◆第15章 漆野和生

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 ◆第15章 漆野和生

 

 1

 

 水原のアパートから自宅に戻るまでの道中を、ぼくはあまり覚えていない。

 あんなにふらふらの体でよく車を運転できたものだと、我ながら不思議に思う。

 頭の中にあったのは、ただ小夜子の元に帰らなくてはという思いだけだった。

 はやく、はやく、はやく。

 一秒でもはやく家に帰らないといけない。ただそれだけを考えていた。夜更けの道路は車通りもなく空いていたが、やけに赤信号が多かった気がした。

 車の中で、ぼくは意識を失ってから六日経っていることを知った。

 とても厭な予感がしていた。

 暗い夜空を見上げると、分厚い黒雲が天を覆っており、途中から雨が降ってきた。フロントガラスを往復するワイパーの単調な動きが、ぼくの不安をさらに煽った。

 一時間後――ようやく暗闇にうずくまる家が見えてくる。

 ぼくは庭に車を滑り込ませた。転がるように車を降りると、そのまま玄関ポーチを駆け上がる。

「小夜子――」

 鍵を開けて玄関に飛び込んだぼくは、室内に向って呼びかける。

 返事はない。静寂の中、激しさを増した雨の音が響いている。

 家の奥を見ると、居間に灯された明かりが、薄く開いた扉の隙間から廊下に漏れ出していた。誰かがそこにいる。厭な予感が急激に膨らんでいく。

 ぼくは玄関の扉を閉め、鍵穴に鍵を差し込んで施錠した。がちゃり、という音が家の中に響き、背後から聞こえていた雨音が遠のいた。

 ぼくは鍵をポケットに入れると、わずかな躊躇いの後、靴のまま玄関を上がった。

 廊下を進み、明かりの漏れ出す居間の扉に手をかけ、ゆっくりと開く。

 次の瞬間、ぼくは金縛りにあったように、居間の入口で立ちすくんだ。

 そこには木羽と瀬川、そして小夜子がいた。

「来ないで」

 そう云ったのは木羽だった。

 居間の奥の窓辺。床に小夜子が跪き、その後ろにふたりが立ってこちらを見つめている。

「それ以上近づいてきたら、彼女を殺す」

 そう云った木羽の手には、包丁が握られていた。キッチンから持ち出した万能包丁。鈍く光るその刃先は、木羽の足元で項垂れる小夜子の首元に向けられている。ぼくは腹の中に氷の塊を放り込まれたような絶望と、我を忘れるほどの激情を同時に覚えた。

「もし……傷ひとつでもつけたら……」

 ぼくの声は震えていた。

「後悔させてやる。死んだ方がましだと思えるくらい痛めつけてやる」

 いや、小夜子をこんなにも怯えさせた時点で、木羽には必ず罰を与える。もう二度と立ち上がることができなくなるほどの苦痛を与える。勢い余って殺してしまうかもしれない。だけど、もし彼女が小夜子に傷をつけようものなら、そんな手ぬるいものでは済まさない。嬲り殺しだ。考えうる限りの苦しみを与えて、しかも決してすぐには殺さずに、自ら死を懇願しても許さない。生と死の端境を経験させてやる・・・・・・

「やってみなさいよ」

 そう吠えたのは瀬川だった。彼女もまた、キッチンにあった肉切り包丁を手にしている。ふたりの顔は追い詰められた獣のようであった。ここ六日間で顔はやつれ、髪は乱れ、目にはぎらぎらと異様な光を宿している。何をするか分からない。そんな不穏な空気をまとっている。

「彼女に痛い思いをさせたくないなら、わたしたちをここから出しなさい」

 木羽が手にした包丁を小夜子の首筋に近づけた。

「あんたが持っている玄関の鍵、こっちに投げてよこしなさい。変なまねをしたら刺す」

 ぼくは唇を噛みながら、どうすればこの窮地を凌げるか考えた。

 木羽たちを逃がすことは即座に破滅を意味している。だけど小夜子を犠牲に木羽たちを捕らえたところで、何の意味もありはしない。木羽たちとはソファやテーブルを挟んで五メートル以上距離がある。ぼくがどれだけ素早く動けたとしても、間合いを詰めるあいだに、彼女らの持つ包丁が小夜子の首を裂くだろう。

