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一週間後の一月二十八日、金曜日――夕刻。
扉を開けた水原の目は、どこか暗かった。
ぼくが部屋に入ると、いつものように水原は服を脱ぎ、椅子に座った。こころなしか先週よりもあばらが浮いている気がした。ぼくも黙って椅子に座り、筆先をオイルで濡らした。
水原のポートレートは完成間近である。
先日描いた下絵の上から、クリムソンレーキとバーミリオンをグレーズし、肌の熱を描いてゆく。続いて、蛍光灯の冷たい光を表現するため、ビリジャンを混ぜたグレーを薄くぼかしこむように広げる。絵の具が乾ききっておらず、濡れたままの状態であることを利用して、光と影の自然なトーンを画面の中で混ぜ合わせる。
ぼくは無心で筆を動かした。
初めの二〇分はあっという間に過ぎた。
休憩に入ると、水原が珈琲を淹れてくれた。
いつもならそこでひと言ふた言、言葉を交わすのだが、今日はお互い口を開かなかった。
その後も黙々と描き続けた。
画面の中の水原の肌に血が通い、どんどん完成へと近づいているのが分かった。そしてそれにつれて、ぼくは不思議と筆が重くなるのを感じた。
怖いのだ――と思った。
この絵が完成したら、水原はぼくをどうするつもりだろうか――そんな不安が胸に淀んでいる。水原はすでに、瀬川の存在がぼくの弱みであることを理解している。もちろん、ぼくが彼女を監禁しているとは夢にも思わないだろうが、それをネタにすればぼくが云うことを聞くと知ってしまった。だとしたら、彼女はさらに要求をエスカレートさせるかもしれない。それが杞憂に終わるならいい。だけどもし、脅迫を続けるようならそのときは・・・・・・
――水原を殺すしかないだろう。
危うい選択なのは承知している。だけど、いつまでもこの脅迫が続くようなら、そうせざるを得ないだろう。水原を殺すか、生かすか――その選択次第では、進んだ道の先に破局が待ち受けているかもしれない。いや――もしかしたら、どちらを選んだところで破滅という結末は変わらないのかも知れない。だけど――
ぼくと小夜子との暮らしを、これ以上邪魔される訳にはいかないのだ。
三回目の休憩に入ったとき、水原がその日はじめて口を開いた。
「先生」
ぼくははっと顔を上げて水原を見る。水原は椅子に座ったまま、真剣な眼差しでぼくを見つめていた。
「わたしの体、どう思いますか」
ここで答えを間違えたらいけない。ぼくは焦りながらも「綺麗だと思うよ」と答えた。
水原はぼくから目を離さず、さらに問いかけた。
「先生が車に乗せていた人と、どちらが綺麗ですか」
ぼくは天を仰ぎそうになった。
「信じてくれないかもしれないけど、ぼくはその人の裸を見ていないよ。だから、どちらの方が綺麗かは分からない」
「どうしてそんな嘘をつくんですか」
水原の目が険しくなる。
「あんな派手な女を連れて、じゃあ、何のためにあんなことをしたんですか」
妻の食事にするため――とは口が裂けても云えない。いや、云ったところで、これこそ信じてもらえるはずのない話である。
「信じてくれないのは仕方がない。だけど、誓って疚しいことはしていないよ」
そうですか、と水原は云った。たぶん信じてはいないだろう。どう釈明すべきか悩んでいると、再び水原が口を開いた。
「本当に、綺麗ですか」
「え?」
「わたしの体です。本当に綺麗なんですか?」
ぼくはうなずいた。
「じゃあ、なんで手を出さないんですか」
水原は喉から絞り出したように囁いた。
「それは――」
「わたしの体が魅力的じゃないからですか」
「そういうわけでは――」
ぼくが答えられずにいると、水原がゆっくり椅子から立ち上がった。そしてこちらへ静かに歩み寄ってくると、ぼくの足元に跪いた。彼女の手が、ぼくの手に触れた。とても冷たい手。水原が濡れた瞳でぼくを見上げる。きめ細かい肌の粒子が見えるほど、彼女は顔を近づけてくる。ぼくがつけているのと同じ香水の匂いが薫ってくる。
