人は見た目じゃわからない

スロ男(SSSS.SLOTMAN)

内見なのか内覧なのか

委細いさい構わず、とにかく安いとこを、と」

 生真面目そうな外見ナリとは裏腹に、そこかしこに軽さが滲みでている不動産の男はいった。

「あります。ありますが、どうでしょう」

「どうでしょう、とは?」

 男は少し首をすくめ、小声で「お客さん、霊感とかあります?」

「事故物件というやつですか?」

「話が早い」

 男は立ち上がり、壁にかかるジャケットを手に取った。

「行きましょう、内見」

「え、いまからですか?」

「だってお客さん、早いほうがいいんでしょ? 二、三件は心当たりがありますが、とっておきのが近場にあるんで」

 とっておきというのは、こういう時にふさわしい言葉なんだろうか。疑念をいだきつつも、僕も立ちあがった。確かにすぐにでも引っ越さなければ、大切な仲間が苦しむことになる。それだけは避けなければ。


 不動産の社名が入った商用車バンで案内されたのは、確かに『近場』といってよい距離の、車で三分程度の道程みちのりだった。駅から徒歩三分の不動産、から車で三分。駅近とまではいかないが、許容範囲だ。そして何しろ家賃が安かった。

『二万円です。管理費込み』

『それでバス・トイレ別なんですか?』

『しかもワンルームでもないですからねえ』

 などと話しているうちに着いたそこは、ワンルームがどうとか以前に、一戸建てだった。

「うわあ」

 思わず声が漏れた。

「でしょ、でしょ? いい感じに寂れてるでしょ?」

 男がうれしそうなのは何故なのか。普通はここで「中はきれいなんですよ」とかフォローを入れたりしないか。

 見るからにお化け屋敷といったていのトタン張りの二階屋で、つたに埋もれているというか、もはや裏の林に侵食されているといった有様。

 距離的には問題ないが、結構な斜面を登ってきたのもマイナスポイントだ。近くに人家はない。ぽつんと一軒家、というほどではないのだが。私有の山にワケアリで建てられた家といったところか。

 こちらになにも訊かず、男は一服し始めた。加熱式煙草ではなく、紙巻きだった。

 僕と目が合うと、煙草を一本振り出してきた。手を振って断った。男も黙ったまま深々と紫煙を吸い込み、家を眺めていた。

——いや、なんかしゃべれよ!

 まだ午後三時をすぎた頃合いで、空は青いがここだけ妙に薄暗い。家を喰らい尽くそうとする木々のせいかもしれないし、それ以外の何かのせいかもしれない。

「ところで車内で」と僕は気になったことを思い出した。「管理費込みといってましたが」

「あー。あれね。管理費はゼロ円ですよ」

「でしょうね」

「税込」の聞き間違いであってほしかった。しかし、それでも二万二千円。見た目はかなりシビれるが、逆に天井に穴があっても雨は防げるんじゃなかろうか。天然の樹木の屋根がある。