 ぼくに選択の余地はなかった。

 ポケットから鍵の束を取り出すと、ふたりに向って放り投げた。鍵は放物線を描いて床に落ち、木羽がそれを拾い上げた。

「じゃあ次は、道を開けなさい。そのままゆっくり壁際を進んで、ダイニングの奥に行きなさい」

 ぼくは木羽の言葉に従うしかなかった。ぼくは木羽たちから目を離さないまま、ダイニングキッチンの方へ移動した。ぼくが動くのに合わせて、木羽も一歩ずつ移動する。ぼくじりじりとダイニングの奥へ入る。木羽たちはぼくとのあいだに小夜子を挟み、居間の奥から入口へと移動してゆく。重苦しいまでの沈黙。荒い呼吸の音だけが低く響いている。

 このままでは逃げられる。何とか隙を見つけて、小夜子を取り戻さないと・・・・・・

 ぼくがそう考えていた、そのとき――

 唐突に均衡が破られた。

 動いたのは、驚いたことに小夜子だった。

 木羽たちがゆっくりと居間を出ようとしたとき、不意に小夜子が瀬川の手を振りほどいて、ぼくの方へ向って駆け出したのだ。

「あっ」

 木羽の口から驚きの声が漏れた。瀬川も意表を突かれたのか、小夜子を捕まえようと伸ばした彼女の腕は、一歩届かずに空を切った。

 そこからは、まるでスローモーションだった。

 ぼくの元へ駆け寄る小夜子。包丁を手に小夜子を追う木羽と瀬川。弾かれたようにダイニングキッチンを飛び出すぼく。小夜子の顔は恐怖に歪み、それを追うふたりは獲物を狩る肉食獣の目をしていた。ぼくと小夜子との距離はほんのわずかなのに、彼女の伸ばす手が果てしなく遠かった。

 間に合わない――と思った。

 小夜子の背後で、凶暴な目をした瀬川が肉切り包丁を振り上げた。包丁は彼女の頭上でぎらりと鈍く光り、背後を振り向いた小夜子の顔が凍り付く。その光景はぼくの目にデジャヴのように映った。ぼくを殺した水原と、瀬川の顔がぼくの中で重なる。

 底なしの絶望がぼくの上にのしかかってきた。

 止めてくれ――

 ぼくは声にならない叫びを上げた。

 刹那――

 突然の出来事だった。

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。

 小夜子は力が抜けたように床に崩れ落ちていた。そしてその目の前には、木羽が小夜子に覆い被さるようにして立っていた。木羽の肩口が痛々しく切れている。木羽と向かい合った瀬川は包丁を手に、目を丸くして木羽を見ている。

 木羽が――小夜子をかばったのだ。

 小夜子と瀬川のあいだに割って入り、身を挺して小夜子を助けてくれたのだ。

 つかのま、皆が凍り付いてしまったかのように動きを止めた。ぼくは木羽の肩に血が滲みはじめるのを、不思議なものでも見ているかのように、茫然と眺めていた。

 木羽が肩を押さえながら膝から崩れ落ちると、再び時間が動き出した。

 瀬川がヒステリックな声を上げた。

「なんで邪魔するのっ」

 瀬川はもう一度小夜子に迫ろうとしたが、木羽がその腰を掴んで再び瀬川を止めた。その隙に、動くことのできるようになった小夜子は、もつれる足でぼくの元へ逃げてくる。

「だめ」と木羽が痛みに顔を歪ませながら云った。

「殺したら――わたしたちはお終い。あいつは何があってもわたしたちを許さない。わたしたちはいまこの場で殺される……」

 理解できないというように、瀬川が地団駄を踏んだ。

 ぼくは小夜子を抱き寄せた。激しく肩を上下させ、震えている小夜子。その頭を撫でながら、彼女の無事を心から感謝した。

「どうすんのよ」と瀬川が金切り声を上げて木羽を責めた。

「あんたのせいで逃がしちゃったじゃん」

「ごめんなさい」と木羽は云うと、血の滲む肩を手で押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。ぼくは小夜子を背後に隠し、木羽に向かい合う。荒い呼吸の木羽が、ぼくの目を真っ直ぐに見つめている。

