03 谷名瀬早和子
死体は重かったし、その後何度か夢に出た。父と母ではなく、なぜか達彦の遺体を泣きながら引きずっている夢も見た。そういう夢を見て目を覚ますとなかなか寝付けなくなり、お酒の量が露骨に増えて、達彦(ちゃんと生きている)に心配されてしまった。
「いきなりご両親が亡くなったんだから、大変なのは当たり前だよ」
そう言って寝酒に付き合いながらほどほどに収めてくれたことには、本当に感謝している。この人に出会えてよかったと思ったし、だからこそ別れようとも思った。私を通して、彼と孝太郎との間に接点ができてしまっていることが、怖かった。
でも結局、私は達彦と縁を切れなかった。私が迷っている間に達彦が「ご両親の喪が明けたら籍入れない?」と言ってくれたのだ。そうしたらもう、バカみたいに泣けてしまって駄目だった。私はずっと達彦の傍にいて、この人を守ろうと決めた。
孝太郎はあの家を手放したらしい。「適当な値段で不動産屋に売っちゃったんだ」という話を、葬儀の打ち合わせ中、実家のリビングで聞いた。
「相場よりだいぶ安いとは思ったけど、なにしろ曰くつきだし、俺が金出した家と土地じゃないから別にいいやと思ってさ。ははは」
「そうなの」
そう言いながら、内心驚いていた。孝太郎はすぐにそれを見抜いたらしく、「姉さん、俺に対する信用が本当にないね」と笑った。
「俺だってこれ以上、あの離れを『人を自然死に見せかけて殺せる便利な装置』扱いなんかしないよ。だってあそこに住んでる人がいるんだからさ、そんなこと続けたら迷惑でしょ」
当然みたいにそう言われて、私はどう返したらいいのかわからなかった。
「姉さん、心配しなくていいよ。俺、おやじとおふくろほど嫌いな人間って、今のところこの世にいないから。たとえば姉さんのことは嫌いじゃないし、実家のこと色々やってくれるんで感謝もしてる。達彦さんにはもちろん何の恨みもないし、親切で楽しいから結構好きだよ。それに、あの家と縁を持ち続けること自体、桃子にとってあまりよくないかなと思って」
「相変わらず桃子ちゃんの心配はするんだ」
「するよ。俺の奥さんだからね」
「あんたみたいな人間が、どうして桃子ちゃんのことはそういうふうに尊重できるの?」
「本当に信用がないなぁ。一緒に暮らしてもいいと思えるような赤の他人は貴重だって、姉さんも思わない? 桃子は味覚と嗅覚の好みが俺とかなり似てて、本や映画の趣味も合って、めんどくさい親族もいないし、押しつけがましくない。顔も好きだし」
孝太郎は楽しそうに桃子ちゃんの好きなところを挙げていき、最後に、
「あとね、家庭に対するイメージが貧困っていうか、要するにそのあたりの解像度が俺とほぼ同じなんだよね。そこがいいんだ。お互い、あったかい家庭とか団欒っていうものを、よくわかってないところ」
と言った。至って本気らしかった。
「――どういうことか、よくわかんない」
「姉さんにはわかってもらわなくていいよ」
孝太郎はそう言うと、「ところでこのプランだとさ……」と葬儀会社のパンフレットを開きだし、あっという間に話題を変えてしまった。
深追いはしないことにする。きっと孝太郎は、私が彼の生活を邪魔しない限りは無害だ。私も、自分の生活を守らなければならない。
例の家はしばらく「売家」の看板が立てられていたらしい。でもいつの間にか取り壊され、そのうち周辺の土地も一緒に大きな更地になった。
どうにも厭な予感がした。
時間は慌ただしく過ぎていった。両親の喪が明けてから達彦と入籍し、一方で仕事があればどんどん引き受けた。
人も雇ったし、今度こそ姪っ子の顔を見ることもできた。私自身、出産と子育てを経験して、嵐のような忙しさの中、あっという間に十年近くが過ぎ去った。
その年の冬、知人を通してある相談を受けた。依頼主はマンションの管理会社だった。
「三、四年前にできたマンションなんですけど、内装業者を変えることになったんですよ。せっかくだから、エントランス辺りをもうちょっときれいにできないかなと思って」
ファミリー向けで、わりと高級志向の物件らしい。シーズンごとに内装を変えることも考えているという。私の会社には、法人向けにインテリアをリースしている部門がある。父がいたら苦い顔をしたかもしれないが、今は我が社の主力と言っても過言ではない。
「もちろん。一度伺います」
そう返事をしてから、現場の住所を確認する。その途端、何年間も封印していた記憶が蘇った。
見覚えのある住所だった。私の記憶が正しければ、例の土地にずいぶん近い。
(……そういえば、あの家の跡地はどうなったんだっけ)
ここで断ることをしなかったのは、何かに導かれた結果のように思う。
当日現場に向かうと、厭な予感は確信に変わった。かつてあの離れがあった土地――孝太郎たちの家があった場所には、大きなマンションが建っていた。
何世帯入居しているのだろう? こんな場所に住むなんて――懸命に動揺を隠しながらエントランスの自動ドアをくぐった瞬間、首筋を冷たい風が掠めた。別世界のような明るい笑い声をたてて、小さな子供と母親の二人組が、私たちとすれ違った。管理人室のドアが開き、スーツ姿の若い男性が顔を出した。
「初めまして! 管理人の二階堂と申します」
私は半分上の空で挨拶をし、管理人の名刺を受け取った。ぎこちなくお辞儀をしながら自分の名刺を渡したとき、視界の隅に赤いものが見えた。
耳元で、いないはずの女の声が囁いた。
「おかえりなさい」
〈『庭』了〉
庭 尾八原ジュージ @zi-yon
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