第7話 Please thermite me
ラブホテルは苦手だ。
部屋に入ったら抱かれないといけないような空気がなんとなくあって、それがわたしを疲弊させる。
けれどファッションホテル『ピシナム』は、そのような嫌悪感を感じさせない。歩けば高級ブーツでも履いているかのような子気味良いヒールの音が響いて部屋まで歩いていきたくなった。
正面のエントランスに沿って並べられた、いくつもの円柱型の水槽は、一歩進むたびに泳いでいる魚が変わって楽しい。
ベタ、フラワーホーン、アロワナ……。熱帯魚が水槽のなかで、溶けそうになりながら必死に尾鰭を動かしている。
ほんの7、8メートルの間にも関わらず、受付にたどり着くまでにたっぷりと時間を費やしてしまった。
すると、受付カウンターの隅っこにちょこんと座る黒い受話器が目に入る。
何とはなしに手に取ると自動音声が流れ始めた。
《この度は、ファッションホテル『ピシナム』をご利用いただき誠に、ありがとうございます。こちらの電話からは、お客様からのご要望を承ります。お部屋の飾りつけ、レンタルグッズ、お食事、ルームメイキングなど、ご希望のサービスがございましたら、ピーという発信音の後にご用件をお申し付けください》
そのあと、発信音が鳴り、ガチャリという音と共に相手に繋がる。
「もしもし」
所在なさげにこぼれた声に、相手からの反応はなかった。
耳に当てたままどれだけ待っても「ご利用ありがとうございます」は聞こえてこない。
ただ静かに、相手のホテルマンはわたしの言葉を促す。
押し殺した呼吸音がずっと聴こえていた。
その息が自分のものだと知ったとき、この無音がまるで自分と話しているような時間になった。
「わたし、風俗で働いてるんです」
耳に宛がう強さが分からなかった。どうしてこんなに目頭が熱くなるのかも分からなかった。
今日は、泣いてばかりだ。
「お客さんだった人と、粘土の話をしたんです」
わたしたちはただ、不器用だから、持ってる粘土も人より気持ち小さくて、どこか乾いた粘土なんだろうなって分かる。ちゃんと話したわけじゃない。でも、胸にすとんと落ちるものがある。
ただ、苦しかった。
わたしは誠実だと叫びたかった。
彼は、首の折れた麒麟をずっと大事に抱えてきたんだから、生きづらいに決まっている。でもそれは、わたしたちの性別と同じようにたった一つしか、選べないから。
捨てることもできないから。
乱暴をしたくなるんだ。
わたしみたいに。
気づいたら、わたしの粘土は誰の男の手でぐちゃぐちゃに揉まれて、もう跡形もなかった。
ほら、持ちやすくて、こんなに便利。
「……ごめんなさい。ここで泣くのも、謝るのも、卑怯よね」
こんなにも息が詰まる。
押し当てた耳に熱がこもる。
手を引きたいんじゃない、付いていきたいんじゃない。ただ隣を歩いても、足を痛めない靴がほしい。
たった、それだけだったのだ。
祈るように受話器を両手で握る。
「どこで履き違えたのかも覚えてないわたしに」
そう、わたしは最低な女。
「相応しい部屋をください」
女でしか、わたしを証明できない。言葉や身体では、わたしはもう自分の価値を証明できないから。たった一つだけ残った風俗嬢のわたしだけを持って彼に会おうと決めた。
エレベーター到着のチャイムが響く。
同時にカウンターの受け皿へ、盛り付けでもするかのように鍵を置かれる。
鍵番号には201号室と書かれていた。
「……ありがとうございます」
ごゆるりとお寛ぎくださいませ。と、不透明なカウンターから聴こえた気がした。
精一杯頭を下げてから鍵を手に取った。後ろ髪をひかれながら、左手の薬指に201号室の鍵を引っ掛けてエレベーターに乗り込む。
鉄の箱は、宙ぶらりんなわたしを重力から連れ去る。10秒もしないうちに扉が開いた。
201号室は赤いカーペットの行き止まり、右手の一番奥の部屋だった。
歩いてるけど、落ちてるみたいに。音を立てずに歩けば、揺れるカーテンの隙間からさざ波が聴こえる。
柄の長い鍵を差して扉を開くと、そこは教室であった。
木工机が2台並列に並び、その前には黒板の代わりにダブルサイズのベッドが置いてある。下手側の棚には提灯のような形をした水槽があって、中には着物を羽織っているかのように尾鰭の長い金魚が2匹泳いでいた。
靴を脱いで部屋にあがると、右側の机には紺色のひだスカートとカラーが入った白いセーラー服が置いてある。
わたしは濡れたコートを脱ぎ、スカートを腰から落として、下着と黒のレギンスの上から制服を身に着けた。制服の内側に入ったままになった髪の毛をナイフのように払う。
「おそろいだね」
