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 ぼくが家に戻ってくると、二階のアトリエは蛻のからだった。

 もう、終わりだ。

 寝室に隠れていた小夜子の元へ行くと、彼女は不安そうな目をぼくに向けた。

「にげられちゃったの?」

「ああ」とぼくはうなずき、小夜子の頭を撫でた。

「ぼくの負けだ」

「これからどうする?」

「そうだな……」とぼくは考える。

 いずれにせよ、こんなことをいつまでも続けることはできなかったはずで、むしろ、これまで上手くいきすぎていたくらいだったのだ。ここらでもう、終わりにしてもよいのではないか・・・・・・と、ぼくは思った。

 いや――

 そういうわけにもいかないか。

 ぼくのことはいい。

 犯した罪から逃げるつもりはないし、これまで死も覚悟の上で人を殺してきた。

 だけど、小夜子はだめだ。

 小夜子が世間の悪意に晒されるのは許せないし、あってはならない。小夜子はただ、生きていただけなのだ。小夜子のためにもぼくはまだ、歩みを止めるわけには行かない。

「逃げようか」とぼくは云った。

「どこへ?」

「……考え中」

 日本国内に止まることは難しいかもしれない。

 ならいっそ、外国にでも行こうか。小夜子は音楽が好きだから、パリなんてどうだろう。ウィーンやプラハもきっと楽しいはずだ。ぼくの絵が海外で通用するかは分からないが、もしかしたら絵で生計を立てることもできるかもしれない……

 ぼくは家の中から必要なものをかき集め、小夜子を伴って車に乗り込んだ。

「じゃあ、行こうか」

 車の扉を閉め、ぼくは云った。

「うん」とうなずく小夜子の瞳は、相変わらずルビーのようで美しかった。

 ぼくは車を出した。

 行き先は分からない。

 すぐに捕まってしまうかもしれないし、いつまでも逃げ続けられるかもしれない。もしかしたらどこかで野垂れ死んでいるかもしれない。

 バックミラーに、暗闇に佇む我が家が映っている。

 それがどんどん小さくなり、消える。

「ねえ――和生」

 助手席の小夜子が云った。

「和生から、わたしと同じにおいがする」

「鼻がいいんだね」

 ぼくがそう云うと、小夜子は不思議そうな顔をしながらうなずいた。そしてお腹をさすりながら云った。

「なんだか、お腹空いちゃった」

 ぼくは微笑んだ。

 そりゃ、そうだ。

 こんな慌ただしいのは、本当に久しぶりなのだから。

「少ししたら、どこかでご飯にしようか」

 ぼくはそう云いながら、水原の死体を持ってくればよかったな、と少しだけ後悔した。

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