「中、見ます?」

 男がいって、僕はうなずいた。内見に来たのに見ないという話はない。

「なるほど、じゃあ行きますか」ベルトに装着された鍵束を男は引き出し、じゃらり、と音が鳴った。「霊感ないなら、ほんと掘り出しもんだと思いますよ」


 鍵だけは付け替えてあるのか、カチッと半回転で音がした。建てつけも悪くないらしい。ガラガラという音はあったものの、途中で突っかかるようなこともなかった。

 三和土たたきはなく土間で、薄暗いせいでよくわからないが、おそらく小さい頃遊んだ泥団子のように黒光りしてると思われた。上がりかまちもなく直接廊下になっていた。

「あスリッパもってくればよかった」と男がいう。「普通は家側に用意してあるんですがね。いかんせんとっておきなもんで」

 今度こそ完璧に「とっておき」の間違えた使い方をして、男はきちんと靴を脱ぎ、廊下に上がった。

 しばし逡巡したのち僕もブーツを脱いだ。足裏が汚れるのが嫌だからといって今更帰るわけにもいかない。

「わりとまめにクイックルワイパーとかかけてるから、そんなに心配しなくて大丈夫ですよ」

 ほんとかよ、と思いながら廊下に靴下であがる。見るからに砂や土に埋もれてるといった感じではないが、足裏にザラっとした感触があった。溜息がでる。

 廊下に両足で立ったとき、息苦しさを感じた。先に行く男についていこうとして、まるで油の中を進むような、緩慢さがあった。空気が淀んでいるのか、何かが満ちているのか。普段なら何も考えず踏み出す一歩も、考えてから動きに結びつくまでが少し遠い。

 こりゃ、いかんな。

 僕はベストのポケットから筒を取り出し、フタを開けた。

「あ、ちょっとそれなんです? あー、懐かしい、それコーヒーのやつでしょ」

「フクロウか」

「え? いいなあ、俺にもくださいよ。好きだったんだ、それ。まだ売ってんですね」

「コーヒービート。いまでも現役ですよ。でも、あげられない」

 そこまで暗くはないはずなのに男の表情が読み取れない。おそらくニヤニヤ笑ってるか、口を尖らせてるかのどちらかだろう。

 僕は筒の口を下に向け、振ってみせた。

「もうカラだから」

「こんな陰気臭いところでよく何か食おうだなんて思えますね」

 本気で感心したような口調だったが、自分のことを棚に上げ選手権があったら君は日本代表クラスだよ。

「右手が応接室。見ます?」

 男がドアの前に立つ。僕がうなずくとドアを開けて、どうぞ、と応える。六畳ほどあるだろうか。正面と右手側に大きく窓があるが、向かいは雨戸が閉まっている。右手から薄ぼんやりした光が差し込んでいるが、部屋には何も見当たらない。

 男が僕の脇を抜けるようにして部屋に入り、左手の闇の中に立つ。体を壁に向けたまま、顔だけこちらに向ける。笑っている。

「ここ、オルガンがあるんですよ。足踏みオルガン。弾いてみます? それとも俺が弾きましょうか?」

「ジョン・ロードで頼む」

「え。デンヴァーじゃなくロードのほうですか? 足踏みだとちょっと」

「ハモンドあったら喜んで弾きそうだな。近所迷惑でしょ」

「近所、ないですからね。それにここ、ボロそうで案外防音しっかりしてるんですよ。真夜中にでっかいアンプでギター鳴らしても大丈夫なんじゃないかな」

「初めて売り文句を聞いた気がする……」

 その時、男が小さく悲鳴をあげた。

「ネズミッ……!」

 お、と僕は感心した。

「やっぱりあなたは眼がいいね。しかもフクロウのように夜目が効く」

 せっかく褒めたのに男は聞く耳を持たず、部屋から出るとドアをバタンと閉めた。

「あとで殺鼠さっそ剤持ってこないと……」

 本気で怖がってるようなので僕は思わず声をもらして笑った。


 廊下を挟んで向かい側の部屋はふすまで仕切られていた。玄関とは違い、やや建てつけが悪いようで男は苦労しながら開けた。

 先程と同程度か、やや広いように感じた。畳敷きだ。黄色がかった畳が——とそこまで考えてから、さっきの応接室とやらは板張りか何かだったのだろうか、と気になった。

 正面にはまた襖があり、左手はガラス戸。先程よりやはり明るく感じる。全面ガラスになっているから、より明るく感じるのか。

「寝室にするならここがいいかもですね。まあ、布団でよければ」

「奥の部屋は?」

「奥? あー、あの襖の先ですか。あそこは二畳ぐらいのうなぎの寝床ですよ。あれ、寝床?」

「なんなんです、そのスペース」

「さあ。うなぎ用の部屋なのでは」

 男はひとりでくつくつと笑った。それから真顔になって、

「入らないんですか?」

「いや、あなたが入らないから」

 さっきは勝手に独りで入って勝手に出てきてドアを閉めたくせに、と思う。

 入りたくないのだろうか?

