の数々を、女はいつしか口元に薄っすらと笑みを浮かべ、ただ聞き続けた。

 やがて日も中天を過ぎ、壺の酒もあらかた干したところで一区切りをついたハルシャ王は、女の口元の微笑みにようやく気が付いた。


「何か可笑しいか」

「いいえ、なにも」

「では何を笑う」

「そうですわね。王の求めるものが、分かったからでしょうか」

「俺の求めるもの?」

「ええ」

「それは何か」


 女は久しぶりに王の体からその身を離し、起き上がると、遠く東の方角を見た。


「私には弟がいるのでございます」

「弟?」

「ええ。先ほどの話で言うのなら、私は姉でもあるのでございます」

「それがどうした」

「弟は昔から兵士に憧れてまして、日がな一日近所の同じ年頃の子供たちと、木の枝で戦の真似事をしておりました」

「ほう」

「日が暮れて家に帰ってからは、私や母にその日の戦績を子細に報告するのでございますが、私たちにはとんと意味がわかりません」

「ふむ」

「男の子とは、そういうものなのでしょうね。一通り話し終えたあとで、自分の語ったことの意味が私たちに全く伝わっていないのを知って、弟はつまらなそうに頬を膨らませておりました。今思い出しても、可愛らしいことでございました」


 女の視線の先に、おそらく生まれ故郷があるのだろう。

 ハルシャ王は、同じく東に目を向けた。


「それで、俺の求めるものとは?」

「お友達でございましょう」

「友?」


 振り返った女の顔には、甘えでも媚びでもない、慈しみの女の目が。


「先ほどまでの王は、私の弟と同じ顔をしてらっしゃいましたよ」


 ハルシャ王が語ったことは、国の中でも偏屈な僧侶たちが議論を繰り返す仏教の教えだ。王の身分で、その勉強はできても、闊達に意見を交わせるものなどあろうはずがない。そして、王が気軽に話をできるものには、その言葉の意味すらよく分からない。


「くふっ」

「王?」

「くはははははは」


 その日初めて、ハルシャ王は笑った。


「なるほどな。そうか、友か。俺に必要なものは」

「ええ。きっとそうですわ」

「どこに行けば見つかるだろうかな」

「私には見当もつきませんわ」

「ふむ。ああ、そういえば旅の僧侶が我が国の経典を求めてナーランダに辿り着いたと言っていたな。隋国……いや、今は唐国になったのだったか。僧の名はなんと言ったかな……」

「お会いになられるのですか?」

「ふむ。退屈しのぎにはなるであろうよ」

「良き出会いとなること、お祈りいたしますわ」

「うむ」


 晴れ渡る空のごとく、その顔に笑みを浮かべたまま、ハルシャ王は立ち上がり、草を払った。


「おう。そうだ、思い出したぞ」

「え?」

「旅の僧の名だ。確か、そう――」





 中国の四大訳経家の一人、玄奘三蔵。

 彼が経典の原典を求めて北インドに辿り着いたとき、時の王――ハルシャ・ヴァルダナはこれを大いに歓迎し、宴を催し、その進講を受けた。

 玄奘が唐へと持ち帰った膨大な経典の内、彼が漢訳した『般若心経』は、その短い一巻の中に大乗仏教の神髄を納めるものとして、長く読誦され、研究されてきた。


 色即是空。

 空即是色。


 ハルシャ王と玄奘三蔵が、どのような語らいをしたのか。

 そこまでは、どの経典にも記録に残されていない。

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