視線の先

何もかもが静まり返って、髪を撫でる微かな音すらはっきり拾えるようになった頃、男は深いため息をついて顔を上げた


その表情は穏やかで、落ち着いた態度を崩さないように努めているように見える


「大丈夫だよ、君は私が守るから」


どうしてここまで肩入れしてくれるのだろう

疑問は残るが、男の言葉にほっとしたのも事実だ


昔どこかで耳に挟んだように、世の中怖い人ばかりではないのかもしれない

そう思えば、どんな試練にも立ち向かえると思えた


「また親子3人で、仲良くやっていこう、語汐ユーシィ


男性は微笑みを浮かべたまま、突然別の名前で紀野に呼びかけた


名前、そういえばお互いに名乗っていなかったかもしれない


それに今思うと駅で見かけた時から、視線はこちらに向けられているようで、やや遠くを見詰めていた


「語汐?どうした?

気分が悪いのか、ひどい顔色だ」


「誰かと間違ってるんじゃないの」


紀野が戸惑いを口にすると、部屋の隅から「馬鹿!やめろ」と引き攣った声がする


見ると角で野良猫のように縮こまる女の姿が見えたが、深いため息が耳にかかり、すぐに視線を引き戻された


「すみません、まちがえました、貴女とは全然違いますね」


男性は深いため息をついた後、紀野に向き直り、淡々とした口調で言った


「そう言えば満足か?」


「へ」


「記憶喪失ごっこか、飽きないな君は

繰り返す度に僕の心は引き裂かれていくというのに、馬鹿の一つ覚えのように傷付けてそんなに楽しいか?お決まりの答えを返して喜ばれるのは時計だけだと何故覚えない」


言葉の中には違和感しかなかった、意味を推測しようにも情報が少ない

無理やり流そうとする態度には遺憾しかないが、機嫌を損ねれば青年と同じ憂き目にあうだろう


そうわかってはいるものの、嚙み合わない会話に迎合出来るほど、紀野は賢くなれなかった


「待ってくれ、わたしは語汐じゃない!紀野って言うんだ、名前は真宵」


男はわずかに驚いたような表情を浮かべたが


「戯れはここまでだ、語汐

これ以上僕を悲しませるんじゃあない」


再び別の名前で紀野へ呼びかけると、どこかに引きずっていこうとした


「保護観察ってのは有難いよ!でも、わたしは語汐じゃ ーーー」


「母さん!!ふざけてないでアタシにも構ってくださいよ!!」


抗ってもびくともしなかった腕は駆け寄り、じゃれるように羽交い絞めした女によって容易く離れる


笑顔はまるで陽だまりのように明るく、無邪気に遊びを求めているかのよう


なのに頬を擦り付けて、キョッと戦き「ベタベタする」と泣き出した彼女に男は動揺して、先程までの氷の面を遠くに忘れ去っていった


「やだぁああ!!きちゃないぃ…お風呂入ろ?ね?久しぶりに!いいでしょお!!?」


春の陽気を呼び込むような朗らかな声色にも関わらず、その足はガッツリと、岩盤を抉る杭のように小指の関節を踏みつけてくる


合わせろと言うのか、この三文芝居に…躊躇っている間にも増量していく激痛に耐えられず、紀野は首がもげそうなぐらいに何度も何度も頷いた


芸涵イーハン、大丈夫か?語汐の面倒なら父が見るから、お前はゆっくり休んできても良いんだぞ」


「いーーやぁ!!!アタシも母さんと一緒が良いの!!

ていうかなに、ちゃっかり2人で風呂入る気ィ!?やだぁ不潔!変態ッ!!女同士のハダカの付き合いに割り込まないでくれますぅ!?」


「へ、変態…?」


突如として降りかかった汚名に男も泣き出した


涙で見えなくなった隙に、紀野は廊下へと連れ出される

そこら中に赤い垂れ幕が下がり、足先から沈み込んでいってしまう柔く歩き辛い通路を、彼女もとい芸涵は慣れた素振りで突き進む


「歩きながらで良いので聞いてください、記憶力には自信あります?」


紀野はここに来る直前の学校生活において、苦手な科目のテストはすべて暗記で乗り切ってきた


その自負から「ある」と答えた彼女を、芸涵は垂れ幕の一つへと引っ張り込んだ


目的地はすぐ傍にあったらしい

奥まった箇所に佇む石造りの扉は、施設の歴史を語るかのように厳かな存在感を放っている


扉の周囲には苔が生え、石の冷たさと自然の息吹が融合した神秘的な雰囲気が漂っていた


芸涵が扉を開くと、畏まった気持ちを消し飛ばす雨雲のような蒸気が襲い掛かる


「だったらこれから言うことを覚えてください

アイツの名前はシャー 欣芮シンナイ、アンタはアイツの妻になった!」


ゴリゴリと、石を擦る音に連れ添って浴槽の水面は静かに揺れている


空からほど遠い地下世界にも関わらず、湯船に浸かる水の表面には柔らかな光が踊り、まるで昼下がりの夢のような静寂を放っていた


迎えの蒸気の苛烈さに見合わず、湯船の縁から立ち上る湯気はまるで優雅な踊り手のようで、空気中に広がりながら優美なシルエットを描いている


出入口で立ち竦む紀野をも包み込むその香りは、まるで花園のような空間を醸していた


「聞きたくないよね、よくわかります

だからって現実逃避していいとは一言も言ってないんですが」


突然、頭から湯を浴びせかけられた


不機嫌そうに風呂桶を投げた芸涵が「まず脱いで、話はそれから」と告げる


「時間が惜しいので急いでくれます?その辺に置いとけば清掃のやつが片しますから、ちゃっちゃと気持ち悪い汚れを落として我が家の掟説明としけこみましょう

好き嫌いから些細な癖まで、アンタに覚えてもらわなきゃならんことは山ほどありますので」


紀野は彼女の言葉に戸惑うが、ここを離れて、欣芮と呼ばれるあの男と再会するのも嫌だと思う


やり過ごすため指示を受け入れると、またもや被った液体が床に広がる様を見た

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