雪だるまが
香山 悠
本編
冬のある日、男の自宅の裏庭に雪だるまがいた。
ここ数日降雪が続いていたが、久しぶりにカラッとした冬晴れの日だった。そこで男はふと思い立って、裏庭が見える窓のカーテンを開けてみたのだ。
雪だるまは典型的なフォルムをしていた。胴体に大きな球が一つ、頭部に小さな球が一つ。胴体には腕を模して、枝分かれのない真っ直ぐな木が左右に一本ずつ。しかし、雪だるまには顔がなかった。もちろん帽子も被っていないし、マフラーも付けていない。
男は驚いたが、深くは気にしなかった。男にとっては、現実の問題の方が何倍も重要である。
男は研究所で、新素材の開発に勤しんでいた。仕事は楽しいが忙しい。自宅には寝泊まりするだけのような日々が続いていた。
男には妻がいる。女も仕事が好きな口で、二人にまだ子供はいない。しかし、家や自分にまったく構わない男に愛想を尽かしたのか、雪が降り始める前日の晩、女は家を出ていった。どうやら、会社の同僚に世話になっているらしい。
男はショックを受けたが、それも仕方ないかと半ば諦めていた。元々、自分がまさか結婚するとは思っていなかった。本来の生活に戻るだけである。
普段の朝のルーティンとは違う行動を取ったせいか、男は少しぼうっとしていた。慌てて準備を済ませ、自宅から出ていく。雪だるまのことは、すでに男の頭にはなかった。
一日の仕事を終えた男がリビングの電気を付けると、窓のカーテンを開けっ放しだったことに気づいた。道理で家の中が冷えるわけだ。男がカーテンを閉めようと窓に近づくと、あの雪だるまが目に入った。嫌味な上司を思い出した男は、乱暴にカーテンを閉めた。
翌日の朝、男が再び雪だるまを見てみると、昨日よりも窓から離れている気がした。寝ぼけているか、疲れが溜まっているのだろうか。今日は早めに向かって、早めにあがろうと考えた男は、とりあえず職場に向かった。
夕方に男は帰宅した。職場を出ようとしたとき、上司が男に一瞥をくれたが、男は無視した。それよりも、雪だるまである。
男は雪だるまを睨んだ。明らかに、朝よりも窓から離れている。雪だるまが動くとは何だ。氷の女王の魔法じゃあるまいし。
玄関の収納棚から、男は使っていなかった木の柵を取り出した。
魔法には物理だ。
男は思いついた妙なフレーズに内心笑いつつ、四枚の柵を雪だるまの周囲に乱暴に刺した。
もうこいつは逃げられまいと油断した男が翌朝見たのは、少しも綻びなく柵の外に立つ雪だるまの姿だった。
男は呆然としたが、すぐに思考を切り替えた。どんな魔法を使ったか知らないが、まだ雪だるまは裏庭にいる。
今度は、男は懐柔に出てみることにした。幸い、休日なので時間はある。
青色のバケツを雪だるまの頭に被せる。目鼻はジャガイモとニンジン。ついでに使っていないマフラーを首部分に巻き、手袋を左右の木の枝先に被せた。
なかなか立派な見た目になったと自画自賛した男はふと、この話題を共有できる人間が一人もいないことに気づく。
男は女に連絡を取ってみることにした。今日の夜にでも会って話せないだろうかと。おもしろい話もあるとメッセージに書いたが、男はその一文をすぐに消した。
夕方まで待って、女から返事が来た。今日は都合が悪いらしい。ただし、都合の良い日は書かれていなかった。
明日は日曜日なので、女は休みかもしれない。しかし昨日は早引けし、今日は休みを取った男は、明日は遅くまで仕事をするつもりでいた。
窓越しに裏庭を見ると、夕焼けが逆光となり、雪だるまの顔が黒々と陰っている。男はカーテンを閉めた。
翌日の朝、男は意を決して女に連絡を入れた。裏庭がおもしろいことになっているから、よかったら見に来てほしいと。あえて時間は指定しなかった。男は一日中家で待っているつもりだった。
女は夕方に来た。会う口実でも、男が冗談みたいなことを言ってくるのを珍しく思い、裏庭を見るくらいならと考えたらしかった。
二人はリビングまで一緒に向かった。男がカーテンを開ける。そこに、雪だるまはいなかった。
「裏庭に、何があるの? この柵?」
愕然としている男を横目に見ながら、女は四角形を象った柵を指さした。
男はしどろもどろになりながらも、裏庭に雪だるまが突如現れたこと、徐々に家から離れていたことを説明した。
女はしばらく堪えていた様子だったが、ついにフフッと笑いを漏らした。男はいろいろと捲し立てたが、クスクスと笑い続ける女に釣られて、力なく笑ってしまった。
コーヒーでも淹れようと女に声をかけて、男は台所に向かった。
ふと気づいて、男はもう一度裏庭に目をやった。雪だるまに付けていたマフラーや手袋、バケツはどこに行った?
「どうしたの?」
女が男に訊ねたが、男はなんでもないと言って、コーヒーメーカーに手をかけた。
雪だるまが 香山 悠 @kayama_yu
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