第2話 サイレント・キャット

 出勤する前に雨が降っていると、膣が渇きにくいから安心した。


 わたしたちキャストにとって渇くというのは死活問題だった。


粘液が分泌されないで起こる不都合とは男性に比べ想像を絶する。オリモノや臭い、尿漏れ、かぶれ、性病、性交痛。様々なリスクの温床となる。


 だからなのか、キャストが待機するプレイルームの温度調節はボーイによって重要な仕事とされていた。


 カラダの冷えは心の冷え、心の冷えはカラダの冷え。新人ボーイからベテランボーイに至るまで、初めに勉強することは身だしなみや言葉遣いではなく部屋の温度管理だった。


 プレイ直前は23度、プレイ中は24・5度。プレイ後は26度。温度の指定はキャストが指定する場合もあるが、希望がなければお店側がマニュアルに沿って温度に調節する。

 

 ある50代のベテランボーイは「下げる・上げる・上げる」が基本だと言っていた。肌寒くて人肌が恋しい温度を目指しながら、キャストのペラペラなコスチュームでも風邪をひかない最適な温度を探す。

 

 そこで重要になってくるのは湿度だ。


 湿度が高ければ、そのぶん体液は分泌されやすい環境になる(もちろん個人差はあるけれど)。しかしながら湿度が温度に対して65パーセントを超えると、逆に人は不快指数があがる。


 ありていに言えば、べたつく、ぺたぺたするといった感覚を覚えるようになる。

 それは、お客さんにとっても気分が損なわれてしまう。本末転倒だ。


 だからこそ『LIP.s』のボーイとキャストは出勤時に必ず、事務所に設置してある時計と温度計、湿度計を指差し確認する。誰もが渇かないように。


 だけど悲しいかな。

 気遣いだけでは痛みは完全には消えない。

 

 多いときで週5回は勤務しているわたしの生活において、風俗嬢じゃない時間はわずかだった。常に痛みがわたしと並走している。まるでムカデ競争みたいに。わたしの行くところに着いてくる感じだ。


 でもわたしは性病や、性交痛とは友達でもあった。以心伝心という関係ではないが、お互いに折り合いをきちんとつけている。


 そもそも風俗で週5勤務をする女というのは少ない。


 何よりたくさん出勤するキャストが稼げるわけでもないのだ。

 むしろキャストのプレミア感が減り、指名は段々と減ってしまう。


 どうしてそこまでしなきゃいけないのか。

 と、守重にもよく言われる。


 理由などない。強いて言うなら、風俗嬢ではないわたしは、消費するだけの女だからだ。


 水や空気、野菜や肉、人や時間。

 わたしに消費されることがあまりに哀れだと思う。


 借金があるわけでもない。

 貢いでるホストがいるわけでもない。

 叶えたい夢があるわけでもない。


 カラダを売ることによって得ようと思う対価がわたしにはない。だから消費したぶんを補うことができない。


 生産性のないわたしは、セックスでのみ日本経済を回せた。


 寂しいけれど、わたしはそれでもいいと思っている。


「痛いなあ、もう……」


 レッドピンクの色調の部屋は、いろんな物が置かれているように見えて実用的なものはベッドしかない。


 引きちぎりたくなるくらいふわふわな服はボタンがいくつか外れていて、しわくちゃになっていた。


 二人目のお客さんが、向かい合っていると首を絞めてくる人だった。


 腹は豚のように肥え太っているのに、腕や足はまるでバッタのように細い中年のオジサン。


 いつもは先輩のキャストに任せているのだが、ちょうどその時は他のお客さんと被ってしまい、わたしが出ざるをえなくなった。


 洗面台の前まで行くと、くすんだ鏡にはコウモリみたいに赤く血走った目と、蝶みたいな手形が喉に浮かんでいる。


 中学の頃、部活の先輩がわたしのことを「顔が小さくて卵みたい」と口にしていたけど、そのせいで、首元に浮き上がった痣がより一層痛々しく見えた。


 これでは仕事にならないと思っていると、備え付けの固定電話が鳴った。


「もしもし。こちらフロント、守重」

「はい、104号室、マリー」


 いつものやり取りのなかでも、すでに守重の声音が不安そうに揺れているのが分かった。


「マリーちゃん、大丈夫かい」

 思わず電話口で舌打ちが出そうになる。

「この、カスカスな声を聴いて、大丈夫と思ってるならオーナーは早くお店たたんだ方がいいですよ」

「すまない。あのお客様には、次から出禁対応することにする」


 即答したオーナーの対応には誠実さを感じなくもないが、わたしから言わせれば溜息しかでない。


「普通にダメでしょ。一週間に一度必ず来てくれる太客なんですから」

「……すまない」


 同じ風俗を週一で利用してくれる人なんて稀だ。最低でも月に50000円近い売上が入る。2カ月であれば100000円、3カ月であれば150000円。


 カラダの痣はほっとけば治るが、その日の売上はその日からしか生まれない。ここでそんな太客を切ってほしいなどと口走るほど、わたしは馬鹿な女じゃない。


「ただ謝るためにかけてきたわけじゃないんでしょ。なに?」


 すぐに返答は来なかった。


「指名が入った」


 その一言に、耳を疑う。


「は? 馬鹿なんですか?」

「……すまない、新人のボーイが予約を受けてしまっていたみたいなんだ」


 間髪いれずに放った罵倒がきいたのか、本当に心苦しそうに「申し訳ない」ともう一度謝罪を述べた。


 まるでこっちが悪いみたいだ。

 首だってこんなに痛いのに。


「……いいですよ。でも、次のお客さんが終わったら、もうあがるので。次の人入れないでくださいね」


 安心したような、息を吐く音が苛つかせる。


「わかった。それでいい。ありがとう、マリーちゃん」

「べつにいいですよ。利用価値があるって思われてる方が楽なんで」

「……それでも、ありがとう。すぐお客様をご案内するからするから」

「分かったから早くして」

「わかった。良い時間を」

「ええ、良い時間を」


 ヒリヒリと痛む喉を触る。

 わたしは、賢い女だ。


 ともあれお客さんがくるとわかると、考える前に身体がすいすいと動いてしまう。この個室にいると、内臓にまでしっかりと風俗嬢としての生き方が染み付いていくのを感じる。


 部屋の廊下側に設置してあるクローゼットから今朝アイロンをかけたばかりのブラウスと、チェックのミニスカートを取り出す。ベッドのシーツも新しいものに変え、古いものはクローゼットの中に畳んでおいた。


 『LIP.s』では口酸っぱく言われることがある。

 

 それはお客様ごとに、ベッドシーツと肌着は替えろということだ。守重曰く「他人が出した精液を素足で踏むことこそ、客が最もしらける行為」だそうだ。


 わたしは平気なんだけどね。

 男っていうのは、繊細でめんどくさい。


 すると、コン、コン、コン、と。控えめなノックが三回響いた。


 どうやら迎えに行く前に部屋に来てしまったらしい。

 扉が数センチ開くのを待ちきれずわたしはドアノブを引いて相手を迎え入れた。


「今日はご指名ありがとうございます。マリーです。よろしくお願いしますー」


 姿を現した男性は瘦せっぽちの男だった。

 肩掛けの黒いバッグをもっていた。細い首からは、こぶのような喉ぼとけが見えている。


 清潔そうな男の人と言えばよく聞こえるけど、握った手は不健康そうな色白い肌をしていた。


 そう、この男こそが『F』であった。


「ここまで来るの、疲れませんでしたか? 駅の裏側にあるから、探すの大変だったでしょ? 汗かいただろうし、背中流してあげよっか?」


 格好に合わせてコケティッシュに振る舞ってみても、最初Fはまるで石像のように、ちっとも反応がなかった。緊張しているのかなと思って、顔を覗き込んでみると思いの外脱力している。


「マリーさん」


 偽名を使っているこちらが恥ずかしくなるくらい、誠実そうな呼び方だった。


「お風呂はいいです。それより、あなたの絵を、描かせてはいただけませんか?」


 わたしは、そのまま愛想笑いをしながら首を傾げたが、内心は決して穏やかではいられなかった。


 風俗店に来て、絵を描かせてほしいと言う。

 

 そんな客は初めてだった。


 わたしを抱きたくないのかと、安心したような、怒ってやりたいような気持ちだった。


 内側で何かが鋭く研がれていくのを感じた。


「絵、ですか?」

「はい、描かせていただきたいんです」


 例えば、フランス料理店まで来てうどんや蕎麦をコックに頼むだろうか。

 そんなのは客ではない。


「イヤですよ、何言ってるんですか」


 Fは船上から唐突に氷海に突き落とされたような顔をした。


「お金をもらった以上は、セックスしてもらわないと困ります」

「……けれど、そのお金は、僕が払ったものでしょう? 使い道は僕が決めたっていいではないですか」


 この男が放つ言葉は、子どもがショッピングセンターで駄々をこねているようにしか聞こえない。だらしなく伸びた彼の後ろ髪を全部引きちぎってやりたかった。


 なにより、この場において自分だけ潔癖でいようとする態度が鼻についた。


 ひたすら汚れればいいのだ。


 上着もズボンも靴下も下着も脱いで、糞のような身体で縋ればいいのに。この男は綺麗なまんまだ。


「そんなの、モデルを他の人に頼めばいいじゃないですか。わざわざこんなところまで来ないでください」

「お金を渡したって、普通の人は服を脱いだりなんてしませんよ」

「わたしが、そんな簡単に脱いでくれると思ってるの」


 眉が動いた。そうだ、もっと怒ればいい。


「お金払ったんですから、服くらい脱いでください」


 気づくと、わたしはFの頬を張っていた。

 

 気持ちよかった。この綺麗な男を叩いていい免罪符が、ほしかった。

 

 男の頬骨にあたったのか、水面を板で叩いたような鈍い音だった。


「……今の言い方は良くありませんでした。すみません。ですが、僕があなたの絵を描きたいのは本心です。どうかご協力くださいませんか」


 その男性は黒い肩掛けのバッグを下ろすと、中から簡素な焦げ茶色の筆箱と、深緑色をしたスケッチブックを取り出した。


「……本当にしないんですか?」

「しませんよ。絵を描くんですから」


 即答されてしまった。彼は今になって頬が痛くなってきたのか、赤くなった頬を左手でさすっている。


「わざわざこんなところで描く必要、あるんですか?」


 わたしはとうとう強情になった。早く抱けばいいんだ、そこのベッドに横に寝転がってさえいればいいんだと念じるのに、男は地蔵のように動かない。


「場所はそんなに重要ですか?」

 

 その答えはわたしにとっては逆効果で、ベッドの隅の壁際まで移動し、背中を丸めて彼に背を向けたまま座った。


 これが精一杯の反抗と意趣返しだったが、Fはそれでも背後でスケッチブックへ筆先を走らせているようだった。勢いよく流れる鉛筆の音が徐々に迫ってくる。


 その黒い線、一本、一本にわたしへの恨みでも載せているのだろうか。


 なんでだろうな。彼とは反りが合わない。


 わたしはこの場所で探し物をしているというのに、こんなところにはなにもないと言われたような気分だった。


 Fとは一向にカラダが触れ合うこともなく規定の時間である120分を過ごした。

 時間の五分前になるとけたたましく電話のベルが鳴る。わたしは牢屋の鍵を手渡された囚人みたいに舞い上がっていた。


 彼はまだ絵を描いていたようだったが、強引に部屋の外へ連れ出した。

 

 腕を組んで外へ出たとき、横目で彼の顔をひっそりと覗くと、なんともないような表情をしていた。


 彼はそのまま受付の男性に文句一つ言わずにペコリと頭を下げ、革靴を引きずりながら帰っていく。


 まるで何の不満もないような顔つきだったからか、その時はじめてFに対する罪悪感が胸にこみあげてきた。


 どうせならこんな生意気な女、痛めつければよかったのに。やはり彼とはどこか反りが合わない。


 冷房が効きすぎているのだろうか。

 変に、喉が渇いた。

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