第5話 溶けかけの輪郭
Fと出会ってから一つ季節は移ろい、冬になった。
彼とわたしのデッサン教室は続いていた。わたしはずっと同じポーズを続けることが退屈だったから、ときおり下着をぬいだり、足を広げてみたり、目を閉じてみたり、日によって姿勢を変えた。
「今日もポーズ変えてもいい?」
「……いいですよ」
その一言を聞くのが、わたしは好きだった。見ながら書いているんだから、いちいち動きを変えるなんて迷惑だろうに、彼は決まってこう言うのだ。
「生きているから、形を変えようとするんですよ」
Fの声音は優しかったけれど、心からそう思って求めてるんだと分かるほどに、切ない声をしていた。
わたしたちはきっと今の形が嫌いだった。
それを短い会話のなかで確認しあった。身体ではなく、言葉だけで。それは大切で、かけがえのない時間になっていく。
誰もが最初は形なんかない。
卵子や精子が結びつくときは、みんな同じなのだ。
それなのに、胎児になり乳児になり……形はどんどんわたし以外のどうしようもない力によって歪められる。
「……ねえ」
「なんでしょう」
「要領を得ない話になると思うんだけど、いいかな」
彼は筆を少し置いて「いいですよ」と言ってくれた。
「粘土が、あるとするでしょう」
それはとても新品で、まだビニルテープもとっていない。でもね。さあ、つくろうって思ったら。その粘土はもうなくて、誰かが勝手にこねてるの。
「それが嫌だった」
わたしはひとしきり話してから彼の前に座った。服もストッキングもすべてを脱いだ。
「ずっと、ずっと、嫌だったの」
そして泣いていた。
自分でもなんでか分からないけど、ぼたぼたと大粒の涙を落として泣いてしまった。
いまの形が嫌だった。
わたしの望んだ形ではないから。
望んだ形になれる人間の方が少ないとか、誰もが妥協と挫折の過程の上で成り立ってるとか、そんな言葉が欲しいわけじゃなかった。
ただ、白く固まった粘土のようなカラダを見るたびに絶望する。
この生き方でいいんだと開き直って歩ける時もあるのに、もうこの生き方を辞められないんじゃないかと思うと、足がすくみそうになるときもある。
「……ねえ」
Fは顔をあげなかった。俯くようにしてスケッチブックを見ていた。そんな彼を見て、わたしの心が静かに波打っていくのを感じる。
「……今度、外で会わない?」
Fはその色白い顔を上げた。髪を切ったんだ、とこのときはじめて気が付いた。目を覆い隠すほどだった前髪は眉のところで切りそろえてあり、そこから覗く深海魚のような目がわたしをじっと見つめ返していた。
「……いいんですか?」
「いいの。わたしが良いっていってるんだから。いいの」
出会った当初と同じように返すと、彼はまた少年のように笑った。
なにをしようとか、どこに行こうとか。
そういうことは言わなかった。
喉から音をつくると、きっと言葉にしたものだけしか伝わらない。
ああ、なんだろう。
大きく、ただ大きくなるのだ。
言葉にはできないのに、今日のことをただ忘れがたいと感じる。
「……ありがとうございます。今日はもう帰ります」
「これ持っていって」
わたしは部屋に置いてあった缶コーヒーにメールアドレスを書いた紙を巻き付けて彼のポケットにいれた。
「……仕事のお休みが取れたら連絡するから」
さよならの代わりに、わたしからハグをする。今日はFが自分から手を回してきてくれた。Fは骨ばった指をわたしの肩に這わせてきた。
Fはわたしを抱きしめていた。
ひんやりとした手だった。
わたしはFのあとに、3人ほど男性のセックスをしたけど、彼の触ってくれたところだけが冷たくて、なんだかそれが辛くて、家に帰ってまた少しだけ泣いた。
わたしは連絡先を交換したその日にメールを送った。ぽつぽつと、日記でもつけるみたいに。思いついた言葉だけを並べた。
『ねえ』
と、送ると。
『なんでしょう』
と、短い返事が返ってくる。
あの部屋と、同じだった。
『人の身体を描くときって、どこから書くの?』
『くるぶしからです』
『どうして?』
『……どうしてだろう。大学では、上半身から描けって言われます』
文字の上で使う言葉と、喉からついて出てくる言葉はお互いの印象が違った。
脳から手はだいぶ離れているからだと思う。
悪い意味じゃなくて。
頭から口よりも、指先までの方がわずかに離れている。言葉が角ばった石だとしたら、渓流の石よりも下流の方が丸みを帯びていくのと同じだ。
わたしたちは普段よりもずっと穏やかな会話をした。
『顔を描くときは? どこから描く?』
『目尻から描きます。鼻から、描くときもあります。……でも、学校では、輪郭から描けって言われます』
彼とわたしは何度も他愛のない話をした。今日はお客さんの入りが少ないから楽だとか、今日は長府美術館の展示を見に行ったとか。そういう誰もがするような文面を送り合った。
『この前の粘土の話を、覚えてますか』
ある日、珍しく彼からメールがきた。夕方の17時ごろだった。わたしは、覚えてるわと送った。
『僕は、ライオンをつくりたかった』
『そう』
『鬣たてがみなんかいらない、かっこいい、ライオン』
そのとき、ふと彼の姿が脳裏に浮かんだ。どこか気弱そうで、優しい心根のした彼は、とてもじゃないがライオンとはかけ離れている。
『でも、できあがった粘土は麒麟だった』
わたしの返事を待たずに、彼からはぽつぽつと呟くみたいにして届く。
『首の折れた、かわいそうな麒麟』
透明な便箋をボタンひとつで開ける。
『……考えるんです。僕らは生きるために、こういう形になるしかなかった』
その度に胸が張り裂けそうになる。
『歪な麒麟に』
抱きしめたくなる。
つよい感情だった。
Fに会いたかった。会いたくてどうしようもなかった。それ以外のことをしたくなかった。
でも会いたいって言葉だけは、飲み込んだ。どうしてだろう。いま、会ってしまったらわたしは必ず彼を貪ってしまう気がした。それは自分の本当の気持ちを裏切っているような気がした。
『絵を、完成させます』
彼はいとも容易くわたしに近づいてくる。
『いつなら、逢えますか』
どういう形ならば、わたしは彼を尊重できるのだろう。
こっちの気も知らないで。
君なんて、いつでも食べれるんだよ。
大きくて消えない犬歯の歯形をつけたい。
そんな痕を。
『12月23日、1週間後ならいいよ』
『25日は』
『意外に女々しいよね、君って』
わたしに女を期待しないでよ。
『クリスマスはダメ。セックスで忙しいから』
『彼氏ですか』
『違うわ、仕事。肉体労働』
『23日は仕事がないんですか』
『あるよ。昼勤だから。夜が空いてる』
『男の人と、してから、会うんですか』
Fらしくない言葉の選び方だった。とってつけたような、本心をぼかしたような、深く胸を刺した。だからわたしは『そうよ』とだけ返した。
あつい。
手に持った白い携帯電話のバッテリーが、だんだん熱を帯びていた。胸に少し当てると、わたしの体温よりもずっと温かい。それが、白い、心臓のように見えた。
本質はそこにないとお互いに理解しているのに、彼に伝えられる言葉はいつも、ほんの少しだけなのだ。
それは、胸の下に溜まっていく。
そして少しずつ形を失っていくんだ。
溶けかけの、バニラアイスクリームみたいに。
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