「畳がね」

 男はおっかなびっくり部屋へ入った。

「ふかふかしてるところがあって気持ち悪いんですよ、感触が」

 よろめいているのか、小さくジャンプしているのか、ひょこひょこと男は部屋を横断し、奥の襖の前まで辿りついた。

「来ないんですか?」

 どこか声の調子にあざけりがあるように感じて、僕はムッとしながら男の足跡そくせきを辿った。

 沈む箇所があって確かに気持ちわるい。底が抜けるんじゃないかという恐さもあった。男のそばまで来たとき、無造作に襖は開かれた。

「ね、何もないでしょ」

 男の声が耳を素通りする。僕の視線はそこに釘付けになる。なんでこの男は、こんなに禍々しいものが見えないのだ、と腹正しい。


 女の顔があった。目を閉じていて、如来像か何かのような表情をしている。その顔を取り巻くように幾本もの腕が折り重なっている。女の顔は浮いているわけではなかった。そこに女は立っている。腕が幾重もぐるりと取り囲んでいるせいで顔が浮かび上がって見えるだけだ。身体はといえば、そこには下半身が四、五体絡みついていた。胴を挟み込み、抱きつく脚。股を割るようにして汚い尻を向ける脚。股間を擦りつけるように太腿を挟む脚——。

 それらは緩やかに律動していて、女の顔だけ微塵も動かない。腕が、足が、尻が、腰がうねうねと動いているのに、顔だけが。

 どうしたんです、という男の声で我に返り、フスマ、シメテ、と辛うじて声に出た。

 何事もなかったかのように襖は閉まり、そこでようやく呼吸することを思い出した。かがんで、ぜいぜいと息をく。

「大丈夫ですか?」

 心配そうな声に、喘ぎながら、ありがとう助かったと答えた。

「ヤバいものでも見えました?」

 男の声に、嫌な感じがした。顔を上げると、そこには無数の腕に包まれた男の顔が——なんてオチじゃないだろうな、と戦々恐々しながら顔を上げたが、そんなことはなかった。ただ、

「霊感、あるんじゃないですか」

 と、ニヤァと笑った、ように見えた。


「無理です、無理! なんとかなるかと思ったけどダメ、ここは流石に厳しすぎる!」

 玄関に向かおうとする僕を男は必死に引き止める。

「まだ台所もトイレも風呂場も、それに二階も見てないじゃないですか!」

「乾いたところでダメなのに水回りとか絶対ダメでしょ、トイレからは長い黒髪が逆流するし、バスタブには異形の女が体育坐りに決まってる!」

「でもですよ?」

 トーンの違う、妙に落ち着いた声でいわれたので、ついハタと立ち止まってしまった。

「でも、何よ?」

「そういうのがいたとして、特に害もないのなら、これは優良物件なのでは? 委細構わず安いとこ、を求めるのであれば」

 僕は溜息をいた。

「特に害がないのならね。それ保証できるの? というか、こういうのが見えるだけでも充分以上に心臓に悪いんだけど。あんたは見てないかもしれないけど、さっきのアレとか見ただけで寿命縮むんだよッ! しかも、もしアレの眼が開いたとして、眼が合ったりしたら、それこそ即死モンだよ!」

「でも、できるだけ安くて、すぐに契約できる物件は欲しいんですよね?」

 二の句が継げなかった。

 それは確かにそうだ。

「ね、だから見るだけ見てみましょうって。現にお客様はさっき死んでないし、あれがピークだと思えば他は耐えられるんじゃないですか」

「いや、アレ以下なら耐えられるとか、そういう話でもないんだけど……」

 流石に自分のヘタレっぷりに嫌気が差すが、ここで「無理なものは無理!」といえないあたりが、僕の限界なのだろう、とは思う。男に引きずられるようにやってきたのは台所だった。

