◆エピローグ
(1)
◆エピローグ
病室のベッドから窓の外を眺めていた。
三階の窓からは見えるのは、病院の横を流れる小川だ。
花曇り――というには少し早いだろうか。乳白色に濁った雲が低く垂れ込め、川は朝靄にぼんやりと霞んでいる。
川の両岸は土手だ。そこに桜並木が続いている。
さらさらと風になびく梢。まだ膨らんですらいない蕾。朝靄に沈む黒々とした幹・・・・・・桜並木の中にはときおり桃や梅の木が混じり、淡く色づき始めたその花は、もうすぐそこに春の訪れが迫っていることを感じさせた。
――まるで日本画に描かれた景色みたい。
わたしはその美しさから目を離すことが出来なかった。
この頃、わたしは少しのことで心を動かされるようになっていた。いままでは気にもとめなかったものたちが、なんだかとても大切で、愛おしいものに思えて仕方が無いのだ。
窓の外から見える何てことない景色、風が運んでくる雨の匂い、周囲の人たちと交わすささやかな会話、よい香りのする真っ白なシーツ・・・・・・
世界はこんなにも美しく、彩りに満ちて、穏やかなものだったのか。
そんな風に感じ入って、ふとした瞬間、思わず涙ぐみそうになることすらあった。
あの狂った地下室で過ごしたふた月あまり――それは、生きていることの喜びと感謝を思い出すのに、充分すぎる時間であった。当たり前だと思っていた日常がどれほどありがたく、そして素晴らしいものだったか。いまのわたしは、たくさんの人が無自覚に享受しているありふれた日々について、誰よりもその尊さを自覚しているような気がした。
あの事件から一週間――
わたしは都内の病院に入院し、そこで療養生活を送っていた。
幸いなことに、事件で負った傷は完治しつつある。
最も大きな傷は、小夜子をかばったときにできた肩口の創傷だった。右肩から背中に掛けての傷は五センチ程度のものだったが、病院に搬送されるまでにかなりの血を喪っていたようで、わたしは半日ほど意識を失っていたらしい。とはいえ、ICUに入っていたのは最初の一日だけで、次の日から一般病棟へ移ることができた。わたしとは別の病院に入院している瀬川についても、怪我は軽傷だったと聞いている。
「木羽さん、おはようございます」
そう云って部屋に入ってきたのは、堀口という若い看護師だった。
わたしよりひとつふたつ年下だろうか。愛嬌のある丸顔で、いつも笑顔を絶やさない明るい人だった。
「おはよう」
わたしは彼女の微笑みにつられるように笑った。
「よく眠れましたか?」と堀口が尋ねてくる。
わたしがときおり事件の夢を見ることを、彼女はよく知っている。
薄暗い地下室でひとり震えている夢。白い吸血鬼に血を吸われる夢。暗闇の中、包丁を手にした漆野に追われる夢……
悪夢を見るたびに、わたしは自分の叫び声で目を覚ました。
どうやら治療が必要なのは、体よりも心のようだった。自分で思っている以上に、わたしの精神はあの地下室で傷ついていたらしい。
「おかげさまで。なんだか久しぶりにぐっすり眠れた気がする」
「それは何よりです」
堀口は屈託のない笑顔を見せながら体温を測り、脈拍や血圧のチェックをはじめた。
看護師として働いていただけに、入院生活というのはどこか居心地の悪いものがあった。
気にしなくてよいことは分かっているのだが、他のナースたちが仕事をしている中、ベッドで横になっている自分がさぼっているような気分になるのだ。
ナースコールが鳴るとつい背筋が伸びるし、ラウンドの時間はそわそわと落ち着かなかった。堀口はそんなわたしを見て、「わたしの代わりにルート取ってもらってもいいんですよ」と云ってしばしば笑った。
堀口が血圧を測り終える。バイタルサインは異常なし。退院も間近である。
わたしは点滴のルートを差し替える堀口に云った。
「ねえ、テレビつけてもいい」
午前七時三〇分。朝のニュースの時間だった。
堀口はかすかに顔をしかめた。わたしが事件のニュースを見ることを、あまりよく思っていないのだ。
「あまり、見ない方がいいと思いますけど」
わたしは「逆」と云う。
「見ない方が、厭な想像をしちゃうから」
堀口は渋々ながらうなずいた。