「包丁を床に置いてください」とぼくは静かに告げた。

「木羽さん――小夜子を守ってくれて、本当にありがとうございます。感謝の印に、あなたがたがしたことを許します。包丁を置いて、部屋の鍵を返してください。そうすれば、ぼくは何もしませんから」

「諦めて、その女に喰われろって云うわけ?」

「……冷凍庫の中を見たんですか?」

「そうよ。あんた、わたしたちのことを殺すつもりなんでしょ」

 ぼくは言葉に詰まった。木羽は鷹のように鋭い目でぼくを見据えていた。

「生き残りたいなら、わたしたちに選択肢はない」

「・・・・・・そうですか」

 ぼくは小夜子の方を振り返って、寝室に隠れているように云った。小夜子は小さくうなずいて、リビングの奥へと小走りに駆けてゆく。

 ぼくは木羽と瀬川に向って足を一歩踏み出した。

 人質に逃げられたとはいえ、まだ彼女らの手には凶器が握られていて、迂闊には手を出せない。ぼくはダイニングの椅子を手にして、盾のように構えた。

 つかのま、糸を張り詰めたような緊張の中で、睨み合いが続いた。

 沈黙を破ったのは木羽だった。

 彼女はぼくから視線を動かさないまま、隣にいる瀬川に尋ねた。

「瀬川さん、足は速い方?」

 瀬川は戸惑った顔で木羽を見たが、小さく「陸上部だった」と意外な答えをした。

「へえ、偶然。実はわたしもなの。種目は?」

「……一〇〇メートルハードル」

「わたし、走り高跳び」

 木羽は笑いながら持っていた鍵束を手渡すと、「じゃあ、任せることにする」と云った。

 それが合図だった。

 木羽が包丁を腰だめに構え、奇声を上げてぼくに向ってきた。

 一拍遅れて、瀬川が玄関に向って走り出す。

 ぼくは木羽の突進を椅子で凌いだ。だが、それた刃先がぼくの太腿をかすめ、ぼくの動きが一瞬止まった。

 椅子に弾かれた木羽は体勢を崩してよろめいたが、すぐに立ち上がり、包丁をぼくに向けて再び突っ込んできた。腿を切られたぼくは片膝をつきつつも、力ずくで椅子を横に薙ぎ払った。木羽はすんでの所でそれを避け、椅子は空を切った。

 木羽が身をかわした隙をつき、ぼくは椅子を捨てて木羽に向って体当たりした。

 木羽は後ろに吹き飛ばされ、手から包丁を取り落とした。背中を壁に打ち付けたのか、木羽は苦しげに呻き、立ち上がれないようだった。

 ぼくは包丁を拾い、玄関へ急いだ。

 廊下に出ると、玄関の鍵を開けようとしている瀬川と目が合った。焦りのあまり手が震え、鍵がうまく刺さらないようだった。ぼくの手にした包丁を見て、瀬川の瞳に恐怖の色が浮かんだ。

 ぼくは瀬川に向かってゆっくりと一歩踏み出した。

 そのとき――

 

 ふっと、暗闇が舞い降りた。

 

 2

 

 ――暗い。

 墨を塗り固めたような、真っ黒な闇。

 ぼくが思わず足を止めると、背後から木羽の叫び声が聞こえた。

「――逃げて」

 明かりをつけようと、ぼくは手探りで廊下のスイッチを押した。しかし、ブレーカーが落ちているようで、明かりはつかなかった。

 ――停電?木羽が何かしたのか?

