◆第14章 木羽明日香

(1)

 ◆第14章 木羽明日香

 

 1

 

 氷田が姿を見せなくなってから五日が経った。

 

 わたしはベッドの中で目を覚ます。

 薄暗い部屋。

 覚醒しきっていない意識の中でぼんやりと天井を見上げる。

 蛍光灯が陰鬱な光を放っている。寿命が近いのか、ときおり思い出したかのようについたり消えたりを繰り返す。その断続的な明滅に呼応するかのように、わたしの意識のスイッチも入ったり切れたりを繰り返す。目蓋の裏に虹色の光の残滓が焼き付いて、ぐるぐると溶けていくかのように回転する。

 ――おおおん――おおお――おおおおん――

 エアコンの音が部屋に響いている。いや、もしかしたら、隣の部屋で瀬川が叫んでいる声かもしれない。ベッドに横たわるわたしの意識は希薄で、もはやその音が現実に聞こえている音なのか、それとも頭の中だけで鳴っている音なのかも、いまいち自信がない。

 ――喉が渇いた。

 わたしはゆっくりと体を起こし、枕元に置いてある五〇〇ミリのペットボトルに手を伸ばした。しかし手に取ってから、それが空であることを思い出した。そうだ、残っていた水は昨日ぜんぶ飲んでしまったのだ。わたしは空のペットボトルを投げ捨てる。ペットボトルは壁にぶつかり、乾いた音を立てて床を転がった。

 わたしの胃袋の中身はとうに空っぽだった。栄養の届いていない頭は霧がかかったようにぼうっと霞み、手足の先が冷えて氷のようだ。くわえて、二日前から脱水の兆候も現れている。口の中は糊がついたように乾燥し、尿の色は濃い黄色だった。

 ――水さえ飲んでいれば、ひと月くらい生きていられるそうです。

 虚ろな頭で、かつて氷田から聞いた話を思い出す。たしか、アイルランドの活動家が二ヶ月半なにも食べずに生きていたという話だった。

 ――じゃあ、水なしなら?一週間?それとも数日?

 わたしは絶望的な思いで枕元の腕時計を見た。

 秒針がひとつ進むごとに、わたしの命が少しずつ削り取られてゆくかのようだった。

 

 気が狂いそうだった。

 ハンガーストライキをしていたころは、死すら怖くないと思っていた。氷田に一矢報いることができるなら上等だ。自分の身がどうなろうと言いなりにはならない。そう思っていた。

 しかし、いざ死を目の前にすると、そのときの覚悟がいかに甘いものだったか思い知らされた。

 瀬川という希望が現れたのも、わたしの覚悟を揺らがせた。なまじっか脱出の夢を見てしまったばっかりに、そこから叩き落とされたときの落差は大きかった。

 狂乱の中、わたしは何度も自分に問いかけた。

 ――どうして、氷田は帰ってこないんだろう。

 彼の身に何かあったんだろうか。それとも、わたしたちは見捨てられたんだろうか。

 いや――

 きっとこれは、罰なのだろう。

 彼に対して反逆を企てた罰。わたしたちが逃げようとしていることに、彼は気づいたに違いない・・・・・・

 だとしたら、もうここから逃げようなんて考えない。

 本当にお願いだから、許して欲しい。帰ってきて欲しい。絶対に逆らわない。大人しく血をあげる。だから見捨てないで欲しい。帰ってきてくれるなら、何だってする・・・・・・

 本気でそう思った。

 だけどそれでも、氷田は帰ってこなかった。

 

 ときおり、聞こえるはずのない幻聴が聞こえてきた。

 あるときは、それは氷田の声だったし、またあるときは、母や、同僚たちや、瀬川の声だった。ひどいときには、名前さえ知らない「この部屋に以前住んでいた女性」の声と会話をしていることすらあった。

 ふと我に返ったわたしは、自分が狂気の淵に立っていることを自覚して戦慄した。

 狂気と正気の境は曖昧で、わたしはその狭間を何度も行き来した。潮が満ちるように彼岸に連れ去られ、潮の引くように此岸へと戻ってくる。その繰り返しの中で、わたしは一歩一歩確実に正気から遠のいているに違いなかった。

 世界が溶けていた。

 そして、わたし自身も溶けていた。

 わたしの意識は無秩序に拡散し、わたしというものが輪郭を失いつつあった。

 すべてが漠然としてはっきりしない。わたしがここにいる理由も、あの男がわたしを攫ってきた理由も、こうして朽ちてゆかなければならない理由も、何もかもがあやふやで意味をなしていない。

 起きているのか眠っているのか分からなかった。

 生きているのか死んでいるのかも分からなかった。

 

 * * * * *

 

 ――また。

 

 聞こえるはずのない音が聞こえていた。

 

 遠くの方からかすかに聞こえる足音。

 わたしの意識は暗い水底に沈んだまま、その幻聴が止むのを待った。

 

 だけど。

 

 ほら。

 声が聞こえる。

 わたしの名前を呼ぶ声。

 

 誰?

