三分以内に伝言をどうぞ

地崎守 晶 

三分以内に伝言をどうぞ

 彼には三分以内にやらなければならないことがあった。


 肩を上下させ、荒い息を整える。やっとの思いで見つけたその機械は、霞む目には緑色にも桃色にも見える。ごく狭い空間。鉄臭さと彼の呼吸音が充満していた。震える指で、血のこびりついた硬貨をやっとのことで投入する。

 今までアプリから呼び出してばかりだった番号を、一つずつ確かめながら冷たいボタンを押す。ひっつかむように受話器を耳に持って行く――そして。


 彼と、彼の恋人はごく一般的な出会いを果たし、ごくささやかな逢瀬を重ね、そしてごくありふれた仲違いを起こした。

 彼はその晩、ワンルームの部屋を飛び出した彼女を追わなかった。どうせいつものように、朝になればショート・メッセージの一つでも寄越して来て、仲直りできると思っていたからだ。だから、スマートフォンも見ずに布団を被って寝てしまった。


 だが、いつも通りの喧嘩をした後の朝は二度と来なかった。目覚めると、朝の7時のはずの空は真っ暗で、テレビを点けても砂嵐が映るだけで、通話もインターネットも繋がらなかった。困惑した彼は部屋の外に出た。マンションの外では彼と同じように混乱した人々が辺りを見回し、定かではない推測やうわさを口々に言い合っていた。

 彼は役に立たないスマートフォンをそれでも握りしめて駅に向かった。飛び出した彼女がよく泊めてもらう友達の家は二駅先にある。町から出ようと押し掛けた人々を押し退けた先で、電車が来ないことを知った。


 彼は線路に沿って歩いた。そこで、電車が来ない理由を知った。線路と、その先の風景がなかった。地面から空まで、どこまでも続く黒い壁が道の先を分断していた。木でも金属でもないのに、光を飲みこむように黒く、隙間もくっつけた跡もなかった。

 彼は信じられなかった。断固として行く手を阻む壁。拳が砕けるまで叩いても、びくともしなかった。どこかに穴や通り道がないか、壁の途切れたところがないか探そうと、彼は憎たらしい壁の睨みつけながら囲まれた町を歩き回った。そして彼は、町が隙間なく壁に四方を囲まれていることを知った。

壁の外がどうなっているのか。壁の外にいる人々がどうしているのか。どうしたら壁の外に出られるのか、知る術はなかった。


 途方に暮れた彼は、町の人々が口にするあやふやな希望にすがりついた。すなわち、この町の中で時代遅れにも取り残された、たったひとつの公衆電話。その電話だけが、町の外へ連絡を取る手段だという。


 彼は町を探し回った。今まで見向きもしなかった緑か桃色の、公衆電話を求めて。

 かつてそれが置かれていただろう場所には、取り外され、さりとて別の使い方もされない壁のくぼみや空っぽの台が残るばかりだった。

 頭にあったのは恋人のことばかりだった。あの晩の喧嘩のことを、自分に非があることを、仲直りしたいことを、彼女のどんなところが好きなのかということを。ただ伝えたかった。


 諦めかけたとき。彼は遠くに見えていた駅が消えたことに気づいた。正しくは、黒い壁が移動していた。いいや、町を覆う黒い牢獄が狭まっていた。それも日ごとに速度を増して。黒い壁に飲み込まれたらどうなるのか、誰にも分からなかった。人々は狼狽し、誰もが公衆電話を求めた。


 迫る黒い壁は今や轟音を立てて迫ってくる。

 焦燥の中、彼の血走った眼がそれを見つけた。黒い壁に今にも飲み込まされそうな場所に立つ、ちっぽけな電話ボックス。

 よろよろと近寄った彼は、同じように目を充血させた男と掴み合い、殴られ、必死の想いでそいつを叩き伏せた。そして今にも飛びそうな意識を強いて、電話ボックスの扉を開いた。


 肩を上下させ、荒い息を整える。やっとの思いで見つけたその機械は、霞む目には緑色にも桃色にも見える。ごく狭い空間。鉄臭さと彼の呼吸音が充満していた。震える指で、血のこびりついた硬貨をやっとのことで投入する。

 今までアプリから呼び出してばかりだった番号を、一つずつ確かめながら冷たいボタンを押す。ひっつかむように受話器を耳に持って行く――そして、彼は雷に打たれたように固まる。


 小さな箱の外では、迫る来る濁流のように黒い壁が広がる。僅かな時間。伝えたい言葉は山ほどある――。



『ただいま電話に出ることが出来ません。ピー、という発信音の後に三分以内に伝言をどうぞ』


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三分以内に伝言をどうぞ 地崎守 晶  @kararu11

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