 ぼくが不審に思ったそのとき、暗闇の奥から何かがぼくに向って突っ込んできた。

 瀬川だ。

 咄嗟にぼくは体勢を低くした。そして、瀬川の足音が迫ってきた瞬間、手にしていた万能包丁を真一文字に振った。

 かすかな手応えがあった。

 小さな悲鳴と、たたらを踏む足音。しかし浅い。

「死ねっ」と瀬川が叫んだ。そして、肉切り包丁の刃音が耳の近くで鳴った。瀬川がやみくもに包丁を振り回しているのだ。ぼくは音を頼りにして、瀬川の足元めがけて体当たりを喰らわした。不意を突かれた瀬川が体勢を崩し、廊下に肉切り包丁が落ちる音が響き渡った。

「瀬川さんっ」とリビングの方から木羽の声。

 ぼくは倒れた瀬川に向って包丁を突き刺そうとした――が、その瞬間、瀬川がぼくの足に抱きついてくる。ぼくは包丁を取り落とし、尻餅をついた。

 暗闇の中で、ぼくと瀬川はもみ合いになる。

 瀬川は獣のように吠えながらぼくの上にのしかかり、腕を滅茶苦茶に振り回した。その爪がぼくの頬を裂き、肩に食い込んだ。瞬間、ぼくは焼き鏝を押しつけられたような激痛を覚えた。瀬川が爪を食い込ませた箇所は、ちょうど水原に包丁で刺された傷跡であった。

 ぼくは唸り声を上げながら、思い切り腕をなぎ払った。肘がちょうど瀬川の脇腹に入り、彼女は弾き飛ばされる。ぼくは体を起こし、倒れている瀬川に覆い被さった。瀬川の肩らしきところを左手で押さえながら、右手で床に落ちている包丁を探した。

 ――あった。

 ぼくは包丁を手に取り、頭上に構えた。しかしそのとき、鈍い痛みが左手に走った。

 噛まれた。

 ぼくは思わず左腕を引っ込めた。その間に瀬川は立ち上がり、廊下の奥へと逃げ出した。ぼくは音のする方へ包丁を振ったが、その刃先はあえなく空を切った。

「逃げても無駄ですよ」

 ぼくは立ち上がりながらそう云った。そして手を壁につきながら瀬川の後を追った。

 瀬川の持っている鍵さえ取り返せば、もうふたりはこの家から出られない。どこへ逃げようと、どこに隠れようと、木羽も瀬川も袋の鼠だ。

 瀬川は壁や扉にぶつかりながら、廊下側からダイニングキッチンへ入ったようだ。

 好都合だ、とぼくは思った。キッチンにはブレーカーがある。そこで明かりを回復すれば、木羽も瀬川も、もはや隠れることはできない……

 ぼくは瀬川の後を追ってダイニングへ入り、耳を澄ます。

 暗闇の中、床の軋む音とかすかな息づかいが聞こえてくる。

 ぼくはゆっくりとキッチンの奥へと足を進める。そして手探りで食器棚から皿を一枚手に取ると、キッチンの奥に向って云った。

「そこに隠れていることは分かっています」

 ぼくがそう告げると、ひゅっと息を吸う音がわずかに聞こえた。ダイニングテーブルを挟んだ向かい側だ。ぼくはそこに狙いをつけ、手にしていた皿を放り投げた。

 ばりん、と皿が割れる音。そして瀬川の悲鳴。慌てたようにリビングの方へ向う音が聞こえる。割れた皿を踏んだのか、「ぐうっ」と押し殺したような呻きも漏れている。

 ぼくはあえてその後を追わず、ブレーカーをあげることを優先した。

 たしか流しの戸棚に懐中電灯があったはずだ。

 ぼくは戸棚の戸を開けて、鍋や調味料などを触りながら懐中電灯を探した。しかしなぜか見つからなかった。つい先日まで、確かにここにあったはずだが……

 ぼくは仕方なく、ガスコンロの火をつけた。

 墨を流したような暗闇に火が灯り、オレンジ色の光がダイニングに揺らめいた。揺らめく明かりを頼りにして、ぼくは天井付近にあるブレーカーを探った。すると、分電盤全体がガムテープのようなものに覆われていることに気づいた。

