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「くそっ。あの男ただじゃ済まさない」

 地下室から出てきた瀬川の目は、ぎらぎらと鈍く光り、飢えた獣のようだった。

 面長な顔。はっきりとした目鼻と肉厚な唇。数週間の監禁生活で傷んだ茶髪・・・・・・見るからに勝ち気そうな女性だった。

「いまは逃げることだけ考えましょう」

 わたしはそう云って瀬川を急かした。わたしたちは覚束ない足取りで階段を駆け上り、一階の廊下に出た。そこは二階まで吹き抜けになっている玄関ホールのような場所だった。右手にはリビングや浴室へと続く扉、そして左手には大きな木の扉がはまった玄関がある。

 わたしと瀬川は顔を見合わせた。そして先を争うように玄関へ駆け寄り、その扉に手をかけた。

 ――開かない。

 その扉には鍵穴がひとつ開いているのみで、内鍵はついていなかった。玄関の扉を開けるのにも鍵が必要なのだ。

「なんで開かないのよっ」

 瀬川が力任せに把手を引っ張った。

「待って。この中に鍵があるかも」

 わたしは小夜子から奪った鍵束を取り出した。鍵は三つ付いており、わたしはひとつひとつ順に鍵穴に差し込んでいった。しかし――

「やっぱり開かないじゃん」

 瀬川が耳障りな声で怒鳴った。鍵束の鍵は三つとも玄関の鍵ではなかったのだ。

「焦らないで」とわたしは云った。

「瀬川さんは他の出口を探して。裏口とか窓から出られるかもしれないし、それでも駄目なら窓硝子を割ればいい。わたしは地下に行って、小夜子に鍵のありかを訊いてくる」

 わたしは厭な予感がしていた。玄関の扉がこんな風になっているのは、家の中の人間を外へ逃がさないようにするためだ。つまり、万一にも地下から脱走を許したときの保険である。そこまで用意周到な氷田が、他の出口のことを忘れているとは思えなかった。

 わたしたちは二手に分かれた。わたしは階段を下りて、再び小夜子を閉じ込めた部屋の前に立つ。覗き窓を開けて中を見ると、椅子に座った小夜子が怯えた顔でわたしを見た。

「教えて。玄関の鍵はどこにあるの」

 小夜子は怯えた顔のまま黙っていた。わたしは拳を扉に叩きつける。小夜子が身を強ばらせた。

「答えて」

「――知らない」

「嘘。じゃあ、どうやってこの家から出るの」

「うそじゃない。和生の鍵でしか、ここからは出られない」

「あいつは――鍵を持ち歩いているの?」

「――知らない」

 わたしは舌打ちをした。どうやら嘘をついている様子ではなさそうだった。わたしは身を翻して一階へ戻った。案の定、瀬川は出口を見つけられていなかった。

「窓にも鍵がかかっているし、硝子も割れない」

 瀬川が半狂乱になって云った。瀬川は手に木製の座椅子を持っていたが、それは脚が根元からぽっきりと折れていた。きっとそれを窓硝子に叩きつけたのだろう。窓は強化硝子に違いない。

「そっちはどうなの?鍵のありかは分かったの?」

「それが、あの子も知らないって」

 瀬川は顔を歪ませて「どうすんのよ」と云った。

「落ち着いて、考えましょう。部屋の中を探せば鍵が見つかるかもしれないし、助けを呼ぶ方法だってきっとあるはず」

「もしなかったら?」

「絶対にある。諦めないで」

 瀬川は何か云いたげな顔をしたが、それでもうなずいた。

「手分けをしましょう。わたしは二階を探してみる。あなたは下をお願い」

 わたしたちは再び別れた。

 二階へ続く階段を上ると、そこには二つの部屋があった。手前の部屋の扉を開けると、そこは物置のような場所だった。わたしは室内を物色したが、鍵は見つからなかった。

 瀬川の言葉通り、その部屋の窓も鍵なしでは開かないようだった。しかも外側から鎧戸が下ろされているため、外の様子をうかがうこともできない。試しに埃の被ったサイドテーブルを窓硝子に叩きつけてみたが、表面にかすかな痕を残しただけで、ひび一つ入らなかった。

 わたしは隣の部屋に入った。

 そこはアトリエだった。

 キャンバスの乗ったイーゼル。壁を埋める無数の絵画。木枠や布、小さな木椅子、絵筆、絵具チューブ、鉛筆、パレット……油粘土のような、奇妙な臭いが漂っている。

 ――あいつ、絵描きだったんだ。

 わたしは部屋に足を踏み入れ、並んでいる絵画を眺めた。

 写実的な絵だった。

 緻密で、繊細で、神経質と云っても良い油画。人物画や風景画が多い印象だ。芸術についてはずぶの素人だけど、これらの作品が美術館にあっても違和感は覚えないから、もしかすると氷田は名の知れた画家なのかもしれない。

