おもちゃ箱
汽車はゆっくりと走行を終え、サライ路地の駅舎に到着した
件の楽園は地下にあるとかで、蒸気機関車は停まったプラットフォームごと降下していく
エレベーターのガラスを見通すと、エメラルドグリーンの発光体が輝く海中の壮大な風景が彼女の目を釘付けにした
一体どれほどの時間を過ごしただろうか、気が付けば手すりを握り締める指が痺れていた
汽車全体が揺れて、ひとりでにドアが開くと、紀野は蒸気機関車を駆け降りる プラットフォームには磨かれた岩肌が拡がり、その向こうには滝のようにして蒸気を吐き出す水の壁が見えた
透明な床の下には深海が広がっているかのような、奇妙で不気味な空間
駅員が先導するその場所をついて行く招待客たち
彼らは透明なパネルの上で、深い海の淵に怯えながら、ひな鳥のようなおぼつかない足取りで進んでいた
慌てて最後尾に連なると、彼らの顔には恐れと緊張が滲み出ていることに気付く
対して先導者は後ろを振り返ることもなく、ペースを合わせて踏み出す度に足元から闇が染み出して落ちていきそうな錯覚に襲われた。
前を行く人が水のカーテンへと消えていく、潜る順番がやってきた
未知の世界への恐怖が胸をしめつけるが、どこまでも広がる深い淵に魅入られるように、私も歩みを止めることはできなかった
「なんだ、ただのホログラムか」
安心したのもつかの間、前方から悲鳴が上がる
それもその筈、空間の端にはいくつもの小さなエレベーターがあり、暗闇に消える深海の底に向かって伸びている箱へと彼らは無理くり詰められていったのだ
「貴女もおいで、怖くない、大丈夫ですから」
なんと怪力なのか
エレベーター内では、人々がギリギリの隙間を埋めるようにしてしゃがみ込み、折り重なり、壁や天井に押し潰されて奇妙なバランスを取ろうとしていた
恐怖と興奮が入り混じる空間の中で、彼らは身動きが取れずにいる
呼吸が困難になるほどの圧迫感。しかし、誰もがその狭い空間に留まり、エレベーターの下降を待っていた
「さぁ」
男は媚びを売るような顔つきで、縋るような目を持ちながら手を差し出す
彼の表情は見て取れる程の卑屈さと、端から諦めた絶望を同時に映し出していた
少し迷って、その手を受け入れた瞬間、男は口元を抑えて感極まる様子を見せた
自分の手が取られることで、彼の顔は喜びと同時に恥ずかしさも浮かび上がっていた
「二人きりがいいな」
閉所恐怖症を殺すような、人間密林に飛び込むのは嫌だ
そう思って絞り出した言葉は初対面の相手に相応しくないと、言ってようやく気付いたが、告げられた瞬間、喜びの余りキャパオーバーを起こしたかのように、男が崩れ落ちたことで後悔するどころではなくなってしまった
どういうことか、言葉一つでに彼の心は浮き立ち、まるで宙に浮かぶかのような感覚に陥ったらしい
彼の表情は喜びと戸惑いの狭間で揺れ動き、壊れそうなくらいに満ち溢れた感情模様が描かれていた
「あ、あ、あ、すまない、そうだよね、どうして僕は気が利かないんだろう」
感情の荒れ狂う潮が押し流され、開閉ボタンから男の肘が離れたその瞬間、エレベーターが下降を始めた
不思議な浮遊感が詰め込まれた人々に広がる中で、見えない壁の中ではぎりぎりのバランスが崩れることもなく、物理法則との不思議な駆け引きをしているかのようだった
ジェンガのように積み上げられた人の塊が、エレベーター内で揺れ動く様子は、まさにワゴンセールのぬいぐるみのよう
あの中に自分も含まれていたかもしれないと思うと、ぞっとする
しかし真の脅威はすぐ傍にいるのだ、ぬいぐるみのように抱え上げてくる彼の喜びようはまるで幼き日の無邪気さが戻ったようであった
「待っていたよ、君に会いたかったんだ」
笑顔で告げると、人ひとりを抱え上げたまま舞踏会のようにクルクルと回り始めた
彼の言葉は歓喜に満ち、幸せな喜びの舞踏が彼らを包み込んでいく
どこかであったかな、非日常の連続で疲弊しきった現状では問いただす気力もなく、共に回る舞踏に身を委ねる
それを都合よく受け取る男は幸せな瞬間を楽しみながら空いているエレベーターへとなだれ込む
最下層に届くまでの間、彼はまるで夢の中にいるかのように世界を忘れ、幸福に満たされた時間を共有させてきた
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