昔は生まれ故郷を離れるものは稀でした。ネットやテレビや出版など居ながらにして遠方を知る方法もありませんでした。故に身の回りにない物事を知る機会はほぼありませんでした。
そんな世で旅人はマレビトと呼ばれました。そこには「稀人」や「賓」の字も当てられ、旅をできるというのは位が高いお人だという認識も共有されていました。
本作の主人公「りん」は旅をしつつも、しがない薬売り、そう本人は申しますが、シリーズをお読みの皆様なら真に賓であることはご存じの通り。位は低そうですが……いやいや、分からぬ事は申しません。
そのような身分を隠した者が漁村に入って何が起きるかというと、凪いだ海のように穏やかなのです。作者御本人が安全運転の回と仰るように、大きな事件が起きないことが好ましく思えるエピソードです。
海の男は、海の如く大らかでした。賓の「りん」もそれを感じたでしょう。
読者にも同じです。疲れたときに海を見ているように、読んでいて心がほぐれてきます。
心騒がぬ、穏やかな読書も良いものです。
全体として旅情にあふれ、ゆったりとした時間を味わわせてくれます。
旅する薬売りの「クスノキのりん」。りんは漁師の平浪たちと知り合い、薬売りとしての知識で彼らと交流することとなる。
不思議な体質を持つりんは、平浪の飼い猫の「斑」とも会話することができ、傷を癒してやることも。
その途中で、りんは旅の目的ともなっている「あるもの」を手に入れることに。
幻想味溢れる、とても素敵な作品です。
旅の薬売りと、一人の漁師の男とその飼い猫。その心の交流を描きつつ、この世界に存在する「特殊な生き物」にまつわる物語が展開します。
妖怪めいた生き物の存在するような和風なファンタジックな世界の中で、それを材料とした薬なども作られる本作。ゲームにしたら「〇〇のアトリエ」シリーズみたいに色々とクラフトで作れるような楽しさもありそう、と想像力を刺激されます。
ちなみに本作は「クスノキのりん」シリーズの五作目に当たる作品ですが、この作品から読んでいただいても問題なく楽しめる仕様となっております。
今回の作品を読んで興味を持った方は、「樹木魚」、「送長虫」、「夢蜆」、「先観蜻蛉」と、シリーズの別作品も読んでみることをオススメします。
手塚治虫「火の鳥」にも通ずるような、人間の生き様、自然の中の生生流転と無常観、儚さと強さを感じられるとても秀逸な作品となっています。