第2話

 *本編*


 何時、それに気付いたのかは、明確には覚えていない。通勤中に、時折見掛ける存在。

 今日もまた、アイツは大通りをゆっくりと歩いているのだろうか。気の毒な誰かを嘲笑う為に。


 『時の鐘』の脇を通り過ぎ、蔵造りの建物が並ぶ大通りを左折して駅に向かう、いつもの通勤ルート。大通りを過ぎ、商店街が見えてくる辺りでアイツとすれ違う。歩きだろうがバスに乗ろうが、晴れていようが雨だろうが関係ない。もっと手前や先で見掛ける事もあるけれど、おおむねはその辺だ。

 たった、年に数度あるかないかの邂逅。それでも十分印象に残る程、アイツは目についた。

 ありふれたスーツ姿の中年男性。特徴の無い持ち物や靴。

 ちょっと目を逸らせば顔も思い出せないような男が、何故こんなに気になるのか、我ながら不思議だった。

 だが、すれ違う度に私の勘が囁く。

「アイツはいけない」

 何時も変わらない姿で、ゆっくり歩くアイツ。俯き気味の顔に張り付いたにやにや笑い。

 私以外の誰も注意を払っている様子は無い。それとも皆、上手に気付かないふりをしているだけなのだろうか。

 通勤ルートを変えようかと考えたこともある。だが、もし違う道でも遭遇してしまったら、私はもう外に出る気にもならなくなってしまうに違いない。それならばいっそと、結局、いつもの道を選ぶのだ。

 一度だけ、苛立たし気に顔をしかめたアイツとすれ違ったのは、川越祭りの日だった。休日出勤で、朝から楽し気な人々を恨めしく思いながら駅へと向かっていた私の顔も、もしかしたらアイツ同様に歪んでいたかもしれないけれど。

 アイツとすれ違う時は、大抵、その近くで誰かが不運に巻き込まれている。

 商店街近くのごみ置き場のぼや騒ぎ。

 急患を運ぶ救急車のサイレンの音。

 人身事故による列車の遅延。

 思い当たることは幾つもあった。そして、被害が大ききれば大きい程、アイツの口元は嬉しそうに大きく歪む。そう気付いて以来、大通りでは顔を伏せるのが常になった。


 早くから栄えたこの地には、重ねた時間の分だけ妖怪譚や怨霊話も積もっている。アイツもそんな話の中の一欠片ひとかけらなのかもしれないが、本当のところは分からないし、知りたいとも思わない。他人の不幸を喜び、楽し気な人々を妬む、そんな人ならざるもののことなど。

 ただ、過去と現在が入り混じるこの町にとっては、私もアイツも等しくただの住人なのだろう。


 そんなことを考えながらかねつき通りを歩いていたら、いつの間にか『時の鐘』に差し掛かっていた。まだ往来の少ないこの時間の、目覚め切っていない路地は、一日の内で一番綺麗だと思う。けれど、ここから先は、自分の爪先だけを見詰めて歩く。アイツと出会わない様にと祈りながら、もし出くわしても、アイツに気付いていると気取られない様にと、出来るだけ息をひそめて。


 ふとした、違和感。

 駄目だ、止めろ、と叫ぶ心を裏切って、私の眼は大通りに引き寄せられる。


 ドクン、ドクン。


 心臓が早鐘を打つ。

 何の変哲もない、何処にでも居そうな中年男が、大通りからこちらを指差し、ゲラゲラと心の底から楽しそうに嗤っている。


 背後で悲鳴が上がった。

 振り向いた私の目の前には、猛スピードで突っ込んでくるトラック。


 ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ。


 その耳障りな笑い声に、私は己の運命を知った。

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「アイツ」 遠部右喬 @SnowChildA

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