 いや、台所とはいわれたが、これは居間なのではないだろうか。四畳半ほどの板張りの部屋に、奥に区切られるようにして水回りと煮炊き場があった。

 かつては掘り炬燵ごたつ囲炉裏いろりでもあったような、そんな雰囲気のある場所。奥まった場所だけに実際はかなり暗くてもおかしくなかったが、不思議とそんな暗さは感じなかった。

「悪くないでしょ」

 まるで心を読んだかのように男はいった。

「なんていうんですかね、実際には体験したこともないんだけど、懐かしいというか、ホッとするというか。そう思いません?」

「……この流れでまさか二度目の売り文句が出るとは思わなかったけど、言わんとすることはわからないでもない」

 ちゃぶ台が似合いそうな板の間だが、こういう寛ぐ場所こそ畳のほうが良い気もした。しかし畳は値が張るし、カーペットでも敷けばいい話だ。

 板張りの床は少し軋んだが、先程の畳のような危うさはない。流しも古さはあったが錆もなく、清潔そうだった。その横に一口コンロがあった。

「これは?」

「使っていいんじゃないですか。足踏みオルガンと一緒で」

 一緒だろうか? オルガンは、まだわかる。重いし、処分にも困るだろう。だが一口コンロとは。

「……そもそも先住の人は何年前にここに?」

「何年前なんですかね」男に惚ける様子はない。「俺が勤め始めたのが三年ぐらい前かな、その時にはもうここはこうでした。直前まで住んでたって感じでもなかったなあ」

 男が手慰みにコンロのツマミを捻ると、火がついた。

「え、ガス通ってるんですか?」

「ガス通ってるんだ」

「え、ガス代どうなってるんですか」

「どうなってるんだろ」

 突然、コンロの火は一気に起ちあがり、まるで火炎放射器のような炎が眼前に現れた。

 熱さに僕は後退あとじさった。

 それは天井を焦がすかに思えたが、そこから急降下して男の顔を舐めた。炎の中に男の顔が見え、ゆらゆらと揺らめく。千差万別の表情を見せながら、男は、

「どうしたんですか?」

 といった。

 平然とした声だった。

 タンパク質の焦げる嫌な匂いと焼肉のような匂いが入り混じっているというのに。


「どうしたんですか?」

 男は手慰みにカチリ、カチリとツマミをひねりながらいった。炎どころか火の存在すらない。

「いや……」

 僕はなんとか重力に抗いながら首を振った。

「なんでもない、ちょっとこの家の雰囲気に当てられたみたいだ」

 怖いのは幻を見ることより、どこからどこまでが現実で、どこからがそうでないのかわからないことだ。先程の男とのたわいのない会話、あれすら現実にはなかったのだと考えると眩暈めまいがする。

「一階は、あとは風呂場とトイレですね、あトイレは二階にもあります」

「……そうなんだ」

 僕は本当にこの家に住むつもりなのか? 住めるのか? この先内見を続ける意味はあるのか? 自問自答するが、答は見えない。つまり、まだ完璧に諦めてはいない、ということだ。自分が、自分の貧乏性がうらめしい。

 男は狭い隙間を縫って僕の横を通り過ぎ、流しの横にある引き戸に手をかけた。曇りガラスの戸だった。

「トイレとバスルームはこっちです。あトイレは水洗ですよ」

「ひとつ、訊いてもいい?」

「なんです」

「ガスは都市ガスじゃなくてプロパンだよね?」

 あー、と男が気づいちゃいました、みたいな声を出す。「ですね、プロパンです。あトイレは簡易水洗じゃなくてちゃんと水洗ですよ」

 トイレはごく普通の作りだった。上から血が滴ったりもせず、大量の髪の毛が逆流するようなこともなかった。風呂も同様で、広くはないが——というより端的に狭いが、目地のカビはいかんともしがたいものの、さほど不潔さはなかったし、何より風呂桶に全裸で濡れた髪の女が体育坐りもしてなかった。

