轍を踏む

ハムケツ大行進

鳴らない警笛

煤けた石造りの駅舎が、冷たい月の光を浴びて輝いている


寒々しいホームに立つ若い女性は、風になびく薄いマントを羽織り、孤独の中で微かな決意を心に秘めていた


彼女の名は紀野きの真宵まよい


冷えではなく、瞳に宿る強い意志と、心に描かれた信じがたい夢への渇望が、その小さな体を震わせていた


「サライ路地行きの最終列車、到着のご案内です」と、駅員の声が聞こえた


隅で俯き、無造作に切られた髪で顔を隠した男の声は微かで、今にも体ごと古い壁に吸い込まれていきそうだ


紀野はポケットの奥に押し込んだ招待状を静かに取り出し、緊張と期待が入り混じる心の音を感じた


彼女はひとひらの紙片で、この列車に乗り込む決意を固めていく


それは彼女の唯一の手段であり、同時に地底への不確かな旅への扉でもあった


蒸気機関車がゆっくりとホームに滑り込み、黒煙を吐きながら息づくかのように音を立てた


車両は錆びついていたが、その中には妙な輝きが宿っているようにも見える


紀野は決意を胸に秘め、一歩踏み出す


「楽園へ…」 彼女は招待状の一節を唱えるように呟いた


小さな手が手すりに触れた、列車への一歩を踏み出していく


…本当に行って良いのだろうか


はたと足を止めるが、背後に立つ男の気配に逃げ道を塞がれた


急かすように、チャカチャカと爪音を立てながら手すりに乗せられた赤い指ぬきの手袋が迫ってくる


何を迷うことがある、元より後戻りは出来ないのだ


僅かまでにじり寄った橙に掻かれる前に扉を潜る。それは彼女にとって知らぬ未来への第一歩でありながら、永遠の一瞬のようにも感じられた


隙間風が彼女の髪を舞わせ、列車はゆっくりと動き出す


彼女の冒険は、今、始まったのだ

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