 いったい誰がわたしを呼んでいるの。

 

 聞き覚えのある声だった。

 

 わたしはうっすらと目を開く。

 

 目が合う。

 

 赤い瞳。

 

 ――小夜子。

 

 2

 

 鮮やかな赤色をした目が、覗き窓からわたしを見つめていた。

 神秘的な白い睫毛に縁取られたアーモンド型の瞳。その中で、この世のものとは思えない真っ赤な炎が燃えている。その赤さは何に例えれば良いのだろうか。大粒のルビー、燃えさかる炎、あるいは噴き出す鮮血……

 これも幻覚?いや、夢を見ているのかもしれない。

 わたしは首を戸口の方へ曲げて、ぼんやりとその綺麗な瞳を見つめ返す。赤い瞳がゆっくりと瞬かれる。

「木羽さん、起きて」

 とてもか細い声だった。

 霞がかった意識の中、わたしは彼女が誰であるか理解する。

 ――小夜子。

 人の血を吸い、死から蘇ったという、氷田の妻。そして、すべての元凶……

 彼女の瞳にじっと見つめられ、わたしは身動きがとれなかった。

 恐ろしいわけではない。そして不思議と憎悪も感じない。

 わたしはむしろ、その美しさに魅了されていた。わたしは彼女の瞳から目が離せなかった。気を抜くとその中に吸い込まれてしまいそうな予感さえした。

 そして、わたしはふと、彼女がこの世ならざる存在だと理解した。

 理屈はない。ただ、生き物としてのわたしの直感が、彼女が人間ではないと告げていた。彼女が人の血を飲んで生きることも、一度は死んだ身であるということも、きっと事実なんだろうと思った。氷田が云った言葉に嘘はない。彼女は本当に人の枠を超えた存在なんだと思った。

「大丈夫?立てないの?」

 小夜子が心配そうな声で云った。その口調は幼く、まるで少女のようだった。疑うことを知らない無邪気な少女。狡猾で残忍な吸血鬼のイメージとは少し違っていた。

 わたしは力なく微笑んで、「お腹が空いて、喉も渇いて、死にそうなの」と答えた。

「わたしも」と小夜子が云った。その声には必死さが滲んでいた。

「のどがかわいて死にそうなの。ねえ、木羽さんのためにごはんとお水を持ってきた。だからお願い、木羽さんの血をのませて」

 体のどこにそんな力が残っていたのか不思議になる勢いで、わたしはベッドから起き上がった。霧が晴れるように、目の前の景色が精彩さを取り戻す。

「水?本当に持ってきてくれたの?」

「うん――ほら」

 小夜子は覗き窓越しに水の入ったペットボトルを見せた。それを見たわたしの頭は、まるで電気が走ったかのように覚醒する。

「水――」

 わたしはベッドから転げるように降り立ち、ゾンビのような足取りで戸口へ駆け寄った。

「お願い。水、ちょうだい」

 扉越しに小夜子と向かい合う。彼女の白い肌と赤い瞳が手の届くところにある。神秘的なまでの美しさに、わたしは一瞬、自分の渇きさえ忘れてしまいそうになる。

「すきまから、のませてあげるね」

 幅の狭い覗き窓の隙間からは、ペットボトルを受け取ることはできない。だから、小夜子はペットボトルの蓋を開け、飲み口を覗き窓の中へ差し入れた。

 わたしは扉から突き出されたペットボトルに口をつける。

 ひんやり冷たい水。

 ひとくち飲んだ途端、わたしの脳が発火する。禁断症状に陥っていた麻薬中毒者が、薬物を摂取したかのような高ぶり・・・・・・わたしは夢中になって水を飲んだ。水が体中に染み渡り、死にかけた細胞が息を吹き返していくのが手に取るように分かった・・・・・・