「先生――」
切ないまでに甘い囁き。
「わたし、先生を好きでいてはだめですか」
ぼくは思わず目を閉じた。
いっそ抱いてやれば満足するのか――そんな思いすら頭をかすめた。
いや、だめだ――
目蓋の裏に、小夜子の顔が浮かぶ。
ぼくは彼女の肩に手をかけ、そっと押し返した。
「その気持ちには、応えられない」
水原の瞳が暗く蔭り、顔から表情が消えた。力が抜けたようにぺたりと床に座り込む。
「そうですか」と小さく水原は呟いた。
つかのま、部屋の中を静寂が支配した。動くものはひとつもなく、水原はまるで彫像にでもなってしまったかのように、焦点の合わない目で足元を見つめている。
やがて、休憩の終わりを告げるアラームが鳴った。水原は夢遊病患者のように立ち上がり、元の場所へと戻っていった。椅子に腰掛けてポーズを取る彼女の顔は、魂が抜けているかのように虚ろで、地下室の女たちが死を悟ったときの顔によく似ていた。
作品が完成したのは、それから一時間余り経った後だった。
ぼくは大きく息を吐いて筆を置き、ひと言「終わった」と告げる。
水原が裸のままこちらに歩み寄ってきた。その顔は相変わらず能面のようだったが、その奥底には、かすかに期待の色が見え隠れしていた。
ぼくは椅子から立ち上がり、彼女に場所を空けた。水原はキャンバスの前に立つと、網膜に焼き付けようとするかのように、じっと自分の肖像画を見つめた。
ぼく自身でも満足のいく出来だった。
F十五号のキャンバスの中央に、水原は腰掛けている。
一糸まとわぬ彼女の裸体には、背徳的な官能が漂っていた。すらりと伸びた足、柔らかく潰れた乳房、真っ直ぐに切り揃えられた前髪……彼女は華奢な体を両手でかき抱き、若干顔を伏せながら、上目遣いにこちらを見つめている。
ぼくの心象を映し出してか、彼女の表情はこちらを弄ぶかのように嗜虐的だった。病的なまでの痩躯は見るものを退廃へ誘い、その視線は彼女から目を背けることを許さない・・・・・・
しばらくキャンバスに見入っていた水原は、擦れた声で呟いた。
「――さすがです」
驚いたことに、彼女の目には涙がにじんでいた。
「わたし、満足です」と水原は云った。
「これでもう、吹っ切れました」
水原はこちらを振り向くと、穏やかな顔で微笑んだ。その顔は本当に柔らかで、まるで憑き物が落ちたようにさっぱりとしていた。
午後八時四五分――
「あと少しだけ、ここにいてくれませんか」
荷物をまとめていると、水原がそう云った。はっと彼女を見つめると、よほど警戒した顔つきをしていたのか、水原はおかしそうに「そんなに心配しないでください」と笑った。
「もう、好きになってくれとは云いませんから」
彼女はそう云って、椅子に腰掛けるように促した。いまさら拒む理由もなく、ぼくは云われるがままに従った。彼女は黙っていたので、ぼくの方から口を開いた。
「これからどうするんだ」
彼女ほどの力があるなら、大学を止めて筆を折ってしまうのはもったいない。それがぼくの本音だった。お互いこれまでのことは忘れて、また一から始めないか――ぼくは水原にそう云った。
「ありがとうございます。だけど、わたしはもう絵を描くつもりはないです」
「そうか、それは残念だ」
ぼくは心の底からそう云った。本当に残念だった。
しばしのあいだ沈黙が部屋を支配した。ぼくを引き留めた割には、水原は黙ったままであり、何か話があると云うよりは、ただこの時間を惜しんでいるかのようだった。
沈黙したまま、三十分あまりが過ぎた。
「そろそろ行くよ」
ぼくは腰を上げた。水原は立ち上がったぼくを見上げ、「はい」と小さくうなずいた。