ベッド脇に設けられたテレビのスイッチを入れると、小さなモニタに、朝のニュースが映し出された。政治家の失言と、為替のニュース、そして芸能人のゴシップ。わたしたちの事件が話題に上がったのは、そのあとだった。
「狂気の画家、漆野和生――彼の足取りはいまだに掴めておりません」
白ブラウスの女性アナウンサーが険しい顔で云った。
わたしは食い入るようにモニタを見つめた。堀口もニュースに気を取られているようで、点滴を交換する手が止まっていた。
アナウンサーは事件のあらましと、これまでに明らかになった事実の振り返りを行った。漆野和生の顔写真と彼の描いた絵、立ち入り禁止のテープが張られた漆野宅と、そこを捜索する警察、関係者のインタビュー――どうやら、捜査に進展はないようだった。
一週間経ったいまでも、漆野和生は見つかっていない。
あの夜――
瀬川の通報を受けた警察が漆野宅へ到着したとき、すでにそこは蛻のからだったそうだ。
警察は必死になって漆野を探したが、彼は忽然と姿を眩ませてしまい、いまだにその消息は掴めていなかった。人目につかないところに潜伏しているのか、あるいは海外に逃亡したか、はたまた山奥で死を選んだか――様々な憶測が飛び交った。都内でそれらしき人物を見かけただとか、地方の駅で声をかけられたなどという目撃情報も相次いだが、どれも眉唾もので、噂話の域を出なかった。
これまでに被害に遭った女性の特定も難航しているようだった。
漆野宅から発見された証拠品は、そこで殺人が行われたことを示唆するものであったが、身元の特定に至るまでのものはまだ見つかっていないらしい。
そして、小夜子という異形の存在についても、ほとんどが謎に包まれたままであった。
冷凍庫から人肉が見つかったことで、あの家でカニバリズムの禁忌が犯されていたことは疑いの余地がなかったが、それは単なる「猟奇的な事件」として人々に受け入れられ、そこに人智を越えた存在の影をうかがい見る者はほとんどいなかった。かく云うわたし自身、彼女が本当に吸血鬼や屍食鬼だったのかと問われると自信が無く、三年前に小夜子が死から蘇ったという漆野の話に至っては、もはやほとんど信じていなかった。
モニタの映像がスタジオに切り替わり、出演者たちが各々好き勝手に議論を交わしはじめた。漆野たちの潜伏場所や犯行の動機、事件の人間関係に至るまで、非日常の事件が日常の言語で解きほぐされるのを聞いていると、なんだかあの異常な体験が夢の中の出来事のように思えて仕方なかった。
「警察は漆野和生と漆野小夜子についての情報提供を呼びかけています」
アナウンサーはそう云って話を結んだ。
ニュースを見ていた堀口が、ぽつりと云った。
「はやく、捕まるといいですね」
「そうだね」
わたしはうなずきながらも、漆野が捕まるところを想像することができなかった。
警察が彼を見つけ出せないと云うことではない。彼の小夜子に対する歪な愛情を思い出すと、捕まるくらいなら漆野は死を選ぶのではないか――そう思ってしまうのだ。罪のない女性を十人も手に掛けておきながら、それを贖うこともなくこの世に背を向ける。エゴイスティックな漆野なら、そんな選択をしても何ら不思議ではなかった。
続くニュースはスポーツだった。海外の試合で日本人サッカー選手が活躍したらしい。興味がなかったので、わたしはテレビの電源を落とした。
わたしは再びベッドに寝転び、何となしに堀口の方に目を向けた。そのときふと、堀口の右肘にガーゼがあてがわれているのが目に入った。
「堀口さん、その肘どうしたの?」
ナース服の袖口からのぞく真新しいガーゼ。怪我でもしたんだろうか。
「ああ、気づいちゃいましたか」と堀口は照れくさそうに云った。
「実はこの前、バイクで転んでしまって」
「あなた、バイクに乗るの」
「はい、たまに。昔付き合っていた彼氏の影響で……」
なんだか、昔のわたしを見ているかのようだった。
わたしは堀口に忠告した。
「悪いことは云わないから、バイクだけは止めておいた方がいいよ」
(了)
死肉食む妻 雨宮酔/KADOKAWA文芸 @kadokawa_bunko
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