第4話 透明なプロジェクター
彼氏いる? とか。
この仕事初めて何年目? とか。
そういうどうでもいい質問は五万とされるけれど、わたしたちが帰宅してから一番に何をするかという質問は意外とされない。
答えはうがいだ。
口の中に残った精液は、しっかり洗い落とさないと性感染症などのリスクにつながる。
「LIP.s」に勤めることになったとき、一番に教え込まれたのは接客の心得や、ましてやいやらしいことなどではなく、手洗いとうがいをこまめにしろということだった。
身体を売っていても、教えられることは小学校や幼稚園と変わらないのも、なんだかおかしい。
まあ、身体を売るって発想が好きじゃないけど。もっと命に近いものを切り詰めてるんだから。わたしたち。
家に帰って、お風呂に入ったら眠れると思ったが、なかなかその日は寝つきが悪かった。
かけ布団とは別に何かが身体に乗っかっているような気がする。
わかっている。Fのことだ。
なんとなく、スマートフォンで絵画のモデルのことについて調べてみた。モデル(特に裸婦画のモデルは)日給二万円が相場などザラだった。これでは風俗店に赴いたほうがいくらか安価だというのもうなずける。
こんなに悩むくらいなら、もういっそのこと描かせてやればいいのだ。
下手くそだったら笑ってやろう。
そしてめいっぱい絵を描いてもらおう。そうしよう。
もう二度と来ないことだって十分に考えられたのに、なぜだろう。わたしはどこかで彼を、投げたボールを飼い主のもとへもってくる犬のように見ていたからなのかもしれない。そう考えなおすと、少しだけ楽しい気持ちで眠れた。
Fはそれから二週間後にひょっこり顔を表した。
店内の監視カメラが彼を捉えたとき、わたしは画面に飛びついて、守重にわたしが対応すると早口にまくしたてると、早々に待合室で本を読みふけるFへと向かいに行った。
「久しぶり。絵は、描けた?」
彼は本から顔を上げると、彼はちょっと疲れた表情ながら驚いているようにみえた。まさか彼も、わたしともう一度顔を合わすことになるとは思ってなかったのだろう。
「部屋、行こうか」
今にもしゃべりだしそうな彼の唇に手を当てて部屋に行くように促した。なんとなく、この話を周りの人に聞かれたくなかったからだ。
手をつないで部屋まで歩くと、彼はまた困ったような笑みを浮かべていた。
「マリーさんの言う通りでした」
ふらふらと頼りなさげに歩くと、Fはベッドに腰を下ろした。
「どの人も相手にしてくれません」
基本、従業員の撮影を許可している風俗店などほとんどない。絵にしてみても、目的の違いはあるが、店側からしたら怖いことに変わりはない。
冷静に考える自分とは別に、スケッチブックを片手に絵を描かせてもらえないかと風俗店の強面のおじさんに訊ねにいくFを想像していると、無性におかしくなって吹きだしてしまった。わたしが思ってるより、この青年はずっと強かな人物なのかもしれない。
「ねぇ。スケッチブック、みせてよ」
深緑と落ち着いた黄色の正方形が重なる模様の、分厚いA4ノートに視線を注ぐ。
わたしは昔から欲しがりだ。
他人が大切にするものにベタベタと触る悪癖があった。自身もそれをしっかりと認めていたから、滅多に表に出したりはしない。それなのにFのスケッチブックに手を伸ばしてしまっているのは、なんと表現したらいいのだろう。
わたしは彼に許して欲しかった。
「そんなに上手くはありませんよ」
彼は一つ断りをいれると、スケッチブックを手渡した。
思ったよりも軽くて、ふとすれば自身が何を持っているか忘れてしまいそうなノートブック。
厚手の表紙をめくると、痩せたりんごが一個テーブルの上に落ち着いている。また一枚めくると、花びらが落ち切ったヒマワリが一輪寂しそうに佇んでいる。次は「10秒」と書かれたボタンだけが壊れた電子レンジが模写されている。
「これは授業用のスケッチなの?」
「いえ、こっちはプライベートで描いたものです」
プルタブの開いた缶コーヒー、飢え死にしそうな犬、足の折れた椅子の有様が流れていく。どれも鉛筆のみで描かれていたが、とても写実性に富んでいるように感じられた。
けれど初めに抱いた感想は平凡さだった。特別洗練された書き方でもなければ、目を見張るような奇抜なデザインでもない。
でも涙が流れそうだった。りんごも、ヒマワリも、缶コーヒーも、椅子も。彼のキャンバスに一つしか模写されていない。
ずっとひた隠していた傷口に、不意に手を添えられたかのような、柔らかく、大きな衝撃だった。
「絵、描いていいよ」
面食らった、という顔はまさに、今の彼にふさわしい言葉だった。
「でも……、大丈夫なんですか?」
「いいの。わたしが良いって言ってるんだから、いいの」
わたしは自分勝手な女。
部屋の隅に放置されてるパイプ椅子を彼に渡すと、わたしはベッドの上に身を投げ出す。
「それで? わたしは全部脱げばいいの?」
パイプ椅子に座って、抹茶色の鉛筆と、先端が丸まった消しゴムを取り出すと、少し慌てた様子で服に手をかけるわたしに声をかけた。
「服は脱いでくださると助かりますが、下着は付けたままでかまいません。服を脱いだらベッドシーツを胸の辺りからかぶっていただけますか」
脱げとひとこと言ってくれれば脱ぐのに、彼は回りくどく言葉を並べる。しかしその誠実さが好ましい。
彼に言われるまま下着姿になると、ベッドからシーツをはがして、胸から下を隠すように垂らした。
シーツが足首まで降りると、ぐっと胸を張り右足を僅かに前に出した。布が思ったより薄かったのか、身体のラインがくっきりと浮かんだ。
いまのわたしは、裸でいるときよりもずっとエロティックに映っている。ポーズは彼が好きにしていいというから、手を腰に当てて斜めを向いた。
「疲れたら、ポーズは崩して大丈夫なので」
Fはわたしを気遣ってか声をかけてくれた。彼のもった鉛筆が滑らかにすべると、心地のいい筆を動かす音が響いた。
「ねえ」
「なんでしょう」
彼は顔を上げず返事をする。
「なんで絵を描いてるの」
「美大生ですから」
絵が好きだからと、答えなかったことにわたしはどこかで安心していた。
「卒業したらもう描かないと思います」
「そうなの? もったいないじゃない」
「いま描きたいものは、今しか描けないような気がするんです」
彼が一人前の芸術家のように語る姿は、とても可愛らしい。
精一杯見栄を張っているようにも見えるし、先人の言葉にあやかったようにもみえる。
会話が少なくなっていくと、彼は何度も「疲れたら座っていいですよ」と繰り返していた。わたしはその度に「ええ、そうする」と壊れた糸吊り人形のように微笑んだ。
終わり五分前になると、備え付けの電話が、ジリリリリ! と響いた。彼はスケッチブックを鞄にしまい、芯が異様に長い鉛筆を筆箱に仕舞う。
絵はもう描き終わったのだろうかと目を合わせると「また、来ます」と、Fは静かにはにかんだ。
ああ、どうしよう。
何かをしてあげたい。そういう気持ちが沸き上がった。
わたしは黙って彼をハグした。
抱きしめたんじゃないよ。職業柄なのか、この言葉はいやらしいことをしているみたいで嫌い。
だからわたしと彼はハグをしたのだ。細くて、頼りなくて、スポンジみたい。
そのままわたしを、吸い込めばいいのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます