透明な花と海          KAC20242 

福山典雅

透明な花と海

 当時の僕は17歳で、あと2か月で18歳になろうとしていた。だけど、今思えば随分子供だったと思う。


 まるで制御出来ない腕時計を懸命に時刻合わせするみたいに、僕はそうありたい自分と現実の自分を比べては、いつも目に見えないズレにイラついていた。きっとそれを埋める術を闇雲に探していたのだと思う。


 無名で哲学者気取りのリック・ボーがとあるパーティーで、「住宅の内見は、女性に下着の色を聞く事と同じだ」と言ってひんしゅくを買った。彼が真に言いたかった事は、人を穏やかに理解する事と、計算的に詳しく知りたがる行為は、確実に似て非なるものであり、人間関係で過度に踏み込む事を警鐘したかったらしい。だが結局の所、彼は誤解されたままその人生を閉じたのは皮肉な話だ。


 僕は思春期においてイノセンスな生き方を好んでいた。だが、それは決して幸福と直結したモノではなく、例えるなら遠くから眺めれば美しい森が、その中に入れば人を遭難させたり死に至らしめる事と同様に、罪深い表裏を備えたものだった。


 僕は人間関係において計り知れない事を探す程、厚かましくは生きられないと思っていた。

 

 17歳の僕には好きな女の子がいた。幼馴染でもある彼女の名前は佳奈。とても感情豊かな表情が素敵で、彼女に微笑みかけられたら、僕は壊れたカメラみたいについ見とれてしまう程だった。


 だけど当時の僕は、佳奈を好きだと言う感覚をひどく曖昧に捉えていた。例えるなら、それは自分自身がこの先も一切変わらないという確証をもてないのと同じで、この気持ちだってゴダールみたいな即興性の連続ではないかとさえ思えてならなかった。そんな考えを誠実さと履き違えていた僕は、随分と間抜けだった。


 僕の記憶の中にある彼女との思い出のひとつに、一緒に眺めたとある海辺の景色があった。





 僕達には共通の親友である祐樹がいた。その日、サッカーをしていた彼の練習試合を応援しに、僕と佳奈は出かけた。その帰りの話だ。


 4時過ぎの電車は比較的に空いていて、過ぎ行く海岸線はフィヨルドっぽい地形を車窓に映し、どこまでものどかだった。


 そこで佳奈がふいに「次の駅で降りない?」と聞いて来た。僕は少し驚いたけど、なんとなくこのまま帰るのも勿体なかったし、気楽に「いいよ」とだけ答えた。そして駅で降り、すぐ先の住宅街で迷路みたいな下り坂を進むと、鮮やかな海が僕らの目の前に現れた。


「うーん、ちょっと気持ちいいね」


 大きく背伸びした彼女は海風を受けて、ちょっとどころではなくとても気持ち良さそうに見えた。春先のこの時期に透き通る様な彼女の白い肌は、まるで美しく芽吹く春の花の様に、僕にやわらかな印象を与えてくれた。


 僕らは適当な流木に腰を降ろし、穏やかな海を眺めながら静かな波の音に耳を傾けた。


「えっ?」


 その瞬間、僕はとても驚いた。


 隣に座る彼女の美しい横顔。その瞳からすぅーと涙が零れていた。


 海風を受け、微かに揺れる髪。水平線に向けられた美しいその瞳からあまりに儚げな涙が、少し赤味がかった陽光を受けた頬にさらりと伝わっていた。


「……、ごめんね、なんかごめん……、ちょっと待ってて……」


 僕は何も言わずに、そっと彼女の肩を引き寄せた。


 そうする事が正しいのかどうかわからない。ただその涙を傍観する程、僕は達観しているわけじゃない。


 頼りなく柔らかな彼女の細い身体を感じた。その彼女の頭がそっと僕の肩に寄りかかった。


「……」

「……」


 僕はただ彼女が落ち着くのを待った。


 突然の涙の理由よりも、この頼りなさを守ってあげたいと考えた。そうする事が僕に出来る唯一の事であり、最も大切な事だと思えてならなかった。


「……ちょっと泣けて来ちゃった、ごめんね」


 暫く後にそう呟いた彼女の声は何処か穏やかで、僕の波たつ心を見透かす様に健気でもあった。


「構わないよ」


 肩から温かな彼女の体温。海風が僕を試す様に吹いていた。まるで唐突に世界で二人っきりになってしまった様な、そんな切り離された特別な時間を僕は見つめていた。


 普段の明るい彼女からは伺い知れない不透明な秘密に触れたみたいで、僕は出来損ないの非常ベルみたいにぎこちなくも無闇に大人しかった。


「……あのね、健太くん」


 彼女は僕にだけ聞こえる様な内緒めいた声で囁いた。


「例えばね、失う事と得る事が同時だった場合、幸福って感じるのかな?」


 不意に投げかけられた言葉は、ぼんやりとした切迫感を含み、僕の何かに強く訴えているみたいに感じられた。ここで当たり前な答えを語る程、僕は冷酷じゃない。


「あのさ……、例えば子猫がね、一人立ちをする時ってどんな気持ちだと思う? 僕はね、きっと寂しさとか不安なんかを押しのけて、どこかに行きたいんだと思うんだ。僕は何かを失い、そして何か得るとしたら、先ずどこに行きたいかを強く思い描く事が大切だと思うんだ」


 僕の答えに彼女が小さく頷いた気がした。


「わたしね、最近いろんな事を具体的に考えなきゃって感じる。多分、今まで曖昧にしていた事とかを、現実に落とし込まなきゃいけないって。そうするとね、自分を形作っていた何かが消えていくの。でもそうしないと先に進めない。そんな風に思えるの」


 僕は彼女の言わんとする意味を考えながら、何故か急に得体のしれない孤独を感じた。


 このままだと、僕の立っている場所から彼女が去っていく様な、そんな喪失感が僕の心を支配し、震えさせ、貫き、そして鋭い痛みの後に、ぽっかりとした惨めな隙間だけが残る、そんな気がした。


 僕は佳奈が好きだ。


「もし君がそういう風に先に進もうと考えて、戸惑いながらももがくのなら、僕は《もがく》って素敵なものだと感じる。それでも何かが足りないのなら、僕の全部をあげてもいい。僕は君の励みになんかならないかもしれないし、君が支えて欲しい場所もまるで見当がつかないかもしれない。でも一緒に迷って歩く事は十分に出来ると誓うよ」


 佳奈は僕の肩からそっと顔をあげて、じっと僕の瞳を覗き込んだ。


「いま、なんだか十代のうちに感じる幸福を、全部貰ったみたい……、ありがと」


 そう言うと、彼女は僕の大好きな微笑みを浮かべた。


 なんて事のない5月の日曜日、僕らはたわいのない時間をあの海で過ごしていた。とても綺麗な深い藍色の海から優しい風が静かに吹いていた。





 あの時、佳奈がなんで泣いたのか、そして僕に何をして欲しかったのか、随分後になって僕はようやく理解出来た。


 僕らは同じ場所で同じ風景を見ていたけれど、それは決して同じものを感じていたのでないと思う。


 当時の僕は大人になれていなくて、やっぱり随分子供っぽかったんだと思う。僕はそれを埋める術を知らなかった。



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透明な花と海          KAC20242  福山典雅 @matoifujino

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