 五〇〇ミリのペットボトルは、たちまちのうちに空になった。

「ごはんも持ってきたの」

 そう云って小夜子が見せたのは、色の黒くなったバナナと食パンだった。これしか見つからなくて、と小夜子は謝ったが、わたしにはそれがご馳走にしか見えなかった。

 覗き窓の隙間からバナナを受け取り、震える手で皮をむいてむさぼる。目眩を覚えるほどの美味しさだった。飲み込んだその瞬間から、手足にじんわりと熱が戻ってきたような感覚を覚える。

「ねえ、彼は――氷田はどうしたの」

 パンを受け取りながらわたしは尋ねた。

「氷田?誰、それ」

 そう云って不思議そうに首を傾げる小夜子を見て、わたしは彼がやはり偽名を使っていたのだと知った。

「あなたの旦那さんのこと。どうしていなくなったの?」

 小夜子は不安げに顔を曇らせた。

「わからない。急に帰ってこなくなっちゃったの」

 話を聞くと、彼は六日前の夜から家に帰っていないのだそうだ。

 地下に下りることを彼に禁じられていたので、小夜子は渇きを必死に我慢していたのだという。しかしそれも、限界を迎えたようだった。

「わたし、のどがかわいて死にそう。ねえ、木羽さんの血をちょうだい」

「分かった。でも待って。血は飲ませてあげるから、その前に瀬川さんにも水をあげて」

「瀬川さん?……わかった」

 次は自分の番だと思っていたのか、小夜子は少し不服そうな顔をしたが、素直にわたしの言葉に従った。小夜子が水と食事を瀬川の元へ持って行くと、瀬川はわたしとほとんど同じ反応を示しているようだった。極限状態にある彼女にとって、水と食事を運んできてくれるなら、相手が悪魔だろうと天使だろうと構わないに違いない。

 それにしても――

 わたしはパンを咀嚼しながら考える。

 小夜子がこうして家に残っている以上、氷田はわたしたちを見捨てたわけではなさそうだ。わたしと瀬川だけならまだしも、小夜子まで置いてどこかへ行ってしまったとは考えづらいからだ。つまり考えられるのは、彼の意にそぐわない形で、家を空けざるを得ない状況にあるということだ。

 たとえば――

 わたしはひとつの可能性に思い当たる。

 彼の犯罪が露見し、警察に勾留されている――なんてことは考えられないだろうか。

 誘拐未遂の現行犯で捕まったとか、危険物の所持を見咎められたとか、あとは、瀬川の誘拐が誰かに目撃されていた――という可能性だってある。

 ――これは、もしかしてチャンスなんじゃないか。

 ふと、そんな思いが心に芽吹く。

 いまこの家にあの男はいない。そして扉一枚隔てた向こうには、鍵を持った小夜子がいる。

 小夜子に鍵を開けさせることができれば――

 わたしの鼓動が徐々に速くなっていく。

 きっと小夜子はいま、血を求めてからからに渇いている。その辛さはよく分かる。喉が渇いて仕方がなく、もう血を飲むこと以外に考えられないに違いない。

 そんな彼女を誘惑して、文字通り「血迷わせる」のは、ひどく簡単なことのように思えた。

 瀬川の部屋から小夜子が戻ってきて、扉の前に立った。

「お願い、木羽さん、血をちょうだい」

 彼女はもどかしそうにせがんだ。

 わたしはうなずき、自分の手を覗き窓の隙間に滑り込ませた。覗き窓は思ったより狭く、手首の先を出すのが精一杯だった。

 赤い瞳がすっと消え、かわりに鋭い犬歯の生えた口元が現れた。異様なほど赤い唇を、これまた赤い舌がぺろりと舐めた。手に彼女の吐息を感じた。

 針の刺さるような痛みを指の腹に感じると、たちまちそこから血を吸われていくのが分かった。小夜子の息が荒くなる。ふっ、ふっ、と獣のような息づかい。わたしの指を舌が這い、ゆっくり、焦らすように動いている。吸うというよりも、滴る血を舐め取っている具合だ。少しずつ指先から心地のよい痺れが広がってゆき、官能的な甘い悦びが、わたしを恍惚へ誘い始める。足から力が抜けてゆき、雲を踏んでいるような心地になる。わたしは扉にもたれかかる。呼吸が荒くなり、肩が大きく上下する。首に噛みつかれているときに感じた快楽に比べれば軽いものだったが、それでも気を抜くと意識が遠のきそうになる。

