淡々ブクブク
風呂場のシャワーを使い、芸涵は紀野の髪を湿らせる
「ちょっと待ってて」
そう言ってシャンプーを数滴手に取り馴染ませると、髪に絡めて泡立て始めた
最後がいつかなんてよく覚えていないが、誰かに洗われるなんていつぶりだったか
「なぁ、洗髪の仕方って誰かから教わってたりする?それとも自分で研究したのか?」
「なんです、急に」
「いんや、美容師さんみたいだなーって」
芸涵は舌打ちをして「無駄口を叩かないで」と突っぱねるが、機嫌を損ねてもその手元には一切の狂いがない
まるで芸術家がキャンバスに色を塗るかのように、繊細でありながらも力強い指先は髪に宿る汚れや疲れを一掃して、今までにない、まったく新しい髪の輝きを引き出していた
「そうかぁ?こんなに上手い奴とは後にも先にももう出逢えないかもしれんのに、感想を温めておく方が無駄じゃないの
洗ってるっていうか、癒してるって域でさ…てっきり警備員さんとかその辺りに思ってたけど、こっちが本職だったりする?」
「でしたらこんなとこに居ませんから
ああもう!鏡越しに見るな、鬱陶しい!目閉じないと石鹸入りますよ!」
勿体ない、彼女の手つきが美しい工芸品を生み出す職人そのものだって事は素人目にもよくわかった
その才能を生かせる場に行かない、或いは行けないというならそれなりの理由があるんだろう
これ以上の追求は野暮だと、目を閉じて終わりを待つことにした
髪を洗い流す水音は、彼女の心のざわめきも掩いでくれたようで、やがて、足元の水たまりには無気力な表情が写っていた
「アタシがやるのはここまで、 そしてこれから本題に入りますんで、体洗うのはその後にして貰って構いませんですよね?
この室温じゃあ風邪なんか引きようないですし」
「んだよ、遠慮してるのか?わたしは何処触られたって構わないんだが」
「こっちが嫌に決まってんでしょうが…オープン過ぎんだろ、もしやタコ部屋で育ちました?」
「閉所は好きだぞ」
「そうじゃねぇですよ、わざとやってんのか
まぁ…先のこと考えれば、そのぐらいの姿勢でいてくれる方がお互い楽ですが…アイツに洗われる時はもう少し、お喋り控えめでお願いします」
「え、欣芮って男だよな?なんでそうなる」
「アンタが語汐だから
惜しいけど、その内髪も染めなくちゃいけませんね」
「妻になった、だっけか?本人はどこ行ったんだよ」
「空の向こうでは?
…あっ、肌に爪を立てないで、荒れると面倒なことになる」
なら浴用タオルが欲しいものだが「足の指はこう!」「首回りもちゃんと洗う!」等と細かい指導が入るあたり、これが語汐という女の洗い方だったんだろう
「もしも…もしもこの状況が違っていたら、アタシがアンタだったら、こんなには落ち着いていられなかったでしょうね」
少し湿っぽい空気を感じて、紀野はあえて楽観的に振る舞い、危機感をあまり感じていない様子で言葉を続けた
「きっと平気だって、どうとでもなるさ
経験則、悪いことはいつまでも続かない、めげなきゃ解決の道はある」
しかし、芸涵の反応は思いのほか厳しい
「こんな状況で軽率な言動は許されません、アンタは困難に直面してるって、よく自覚するべきです!
そんな無責任な態度では、解決するどころかますます深刻化するでしょうに、危機感を持たないなんて…アンタがこれまでの常識に基づいた姿勢を示すのは勝手だけれど、目の前に転がってるのはその自信だけでは解決できない地雷原だって、気付いて?」
芸涵は感情的になり、紀野の危機感の欠如を真剣に叱責していた
肩で息をして、首を振ると「無駄口を叩いた」と言ってビチャタ、ビチャタと石のタイルを足底で叩いて風呂場を去る
残された主人公はしばらくその場に立ち尽くしていた
芸涵の言動が頭の中で繰り返され、混乱した感情が胸を締め付けた
厳しい態度に反して、彼女の手が優しく自分を扱っていたことが心に残った、その言葉や仕草が何かを訴えかけているように感じた
初対面にここまで入れ込むなんて、彼女も誰かと自分を重ねているのだろうか
やり取りから推測しようにも、あまり深く物事を考えるのは得意じゃない
疲れた心を和らげるために、紀野はゆっくりと湯船に足を浸した
お湯が先程の出来事を洗い流すかのように、彼女の影を薄めてくれればよかったというに
彼女の怒りに対する答えを見つけることができなかった、彼女が自分に何を求めていたのか、彼女の心情がどのようなものだったのか、それらのまだ解明されていない疑問は床にへばりついたガムのように存在を主張してくる
口元まで湯船に浸かりながら、紀野は深呼吸をし、彼女との出来事を整理しようと努めた
しかし、その混沌とした思考を整理することは容易ではなく、ついにはどうでもいい些事にまで目が向き、最後に頭を占めていたのは「濡れるのに、どうして芸涵は脱がなかったんだろう」という指摘し損ねた点一つだった
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