冷や水

エレベーターに乗り込んだ時、鏡面のドアが閉じられ、暗闇に浮かぶような感覚に包まれた


その後、エレベーターはゆっくりと下降し始め、水深に応じて増していく圧力が透き通るような壁を通過し、彼女の視界は次第に暗くなっていった


そして、静寂の中、エレベーターは突如として停止する


硝子の戸と、もう一つ、重々しい鋼鉄のシャッターが開き、目の前には光輝くガラスドームが広がっていた


可愛らしい建造物と植物が美しく配置された様はテラリウムそのもので、壁の向こうには想像していたようなおどろおどろしい深海の住人の姿はなく、色とりどりの熱帯魚の泳ぎ回る幻想的な景色が広がっていた


見惚れている内にすっかり男の姿は消えており、石膏のような冷たい手指に奪われた熱も戻っていた


紀野は首を傾げるがとんでもない悪夢を見ていたのだろうと思い直し、巨大なガラスドームを抜けた先、不思議な美しさを持つ楽園の中へ足を踏み入れた


一歩踏み出すたびに、植物の葉が光を反射し、水槽の中を泳ぐ生き物が色とりどりの輝きを放っていた


彼女の足元には小川が流れ、橋を渡りながら、地下世界に似つかわしくない眩い光の中にいた

駅舎を離れると、そこは賑やかな中華繁華街のような場所だった

多彩な色彩の屋台が立ち並び、嗅ぎ慣れない料理の香りが立ちこめている


人々は街を行き交い、笑顔と言葉を交わしながら、楽園の神秘的な空間を満喫しているようだった

紀野は周囲を見回し、異国の文化が混ざり合った雰囲気に興味津々であった


霧のように漂う多言語のざわめきが、彼女の耳に心地よく響いた。道沿いには朱塗りの建築が所狭しと犇めき合い、幾何学的なデザインがガラス張りの屋根を覆っていた


「本当に評判通りなんだな」


ますます姉が最後によこしたメールの意図がわからない


紀野の心は興奮と探究心で満たされていた。彼女はまだ見ぬ風景や出会いに期待を抱きながら、中華繁華街を進んでいく


がしかし、そうだ、姉だ


混雑した通りを散策しようとして、ここにいるはずの姉を探さねばならないと、思い起こした彼女の歩みは目的地との間で暫し惑っていた


道草の誘惑に頭を悩ませていると突然、予期せぬ衝撃が彼女を襲う


目を閉じ、しりもちをつくように地面に倒れた瞬間、彼女はふと自分の状況に戻ってきた


彼女の周りには人々がざわめき、騒然とした声が空間を満たしていた。


「大丈夫ですか?」と、親切そうな声が紀野の耳に届いた

ゆっくりと目を開けると、目の前にはチャイナ服をまとった青年が立っている


170cmはある背を丸めて、心配そうに顔を近付けてきた

彼の眼差しはまるで不安定な雲のように揺れ動き、何かを探し求めているかのようだったが、その下に散りばめられたそばかすが素朴で優しげな雰囲気をより一層際立たせており、体から緊張が抜けていく


「すみません、道に迷ってて…」と紀野は恥ずかしそうに青年に謝罪した


自力で立ち上がろうと姿勢を整える前に、青年は手を差し出した

「それはいけませんね」と返す声は優しく、心を和ませてくる


しかしその善意は、彼が紀野に向けてソフトドリンクを意図的に振り掛ける行為によって、瞬時に変わり果てた

冷たい液体が彼女の顔にかかり、驚きと共に戸惑いが彼女の心を襲った


青年は穏やかな笑顔を浮かべたままであるが、目には厳しさが宿り、言葉を交わすことなく、紀野の不正な侵入者であることを知っているという確信を持たせてくる


「おまえはここにいられる立場じゃない」と、青年は冷たく囁きかけた

彼の声には威圧感が籠り、その一言で紀野は恐れと困惑に満ちた


青年は不敵な微笑みを浮かべながら、周囲に向かって事故を強弁する


「ごめんねぇ?手が滑っちゃった!でも安心して!このままサヨナラなんて、無責任はしないよ

おい、お前たち!この方にお詫びして差し上げろ」


そう言って、彼は掲げた指を鳴らす


瞬間、彼の周囲には男女のペアが静かに近づいてきた

男は先ほど姿を消したばかりの駅員であり、改札バサミを入れた時と違ってピエロのような奇怪な衣装に身を包んでいる


それは彼の相棒である女性も同様であり、彼らは青年に敬意を払いながら、彼女を左右から挟み込む


その時女の方は紀野に向けてフンフンと鼻を鳴らすと、頬に残るソフトドリンクの感触を生暖かい舌で上書きした


「メロンソーダかな?ちべたくてベタ甘ですねぇ~!蟻さん寄って来る前に、キレイキレイしましょぉねぇ」


紀野が硬直するのも構わず、尚もペロペロと舐め続ける女

呆れた青年は割り込むようにしてこちらの耳をつまむと「君はここにいられない、我々のルールを破ったのだから」と吹き込んだ


「このままでは風邪をひいてしまう

さぁさ、その前に連れて行ってあげなさい!」


2人は青年の命令に従って、紀野をどこかへと連れていく


暴れても彼らはびくともせず、表情は冷静なまま、言葉少なくして行動する様子が、彼らがコロニーの秩序を守ることに真摯に取り組んでいることを示していた


紀野は抗議しようとするも、彼らの手によって優しく口を塞がれる

閑散としていく景色と共に、姉を探す目的が急速に遠のいてくように感じた

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