手荒なことをせずに済んで、ほんとうに良かった。ぼくはほっと胸をなで下ろした。彼女が負った心の傷は深いのだろうが、きっと時間がその傷を癒やしてくれるはずだった。
玄関へ向うぼくの後ろに、水原がついてくる。
水原と会うのは、これで最後になるかもしれない。大学を止め、絵筆も折るのであれば、もう顔を合わせる機会もないだろう。最後にどう言葉をかけるべきか……
そんなことを考えていた――そのとき。
焼けるような痛みが体を貫いた。
背中――
痛くて、熱い。
振り向くと、後ろに水原がいた。
ぼくの背中に寄りかかるように、ぴったりとくっついている。
「――仕方ありませんよね」
水原はそう云うと、すっと一歩後ろに下がった。
その手には、べったりと赤い血のついた包丁が無造作に握られていた。
そこでようやく、ぼくは自分が刺されたことに気づいた。
「――なんで」
ぼくは距離を取ろうとしたが、足に力が入らず、そのまま膝から玄関に崩れ落ちた。
そこに追撃が飛んでくる。
すんでの所で躱したが、包丁の刃先が脇腹をかすめた。ぼくは無我夢中で水原の足に取り付いた。水原が尻餅をついて倒れる。下駄箱に乗っていた観葉植物の鉢が落ちて、三和土に当たって砕けた。
背中からゆっくりと、温かい血が流れているのが分かった。
逃げなければ殺される。
ぼくは床に這って玄関を目指したが、すぐに追いつかれた。振り向くと、水原と目が会う。頭上に振りかぶられた包丁が鈍く光っていた。
「安心してください」
水原は穏やかに笑う。
「わたしも一緒に死んであげますから」
はじめから、そうするつもりだったのか。
「――よせ」
振り下ろされた刃が肩に突き刺さった。ぼくは声にならない叫びを上げる。
――こんなところで殺されるのか。
ぼくの頭の中に、小夜子の顔が浮かぶ。眠たげに目を擦る小夜子。屈託のない顔で笑う小夜子。ぼくの血を飲みながら赤い瞳を輝かせる小夜子……
――死ぬわけにはいかない。
「待て――分かった――云うことを聞くから」
ぼくは水原に云った。
「君の気持ちを受け入れる。だから――」
「先生――」
水原はぼくを見下ろして云った。血飛沫が飛んだその顔には、仏像のように柔和な笑みが浮かんでいた。
「――仕方ありませんよね」
そう云うと、水原は再び血に濡れた包丁を振り上げた。
4
そうだ――ぼくは水原に刺されたんだ。
冷たい床の上に倒れていたぼくは、ようやく記憶を取り戻した。
あのとき――水原の振り下ろした包丁はぼくの胸を刺し貫き、そこから温かい血がどくどくと溢れ出た・・・・・・血を失い、体に力が入らなかった。逃げようと思っても、立ち上がることさえできなかった。
朦朧としているぼくに、水原は何か云っていた。だけど、何と云っているかは分からなかった。ぼくの意識は徐々に遠のいて行き、目の前に暗幕が降りていった。
死ぬのか――と思った。
不思議と恐怖はなかった。ただ、小夜子に別れを云えずに死ぬのが、ひどく残念でならなかった。
――そう。
ぼくは死んだはずだ。あのとき、確かに殺されたはずなのだ。それなのに――
いま――どうしてぼくは目を覚ましたのだろう。
ぼくの目の前には、水原が寄り添うようにして横たわっている。死んでから日が経っていることは明らかで、満足げな笑みの浮かんだその顔は、すでにかなり変色が進んでいた。
――何が起きたんだ。
ぼくは身を起こそうとしたが、まるで手足が鉛に変わってしまったかのように重かった。
ぼくはナメクジのようにゆっくりと、指先から順に体を動かしていった。寝返りを打つようにしてうつ伏せになり、腕の力を使って何とか四つん這いの体勢になる。たったそれだけの動作に、気が遠くなるような時間を費やした。
体を起こしたぼくは、改めて横に寝ている水原を見る。
水原の周りは血溜まりである。いや、その血はすでに渇いてしまっているため、血溜まりだったと云う方がよいかもしれない。乾燥して凝固した血液は赤黒く、粘度の高い糊のように床にこびりついている。
