終章

終章

   終章


 空気が冷え切っているからなのだろうか、排ガスの臭いはいやに鮮明だった。

 形も大きさも様々な金属の塊が、失えば二度と戻らない人の命を体内に含みながら、時速何十キロという速度で動いている。慣れが感覚を鈍らせているだけで、考えてみると実に奇怪な光景だ。太古の人間を連れてきたら啞然とするに違いない。あるいはことによると、こうして近くにいるだけで恐怖に卒倒してしまうだろうか。

 この場所で事故が起きてから十三年が経つ。

 父は毎年、光彦と伊地知家の墓参りをかかさなかった。だとすればその前に、この場所を訪れなかったはずがない。父はそういう、不器用にも律儀な人間なのだ。

 折角、ここまで来たのだ。父に会って行こうと思った。

 横断歩道を渡ると、すぐに左手に墓地がある。小高い丘の斜面に所狭しと墓が並んでおり、どの墓石の後ろにも十本くらい木札が立てられている。だからか、雑然としているわけではないものの、どことなく大衆的な雰囲気が漂っている。

 コンクリートの階段を少し上った後、丘の中腹で右に曲がると、離れ小島のような区画に行き当たる。墓地の境界を成すブロック塀に民家の壁が接しており、右側には手入れが行き届いていない藪が繁茂している。

 宮益坂交差点がよく見えるその場所に、父が眠る墓がある。

 何とも奇妙で、見ようによっては皮肉な偶然だった。

 そよ風に乗るようにして、自動車の走行音が丘を迫り上がってくる。藪のざわめきがそれに混じる。

 父の死から半年が経った。

 藤池光彦事件の真相は未だ公になっていない。中林が意欲を示していた再捜査も今のところ具体的な形になっていなかった。警察上層部の中に事件を曖昧なままに風化させようともくろむ勢力がいるのは想像に難くない。恐らくは組織内での駆け引きが続いているのだろう。

 テレビが事件を扱うこともめっきり減った。時たま雑誌が特集記事を組むことはあったけれど、八百万の人物像を掘り下げるのが関の山で、まだ真相からは程遠い。

 凛香の秘密は、まだ守られている。

 私は目を閉じ、手を合わせた。

 一つだけ、疑問が残っていた。

 なぜ父は、八百万をわざわざ訪ねるようなことをしたのだろう。

 八百万こそが全ての元凶だったと知り、義憤を抑えきれなくなったのだろうか。法の裁きを逃れ続けてきた八百万に、私刑を加えようとしたのだろうか。

 ありえない話ではない。どちらも真相の一面かもしれない。

 でも、それだけではないような気がする。自分の鬱憤を晴らすためだけに八百万の自宅に乗り込むなんて、父らしくない。

 闇の中に、現実であって欲しくない、もう一つの可能性が浮かぶ。

 もしかすると父は、八百万が今でも児童への性的暴行を働いているのではないかと疑ったのではないか。そのことを確かめるために自宅に乗り込んだではないか。

 光彦は八百万の陰部を使えなくした。が、性的暴行はそれを使わずとも可能だ。

 八百万には心当たりがあった。だから父の後頭部を鈍器で殴りつけた――

 本当のところは、分からない。

 目を開けかけて、すんでのところで止めた。そうだ、もう一つ大切な願いがある。

 明日は、母の昇進試験の日なのだ。

 せめて今度くらい力を貸してあげて。心の中で、そう唱えた。


   *


 モノレールの窓から、まるで兵士のように整列する夥しい数の墓石が見えた。

 近づけば、見渡す限りの墓だった。いったい何人がここに眠っているのか、検討すらつかない。

 目的を忘れ、何をするでもなく歩く。墓は規格化されていて、どれをとっても同じような姿をしていた。どこか儚げな冬の青空がいつもよりも遠く感じる。

 この光景を前にして、社会の商品化もここに極まれりと嘆く人もいるかもしれない。でも私には何だかすがすがしかった。ここで眠っている一人一人に、置き換えがきかない物語がある。そこには幸せな人生も不幸せな生涯も混じりあっているに違いがない。そういう個性や多様性みたいなものを、死という絶対に平等な事実でもって、この墓場はあっけらかんと均しているのだ。