 不思議なもので、怪異がないとなると気になるのが、実際に住むとしたら、という観点からの感想だった。

「風呂桶、幅は狭いし、やたら桶が高くないですか」

「まあねえ、今風ではないですねえ。でも、ちゃんとシャワーもついてますし、蛇口捻ればお湯も出ますから」

「……ほんとに?」

「へ?」

「最低でも三年はお湯がでるようなことはなかったわけでしょ? 骨董品レベルの給湯器でないのは見ればわかるけれど、使えるかどうかの保証までできます?」

「そういわれると」

 男はうーん、と唸った。「管理費はゼロでも、管理してないってわけじゃないですし、もし壊れてればウチでなんとかすると思います」

「思うじゃなくて断言してほしいんだけど」

 男はニヤァと笑った。

「その気になってきました? 大丈夫ですよ、それすらできないぐらいなら、そもそも賃貸物件として表に出しやしませんって。じゃあ、最後に二階にいってみますか」

 二階は上がるの初めてなんだよなあ、とさらりと不吉なことをいって男はそそくさと先へと向かった。


 二階は完璧に異界だった。いや見た目の話ではなく、空気感が。最初に家に上がったときに感じた違和感とは比べ物にならない、異質さ。油の中どころか、下水の中だ。

「ハア」

 男が喘ぐように息をいた。

「本当に見ます? この先」

 階段を上がってすぐの壁に寄りかかる男に何もいわず、僕は一歩踏み出した。

 息苦しい。鼻で呼吸をすれば汚穢おわいそのものが脳にまで達しそうになるし、口で息をすれば大小様々な異物が流れ込むような喉越しと胃の痛みがある。しかし、これまでの経験上、これらはすべてまやかしにすぎない。リアルすぎる幻影や器官の混乱は、もはや現実とは見分けがつかないが、見分けがつかなかろうがなんだろうが虚であればスルーしてしまえばなんてことはない。

 ——なんてことはなく、胃の中のものを全部吐き出してしまった。胃そのものが飛び出しそうな苦しい嘔吐だった。大丈夫、カエルのようにはなっていない。

 目の前にドアがある。二階の一室だろう。果たして何室あるのかは、よくわからない。眼が霞むし、頭がくらくらする。

 あの不動産の男はどこへいったのか。もしかするとすぐそばにいるのかもしれない。それとも車へと逃げ帰ったか。

 僕はドアを開けた。

 途端に、奔流してくる誰かの記憶。

 部屋に閉じ込められ、時折差し入れられる食べ物らしきものを犬のように口から食う。手も足も自由だ。けれど一番楽だから、そうする。立ち上がろうとすると痛い。そこかしこが痛い。

 風切り音。皮膚が裂かれるような痛み。

 場所が変わって、やたらと眩しい所。普段身につけているボロきれすらなく、裸のままで四肢をひっぱられている。犬がのしかかってくる。牙が見える。泡立っている中でだらりと垂れ下がる舌が。犬の股間から、綺麗なピンク色の突起が突き出している。

 周りには人がいる。何やら楽しそうに談笑している。光に目を射られたかと思うと、それはレンズだ。眩しさを反射して、痛みに。頬に犬の涎が垂れる。より強い痛みが、現実の痛みが股を裂こうとする。歓声。興奮した犬の爪が胸へと食い込む。眩しい。痛い。

 …………大丈夫ですか?

 そこで僕は現実に引き戻された。心配そうな男の顔が、……いやこの部屋は暗すぎてよくわからない。

 床に立ち膝の恰好で、勝手に流れ込んできた記憶の残滓に窒息しそうになっていたようだ。えた匂いがする。

「もう出ましょう、ここはダメだ。二階にはあがるなと言われていたけれど、こんなにひどいとは——」

 肩にぽん、と置かれた男の手、その手首を僕はつかんだ。

「ねえ、あなた。あなたはには本当にいなかったんでしょうね?」


「あの中……?」

 男はしばし考えるような間を置いてから、んー、と唸った。

「あなたは最初に煙草を吸った。さも当たり前のように。あれは魔除けでしょう。そこまでならここには何度か来ているでしょうし、気にはしなかった。けれど、アレは聞き逃せなかった。『ここは防音がしっかりしている』という言葉は。なぜ、そんなことを知ってるんだ?」

