第8話 僕を、見てくれ

「どうして、わたしに拘る振りをするの」


 彼はひどく動揺していた。


 自分の固い顔をほぐすみたいに触りながら、言い訳する子供のように目線が落ちる。


「……振り、なんかじゃないです」


「そうかな。風俗嬢に恋をするほど、きっと君は馬鹿じゃない」


 つい先ほどまで、Fがわたしを女として愛しているのではないかと感じたときもあった。しかし、Fを目の前にしたとき、そういう一切の妄想は彼に会った瞬間、描き消えた。


 彼の目はただ弱弱しく、わたしに縋っているように映った。


「マリーさんじゃないと、駄目だ、僕は」


 痛いほど、Fはわたしの手を握りしめる。


「ここで噓は、やめようよ」


 寂しいから。


 Fは深く項垂れて、目を閉じた。もしかすると、少しだけ泣いているのかもしれなかった。


 長くて重い、トンネルのような沈黙が続いた。


 Fはおそらく自分のなかで戦争を繰り返していた。


 彼のキャンバスに描いた世界は、いつもどこか欠けていた。椅子も、電子レンジも、どこか壊れて虚しかった。戦争のあとに残るものは、きっとこんな生易しいものじゃないって、彼もわたしも分かっている。それでも、このミニチュア戦争跡地が、わたしたちには丁度よかった。


 この戦争が終わるまで、わたしは跡地で君を待つ。わたしの心が、そう決めていた。


 遮光カーテンが翻り、外の真っ白い光が差し込む。彼が頭を上げる。


「貴女は」


「わたしは?」


「……きっと、軽蔑する」


「しないよ、そんなこと」


「こわいんです」


「わたしが、こわいの?」


 Fは黙っていた。


 それは肯定とも、否定とも取れた。


「言葉じゃ、駄目なんです。それではきっと、すべては伝えられないから、正しく伝えられない僕を、僕自身が許せない」


 嗚咽混じりの声が、どこか海鳴りのように聞こえる。


「一つだけでも、分かるように、話そう」


 満ちたコップの淵から水が零れるみたいに、わたしも、言葉も、自然と溢れ出す。


「わたし、それだけで、いいわ」


 彼は、いま満ちようとしていた。


「どんなに、言葉を尽くしても」


 不安定で、完成形な粘土のわたしたち。


「きっと、分かり合えないから」


 それでもいいよって、言葉は不誠実だ。

 分かり合えなかったときの言い訳。考えることを放棄した愚かな行いだ。

 でも、わたしは、そうやって生きてきたから。

 Fにかけてあげられる言葉は限られてる。


「……僕たちは」


 わたしたちは。


「等速直線運動」


 気づいたら、彼の言葉に重ねていた。


 進む先にも、歩んだ過去にも交わることなんてないから。握った手なんか幻だから。


 ただ、彼の言葉を待った。


「……僕は」


 彼の震える手がわたしの手首から離れて、脚を中途半端に隠す紺色に触れた。


「貴女の、性が欲しかった」


 Fは、ただ赦しを請う子どものように制服に小さなしわをつくった。


「僕はずっと、スカートが履きたかった」


 雨が、部屋に降りこみ、赤い絨毯の色をわずかに変えた。


 すべからく雪は解けて水へと変わる。


 君をたったひとり、残して。

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