 その中には、伊地知家の四人もいる。

 遅ればせながら途方に暮れた。どうやって見つけ出せばいいのだろうか。

藤池家の墓のある墓地は小さめだったので、順繰りに名前を確かめても然したる時間はかからなかった。ここは訳が違う。しらみつぶしに探そうものなら、見つかる頃には日が暮れているだろう。

 こういうことなら、墓石の位置も書いておいて欲しかった。

 父は数十冊にも及ぶ捜査用のメモ帳を遺していた。母が隠した最後の手帳も含めて、それらは私が預かることになった。いつしか、家で時間がある時にパラパラとページを捲るようになった。筆圧に押されてできた窪みの手触りは心地よく、昔の父と交信をしているような不思議な気分だった。

 その中の一つに光彦と伊地知家の墓地の住所が記されているのを見つけたのは去年の師走のことだ。

 毎年事故があった日に、父が必ず墓参りに行っていたことを思い出した。そこで稔と出会ったのが、全ての始まりだったということも。

 だから私は、父のまねごとをすることにした。

 そう言えば入って来た門の脇に事務所らしき建物があったはずだ。そこで聞けば分かるかもしれない。来た道の方へ振り返ろうとした時。

 遥か彼方、隅っこの方に、墓碑の前に跪き合掌する老人が見えた。

 老人は石像のように微動だにしない。紺色の厚ぼったいダウン、白くなった髪の毛。顔はよく見えない。でも、深い祈りであることが遠目でも分かる。

 足が、前に出た。

 一歩を踏みしめるごとに姿が大きくなっていって、でも、老人が動き始める気配は欠片もないままだった。近づけば近づくほど、菊子のように曲がった背骨だとか、ひどく痩せていることだとか、灰色と黄土色が混じったような右頬に大きな黒子があることだとかが仔細に見えてきて、それに比例するように、素直な心臓がドクドクと騒ぎ始めた。どうしてだか私の精神には確信が隅々まで敷き詰められていて、気のせいに決まってると水を差そうにも、その隙はどこにも無かった。

 二十メートルという距離になった。老人がよろめきながら立ち上がった。見えた。伊地知家。大群の中に埋没した墓石には、そう刻まれていた。

 たわんだ灰色の皮膚に覆われた手で桶を摑んだ老人が、私の方を見た。一瞬だけ老人は目玉を左に動かしたが、秒も経たぬうちに、歩調を緩める私へと再び眼差しを送った。今度は私の方が一瞬、伊地知家という墓碑に視線をやって、またすぐに、何かに迫られるみたいに、老人の濁った瞳に目を戻した。

 自分をこういう状況に投げ込んだくせに、どうすべきか分からなかった。

「良子の、友達か何かですか?」

 老人の首がズイっと前に出る。

「え? そうなんでしょ?」

「いえ、そうではなくて」

 両手で否定した。

「少し、縁があって」

 咄嗟にそう返した。

「縁?」

「ええ、縁です」

 深く追及されるのではと身を固めた。だが、老人は白い息を吐き、

「いやはや、そうですかぁ」

 その顔が、華やぐ。

「ああ、私は、良子の祖父の佐市郎です」

 伊地知佐市郎は、ただでさえ歪んでいる腰をさらに曲げた。

「上沢莉帆です」

 本名を、私は告げた。

「毎年誰か、いらしてくれてるのは存じ上げていたんです」

 佐市郎は墓石に目をやる。

「私が、ここに来るとね、よく、燃え尽きたばかりの、お線香があるんです」

 根の深い咳をしてから、佐市郎は私に向き直った。

「どなただろうと、ずっと思ってたんですが、そうですか――あなたでしたか」

 佐市郎の目がトロリと綻んだ。私は曖昧に笑った。

「もしよかったら、これからも、来てやって下さい」

 痰の絡んだ細い声が言った。

「いつでも、遊びに来てやってください」

 そしてもう一度、佐市郎は墓を振り返った。

「誰かが来るだけで、喜びますから」

 去り行く佐市郎の背を、私は見つめた。

 墓石の前へと歩みながら。またここに来ようと、私は思った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

浅野皓生/KADOKAWA文芸 @kadokawa_bunko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る