 これは――木羽たちがやったのか。

 くそっ、と心の中で毒づき、ぼくは包丁でガムテープを切っていった。ガムテープは何重にも巻かれていて、切ったテープを剥がすのもひと苦労だ。時間稼ぎが狙いなのは明らかだった。

 それに、こうしてあらかじめブレーカーに細工をしているということは、木羽が起こした停電は苦し紛れのものではなく、初めから用意されていたということになる。小夜子を人質にとる思惑がうまくいかなかったときに備えて、あらかじめコンセントに細工を施していたに違いない。

 ぼくは苦戦しながらもテープを取り除き、ブレーカーを上げた。

 ぱっと音を立てて、室内に灯りが戻る。

 ぼくは周囲を見渡す。ダイニングにも、隣のリビングにも、ふたりの姿はない。床には割れた皿が散乱し、テーブルは傾いて椅子も倒れている。ぼくはダイニングから廊下に出て、玄関を見やった。

 

 そこに――木羽がいた。

 

 手に鍵束を持った木羽は、まさに扉の鍵を開けようとしているところだった。

 木羽が振り返り、ぼくと目が合う。一瞬、時間が凍り付いたかのように、ふたりの動きが止まる。

 どうして木羽が玄関の鍵を持っているのか――さっきまでは瀬川が持っていたはずなのに・・・・・・と、一瞬ぼくは戸惑ったが、すぐに暗闇に紛れて鍵が受け渡されたことに気づいた。きっと瀬川の負った傷はぼくの想像以上に深く、脱出を木羽に託したのに違いない。

 膠着状態の中、先に動いたのは木羽だった。

 木羽は身を翻して、玄関ホールの階段を二階へ上りはじめた。ぼくはその後を追いかけた。木羽は思っていたよりも足が速い。ぼくが階段に足をかけるころには、木羽は階段の中程まで上っていた。

 だけど追いつける。

 ぼくは階段を二段飛ばしに上って木羽との距離を詰めていく。

 木羽が振り返ってぼくの顔を見た。

 その背中にあと少しで手が届く……と思ったとき、足元がぬるりと滑り、ぼくはその場で転倒した。

「くそっ」と呟きながら起き上がると、木羽がアトリエの中へ入り、鍵を閉めたところだった。足元を見ると、階段の一部がべっとりと油で濡れている。木羽たちの仕業に違いない。こうなることを見越して、あらかじめ塗っていたのだ。

 ぼくはゆっくりと立ち上がる。

 瀬川にも木羽にも、苦渋を舐めさせられてばかりだ。

 だが――ようやく追い詰めた。

 ぼくはアトリエの扉の前まで行き、中の木羽に「出てきてください」と呼びかけた。

「あなたたちにはしてやられましたよ。停電を起こして時間稼ぎをして、ぼくがブレーカーを上げている隙に、玄関の鍵を開ける作戦だったんですね」

 ぼくはがちゃがちゃと音を立てて、扉の把手を回す。

「とても惜しかったと思いますが、もう、諦めてください」

 玄関の鍵を持っている木羽がここに閉じこもっている限り、下で瀬川が何をしようとも、彼女たちが外に出られるチャンスはない。まさに袋の鼠である。

「諦めるくらいなら、死んでやる」

 扉の向こうで木羽が吠えた。

「あんた、本当に屑よ。あんたの奥さんだかなんだか知らないけど、ひとりの命を生かすために、他人の命を奪うなんて、そんなことが許されるわけない」

「そうでしょうか」とぼくは云った。

「もし、木羽さんがぼくと同じ立場だったとして、あなたは自分の大切な人が痩せていくのを、黙って見ていることができるのですか。自分の大切な人の命と、見ず知らずの人の命を天秤にのせて、それが他人の命に傾くのですか」

「わたしの大切な人たちは――そんなことをしてまで自分の生にしがみつこうとしない」

 木羽は吐き捨てるように云った。

「人の命を《食いもの》にしてまで生きようとするなんて異常。頭がおかしいとしか思えない。あんた、これまでいったい何人殺したの」

 木羽は金切り声を上げながら言葉を継ぐ。

「殺される側の気持ちを考えたことがあるの?あんたが殺した人たちにも大切な人がいたはずだし、その人たち自身も誰かの大切な人だったはずでしょ。あんたにそれを奪う権利があるの?」

