Fのキャンバス

久々原仁介

第1話 喘ぐホワイト

 台所の冷たい床にお尻をつけて。


 わたしはひっそり煙草を咥える。


 夫が嫌いな煙草は、彼が仕事で家を空けるお昼間にしか吸えない。


 なまぬるい煙を吐いて窓を開けると、煙と入れ替わるようにして潮の香りが部屋を満たす。

本州の最南端より少し外れに位置する梶栗郷は、住宅街と海が線路で綺麗に区分けされた港町だった。


 夫婦で棲んでいる築四年の一軒家は、わたしと夫だけが暮らしている。子どもはいない。ただ、誰も使っていない部屋がひとつだけある。そこにはうすく埃が積もっていて、なんとなくわたしを急かす。


 海まで歩いて五分ともかからない立地にもかかわらず、線路を隔てているせいで波の音さえここには届かない。時折、換気扇や窓から迷い込んでくるかのように訪れる潮の香りだけが、わたしの心にそっと海をくれる。


 心の中に浮かび上がってくる海は、わたしの胸の下あたりに溜まっていく。足首くらいの遠浅をつくる。海には水平線があって、遠くに人影が映り込んでいる。


 そこにはいつも『あの子』が筆をわたしに向けて立っているのだ。


 わたしと『あの子』は、お互いにとって掛け替えのない存在ではなかった。言い方は良くないけれど、お互いがどこか代替品のように思っていた。


 だからわたしたちは道を違うときも正解を選んだと思って生きるしかなかった。大事なものではなかったんだと、自分に言い聞かせることで誤魔化した。


 だから君を思い出しては泣ききたくなる瞬間や、それに伴う心はすべて嘘に近い。


 しかし最近、わたしだけがこの心の海で慣性が働いてるという感覚がある。後ろ髪を引かれているという表現が、適切なのかもしれないけど。


 そんなことを『あの子』には言ってあげない。


「……寒いね」


 ねえ。


 思い出すことは特別で、少し怖いね。

 君の正面に向かい合う時間。

 そのほとんどが風俗嬢としてのわたしだった。


 二十歳のころだった。わたしは『LIP.s』という風俗店で働いていた。「マリー」と名前を騙り、一年近く在籍していたことがある。


40分12000円。

60分14000円。

90分16000円。


 それ以降は30分延長ごとに3000円の追加料金が発生する。古き良き大人の遊び場。


 『LIP.s』は店舗型の特殊浴場を謳った風俗店。


 キャスト総勢十八人。十代後半から、二十代後半の地方の風俗店にしては比較的に若い子が多い店舗だった。


 どこにでもあるような風俗店ながら、店内のお客様待合室が空っぽになることはなく、そこにはいつも今か今かと時計ばかりを眺める男性の姿があった。


 しかし『LIP.s』は激安店でもなければ、プレミアム嬢のような稼ぎ頭がいるわけでもない。


 何か特別があるとすれば、それはオーナーの守重だった。


 守重は何より控えめな男だった。


 彼は『LIP.s』のことを風俗店と言わず『特殊浴場』と言っていたし、従業員のボーイスタッフもわたしたちのことを『ソープ嬢』や『風俗嬢』などと口にすることは絶対にしないように言い含めていた。


 呼ぶときは「ちゃん」、複数を呼ぶときは「キャスト」と呼称は統一されている。

 

 誰もが口に出すことはなかったが、守重の信条のような心遣いに救われていた。

 

 特に若いキャストのなかには、自分が風俗で働いているという罪悪感に段々と締め上げられていく子が多かった。そういう子に限って、精神が年齢から乖離していくのが早く、誰もが望まない形で大人になる。


 いつも守重はその一歩手前にいるキャストを敏感に察知して声をかける。するとその女の子は、たちまちわんわんと泣いて子どもに戻ってしまう。


 キャストの女の子たちにとって、「守重」とは父親のような存在でもあり、女の子に魔法をかけるピーターパンのような人でもあった。


 けれどわたしは守重が嫌いだった。


 風俗を辞めたいと思うなら結構じゃないかと、わたしは思う。この業界、足を洗いたくてもできない子が山ほどいる。辞めたいと思った時に、辞めるべきだ。


 結局、守重がしていることはお店のマネジメントでしかないし、彼が女の子を引き留めていること変わりはない。別に辞めたい子がいるなら好きにさせればいいじゃないと吐き捨てたことがあった。


「マリーちゃん、俺はね」


 まるでサラリーマンのようにカチカチに固めた髪を撫でながら、彼は優しい口調で語りかけてくれた。


「明日……いや、今日というこの瞬間だっていい。職場を首になってしまったOLや学生が、生活に困って、どうしても身体を売らないといけなくなってしまったとき、うちでなら働いてもいいと思えるお店でありたいんだよ。お客様の快楽は、従業員の不幸の上に在ってはいけないんだ。だから、話して楽になるならそれがいいし、寄り添うのは俺らの義務だよ」


 わたしはそれを聞いたとき、なんだかあまりに綺麗な回答が返ってきたことが悔しくてこれがイケおじかと言ってしまった。重守さんからはまだ30代だよと突っ込まれた。


 風俗というのは本来、人員の動きが激しい業界だ。


 半年超えての在籍はベテラン扱い。体験入店でいいなと思った子が一日限りで退店することなどありふれた話だ。


 お目当てのキャストが辞めてしまったと知った男性客の顔というのは、言葉にはできない。まるで餌場を失った猫のような背中になって、だいたいはお店に姿を見せなくなるのだ。


 そのなかで『LIP.s』のキャストは1年以上務める古株(これは表現がよくない)が複数おり、学生も卒業するまで在籍するだろうなという子も多い。


 だからこそ昔馴染みの顧客が多く。客離れが少ない。

 

 それはキャストに対して良心的な経営を心掛ける守重の手腕あってこそだった。


「君もだよ」


 彼に言い包められたみたいな気持ちで少し反発心もあったが、そんなわたしさえも見透かして続けた。


「君にとって、俺が話を聴いてほしいと思える人間になったら、いつでもおいで」


 わたしは、驚いた。


 驚愕のあまり、この会話以降、わたしはしばらくの間、オーナーとはしばらく喋らなくなった。


 わたしなんて、とっくに匙を投げられているのだろうと思っていたから。


 『あの子』と出会ったときは、守重と話した翌日だった。


 まるで病院にでも通うように『LIP.s』で働いていたわたしの元に、『あの子』はスケッチブックだけを持って訪れた。


 猫背の背中や、柔らかい頬の輪郭を、6年近く経った今でも鮮明に思い出せるというのに、不思議と名前が思い出せない。


 ここでは仮に『F』という名前にしよう。


 そういう名前を、してそうだったから。

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