第3話 笑うわたしは、儚い紫
あれ。生きるんだっけ。わたし。
Fを見送ったあとに部屋へ戻ると、真っ黒な気持ちがあふれていた。
彼がどのような人間かを考えると、また胸の下辺りがひりひりと渇く。掻きむしりたくなる。あの少し気弱そうな顔つきが無性に胸を刺してくる。
まるでわたしが、彼の勇気を踏みにじったみたいだ。
守重に帰ると言った手前、このまま居座ることもできない。他のお客さんを相手にすれば違ったかもしれないが、Fが最後の相手というのも良くなかった。
あの、わたしを慈しむような笑みはどこからきたのだろう。
思考は途切れない。あの気弱そうに曲がった背中を追いかけて伸び続けていた。
「今日はあの首絞めてくるオッサンが相手だったんだって? ごめんなさいね。アタシが空いてれば、代わりに出てあげたのに……」
ロッカールームで帰り支度を整えていると、後ろから声をかけられた。
ソフトクリームのように盛られた茶髪が視界に入る。
先輩キャストということは覚えてる。でも名前は憶えてない。それもしょうがない。自分以外はぜんぶのっぺらぼうみたいなものだ。
「あら。マリーちゃん、首に痕ついてるじゃない。冷やすの、持ってこようか?」
「いいですよ。大丈夫ですから」
ブラのホックを背中で止めながら、横目で彼女の首元を盗み見る。そこには、赤黒くなった手の跡が何十にも重なっていた。
おそらく同じ人がつけたものなのに、彼女はまるでそれをファッションみたいに着こなしている。
ダメージジーンズみたい。
これからあなたはダメージジーンズ先輩と名付けよう。
「イヤになっちゃった? こんな仕事」
沈黙しているのは首を絞められたからじゃなくて、絵を描かせてくれと頼みこんできた男の子のことだったが、それをわざわざ言うのもめんどうで、ただただうつむいていた。
「アタシはね、あのお客さん、そんなに嫌じゃないの。なんとなく分かる気がするのよ。他人に自分を形づけておきたいって気持ち。でも、違うな。他人に自分の傷を理解して欲しくて、自分と同じくらいの痛みを分けてあげるの。傷が目に見えるってすごく大事なんだって、わかるわ。そういう気持ち」
わたしたちは、まるでほんの少しだけ普通のOLのような気持ちになって仕事の話をする。
「自分のことだけどね。プレイの最中は『ご主人様』って呼ぶし、どれだけ嬲られても構わない。ほらアタシ、ドMだから」
彼女の主張は至ってシンプルだった。
「でもさ、アタシはずっとドMなわけじゃない。街中でいきなりお腹殴られたって嬉しくないし。たぶん怖くて泣いちゃうと思う」
しかしそれも一部分だ。ダメージジーンズ先輩は紅潮した頬に触れる。
「お客さんは、きっと変わらないものを求めてるんだろうね。ずっとドMでいて欲しいんだろうなあ、ずっと奴隷でいて欲しいんだろうなあ。それがかわいそうで、可愛いの。哀れな、わたしのご主人様たち」
ライナーでなぞった切れ長の目の中に、不意にわたしが映っていてゾクリと背筋が凍った。
「120分で延長してくれるんなら、アタシ、死んでもいいわ」
そういう気持ちなんだよってダメージジーンズ先輩は付け加える。
「……気持ち悪いって思ったでしょ?」
その言葉に、静かに首を横に振った。
わたしの未来の姿がこの人のように、雨に濡れながらも美しく飛ぶ鴉のようになれたらいいのにと思っていた。
言葉にはせずとも、本心であった。
「先輩は、学校の先生とかになればいいと思うよ」
「あはは。何の科目がいいと思う?」
「国語とか、いい先生になりそう」
「わたしが教師なんてなれやしないよ」
履歴書に接客業としか書けない世の中だから。いつかわたしがこの人のために壊してやってもいいかもしれないと思った。
ほら、わたしはジェンダーレスヒーローだからさ。
「そういうところよ、フーゾクなんて」
都合のいい言葉だ。現に、腑に落ちてしまった自分がいる。
「これから美容院に行くんだけど、アナタも一緒にどう? この時間帯はいつも人が少ないから、予約しなくても融通がきくと思うわ」
ダメージジーンズ先輩は仕事を終えると、男にベタベタと触られた髪の毛を洗い流す(切り落とす)ために美容院へ寄る。
会うたびに、彼女の髪型が変わっているのが不思議だったから、一度興味本位で訊ねてみたことがあったのだ。
それでも名前を憶えてないのが、わたしなのだ。
「ありがとうございます。でも、わたしは遠慮しときます」
素直にわたしは、彼女の誘いを受けるべきだったのだろう。
なにしろFのことで参ってもいた。明日も仕事が入っている。セックスをしなければならない。憂鬱と期待で心が切れそうだ。わたしは休息を欲していた。
しかし髪を切って洗い流すと、Fが残していったしこりまで綺麗に忘れてしまいそうなのだ。
「そう。また誘うわ、じゃあね」
ダメージジーンズ先輩は、かつかつとこけそうなくらい高いヒールを鳴らす。更衣室の扉に手をかける前に、一度、振り返って手を振ってくれた。
やさしい人だ。
だからキライになりそう。
喉が、ひりつくように渇くのだ。
「……先輩、気付いてますか」
「ん。なんのこと」
わたしは自分の首を触って、少しはにかむ。わかっているくせに。
服を着ているだけで、心は裸だ。
「……気持ちじゃないですよ」
本能ですよ。
零れそうになった言の葉をそっと嚙み砕いて笑ってみせる。
最後の一言は、わたしだけが知っていた。
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