 フラッシュバックする、他人の記憶。

 しかも一人や二人ではない。何人もの女性が、飼われ、鞭で叩かれ、犬や犬以下をけしかけられたり、代わる代わる弄ばれたり——ドッと流れ込んできた昏い記憶の残滓に僕は意識を失ったのだった。

 男が、わらった。

 つかんでいた手を振り払われた。人ならぬ力を感じた。僕はよろけながら立ち上がり、一歩下がった。

「わかったふうなことをいう」

 男の声は、元の声とは違って聞こえた。甲高くなり、太く、震えるような響きもあった。

「獣のような奴らより、優しく声をかけてかばうような男のほうが、より酷かった。モノとして扱われるなら耐えられる。だがヒトであることを思い出させるなど——しかも、あの人は間違いなく、あいつらの仲間だった! おまえは、あいつだ!」

 男が、いや男にとりついた何かが飛びかかってくる。これは、物理的な脅威だ。

 僕はベストからマーブルチョコレートの筒を取り出した。バックステップしながらフタを開ける。壁に背中がぶつかり息が止まるが、脅威も止まっていた。

 男の鼻先に出現したのマーブルは、鋭い爪で男を弾いたようだった。

 僕を守るように、マーブルは床の上で威嚇の声を上げた。

 オサキは、決して強い使い魔ではない。ネズミ程度の大きさしかなく、魔力も大してあるとはいえない。比較的攻撃に優れた黒オサキといえど、正直、現状を打破できるかは心許ない。

 攻撃を受けたのが意外だったのか、男はマーブルを警戒しながらジリジリと距離を詰めてくるが、その動きは緩慢だった。

 壁を背にしながら負けじと亀の歩みでドアへと向かう僕に、そろそろ向こうも気づきそうな気配だった。

 僕には、いやオサキには敵と見做みなすほどの価値がないと。

 男が再度攻撃をしかけてきた——タイミングを半歩先んじてマーブルが飛びかかった。ほぼ同時に僕の後ろ手はドアノブにかかったが、開かない。体重をかけて押してもビクともしない。

 マーブルが男の腕に、いやそこに絡みつくムチの先に弾かれた。男の見た目ナリはどんどん変容していく。これまでの犠牲者が受けた痛みを、己の武器として。

 男の口が大きく開き、牙が青白く光る。

 これはダメだ、俺はきっと食い殺されるんだ、と思った。


 と、背中に大きな衝撃。そのまま右手側に派手に転ぶ。何が起こったのかよくわからないまま、恐る恐る顔を上げると、そこには引っ越しの元凶が立ち、引っ越し先(未定)の脅威を呪法で縛り上げていた。

「よう、エラい目に遭ってんな、飯綱イヅナ使い」

「飯綱使いじゃなくてオサキモチだっていってんだろ……」

 普段感じる小憎らしさよりも、安堵のほうがまさっていた。傍系とはいえ、きちんとした血筋の陰陽師にして大学の先輩でもある、加茂ハルアキだった。

 白オサキのビートが加茂を回り込むようにしてやってきて、労わるようにキュキュと鳴いた。

「ありがとうよ、ビート。おまえのお陰で死なずに済んだよ」

 視界にマーブルがやってきてキッキッと抗議の声。

「もちろんマーブル、おまえこそ命の恩人だよ……」

 加茂の追儺ついな祝詞のりとを聞きながら、意識が薄れてく。おいおい一日に二度とかやりすぎだろう、と思いながら、いまさらドアがこちらからは引き戸であったことを思い出して死にたくなった。



 普通の薄暗い部屋に見えた。調度がないからやや広く見えるが六畳あるかないか。先程まではとてもそこまで見る余裕はなかった。ここで、あのようなおぞましいことが行われていたのだろうか。