真っ赤なスカーフを締めてから後ろの金魚に向かって呟く。
椅子を引いて座ると、机が少しだけ傾いて脚が微妙に不揃いなのが分かった。
そして、こういう机の上で間違ったのだということも分かった。
きっと2人も入れば、いっぱいになる。そんなちっぽけな教室の片っぽで、背筋をピンと伸ばして待っている。
静かだった。雪が降る海岸より、椅子が時折軋む部屋よりも、わたしの心には静寂が訪れていたのだった。
「君を待ってる、つよく」
人を待つということは、自分の中心にその人を置くということ。
その人が自分の元へ来てくれると信じていると、何も求めなくなる。求めない心からは悲しみが消えて、とてもクリアになる。
扉から3回。律儀で控えめな音が聴こえた。
どうぞなんて言ってあげないよ。
教室にノックして入る子なんか、いないんだから。
いま、この瞬間にも、わたしはどうにかなりそうで、首を絞めつけられてるみたいに苦しいのに、不思議と心地いい。
悪くないと思える。
この瞬間。馬鹿になりそうで、抱きしめそうで、愛さない。どれにも属さないから安心する。
でも、きっと、Fはそれでは納得いかない。
建付けの悪い扉が開いて、硬い靴底がタイルを細かくたたく音が聴こえる。
鞄を置く音がすぐ後ろで、シた。
一瞬、教室に置かれた机を見て驚いた素振りを見せた気がしたが、彼は息を深くついてから椅子を引いた。
横目で見た彼は、相変わらず優しい顔つきをしていて思わず、久しぶりなんて声をかけようとしてしまったが、止めた。
「おはよう」
教室で久しぶりなんて言うのもおかしな話だ。
「……おはようございます」
Fは椅子に腰を下ろすと少し窮屈そうにして座った。
時刻は20時31分。始業のチャイムが二人の間で反響する。
「君の負けだね」
少しくたびれたような笑顔に、安堵が混ざって大人みたいに歪んだ。
「……はは。どういう、勝負だったんですか」
勝負というより、これは遊びだったのかな。鬼ごっことか、かくれんぼとか。わたしたちのコミュニケーションに、本当は勝ち負けなど存在しない。
そんなこと、わたしたちは分かっているのだ。
「わたしに会いたかったでしょ」
君に会いたかったよ。
「あなたの負け」
わたしの負けだよ。
「はは。そうですか」
彼は再び、力なく笑った。
本当はもっと笑う子なのかもしれない。思えば、彼は描くときも、キャンバスしか見ていないし、わたしもポーズを取っている自分のことしか考えていない。
わたしたちは、ずっと向かい合っている振りをしていたのだということに、気が付いた。
「今日提出の、宿題、やってきた?」
彼はドキリとした顔でわたしを見返す。
「宿題なんて、ありましたか」
この世の終わりみたいな顔をしていたから、可愛くて笑ってしまう。
どこの教室でも行われるありふれたやり取りが、どうしてかこんなホテルでも行われている。
それがどうしようもなく尊いことだった。
「あったよ。わたしと、貴方の宿題」
彼は途端に悲しそうな顔になって、申し訳なそうに頭を下げた。
「すみません」
「忘れちゃった?」
「忘れて、ないですよ」
じゃあ、これからは答え合わせの時間だ。
「ねえ。黒板を見ようよ」
ベッドを隔てた壁面には、黒板の代わりに重たそうな遮光カーテンが、隙間風に揺られている。
起立。気を付け。礼。着席。
ほら、授業が始まる。
「90分授業ですか」
「それ、大学でしょ。そんなに長く待てないよ」
「では、45分にしましょう」
「いいね、教員会議の日だ」
「携帯のチャイム、設定しました」
「2時間目は美術だからさ、安心してよ」
「いまは、何の時間ですか?」
「そうねえ。道徳、かな」
机に乗っていた彼の手が、だらんと転げ落ちてぶら下がる。その袖をちょこんとつまんだ。
「ほら。わたしたちには、きっと、必要だから」
Fが、震える手でわたしの手首を握り返してくる。
そのとき、脳や心臓はわたしたちの命ではなかった。彼の手指がわたしとつながったほんの一瞬、わたしたちは同じ生命体だった。
だから分かっちゃうんだよ、わたしは。
その綺麗で石灰みたいな君の手は、いつだって自身の色を生み出すのに精一杯だったことを。
わたしの手を握る隙間なんて、本当はどこにも残ってなどいないということを。
「ねえ」
ほら、みてる。
知らないのかもしれないけど。
君がわたしを見る目は、キャンバスと向かいあってるときにそっくりなんだよ。
「どうして、わたしに拘る、振りをするの」
ばか。
ばか。
ばか。
だいすき。
大好き、だったよ。
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