帰還

 それから十年。イラクリスの王イアソンは十五歳となった。


 多くの人々に助けられながら、外遊し、学び続けた十年間。彼は立派な王に成長した。


 そして、遂にイアソンは成人を迎えた。それを祝う式典が催された。場所はセレネが夜な夜な王宮を抜け出し、フレスコ画を眺めた丘の上の神殿。


 かつてセレネが亡き女王の魂から破壊するように伝えられていた建造物は、彼女の遺志に反し徹底的な修復がなされ、往時の面影を取り戻していた。


 この国を創り上げた人物の痕跡を完全に取り去ることは、その血を引くイアソンにはできなかった。ただし、それだけが理由ではなかった。


「来るかな。セレネ姉さん。もうすぐ出発から十年になるけど」


 背が伸び、態度もすっかり大人びたイアソン王が姉クロエに尋ねた。


「きっと来るわ。あなたの成人を祝うためなら、世界の果てからでも飛んでくるはずだもの」


 クロエは傍らにいる十歳の息子を相手しつつ、弟イアソンに答えた。姉の息子の頭を優しく撫でながら、イアソンは少し遅れてやって来たミュリナ、ダフニス姉弟に会釈した。


「随分でっかくなったな。イアソン!」


「ええ、すっかり。ミュリナさんも十年でしわが増えましたね」


「言ったなあ、このお」


 ミュリナがイアソンのこめかみをぐりぐりするのを見て、慌てて仲裁に入るダフニス。無論、彼女は本気で怒っている訳ではない。スキンシップだ。


「大きくなられましたのお」


「ええ、そうですね」


 ピロポイメンとパウルスは、自分の孫の成長を見るように、イアソン王を感慨深く見つめた。また、無言ではあったがこっそりと参列していたヒエロニムスも少しばかり顔をほころばせているようだった。


「さあ、時間だ。列席の方々に料理をお出しして」


 イアソン王の指示で、執事は召使いと共に神殿内に設えられたテーブルに様々な料理が置かれていった。アケイオス産の葡萄酒ぶどうしゅ。グラエキア産のジャムが塗られた白パン。カタナー産の仔牛を使ったステーキ。それとイラクリス産の海産物を使った塩茹で料理。


「キーッ」


 それと芸をこなすサルたちと、向こうの海から賛辞の声をあげるイルカたち。会衆が一様に王の成人を祝った。


「姉さん、早く来ないと冷めちゃうよ」


 イアソンはポツリと呟き、セレネの好物である茹でダコをじっと見ていた。と同時に、天井のない神殿の上空に綺麗な満月が顔を覗かせた。開式の時間となった。


 かつて、テイテュスが満月の光を浴びながら王冠を被った故事になぞらえ、イアソンの成人式も夜に行われることとなったのだ。


「綺麗だ」


 パウルスの呟き。彼の脳裏には、月を嬉しそうに見上げているセレネの姿が思い出された。以前「月は人を狂わせる」と信じていた彼は、今ここにいない月の女神セレネを懐かしつつ、月を見上げていた。


 その時だった。


「おうおう、みんな集まってんねえ!」


 会場に響いた場違いな声。それがイアソンたちの耳目じもくを集め、声のする方に目を向けさせた。


「姉さん……」


 十年ぶりに帰還したセレネの顔は、すっかり大人の美貌を備えていた。言葉遣いが荒々しいことだけが相変わらずだった。


 二十八歳のセレネはアレクサンドロスを伴って式典に現れた。


「おかえりなさい」


 式の参加者全員が、セレネの帰還を拍手で出迎えた。


「ただいま!! なあ、たくさんの土産話があるんだ。聞きたい?」


 セレネの笑顔は、上空の満月でさえ霞む程に神殿内で輝いていた。

                                   (完)

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ムカデを束ねる女王様 荒川馳夫 @arakawa_haseo111

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