 わたしは覗き窓の向こうを見た。

 狭い隙間から、小夜子の口元がかすかに見えた。抜けるように白い肌。わたしの血で鮮やかに染まった赤い唇、鋭く尖った犬歯。わたしの指を愛おしむように舌で舐めあげ、口にふくんで優しく吸う。こくり、こくりと彼女の喉が鳴っている。

「美味しい?」

 わたしは彼女に尋ねた。吐息混じりの声は細く震えていて、まるで睦言のようだった。

「すごくおいしい」と小夜子は答えた。

「ねえ、そうやって舐めるだけじゃ、もどかしくない?」

 淫婦のように、わたしは小夜子を誘う。小夜子が指から口を離し、怪訝な目でわたしを見つめる。

「いつもみたいに首から飲みたくないの?」

 小夜子の瞳が毒々しいまでに赤くなった。

「ほんとうに――いいの?」と小夜子が云った。

 もちろん、とわたしはうなずく。

「あなたは、わたしの命の恩人だから」

 小夜子の瞳は迷うように揺れている。それはまるで、焚火の中の炎がちろちろと薪を舐めているかのようだった。

 彼女の心の中が手に取るように分かる。

 わたしのことを信じていいのか――それを必死に考えているに違いない。

「いまは、助け合いましょう」

 わたしが甘い言葉を云うたびに、彼女の心が誘惑に絡め取られていくのが見て取れた。信じてはいけないと思っていても、絶望的なまでの渇きが自分自身を騙すのだ。わたしの血をほんのちょっぴり飲んだのは、彼女にとっては悪手だっただろう。空っぽのお腹で少しだけ食事を摂ったときのように、かえって自分の渇きが際だってしまったに違いない。

「だけどそんなことをしたら、木羽さんは逃げるんじゃないの」

「逃げない。そんな力、残ってない」

「うそじゃないよね」

「本当。それに、せっかく助けてくれたあなたを裏切らない」

 小夜子の瞳がわたしを見つめる。わたしはその瞳を真っ直ぐに見つめ返す。

 つかのまの逡巡。そして――

 

 がちゃり。

 

 扉の鍵が開かれる音。把手が回され、扉がゆっくりと開かれた。

 目の前に現れたのは、真っ白な女だった。

 銀に近い白をした長い髪、血管が透けて見えるほどに白い肌、燃えるように赤い瞳。いわゆるアルビノなのだろうか。身に纏っている白いナイトウェアよりもなお、彼女の肌の色は白かった。神々しさすら覚えるその姿に、わたしはつかのま目を奪われた。

「どうしたの」

 小夜子が怪訝そうな顔で尋ねる。

「なんでもない」と我に返ったわたしは答える。

「さあ、こっちに来て」

 わたしは小夜子を誘うように招き入れた。小夜子は不安げな顔つきで部屋に入ってくる。わたしはさりげなく彼女を観察した。細い首に細い腕。ガラス細工のように儚げなその体は、抱き締めたらぽっきりと折れてしまいそうだ。そしてその手には、この部屋の鍵束が無防備に握られている。

「小夜子さん」とわたしが呼びかけると、彼女ははっと身を強ばらせた。わたしの声に滲む緊張を感じ取ったのだろう。

「お願い、その鍵をちょうだい」

 わたしがそう云うと、小夜子の顔に怯えと後悔が走った。

「どうして。逃げないっていったのに」

「ごめんね」

 わたしは小夜子に歩み寄る。小夜子の体は小枝のように細く、わたしの方が彼女より十センチ以上も背が高い。ふつうに考えれば、力ずくで奪い取ることはできる。だけど相手は人間じゃないかもしれない。果たして常識が通じるだろうかと、不安が胸をよぎる。

 しかし、その心配は杞憂だったようだ。小夜子は怯えた子どものようにその場に立ちすくみ、震える手で鍵の束を差し出した。わたしは鍵を受け取ると、小夜子へ部屋の奥に行くよう命じた。

「わたしをどうするの?」と小夜子が不安げに聞いた。

「なにもしない。ただ、そこで大人しくしていて」

 わたしはそう云うと、小夜子を残して部屋の外へ出て、扉の鍵を閉めた。逸る気持ちを抑えながら、わたしは瀬川を解放するため、廊下の奥の部屋へと向った。

 

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