血の出所は水原の首筋だった。ぼくを刺したのと同じ包丁を使ったのであろう。耳の下辺りにぱっくりと大きな裂け目があり、その内側から柘榴のような肉がのぞいていた。
ぼくを刺した後、彼女も自ら命を絶ったのだ。
水原が刃で首を切り裂く光景を、ぼくは想像する。
彼女はきっと躊躇しなかっただろう。水原は溢れ出る自分の血液に浸るようにして、ぼくの隣に身を横たえたのだ。自分の体から徐々に温もりが消えていくのを感じながら、ゆっくりと彼女は死んでいく。それが幸せな最期だったことは、彼女の死に顔を見れば想像に難くなかった。
きっと初めからこうするつもりだったんだろう。
ぼくを殺して自分も死ぬ。ぼくが水原を拒む以上、それしか道はないと思ったに違いなかった。だけどそれなら――
なぜぼくはまだ生きているのだろうか。
ぼくは傷を負った胸元に手を当てた。痛みはない。致命傷だと思っていたが、浅かったのか?ぼくはどす黒く染まったシャツを捲り、水原に刺された箇所に目をやる。すると――
――傷が塞がっていた。
傷跡らしきものがかすかに残っているものの、それは何年も前に負った古傷のように、皮膚が完全に癒合している。慌てて肩と背中にも手をやると、そちらも傷が癒えている。
ぼくは戸惑った。
いったいぼくの身に何が起きたのだ。ぼくは確かに刺されたはずだし、血も流していた。それなのになぜ、その傷が塞がっているのだろうか。
異常である。
説明がつかない現象である。
だけど――ぼくはこれと同じことを知っている。
――小夜子。
あの夏――彼女もまた、死の淵から蘇ったではないか。小夜子と同じことが、ぼくの身にも起きているのだとしたら?
ぼくは自分の腕を見た。
白い。蝋燭のように真っ白だ。血を喪ったせいかもしれないが、だとしてもここまで白くなるだろうか。
そのとき、ふとぼくの頭の中に、ひとつの情景が浮かんできた。
それは小夜子がぼくの血を吸うとき必ず行う儀式・・・・・・自分の指に傷をつけ、そこから染み出た血をぼくに舐めさせる・・・・・・あのセンシュアルな交わり・・・・・・
小夜子の血を口にふくむと、脳が蕩けるような感覚に陥る。ぼくと小夜子がひとつになったかのような充足感。自分の体のうちに小夜子を感じるのだ。しかし――
――もしかして「あれ」が原因で、ぼくも小夜子と同じ存在になったのだろうか。
ぼくは必死に考えようとした。だけど、頭の中に泥でも詰まっているみたいに、思考が前に進まなかった。脳味噌が状況を整理できていないのだ。思考は分散し、考えなければいけないことがとりとめもなく浮かんでは消えてゆく。自分の体のことや、倒れている水原のこと、完成した彼女の肖像画のこと、瀬川のこと、木羽のこと、そして――小夜子のこと。
そうだ――小夜子。
ぼくははっと顔を上げる。
ぼくがここで倒れてから、どれくらい時間が経ったのだろうか。
窓を見ると、外は夜中のようだった。丸一日意識を失っていたのだろうか?それとも数日?一週間?
ぼくはぞっとする。ぼんやりしている場合じゃない。はやく家に帰らなくては。
ぼくは立ち上がろうとした。しかし体が動かなかった。足に力が入らないのだ。がくがくと膝が震えて仕方がない。エネルギーが足りない……腹が減っている。
ぼくは傍らの水原の屍体を見る。
土気色をした肌に開いた裂傷から、目を離せなくなる。
――わたしの体、どう思いますか。
そんな水原の声が聞こえた気がした。
灯りに惹かれた火蛾のように、ぼくは彼女の体に引き寄せられた。抗いがたい誘惑。穏やかに目を閉じ、満足げな笑みを浮かべる彼女の体に、ぼくは覆い被さる。そして――
ひどく冷たい水原の肌に、ぼくは口をつけた。
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