「よう、気づいたか飯綱使い」

 窓際に立ち、外を眺めていた加茂先輩がこちらを見ぬまま、そういった。

「飯綱使いじゃなくて……まあ、いいや」

 半身を起こす、体中が痛い。ビートとマーブルは筒の中に戻ったようだった。足元のほうには伸びた不動産の男。

「あれはなんだったんスか、先輩」

「お、シュショーだね。いつもはオイとかアンタとかなのに」

 くつくつと笑いながら加茂はこちらに向き直った。

「なんだろうな、アレ。怨霊とか生霊とかとも違うようだったし、いや、そういうのの集合体か何か、なのかな。……なんだって、ここに内見に来たんだって?」

「ビートのおしゃべりめ」

「主人がヤバそうだから助けてくれ、ってあれはあの管狐の判断なのか。かしこいな、俺にも一匹くれ」

「やらないし、クダじゃなくてオサキギツネだ。ともかく、助かった、ありがとう」

「で、住むの、ここに? メゾン荻久保でいいじゃん。俺らもいるし」

「あんたらが、この時期になると毎度毎度バカみたいにでかい追儺の儀をやるせいで、オサキたちがぐったりするんだよ! 祓われちまうよ!」

 あはは、と加茂は笑った。「それは正直すまんかった。でも、それだけが理由じゃないんだろ?」

「金がね……あんたらと違ってウチは裕福でもないから、仕送りやめる、とさ。家業の資金繰りにも困ってるらしく、ほんとならすぐにでも働かせたいぐらいだと」

「じゃあ、住むのか。ここに」

「どうでもいいだろ、まだ決めてねーし」

「いや、住むんだったらあやまっとかないと」

「は?」

「いやここバッチイから靴のまま上がっちゃった、ごめんね」

 どうでもいいわ‼︎

 窓を閉め、加茂がやってくる。まだ伸びたままの男を一瞥して、これ霊媒だな、といった。「だからやられたんだな」

「怨みがあって、やられた、とかではなく?」

「俺の見立てではね。あ、そうそう、これ頼まれモノ」

 懐から何かを取り出すと、ヒョイと無造作に投げ、僕は思わず受け止めた。靴下だった。100均かな。

「なにこれ?」

「その白いのに頼まれてさ、『今日の主はお気に入りのブーツ履いてるから、汚れるの可哀想』だってさ。マジおまえの使い魔、優秀な。ほんとに一匹くれない?」

 僕は溜息をいた。

「バケモンか、あんた。主の僕でさえ、細かいニュアンスなんてわからないのに」


「はい、で本当に入居するんですか。すげえな、お客さん」

 お客様でしょ、とお茶を運んできた事務のお姉様に嗜められる。も、男は気にしない。

「まあ、あんな物件じゃなきゃ、自分が住みたいくらいだもんなあ」

 なんでも男はミュージシャン志望らしく、たまに勝手に忍び込んでは実際にギターをかき鳴らしたりしてたらしい。お客さんもそうじゃないんですか、と男がいって僕はきょとんとした。

「いや、恰好がね。ウェスタン好きなのかと」

「ウェスタンは好きだけど、カントリーミュージックには特に興味はないかなあ」

 はあ、そうですか。何故かがっかりした感じの男に、疑いをかけたのは申し訳なかったな、と思った。

 白オサキのビートが僕らとは別に内見した結果、そこかしこに盗聴器や隠しカメラの類いがあったという。だいぶふるい代物だったが、中には生きているのもあったとか。

 一体、あそこで何があったのか、何が目的でそんなものが仕込まれていたのかは、わからない。が、とりあえずは、あそこまで酷いことにはならないだろう、と(性格は抜きにして)信頼できる陰陽師がいってくれた。

 これも何かの縁だ。

 僕は、あの家に住むことにした。

『ちょこちょこ遊びに来るから! 夜中騒いでも大丈夫なんだろ? 楽しみ楽しみ』とくだんの陰陽師がいってたのだけが、やや気掛かりではある。


 そして、住んでから気づいた。

「やっぱお湯、出ねーじゃねーか‼︎」

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