「死んでいった人たちには、申し訳ないと思っています。だけどこれは、優先順位の問題なんです」

 そう――ぼくだってこんなことを望んでいるわけではない。小夜子があんな風にならなければ、ぼくらはごくふつうの人生を歩み、ごくふつうの幸せを手にしていたはずなのだ。

 だけど三年前のあの日から、ぼくらの幸せは人の道を外れたところへ行ってしまった。ただ生きているだけで、ぼくらは他人の命を犠牲にしてしまう。しかしだからといって、ぼくたちに幸せな暮らしを諦めさせる権利なんて、誰も持ってはいないはずだった。

 ぼくはそっと扉に手を当て、木羽に云った。

「それに――信じて頂けないかもしれませんが、ぼくは木羽さんを殺すつもりはありません」

「そんな嘘、騙されると思うの」

「嘘ではありません。さっき小夜子をかばってくれたこと、ぼくは本当に感謝しているんです。ここからあなたを解放してあげることはできませんが、せめてものお礼に、木羽さんを手に掛けることは止めにします。もちろん、ときおり血をいただきますが、それ以外の生活はできるだけ木羽さんの要望を叶えられるよう努力します」

「あんた、ふざけてるの?」

「ふざけてなどいませんよ」

 ぼくは本気だった。

「あの地下室で一生過ごせって云うわけ?」

「殺されるよりはよいと思うのですが」

「他の女の人が殺されていくのを黙って見ていろっていうの?」

「自分が殺されるのと比べれば、まだましではないですか」

 もちろん、すぐには受け入れがたいことだろう。だけどこれも優先順位の問題だ。何かを得るには何かを犠牲にしなくてはならない。人は与えられた環境の中で、相対的にましと思える道を選ぶしかないのだ。

 ぼくがそう云うと、木羽はほとんど聞き取れないような声で呟いた。

「あんた、やっぱり頭がおかしい……わたしは、他人の命を犠牲にしてまで生きようとは思わない」

「そうですか」とぼくは答えた。

「ぼくにしてみれば、自分より他人を優先することの方が歪に思えますが」

 たぶん、ぼくたちの話はいつまでも平行線だろう。どれほど言葉を重ねたところで、ふたりの倫理観は決して交わらないのだ。ぼくは溜息をつきつつ、扉の向こうの木羽に云った。

「その話はいったん置いておきましょう。いつまでもこうしているわけにはいきません。木羽さんが鍵を開けるつもりがないのなら、気は進みませんが扉を壊すことにします」

「壊すって……どうやって?」

 木羽の声にかすかな不安が滲んだ。

「一階に手斧があります。この扉は地下室ほど丈夫ではありませんから、何とか壊せるでしょう」

 待って、と木羽が云う。

「そんなことをしても、わたしはここから出ない。あんたの言いなりになるくらいなら、ここで死んでやる」

「それがあなたの選択なら、もはや止めはしません」

 ぼくは扉に向って云った。もとよりあと一ヶ月としないうちに、木羽の肉は収穫予定だったのだ。非常に残念ではあるが、予定が少し早まったと考えればよい。それに――うまくやれば、木羽を無傷で捕らえることもできるかもしれない。

 ぼくは扉に背を向け、足音を立てながら階段へと向った。そして階段を下りる手前で身を翻して、今度は足音を立てないよう、こっそりと戸口へと戻ってきた。

 ぼくが階下へ下りていったと思っている木羽は、この隙に一か八かの勝負に出るに違いない。階段を駆け下りて玄関の鍵を開け、そこから外へ脱出する――それが彼女に残された最後のチャンスだからだ。

 ぼくは扉の脇で息を殺し、耳をそばだてて室内の気配をうかがった。

 アトリエの中はしんと静かだった。かすかに衣擦れの音や床の軋む音が聞こえてくるが、それ以外に音はない。木羽もぼくと同様、扉の向こうでこちらの様子をうかがっているのだろう――と、ぼくは想像した。ぼくは目を閉じ、神経を耳に集中した。

 しかしそこで――ぼくは違和感を覚えた。

 理由は分からない。だけど、何かがおかしい。ぼくは目を開き周りを見渡した。そしてすぐに、その違和感の正体に気づいた。

 ――風が吹いているのだ。

 冬の冷たい夜気。柔らかく吹き付ける風が、どこからか雨の匂いを運んでくる。

 ――おかしい。

 ぼくは顔を上げた。

 どうして風が吹いているんだ?