 何気なく絵を見ているうち、わたしはふとあることに気づいた。

 それはそこに描かれている人物のモデルが、すべて小夜子だと云うことだった。

 髪や目の色こそ違うものの、小作りな顔の造形やアーモンド型の目など、紛うことなく小夜子の姿を描いたものである。あるものは椅子に座って微笑み、あるものはグランドピアノを奏で、そしてあるものは何か赤い肉のようなものを食べている・・・・・・

 アトリエを埋め尽くす小夜子の肖像画は、氷田が小夜子に向ける狂気的な愛情を象徴しているかのようだった。

 さらにわたしは、絵に記されているサインに目をとめた。

 キャンバスの下部。黒い絵具でこう署名されている。

「Urushino」

 あいつの本名に違いない、とわたしは思った。さっき小夜子は彼のことを「カズキ」と呼んでいた。つまり彼の名はウルシノカズキ・・・・・・わたしはようやく、自分の闘っている相手の名を知ることが出来た。

 と、そのとき――

 一階から瀬川の悲鳴が聞こえた。

 どうしたのっ、と叫びながら、わたしはアトリエを出て、一階へと下りていった。

 瀬川はキッチンにいた。キッチンには大きな冷凍庫があり、瀬川の目はその中身に釘付けになっている。

「大丈夫?」とわたしが尋ねると、瀬川は黙って冷凍庫を指さした。その指は恐怖のためか、ぶるぶると小刻みに震えている。わたしは息を呑み、白い冷気を吐き出す冷凍庫の中をのぞいた。

 そこには肉が並んでいた。

 数は三〇個ほどだろうか。霜のついた真空パックに詰められたそれは、平均すると握り拳よりもひとまわり大きいくらいのサイズで、馬肉のように色の濃い赤褐色をしたものや、黄色い脂肪のついたものなど、様々な部位が入っているようだった。

「これ……何?」

 わたしが眉をひそめながら呟くと、瀬川は震える指を棚の一角に向けた。

 瀬川の指さす先には、白っぽい皮のついた肉があった。はじめ、わたしはそれを豚足か何かだと思った。しかしよく見ると違う。わたしは、その正体に気づいて息を呑んだ。

 ――人間の手だ。

 白くて細い五本の指がついた人間の手。それが肘の辺りで切断されている。

 わたしは吐いた。

 さっき食べたばかりのパンとバナナ。まだ消化されておらず、でろりとした形を保っている。胃の中身が空っぽになり、胃酸だけしか出てこなくなってもなお、わたしの体はお腹の中身を吐き出そうとした。

「その袋……見て……書いてあるの」

 震える声で瀬川が囁いた。

 云われるままに、わたしは怖々と霜のついた真空パックを見た。たしかに黒いマジックで何か書いてある。わたしはそこに書かれている文字を読んだ。

 ――遠藤 左手

 瞬間、わたしは真相を理解した。

「……食べるんだ」

 わたしはぽつりと呟いた。

 おぞましい。だが、納得がいく。

 いままでわたしは不思議に思っていたのだ。ただ血液が必要なだけなら、何も殺さなくてもよいじゃないか。小夜子の「症状」を公にすれば、合法的な手段で血を手に入れることだって、きっとできるはずなのに・・・・・・と。

 しかし小夜子が血だけではなく、人の肉も食べるのであれば話は別だった。氷田が小夜子の異常性を公に出来なかった訳も、これまでに十人もの女性に手をかけてきた理由も、そう考えれば腑に落ちる。

「食べるって、あいつがこれを食べるの?」

 瀬川が擦れる声で尋ねた。

「違う。氷田じゃない。食べるのは……」

 ――小夜子だ。

 わたしは瀬川に小夜子のことを話した。三年前彼女の身に起きた出来事や、その後、氷田が小夜子のために犯した罪の数々・・・・・・瀬川はわたしの話を眉をひそめて聞いていたが、彼女自身つい先週小夜子から吸血を受けていたようで、信じざるを得ないようだった。

「じゃあ、わたしたちが攫われたのって……」

「そう。わたしたちは彼女の食事。生きているうちは血を吸われて、死んだらその肉を食べられるってわけ」

「逃げなきゃ」

 瀬川は蒼白な顔で立ち上がった。

 その通り。わたしたちは逃げなければいけない。逃げないと、殺される。

 わたしたちは再び鍵を求めて家の中を探し回った。

 一階の寝室やダイニングキッチン、クローゼットの中・・・・・・リビングのピアノの中まで探した。しかしどれほど探しても、鍵は見つからなかった。

「どうすればいいのよ」と瀬川が金切り声を上げた。

「このままじゃ出られない。もしかしたら、あいつが帰ってきちゃうかも――」

 瀬川の云うとおりだった。わたしたちに残された時間は、もうほんのわずかしか残っていないかもしれない。

 わたしは考えた。

 どうすれば、この危機を脱することができるか。どうすれば、この家から逃げ出すことができるのか……

 しばらくのあいだわたしは黙考した。そして五分後、わたしは瀬川に云った。

「ひとつ、考えがあるの」

 

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