第6話 セクシュアル・クリーム
セーターとかマフラーとか。
そういう毛糸で編まれた洋服が苦手だった。
実際に子どもの頃は、お母さんの毛糸のマフラーを引っ張ってよく怒られていた。
子どもの行動ひとつひとつに理由なんかあるわけがない。そんなものは後付けで、大人になった自分が一方的に下す想像と偏見だ。
それを踏まえてもわたしは、あの緻密に絡まった毛糸の塊が怖かったのだと思う。
わたしにとって毛糸の洋服は、糸が絡まり合って、偶然にも服の形を保っているようにしか見えなかった。
いつ解けてもおかしくないのに、それを身に付けてるお母さんが可哀想で引っ張っていたように思う。
すると、いつからか編み物はまるで人の心みたいだと思うようになっていた。
ずっと、わたしは自分の心を分解してきた。
心が動いたとき、ふとした瞬間に身体を支配しようとする感情を俯瞰で観察して、跡形もなくなるまで解体し、時にはタグ付けして管理してきた。
解いて、解いて。そして残った一つの糸の名前が分からないから、こんなにも気持ち悪い。こんなにも渇く。それだけがわたしを苛つかせるのだ。
12月23日は雪が降っていた。
うっすらと雪が路面に積もる梶栗郷駅の風景の中で、わたしもまた町並みに同化していた。
どうしてだろう。
ついさっき「Lip.s」で働いていたときはFに会ってもいいと思っていたのに、今はとても信じられなかった。
お店を出て、電車に乗って、改札を出る時までは彼を求めていたような気がするのに、駅のトイレから出る時には、怖くなっていた。
もう絵は完成してしまうことへの焦りと、寂しさだけではない。Fがわたしの求める形ではなくなってしまうような、喪失の予感がしているのだ。
だから待ち合わせ場所にしていた梶栗郷駅に行けなかった。こうして、少し離れた公園でうずくまっている。
『マリーさん、着きました』
手の中でスマートフォンが震えた。Fだった。
きっとFは、それこそ飼い主を待つ子犬のように、わたしが現れるのを待っている姿を想像すると、少しだけ胸が痛んだ。
ほんとだよ。
『どこにいますか』
公園にいた。ブランコと、滑り台と、砂場とわたし。
みんな遊具だ。
『迎えにいきます』
来ないでよ。会えないよ。
『会いたいです』
うそつき。
『貴女を、描きたい』
本心だって知ってるよ。
でもね、君の自信なさげにうつむく姿を想像すると、つい虐めたくなる。
わるい女だからさ。
『僕は、あなたを悪い人だとは思わない』
Fがその言葉を伴ってわたしに近づいてきている確信があった。わたしは遊具でいることを止めて、公園を出る。
友田川を横切り、線路沿いを隠れるように歩く。
手の中でメールの着信を知らせる携帯電話だけがあたたかい。反対に、わたしを冷たくさせる。
『わたしに女を求めないで』
文字を打ち込んで、逃げるように歩いた。まるで彼が、わたしのなかにある女ごと迎えに来てしまうようなのだ。分からなくなるのだ。彼がわたしに何を求めているのか。
振り返ると青信号が点滅している。
世界すべてが点滅している。
『僕は、貴女に女以外を求めない』
Fの言葉は、貴方はずっと近道を探して生きてきたんだよと、少し乱暴に教えてくれた。
『わたしに女を求める君が、こわいよ』
小学校や中学校までは、女というジェンダーはわたしを構成するなにものでもなかったはずなのに、ここでヒールを引きずりながら歩くわたしの中には「それ」しか残っていない。
雪は次第に水分を多く含んで、服を冷たく濡らしていく。
そしてまた、震える。
メールを開くとそこには、写真があった。
雪の上に浮かぶFの足跡だけを撮った、写真。
『いずれ、消えてなくなる』
汽笛がなって振り返ると、電車の車両が暴力的な音を伴って流れていく。一瞬一瞬がまるで白黒の活動写真のように映り込み、その1ページに、Fの寂しそうな背中が見えた気がした(すべてはまぼろし)。
気が付くと来た道を戻っていた。
『君は、ずるいよ』
『ずるい男ですから』
『じゃあ、わたしたち、似た者同士だ』
『嫌いですか』
『ううん、そっちのが好きだよ』
なんか、いいな。
二人だけの薄暗いディスコで踊りながら落ちているようだった。
雪の上をワン・ツー。ワン・ツー。つま先だけの小さい靴跡が雪面に浮かぶ。
『会えたら踊ろうよ』
メールを送信した瞬間、入れ違いでFからもメールが届いた。
『会えたら踊りましょう』
見えない電波の糸を頼りに文通は続いた。
わたしたちは、おそらくはある一定の距離を保ちながら言葉を紡ぎ続けた。
『マリーさん、どこにいますか』
『ふふ。どこでしょう』
そっちこそ、どこにいるの。
『どこにいるんだろう。わからなくなったな』
わたしたちのやり取りに、位置情報や電子地図はさっぱり無意味で、時おり場所のヒントや、風景の写真を送り、相手の場所を伝え合うふりをしながら、お互いに近づいてみたり、遠ざかってみたりを繰り返す。
そんな遊びを『わたしたち等速直線運動』と名付けた。
携帯電話が震える。
『二人じゃないとできない遊びですね』
この浮気者め。なんちゃって。
『君とじゃないとしないよ、こんな変な遊び』
再び震える。
『だったら』
震える。
『捕まえててくださいよ』
震える。震える。
『言葉も、絵も、要らなくなるくらいに』
震えて、止まらなくなるのだ。
震えずにはいられなくなって、近づかずにはいられないから。相手が見えなくなって、ようやくお互いの輪郭が見えたことに笑い、少しだけ泣いた。
そして気が付けば、潮の香りだ。
『海が、見えます』
ふと顔をあげるとそこは、いつの間にか梶栗郷駅からほど近い海岸に出ていた。
ずっと携帯ばかりを見ていたから気付かなかった。
ずっと君を、見ていたからかもしれなかった。
『遠くに、マリーさんが見える』
ちょうどそのとき、扇形のビーチの向かい合った端っこに小さな人影が見えた気がして、わたしはなんとはなしに携帯のカメラに収めてみたりもしたけれど、そこに彼はおらず、ピクセルの海に溺れて塗りつぶされてしまっていた。
『君は、どこにもいないね』
うそ。わたしのなかで、貴方はずっとわたしを見ている。そうだと、わかる。
返信が返ってくるのに、少しだけ時間がかかったような気がした。
『誰も受け入れないホワイトのなかに貴女がいる』
彼の言う『ホワイト』とは雪のことだと思って携帯を閉じようとしたとき、後ろの白いケーキ箱みたいな建物が目に入って、思わず見上げた。
『そんな曖昧な色のままにしないでよ』
あんなにわたしのこと描いてたのに。
『わたしを、描いて』
白紙のままになんてしないでよ。
『ただ、わたしを描いて。この弱い、わたしを』
あなたの色で描ききって。と、液晶に打ち込んで、わたしはそれをすべて消してしまう。こんな言葉では、君とわたしは対等なままでいられないんだ。
『アナタの、燃えるような青にして』
背後の建物から光る突き出し看板にはファッションホテル『ピシナム』と、書かれていた。
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