 玄関も窓も閉まっている。この家には風の吹き込む隙間などないはずなのに……

 ぼくが厭な予感を覚えたそのとき、不意に、扉の向こうから声を掛けられた。

「ねえ、どうせそこにいるんでしょう」

 突然のことに、ぼくはびくりと体を強ばらせた。

「そこでわたしが鍵を開けるのを待ち構えているんでしょ?」

 どうやら見透かされていたようだ。ぼくは平静を装いながら「気づかれましたか」と答えた。

 やっぱり、と木羽が蔑むように笑った。

「あんたは卑怯者だから、そういう手を使ってくると思った」

 そう云う木羽の声には、なぜだか余裕の色が見え隠れしていた。追い詰められているはずなのに、彼女の口ぶりには焦りを微塵も感じない。まるで、すべてが思惑通りに進んでいるとでも云うかのように。

 おかしい――と思った。何か分からない。だが、自分が取り返しのつかないことをしているという直感があった。何か大きな過ちを犯している。大切なことを見逃している……

 ――まさか。

 ぼくはとある可能性に思い至った。

「まさか――あなたは囮だったのか」

 ぼくはそう呟くと、木羽の答えも聞かず、弾かれたように玄関へと向った。

 転げ落ちるようにして階段を降り、玄関を見ると――

 

 扉が開いていた。

 

 ぼくは外へ出た。

 漆黒の闇。降りしきる雨がぼくの肩を濡らす。

 扉を開けたのは瀬川に違いない。

 ぼくは目をこらす。しかしどこにも瀬川は見当たらない。

 まんまとしてやられた。

 ぼくは自分の愚かさを呪った。ぼくはとんでもない勘違いをしていたんだ。

 

 ――玄関の鍵は、初めからずっと瀬川が持っていたのだ。

 

 そう――停電が起きたときからずっと、ぼくは木羽たちの掌の上で踊らされていたのだ。

 木羽が玄関の鍵を持っているとぼくが思い込んでいたのは、ブレーカーが上がった直後、木羽が玄関の鍵を開けようとしていたのを目撃したからだ。

 だが、あれはぼくを騙すための芝居だったのだ。

 木羽が手にしていたのは地下室の鍵束で、玄関の鍵は瀬川が持ったままだったに違いない。木羽はひと芝居打つことで、玄関の鍵を持っているのは自分だとぼくに錯覚させた。そしてその上でアトリエに立て籠もり、ぼくを二階に誘い込むことで、瀬川の逃走経路を確保した。アトリエの扉越しに交わした会話はすべて、時間稼ぎでしかなかったのだ……

 ぼくは氷雨の降りしきる庭に出て、車に乗り込んだ。

 まだそれほど遠くへは行っていないはずだ。いまから車を飛ばせば追いつける。しかし、エンジンを掛けたところで気づく。

 ――ぼくがここを離れたら、今度は木羽が自由になる。

 くそっ――くそ、くそ、くそっ……だけど、どうしようも無い。

 ぼくは歯噛みしつつアクセルを踏みこみ、車を発進させた。

 

 * * * * *

 

 ぼくは血眼になって瀬川を追った。

 黒々とした闇をオレンジのヘッドライトが切り裂き、降りしきる雨を浮かび上がらせた。

 道の脇の茂みや、木々の影、打ち捨てられた廃屋……ぼくは瀬川の潜んでいそうな場所に素早く視線を走らせ、彼女の影を探し求めた。

 だが、山道を下り、麓の市街地の入口まで出ても、ぼくは瀬川の足跡すら見つけることができなかった。

 


 

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